誤解されている因果関係
誤解される因果
日常生活で使っている一般的な「因果」とは、自然法則のように原因と結果の関係があるものだと考えられている。
因果はそれ自体で存在する原理のようなものであると。
たとえば季節の変化などの自然法則や重力による落下速度計算式などの物理法則のように。
つまりこの世界には因果律という原理が内蔵されていて、すべての事象は時間的に前に実在する原因から発する力によって、結果として引き起こされたものだ、とするのである。
また、自然法則だけではなく、たとえば仏教の「因果応報」は通俗的には「親の因果が子に報い」というように解釈されたりすることもある。
ブッダの因果関係
しかしこれらの解釈はブッダの体験した因果とは別物であり、日常生活で私たちが使っている因果関係の解釈はブッダからみれば、完全な誤謬である。
ブッダは一般的な因果関係の中には
@過剰一般化により事実とは異なる妄想も混同されているし、
A原因と結果を直線的に結びつけてしまっているし、
B元素レベルやそれよりも微細なレベルの領域を含んでいないし、
C宇宙全体に連なる普遍的な因果関係が含まれていないので、
表層的な変化だけを結びつけて安直に作り上げた因果関係を使っていることが、私たちが苦しんでいる要因の1つであることを覚った。
換言すると、全体性を把握せずに表層の部分的なものだけを結びつけて作り上げられた法則は、1つの安易な思考パターンであり、それらは他者だけではなく自分自身にも苦しみを与えていることを体感した。
この全体性とは「素粒子より極小な微細なもの」や「ビッグバンの以前」や「宇宙の終わり(大帰滅)maha pralayaの後」や「物質が解体した後の世界」や「エネルギー界」や「刹那」や「時空以前」や「あの世」をも含む世界のことである。
自然や科学の法則の因果関係を吟味してみると、これは「確率的すなわち統計上」の大雑把(細かい所までは注意を払うことを怠るもの)で大まか(大づかみでしかないこと)なものでしかないのに対して、ブッダの因果関係は「この瞬間」を詳細に具体的により微細に感知するものである。
そこでブッダは全体性との関係性を言語化するにあたって、様々な事象の原因を「サンカーラという業や煩悩や記憶などの自動反応回路の集合体」として、結果の事象を漢字では「報い」と訳されたりしているように「前世の業の報い」として因果関係の期間を前世や来世の可能性にまで拡げ、また因果を直線的な関係ではなく「現世での自業自得」のように見えない数々の要因と数々の条件がすべて揃う時にはじめて出現してくる「網目」のようなものだとして「縁」という語句で表現した。
ところで、そもそも原因にスポットライトが当たるのは、後に結果とされる事象が起こってから、推定されたり発見されるものである。
すなわち人間の思考によってのみ原因は特定されるのであって、それ自体として最初から原因が存在するわけではない、というのがブッダの考える因果関係である。
ブッダは何にこだわり、何を言おうとしているのだろうか?
これらのことを段階的に説明していくのがこのエッセイの試みである。
サイコロの目を記述する各種の方法
科学で扱う自然法則とは統計学上の真理である。
それは巨視物理学的量を扱って確率的なことを表すときにのみ妥当なことを意味している。
サイコロを転がすときに、次にどの目がでるかは科学法則ではわからないが、統計学上、すなわち確率的にはどの目がでるという因果関係を平均値として数値化しているにすぎない。
これは物理法則の示すことは、原因と結果の間のつながりがただの統計学的にのみ妥当であるので相対的な真理(ある特定されたTPOでの事実)でしかなく、科学の因果性の原理は、自然の諸過程を説明するのにただの相対的の領域(ある特定されたTPOでの場)でしか効用がない。
このように科学の法則とは統計上の平均を表すための記述の仕方であり、具体的に次のサイコロの目を記述すものではない。
次のサイコロの目がなんであるのかは科学でもブッダでも記述できないのは、次の瞬間に何が起きるかは、たとえば地震や隕石の衝突や突風や津波や太陽電磁波などの影響を与える要因が多すぎるためである。
このように科学法則の因果性ができることは、起因の確率が少ないものをすべて除去した後に、確率的な平均値にしたものでしかないので、次の目が何であるかを示すものではない。
対して、ブッダの因果性はサイコロを投げた時に、その人がなぜサイコロをふるのか、つまりその必然性を探るもので、統計的なものではなく、本人も気づいていない数々の動機と要因と条件を消滅させる方法を提示するものである。
