駆け上がる時間 宇宙と本能の意志
エントロピーの時間
生命体の時間
意志 宇宙、本能 宇宙の爆発と再集結
観察者
人間原理
鉄筋できたビルは、時間が経つと、鉄は錆びて、コンクリートは亀裂が入り、ガラスは割れて、終いには崩れて風化する。
そして最後には、鉄とミネラルと酸素と窒素と炭素と水素の元素となる。
また、放射性物質の原子は一定の確率で放射性崩壊を起こして別の物質に変化するので、この半減期を調べるとと年代を測定することができる。
ところが宇宙にはこのような時間(エントロピーの法則に司られた時間)とは違い、これらの元素がお互いに繋がって、形を作り上げる時間もある。
そう有機体の成長と死だ。
これを駆け上がる時間と仮に呼び、時間が経つと温度が高いものが温度の低いものに変化する方向を流れ下る時間、と仮に呼ぶことにする。
自転車で峠を越えるには登る意志を伴う必要があるが、峠を過ぎるともうペダルを踏まなくても麓まで下りていくように。
全ての生命体は生まれて死ぬまでの間は、この二つの時間の中で生きている。
生命の本能や意志が伴う時間と物理的時間である。
これを先人たちはいろいろな表現を使って、2つの違いを言及してきた。
「滅びの原則」の時間に逆行し、「自己組織化」して胸を張って「自己消滅化」していく時間と、
原子が半減期を迎えて物質が変化する平均値を想定し、時間は均質的なものであると扱おうとする観念の産物として時間である。
個々の生命体はこの世からちゃんと消滅することを目的として駆け上がる時間を進み、
歴史と進化は流れ下る時間とともに進む。
この駆け上がる時間はどうして生まれてくるんだろう?
これをなんと呼べばいいんだろう?
この時間の中では、エントロピーの法則が通用しない。
この人感の中では、自らのシステムが維持・再生されている。
このような自己組織化と自己消滅化現象には必ずしも意識や心は必要ない。
たとえば星々の生成や消滅のように。
たとえばウイルスの誕生や死滅のように。
この力にこの時にこの空にこの流れに人々はいろいろと名前をつけた。
生命、力、間、神。
では、何らかの結果のための選択に必ずや存在するのは、それは「意識」でも「心」でもないものを何と呼べばいいのだろう?
欲求?ベクトル?自然?
これらが持つ力に先人たちは名前をつけることにした。
神の意志、である。
宇宙が滅びないのは「宇宙の意志」、
地球システムの自己組織化は「地球の意志」
生態系は「自然界の意志」
そして、ヒトが知的目的を持つのが「自己意識の意志」
本能行動は「生命の意志」
があるかのように。
知らないことを知る
ヒトは未知なものを既知にするときにどうしているのだろう。
特にその未知なるものを実体験できないときは。
三つの方法によることが多い。
それらは、推論と直観と「わからない」として、ひとまず置いておく方法です。
推論の方は既知の事実を基にして、未知なるものを法則を使って推定することで理解しようとする。
既知の世界のルールがその世界の外側である未知の世界にも通用するのならば有効な手段だ。
ただニュートン力学の世界で通用する時空間のルールも、光速度に近づいたり重量が大きく変化する世界では新たなルールである相対性理論を使うように変換しないと近似値化から離れていってしまうので、いつも既知のルールから論理的に推測していれば、正しい解が得られるものではない。
そこで、推論を使う時には、既知のルールのTPO、すなわち限界を知るのが大切だ。
もう一つは直観という方法だ。
これも既知の理解のパターンに未知のものを直に当てはめてみようという理解の仕方だ。
そういう時は実体験で得た情報たちの共通点や相違点をみつけたり、算数的には最大公約数や最小公倍数を探したりして、そこに法則やルールを見つけて、その情報を抽象化する。
わかり易いのがメタファーだ。喩えである。
それを使って経験していなかったり、できないことを理解しようとするのだ。
最後の「わからない」としてひとまず置いておくのがまた現代に一番といってもいい程のとても大切なことなのだけど、自己意識は未知を無理矢理にでも一般化しようとするので、その欲求を抑えることができない時空間で暮らしている人が人口密度の高い空間には多い。