サイコロの次の目を当てることはできないが、なぜサイコロをふってしまうのか、振るのをやめたり、また逆に振り続けるためにはどのようにすればよいのかを探求している。
これも、科学的因果性では時間と空間に強く拘束されている領域の事物を対象にしているのに対して、ブッダが対象にしているのは時間と空間によって位置を定めることが不可能な偶然性や、場所が決まればエネルギーは不確かになり、エネルギーが確かになれば場所が不確かになるものであったり、記憶の突発性や、生命の乗り物であるサンカーラと呼ばれるカルマの種や、宇宙生命体の流れや、時空から離脱されようとしているモノたちを含めた領域だからである。
ブッダはいろいろな要因と条件が整った時に、はじめて1つの結果が出ると考え、それを「縁起の関係」と言い表した。そしてその縁の「種」をサンカーラと呼び、それが善悪を基準にするカルマや本能と関わる煩悩や記憶や印象などの自動反応回路になると説いた。このサンカーラは漢字仏教圏では「行」と漢訳されている。
一般的な因果関係とブッダの因果との2つの違いは、以下のようになる。
|
原因の性質 |
原因 |
結果 |
メカニズム |
領域 |
原因と結果の関係 |
期間 |
因果 |
普遍的原因 |
限定 |
必定 |
物理法則 |
確率(統計) |
事実関係 |
現在 |
縁起 |
種の如く |
多数 |
可能性 |
心による回路 |
再現性がない |
設計図の青写真 |
前世・来世 |
そして3つ目は「次のサイコロの目を正確に記述する因果関係」であるが、これは自然法則でもブッダの縁起でもカバーしていない領域のものである。
これは常に変化し続けるために固定化できない宇宙、つまりエネルギー物質界の領域の出来事なので、
科学の因果法則とブッダの縁起を参照して、各自が実践によって試行錯誤して切り開いていくのが唯一のアプローチである。
神はサイコロを投げ続けている、と言うとすれば、ヒトは意図と習慣という回路によってサイコロを投げ続けさせれれている、と言える。
縁起の語源
一般的な因果関係は科学法則などで慣れ親しむものでわかりやすいが、
ブッダの因果である縁起は日常生活ではスポットライトが当たらず、体験していることに気づかない場合が多いので、説明の補足を試みる。
ブッダの説く「宇宙の因果関係」は漢訳では縁起となり、それは原語のパーリ語に由来する。
原語のPaticcasamuppādaは「pati」+「icca」+「sama」+「uppāda」)のことで、
「pati」+「icca」とは、「pati」は拘束、結合、「icca」は好みを意味し、
「喜んで何かと結びついている」、または「それを好きになることで何かに愛着を持つ」という意味である。
それが起こると、.Samuppāda=「sama」(同じまたは類似した同様なもの)+「uppāda」(生成、出生、誕生)する。
つまり、同様または類似した品質または種類のものが具象化するということで、
一言でいうと「似たものが現れ出てくる」という意味である。
したがって、samuppādaとは、存在(具象化したもの)に導くことであり、言い換えれば、束縛を促進するためのパターン化(汚れ)の因果関係を作り上げることを意味する。
原因(kamma)が存在する場合、変化(結果)に適した条件が揃えば、対応する変化(結果)になる可能性は高くなる。
このような因果関係が縁起説(Paticcasamuppāda)のため、原因(kamma)は決定論的ではない。
つまり、どのような強力な原因があろうと、条件が整わなければ、結果が生じるとは限らない、ということである。
このように縁起説(Paticcasamuppāda)の重要な点は、結果が(もし発生した場合)原因に繋がる可能性があり、それは、「条件」が選択された(整った)ためである、という見方ができるということである。
“Pati ichcha”が“sama uppāda”に導くということ、つまり、愛着を持つと、それが似た性質を持つ新しいものを出生に導くということである。
換言すると、原因が結果をもたらす場合、結果は原因と同様の性質を持つことを表現しているのが縁起説である。
こうして、ブッダは苦しみからの解放を目指して修行している時に、明らかになったこの世とあの世をつなぐ因果関係の法則は縁起Paticcasamuppādaと名付けることになった。
ポイントは原因があると結果が生まれるのではなく、条件が揃わないといくら原因があってもそれは結果と結びつかない、ということである。
たとえば、リンゴの種があっても、それは太陽(光、温度)、雨(水、湿度)、土壌(根のはれる場所・空間)、空気(二酸化炭素、酸素)という条件が整わないと発芽せず、大きな木に成長することも花を咲かせることも、リンゴの実をつけることもない、ということである。
つまり涼しく、水分がなく、袋の中に種があれば、種は微生物や紫外線などによって徐々に朽ちるまでは保管できるということでもあるので、それまでは種は保存され続けるのである。
縁起の概要 性質と関係性
paticcasamuppāda(縁起説)は、人生の瞬間、前世と来世、とすべての時空の出来事を説明する。
すなわち、ある原因に条件が揃うと決まった結果があらわれる法則があることを示している。
原因と条件と結果とをつなぐ可能性があることで、この世に秩序があることを理解し、自分のマインド(意思)によって、マインドと物質の現象が変化していることを確認できる教えでもある。
またこの縁起の法則を知ることで、苦しみの原因を知ることができ、苦しみから解放することができる、とブッダは説く。
ブッダの誕生する前から、苦しみの原因にはヒトの煩悩(貪瞋痴)が原因であることはわかっていたので、それらを意識的に抑圧する方法を多くの賢人が試してきた。煩悩が発動しないように、それらから離れたり、気がつかないように心がけたり、心の奥底に押しのけることで一時的に煩悩は抑圧されているが、条件が整えばそれらはまた表面に吹き上がって具象化してしまう。
苦しみはモノに執着してしまうことによって生じることはわかっていたので、その原因になる感覚の快楽をできるだけ避けることで当時そして現在でも対処している人は多い。
しかし、それは一時的な回避法ではなるが、苦しみから解放される方法ではない。
そんな中で、感覚の快楽とその再現を強く望む渇望との間にあるミッシングリンクをブッダが発見した。
それがvedanāと呼ばれる「感覚信号に付加されるタグ」が感覚器官からの信号と渇望との間にあることに気づき、その感覚には3つの特徴ある信号が付加されることを発見した。漢字仏教圏では「受」と訳されている。
これは人類史における大いなる発見である。
なぜならば解脱できるかどうかはこの発見によって決定されたからである。
これらの付加される信号とは、快・不快・どちらでもない、という3つの種類がある。
たとえば、Tシャツの首や右腹横にあるタグのように、これを見れば素材が綿かポリエステルかレーヨンであるかがわかるので、洗濯をする時には、素材に応じた洗剤の種類や水の温度や乾燥方法にすることができる。
このような3種類のタグがヒトのすべての感覚信号には付加されることが発見され、そのタグを要素としてヒト(生命体)は反応や反射をするようにプログラミングされている。
たとえば、
快のタグがついているものには、好み、渇望し、近づき、
不快のタグがついているものには、嫌い、嫌悪し、離れ、
どちらでもないタグがついているものには、無関心であるか、関心があっても、好きでも嫌いでもなく、物質的な反応はしない。
このプロセスは無意識と呼ばれる中層意識で行われており、この強度の好き嫌いをベースにして自動反応アプリケーションが作成され、私たち生物(意識体)はこれにしたがって行動するようにプログラミングされているので、自分で作成したものであるのに、それらに逆に操られて、毎日をまるでロボットのように暮らすことになる。
このアプリケーションの強度には大きく分類すると「弱・中・強」の3段階があり、これは感覚データが入力される時にいかに生死や損得や効率的であるかどうかに関係して作成される。
生死に強く関わるものであれば、それは強いアプリケーションになり、小さな量のデータ信号であったとしても強い反応をアウトプットする。
そこでブッダはこのプロセスを意識化することで、自動反応アプリケーションの強度を自分で操作できるようにしたのである。
これを簡潔に法則として詳細が理解できるように説明したのが縁起説(ブッダの因果関係)である。
リンク
妄想の因果関係とは 悟りの障碍
一般の因果関係の中には、ないと思っているのに実際にはあるものと、実際にはないのにあると思い込んでいる因果関係がある、とブッダは説いています。 具体例の経のリンク先
たとえば、リンゴを持っている右手を開くと、リンゴが落下するという物理法則は地球上では普遍的な因果関係であるが、冬が春になるのはヒトの概念が作り上げた因果関係であり、そのようなことは事実としては起きていない、と仏教徒は力説します。
物理法則の因果関係を領域外である人の概念にも過剰適用してしまうことで、人は妄想をし、勘違いをし、苦しみの中で暮らすことになるというのが、ブッダの教えです。
これはどういうことなのでしょうか?