このエッセイでは、上記の実体験からくる既知のルールのことにスポットライトを当ててみる。
既知のルールにしてもメタファーにしても、まずは実体験がないと、未知のものを理解することができないのがポイントだ。
目の前にあるものが当たり前に思っている間はそれについて意識はしないが、それが欠けた時に始めてその大切なことが分かったり再認識することは毎日の生活の中である。
たとえば、急に酸素がなくなったら、呼吸ができなくて生きていけなくなり、酸素は生命維持に絶対に必要なものだから、それがある空間にいようと思うに違いない。
また例えば花粉症のようなアレルギーのように個人差がある実体験は、原因と結果が同じようにみんなにあるのではないので、法則やルールも常に誰に対しても通用するものでもない。
今回はこの個人差のメタファーの面白さとそこから推定される世界について見てみたい。
ほとんどの人間の生活は論理的に既知のルールの積み重ねで世界を理解しているのではなく、メタファーを使って瞬間的にこの世を理解している場面の連続だと思う。
行動の90%ぐらいはそうだと思うのだけど、詳しい実験結果による統計などを知っている人がいればぜひお知らせください。
このメタファーで一番の肝は実体験だ。
この実体験に基づく理解でないと、脳の中で理解されても実際には行動できない。
行動の多くは、感情と思考のパターンによって作られたアウトプットであるからだ。
臨場感のある実体験がないと自動反応回路は作成されないので、インプットの信号あってもそれがアウトプットにならないからだ。
参照エッセイ
空想でも臨場感は沸くのだが、それもその前の実体験がベースの上での話である。
いかに実体験が大切であるかということである。
建物の中の実体験と外の実体験。
とくに外の実体験には自然の事象の中で動きがある。
そこにはいつもと違う出来事がいろいろ起こる。
それは生命体のこと、地球のこと、宇宙のこと、そして自分自身のことだ
これらには当たり前(法則、一般化、言語)ではないことばかりが起こってくるのだ。
流れ下る時間 逆向しているような時間
流れ下る時間も波のように揺れがある。
登る時と降る時。山と谷だ。
この山から谷へ移る時にも、駆け上る時間との共通性を見ることができる。
鮭が自分が生まれた川を離れ、海に出て、子供を産むために川の流れを遡り、死んでいくような。
森で苔むした大木がだんだんと朽ちていくような。
年をとると記憶がなくなり、味の好みも子供時代に戻るような。
年をとると性別がわからない生物にだんだんなっていく。
もっといい例を探す
時間は過去から未来に流れているのと同じように
未来から過去へも流れている。
ただ未来から流れてくるのは必然的にだんだんと消えていくものなので、それを意識体は記憶することができない。
また意識体はみな駆け上がる時間を大切にするので、流れ下る時間を大切にしようとはしない。
意識体は見たいものしか見ることができない。
見て自分の不快になることは見ないようしてしまう機能が無意識の中にある自動反応回路にはあるのだ。
スティーヴン・ホーキングは、宇宙の時間が逆転する可能性を述べた上で、そのような現象を人間は観測できないとした。人間が宇宙を観測する時、それは人間の脳に記憶として蓄積されるが、時間が逆転すれば記憶は失われていくので、観測は不可能になる、と彼は説明する。
よって、時間が過去から未来へと進むと思うのは、人間がそのような時間が流れる宇宙しか観測できないためだとした。
科学の中の遡る時間 理性ではない智性の時間
K中間子はこの世で確認されている唯一の時間反転物質である。
これまで、どんな素粒子の反応にも時間の逆転など一度も観測されたことはない。
たとえ100万分の1秒程度の出来事ではあっても、原子核反応のすべての現象で時間の対称性は守られていた。多くの原子核は電子を放出するとたちまちベータ崩壊して反粒子をつくるけれど、そこでも時間はちゃんと流れていた。
それがK中間子だけには時間の反転が見られた。
ある状況のもとでガンマ線が粒子と反粒子の対に変換することがある。ガンマ線がある条件のもとではガンマ線自身を消失させて、そこに電子と陽電子がひょっこりあらわれるのだ。
ファインマンはこのことを、陽電子が「時間を逆向きに動く電子」だというふうにみなしてもかまわないのではないかと仮説した。
何事にも出現と消滅があるけれど、電子においては突然の時間の逆転が消滅なのである。
パストゥールが酒石酸の左旋性に注目して「私たちが目にする生命は宇宙の非対称性の結果である」
たとえば、コバルト60の崩壊でパリティが破れたように。
ブラックホールでは、あらゆる電磁波は重力場の外に出ることすらできないと考えられている。
よって時空を相対的だと考える相対性理論では、時間も重力場の外は出られないとされている。
そこにはシュヴァルツシルドの半径というこの世で一番厳格な半径が張っている。
むろん証明されたわけではない。ホーキングはいっとき、ブラックホールが少ないほうが「過去」、ブラックホールがふえていくほうが「未来」だと考えたほうがわかりやすいんじゃないか、と言っていた。
大半の科学が扱う時間に対称性が成り立っているからといって、科学が時間の不可逆にしがみついていることはないのである。
おそらく健全な科学にとっては、時間が有史以来、特定の方向に向かって一様に流れているというのは、宇宙が極小店から膨張してビッグバンしたとする仮説から由来するのだろうけれど、だからといってそれがどんな細部の現象にもあてはまると考えるのは、過剰一般化である。
そればかりか、生命にとっての時間や情報にとっての時間を考えると、K中間子で時間の対称性が破れたくらいのことは、とっくにおこっている、とさえ言いたくなる。
ようするに、時間をひとつの現象として扱うのは20世紀までの思考法で、21世紀では限界にきているということである。
Cf. K中間子は人工的にしか観察されたことがない。自然界にあるとは断定できない。加速器のなかで見えるだけである。それも3種類のK中間子があって、一つはプラスの電荷、一つはマイナスの電荷、一つは中性になっている。このうちの中性K中間子だけがごくわずかではあるけれど、時間の対称性を破ってしまうのだ。
特殊相対性理論は観測者にとっての時間の歩みを伸ばしたり縮ませたりしたのだし、一般相対性理論は時間を単独で扱うことをあきらめさせて、時空連続体という見方をしなければ話にならないというところまであきらかにしている。
自分で駆け上がる時間を体験しないと逆に流れる時間は体感できない。
しかし、観測ができないからといって、実感できないとは限らない。
生命の時間があるところに常にあるのが逆に流れる時間なのだから。
意識と同じ皮膚の中にある体には体が流れている。もっと正確に言うと意識を生み出す大脳皮質は間違いなく体の一部である器官である。その脳のことを感じてあげればいい。毎日新しい細胞が生まれ出る体のことを感じらればいい。
コツは静かにして、呼吸を整えて、待つこと。
意識を使ってこちらから追い詰めように求めても、その時間はただ逃げるばかりである。
じっとして待つていると、向こうの方から現れてくる。
その時に少し寂しい気持ちになっている自分に気がついたら、それは吉兆。
その時間に入っている徴(しるし)だ。
ハイデッガーの時間性
時間もまた斬新な方法によって考察される。ハイデッガーは、時間というものはアリストテレス以来まったく同じように解釈されてきたと主張する。つまり「過去・現在・未来」という三つの時間が均質的に、しかも無限に続いて存在するというものである。
しかしハイデッガーは、根源的な時間とはそれ自体で存在するものではなく、現在から過去や未来を開示して時間というものを生み出す(みずからを生起させる)働きのようなものだと主張する。
また現在もそれ自体で生起するのではなく、「死へ臨む存在」(Sein-zum-tode)としてのわれわれが行動する(あるいはしない)ときに立ち現れるものである。したがってアリストテレスの均質的な「過去・現在・未来」という時間はこの根源的時間からの派生物にすぎないとして、これらの派生現象を可能にする根源的な「時間性」(Zeitlichkeit、Temporalitätとも)の概念を提示した。