たとえば、一年で一番気温が下がる時期の前に広葉樹の葉は枯れ落ちて枝と幹だけになるが、氷点下の気候が終了すると、枝から新芽が出て、樹木はまた緑の新葉に覆われていきます。
この変化を「冬から春になった」と一般には言いますが、この表現の何処が妄想であり、悟りの邪魔をする思考パターンがあるというのでしょうか?
事実をありのままに視ることを目指すブッダの教えに従うと、葉が紅葉して枝から離れることや、新芽が出てくるのは事実ですが、葉が落ちる時期を冬、新芽が出る時期を春ということに問題があるといいます。
気温が下がったり、氷が張ったりする現象を「まとめて」冬と呼ぶこと自体に問題があるのではありませんが、これらの現象を統合して冬という名前を一度つけるやいなや、名前がついたものがこの世に普遍的に存在すると思ってしまう思考パターンがヒトの習慣(大脳機能)としてあるので、このような「ないもの」が普遍的に「あるもの」と思ってしまうことに問題がある、とブッダは考えます。
相手に情報を簡単に伝えるために「冬」という仮につけた語句を使うだけであればいいのですが、もし本人が修行の最中であるのであれば、その間にはこのような「統合する概念」を使わないようにすることがもう一段深い意識に至るための道であることを説きます。
もし、まとめられた語句を使うのであれば、それは他者との表層的なコミュニケーションの利便性を優先するために使うのであって、実際にはこの世には「冬」というものは普遍的に存在していないし、変化はただ表面的に起きているのではなく、変化するとは表面の奥底にある全体性とつながることなので、それらの表層と深層との交流に常に気づいていなければならない、と考えます。
全体性とはこの世だけではなくあの世との関係性も含んでいます。
この全体性の中で、物質やエネルギーや心の働きや宇宙の流れが働いていることに気づくことができなければ、ヒトは苦しみが離脱することができない、と説いているのです。
道元が説く「薪は灰にならない」
たとえば、道元は「薪を燃やしたら灰になる」という因果関係は成り立たないという。
また「冬の後に春がくるのではない」とも言う。
「正法眼蔵」第1巻の「現成公案」からこのような常識を疑う因果関係についての話が始まります。
一見すると、当たり前の法則に文句をいうかのようになぜ否定するのか理解できないかもしれない。
しかし、ブッダや道元は真剣である。
どちらの変化も表層の変化だけを結びつけて一般化(法則化、因果関係)することでそのように思う(妄想)だけものであり、その奥底で実際に起っているダイナミズムを見ないことで、安易な自動反応回路をつくり、これがヒトを苦しみに誘う要因になっている、と説いている。
このような因果関係の解釈を間違えることが、本人が煩悩の中で苦しみをもたらす、と。
これは目の前の状況の変化に向かい合い続けるのではなく、現象の観念をまとめて(統合化して)語句(概念)にするという無意識の作業をすることで、次のステップである自動反応回路化を本人自身が気づかないで作り上げるので、まずは大脳が自動的に行なってしまっている「まとめて言語化」することに常に気がづいていなければならない、と説く。
そして、概念に操作されて生き続けていることから離れてみることを提案する。
このエッセイでは観念an
ideaを内的・個人的な認識、概念a general
ideaを外的・社会的共通の事象と、ここでは定義してみる。
『法句経』277 第20章 道(Magga-vaggo)
パーリ語でDhammapada、パーリ語経典「小部」の第2経である。
パーリ語原典を逐語的に私訳
(感覚器官と心器官を介した)対象として把握してもその認識感覚が長く続くことはない。
すべての自動反応回路は望んだようにはならない、からである。
(不変と変化を分別する)智慧を基準で区分するときに、
その瞬間から苦を所有しなくなる。
これが清らかになる道である。
漢訳(中国仏教)を通しての伝統的な日本語解釈
因果関係によって作り出されたすべてのものは無常である
「諸行無常」であるためである
智慧によって見るとき、人は苦しみを厭い離れる。
これが、人が清らかになるための道である。
Aniccalakkhaṇavatthu A否定 nicca「好み」 lakkhaṇa相、一面vatthu感覚器官による対象
“Sabbe saṅkhārā aniccā”ti, Sabbeすべての saṅkhārā回路aniccā”ti望みどおりにならない
yadā paññāya passati; yadā時に paññāya智慧 passati見出す、知る
Atha nibbindati dukkhe, Athaまた、時にnibbindati離れる、所有しない、悦ばない dukkhe苦
esa maggo visuddhiyā. esaこれ maggo道 visuddhiyā.清浄、素晴らしい、聖なる
英訳 “All conditioned things are impermanent”—when one sees this with wisdom, one turns away from suffering. This is the path to purification.
リンク 諸行無常の伝統的誤謬については ブッダの風 三相篇 誤訳の必要性
このようにヒトの心理作用のメカニズムを知らず、社会で使われている一般的な因果関係を思考のベースにしている生き方は、ブッダによると苦しみであり、不浄である。
そして私から見れば、本人は正しいと信じて優しく言動をしていても、それは本人の価値観の押しつけであり、
本人は満足していても他者の立場に本当に寄り添ったものではないので、短期的な成功はあっても長期のスパンでみれば、他者に迷惑をかけることになる、と考える。
しかし、仏教用語では迷(めい)は本当の道にまようことを意味し、惑(わく)は途方にくれてとまどうことを意味するので、
「迷惑」は他人にかけるものやかけられるものではなく、自分にかかってきているものであるのでそれを自覚せよ、とブッダは説く。
『ダンマパダ』50第4章-花(Puppha-vaggo)
他人の過失をみるなかれ。
他人のしたこと、しなかったことをみるな。
ただ、自分のしたこと、しなかったことだけをみよ。
Na paresaṁ vilomāni, Na否定 paresaṁみる? vilomāni,誤った、反対の
na paresaṁ katākataṁ; na否定 paresaṁ みる?katākataṁ;小さいこと大きいこと、したことしないこと
Attanova avekkheyya, Attanova 自分 avekkheyya,考慮
katāni akatāni ca. katāniなすこと akatāniなさない caそして
英訳
Do not attend to others’ wrong doings,
What they have done or failed to do.
Attend only to yourself,
And what you have done and failed to do.
私は他者の過失にはよく気がつくが、自分がしたことを正確にみることは苦手である。
私はまた、ものごとが自分の思い通りにならなかった場合に、責任を他の事物に転嫁しようとする。
自分がすべきことをしなかった事実を省みるのはこれまでの自分を否定することになると感じているのか、それを避けて暮らそうとしている。
しかし、それらをしっかりとみるようにとブッダは真正面から真剣に説くのである。
この真剣さは、大きな勇気を与え続けてくれる。
自分の行為だけをみるだけで道は浄められる、
一番大切なのは、本人がどのような行為をしたかということである、と断言してくれている。
社会では各自の正しさや肩書や生まれやその量の統計的な比較を基準にするが、
「いま・ここ」で自分がしていることだけを問うのは、
爽やかで軽やかで澄んでいて明るく、すぐに実行することができる。
科学的因果の検証
各自が薪に火をつけてみて目の前で実際に実験してみればわかるが、薪がちゃんと灰になることは稀である。
温度と酸素と水分からの不都合もあるし、実行者の心的理由や、社会による障碍で、途中で火が消えるケースが多い。
だから、焦げたり、黒炭化したりすることはよくあるが、完全な灰になることは少ない。
ある特殊なケース、TPOでないと、木は燃えても完全な灰にはならないのである。
次に燃えている箇所にスポットライトを当てて見てみると
木材の炭素が空気中の酸素と結びついて燃え上がり、それが二酸化炭素に変換される時に、残り滓が灰となる、という考え方もある。
これは単に木材が灰になったのではなく、木材は微細化して元素レベルになり、大気も微細化して元素レベルになり、その中で炭素と水素が結合する時にはじめて変化が起きている、ということである。
「元素レベルになる」ということは木や大気が「全体性の世界に戻る」ということで、これがあってはじめて木が燃え、灰が発生することになる。
だから燃えるという現象は、木の物質という固体のレベルと元素という全体性のレベルを往復することによってはじめて継続することなので、ただ単に目につく表層のレベルでの固体としての木材が燃えることで、灰になるのではなく、固体の個物が流動性のある全体性との間を行き来することではじめて表層の物質の変化が成り立つのである。
全体性とは「あの世」や「色界」や「無色界」や「宇宙創造」や「ビッグバン以前」や「宇宙の意」などの「この物質界」の外側の領域が含まれている。
統合することで、「ないもの」を「あるもの」にする因果の幻想
では、なぜそれほどまでにブッダや道元はこのような表層的な因果関係を否定することに真剣になるのか?
それは、ここに思考パターンと言語と概念との任意的な固定化された決めつけがあり、それが次々と誤謬を生み続けて、ヒトを苦しみに縛り付けている原因であると、確信しているからである。
統合のウソ、つまり原因と結果を結びつけて統合してしまうやり方がヒトに妄想を抱かせて正しく対象を認知できない理由であるという
もっというと、車輪や軛や車室などのパーツをそのまま呼ぶのはいいが、それを統合した「車」は個人的な観念なので、それをそのまま実在するものとして概念化することは妄想を生むことになると示唆している。
『ミリンダ王の問い』Milinda Pañhaという経がある。
紀元前2世紀後半、アフガニスタン・インド北部を支配したギリシャ人であるインド・グリーク朝の王メナンドロス1世と、比丘ナーガセーナ(那先)の問答を記録したもので、パーリ語経典経蔵の小部からの日本語訳は『弥蘭陀王問経』、漢訳は『那先比丘経』。 パーリ語原典 英訳はリンク先にある。
ミリンダ王に対し、ナーガセーナ長老は「車」が一体何なのか尋ねる。「轅(ながえ)」「車軸」「車輪」「車室」「車台」「軛」「軛綱」「鞭打ち棒」、それらの「総体」、それら「以外」、一体どれが「車」なのか問われるも、ミリンダ王は、それらはすべて「車」ではないと否定する。
ミリンダ王は、「車」はそれぞれの部分が依存し合った関係性の下に成立する呼称・記号・通念・名称であると弁明する。
しかし、これでは日常生活を送るのは面倒になる。
ではどうすればよいのか?
仮に呼称(記号・通年・名称)を呼ぶのであって、それは実体ではない、ということに気づいて、それらと接しておけばいい、と仏教徒はいう。
しかし、なおさら面倒な話である。
なぜこんなことに拘る必要があるのか?
それはそのように接しないと煩悩の中で苦しむからだ、彼らはいう。
本当なのだろうか?
もしそうだとしたら、そこまでして煩悩から逃れる価値はあることなのだろうか?
価値があるかないかは、各自に問われている問題である。
求めている者には「あの世」につながる金の鍵となるし、そうでない者にとっては価値のない金属片でしかない。
科学的に因果関係を証明する限界 因果関係が成り立つのは心理作用であることの例証
もう一度、因果関係の具体例を見てみよう。
たとえば「崖崩れで家が潰れた」という因果関係は科学的に証明することは可能なのだろうか?
第一に、崖崩れから発したであろう家を潰した力は、もう検出することができない。
崖と呼ばれる土塊が引力により移動して家と呼ばれる物体に接触し覆い尽くすという、一連の物理的事象の推移を想像することはできるがその力を量る術はもうない。
第二に、原因を崖崩れに決めた恣意性の問題である。
家が崩れたのは前の晩の大雨により家の下の地盤が崩れたのと同時にがけ崩れがあったのかもしれないし、古くなった家の柱が折れたのと同時に崖が崩れたのかもしれないし、地震があって崖と家の崩壊が同時であったのかもしれない。
原因を限定し、特定するのは説明する者の都合(解釈)なのかもしれない。
第三に、法則には同一性や再現性がなければならない。
しかし、この同じ出来事を厳密に再現することは不可能である。
第四に、力が作用する前と後で、作用の対象が同じものであるかのが科学の前提だが、それを証明できないというな問題がある。
潰れる前の家と潰れた後の家が「同じ家」であることを証明するのは実験(再現性)では不可能である。
なぜならば潰れる家はすでに潰れてなくなっているからである。
同じかどうかは観察者が承認するかどうか(心理作用)で決まるのであり、物理的証拠において科学的に決定するのではない。
因果を証明しているのはヒトの思考である
上の難題を解決する別の方法がある。
家が潰れた原因は、悪霊のタタリである、と説明することだ。
力は悪霊から発し、原因は家の持ち主の悪行が悪霊を怒らせたことにし、法則の同一性は悪霊のTPO対応による変化とすれば問われず、家の同一性の判断は悪霊に依拠する、とすればいい。
家が潰れた原因は崖と悪霊のどちらかだとどのようにして判断できるだろうか?
ある事象を因果関係で説明できたからといって、それで「正しい」ことを言っていることにはならない。
なぜならば因果関係は実体としてそれ自体が存在する原理ではなく、結局はヒトの思考によって設定されたものであり、考えるという行為によっての根幹をなすものである。
つまり、事態を説明する方法のただの一つでしかない。
また、引力などの物理法則があることは科学で証明できるが、他にも地震や、液化現象や、老巧化や、爆発や、空洞化や、シロアリによる倒壊などの自然法則や物理法則の数はあまりに多く、特定するのは困難である。
そこで可能性のある主だったものを原因に選択して、結果の崩壊と結びつけて因果関係を作っているのが私たちの日常の思考法である。
これは原因を確定することが実際には困難もしくは不可能なことなので、本人の大脳と習慣が納得したいがためにつくりあげた関係(回路)なので、これらは科学的なものではなく、非科学的なものである。
「わかる」とは理解するということだが、そのメカニズムは1つのものを「分ける」ことであり、それを自分の価値観体系の適所に配置(マッピングという統合)することである。
因果という原理があるのではなく、後から大脳を納得させるがためにヒトの思考が因果を設定しているケースが多いのが事実ではないだろうか。
道具を使うと因果に依存する傾向になる?
道具を使うことで利便性と効率性をヒトは得た。
しかし、道具を使うと、ある思考の問題が起きると、修行者たちは言う。
みんなが喜ぶ効率性と利便性をもたらす道具にどのような問題があるというのであろうか?
道具を使うと、必然的に自己を主体とし、道具を対象とする関係が無意識のうちに生じる。
換言すると、この世を主体と現象の二元的なものとして把握する認識の仕方が道具を使うことで起こる。
また、道具を使う時には動機と目的が発生する。
道具を使うと、ある目的(結果)をめざし、その動機と道具の使い方(原因)がともなっている。
この動機と結果は、道具を使うことで便利さを得るという因果関係となり、時にこの「効率という回路」に操作されてしまっている自分がいることに気づくことになる。
各自の感じ方や見方や見解が観念であるのに対して、その観念が一人特有のものではなく複数の者に共通したものが概念であるとすると、効率や利便性は概念である。
つまり、道具を使うだけで、目的や効率が生じて、そこに概念という回路が生じることになる。
換言すると、道具を使うことで、概念となる因果関係が構成される。
たとえばタイプライターの鍵盤のiとdとeとaをたたくと、idea(観念)が現れるように。
また、草刈り機のエンジンを回せば、刈られた後の庭のイメージが浮かんでくるように。
この認識の仕方が表層的な因果関係の時空で生きることになり、深層のより微細な多数の要因と多数の条件によって可能性ができあがっていくことを吟味する修行の障碍になるというのだ。
道具を利用する時の思考の仕方に囚われてしまって、その思考法を他のTPOでも使ってしまう傾向が生命体の神経管(外胚葉が発達した器官)にはある。ヒトで言えば神経管が発達した大脳の働き、すなわち脳のクセ(本能)である。
思考するにはエネルギーと集中力が必要なので、前例をそのままコピペ(借用)することで大脳は作業をサボろうとしているのだ。
つまり表層的な因果関係を基準にする思考法にTPOが相応しくないときにも依存してしまい、ある適切なTPOの領域外でも、前例の因果関係を過剰に運用してしまっているのである。
換言すると、概念(前例の因果関係を一般化したもの)を使う(基準にする)ことで自動反応回路に操作される行為を繰り返すことになる。
思考の方法が正しいかどうかの判断も、目的への整合性と効果によって決まる。
たとえば刃物の選択は、木を伐るために斧なのか、野菜を切るために包丁にするのかが決まる。
木を包丁では切れず、野菜を斧で潰すのでは、目的を達することができない。
同様に、物事を説明する方法が正しいかどうかも、説明する目的への整合性と効果が適切であるかどうかによって決まる。
たとえば言語や比喩の選択は、顧客には命令語ではなく丁寧語、小学生には数学ではなく算数を使うように。
このように道具(モノ、言語)を使うには整合性が有効である。
道具とは物やコンピューターだけではなく、思考法や言語も含まれる。
ところが、「いのち」や宇宙や量子力学の世界ではこのようなアプローチでは有効性がなくなっていく。
家が潰れたケースの説明は科学的な崖崩れを原因とするか、超自然現象(たとえばカミや悪魔)を原因とするか、宿命や偶然の概念を原因とするか、もしくはブッダが唱える微細化レベルで現象の変化に気づき続けることによる主体性の解消になるのかは、解釈者(各自)のこれまでの体験による各自の合理性によって決まることになる。
仏典のなかの因果説
経蔵の第四番目に当たる増支部Aṅguttara Nikāyaの3.61にTitthāyatanasuttaというタイトルの経がある。
tittha立場、観点、信仰、形となる + āyatana場所が原語の意味で、各グループが基準にしている世界観のことで、英語ではSectarian(党派)と訳されているように、ブッダと違う世界観の人たちとの対話である。
(増支部とは漢訳仏典における『阿含経』の内の『増一阿含経』(ぞういつあごんぎょう)のこと。)
原典はAṅguttara Nikāya 3 7. Mahāvagga 61. Titthāyatanasutta
因果に関わる内容の抜粋は以下である。
人間のこの世で苦楽を感受することの原因を業や宿命やカミや偶然と説く者たちがいた。
ブッダは下記のように論駁する。
「前になされたものを堅実であること固執する人々」には、自分で考え行動する意欲や努力が足りない。
為すべきことと為さざるべきことを確実に認識し、それを忘れることなく護ることができなくては、修行者とは言えない・・・、と説く。
「比丘たちよ、いま応供(供養を受けるに相応しい者)、正覚者である私も、業論者Kammavadaであり、行為論者kiriyavadaであり、精進論者viriyavadaである。」
ブッダは「前になされたものを堅実であると固執する」宿命論、超越神論、偶然論は因果関係を実体視しているとして批判する。
すなわちその奥にある微細な変化に気づいて対応しておらず、表層にある現象の生死だけを理解して、言葉を概念化して捉え、因果の回路を大脳の都合の良いように編集して構築することで、ただ妄想してしまっているという事実を提示する。
ブッダは修行者自らがなすべきことを意欲し、それに向かって行為することを肯定する。
だからといって、ブッダは統計上の平均的因果関係を否定はしたりはしない。
志を立て努力する修行者の在り方を可能にする方法として、一般の因果関係の考え方は不可欠であると考えている。
判断し、実行するには、教えに従って目的を定め、これまでのうまく行かなかった所を修正し、また新たにすぐに試す判断をしなければならないからである。
これが修行である。
ブッダの因果説は、修行者の主体性を構築しては解体することを繰り返し維持することで実践される。
因果というパターンで現象を理解するが、そのパターン認識の限界と間違えと妄想に気づくことで、
因果関係を実体があるアプリ(自動反応回路)として捉えてしまうことで、それらに頼り、依存し、囚えられ、操作されてしまうのではなく、因果関係はある一瞬のTPOに適応するだけのものとして捉えることで、アプリに操作されることから離れることを提案する。
換言すれば、因果関係を固定化するのは誤謬であるが、一つの目安であるので、それを仮設として使用した後は、その因果を捨て去るのが、因果という虚妄との接し方である、と説いている。
このようなことに気づき続けて生きる者にとっては、因果関係は有効である。
因果を作り上げては壊すことで、因果を実体とするのではなく、因果を否定するのでもない。