意志(Will) と意思 (Mind, Intention) の違い
生物学では、行動選択の動機を「意志」と呼び、
大脳皮質の意識に上る「計画行動を選択するため動機」のことを「意思」と呼びます。
意志 (宇宙の「意」と本能と選択)
「意志」は「意識」でも「心」でも「意思」でもなく、本能行動であるので「生きる」ことをいつも選択し、「生命の意志」を実践している。
意志には3つのレベルがあり、宇宙の力と、生命体の本能と、意識体の選択である。
霊性の宇宙の「意」
心のはたらきであるプログラムされている本能
形になる判断や行動になる選択
の3つのレベルである。
霊性のレベルでは
宇宙が滅びないのは「宇宙の意志」、地球システムの自己組織化は「地球の意志」であり、生態系は「自然界の意志」、ヒトが智性の目的を持つのが「自分の意志」ためである。
心というエネルギー体のレベルでは、
意志は散逸構造で「エントロピーの原則」に逆行し、自らのシステムが維持・再生される「自己組織化」を行う。
本能行動の選択基準は遺伝的に定められたものであり、この結果を変更することはできず、良い・悪いなど、如何なる評価もされない。
意識体の選択のレベルでは、
生の後に死がくるという因果関係の一般的時間ではないので、過去・現在・未来と続く均質な時間とは次元が違い、生成と消滅が同時に起こる世界の時間の中にあるものなので、生死が同時にあるという世界観を持ち、この生死の同時性のあるものを選択することを、「意志」と呼ぶ。
量子力学における「空」の場では素粒子が湧き上がっているように、常に揺らいでいるのは意志の力による。
生物学における意志は心理現象における全能的な役割をする。
たとえば、どちらのリンゴが大きいかを判断するのは大脳皮質の意思だが、大きなリンゴを選ぶのは大脳辺縁系による選択の判断である。
もし、大きいりんごを選ぶ行動をキャンセルして小さなリンゴの方を選択するためには、何らかの代理報酬・オールタナティブ(未来)報酬が必要になる。
行動選択の動機が自覚されることができれば、より価値の高い未来の結果を獲得することができる。
だが、それも欲求の実現を効率を良く行うための手段である。
だが、前述のプロセスにおいても小さなリンゴを選択することが必ずしも自分の意志とされる根拠は何処にもない。
何故ならば意識による意思的計画行動とは違い、情動行動や思考パターンとは自覚の伴わない無意識行動の可能性もあるためである。
意思 選択するための動機 物事を判断して実行しようとする積極的な心の働き
大脳皮質の意識に上る理性的な計画行動を意思が作りあげ、それを選択するための動機を意志と呼びます。
意思は、「生の後に死がくる」という一般的な均質な時間が流れる世界の中にあるものなので理性の居場所でもある。
意思とは「行動選択の動機」であり、本質的には情動行動や本能行動を選択するための「欲求」に伴って発生するものであるが、大脳皮質の中にあるものではない。
実現すべき欲求に伴って脳内に発生する心の変化で、大脳皮質(意識)は単にそれを自覚しているだけに過ぎない。
ヒトが自覚できる行動選択はほんの一部でしかなく、それ以外は全てが無意識のうちに行われています。
Cf. 「心の動き」とは行動を選択するためにある。 自分の欲求に従うもの
逆エントロピーの選択
「意志」を「エントロピーの原則に逆行する選択」と定義すると、「太陽系」「地球」「気象」「生命」、このようにエントロピーの増大に逆行するものには全て意志があることになってしまいます。
本能
遺伝的に定められたプログラムの結果を「無条件で選択するもの」
生命中枢の本能行動は無条件反射という無意識行動であり、主体の学習体験や人格・性格などによる「心の動き」というものは一切発生しないし、「意識の動き」のもとであっても、自分の意志によって変更することはできない。
遺伝的に定められたプログラムに従う無条件反射ですから、このプログラムを自分の意志によって変更することはできませんし、反応の結果は何時如何なるときにも同じです。これは全人類に共通の反応規準であるため、遺伝的な体質はあっても、そこに人格や性格というものは一切介在しません。
しかし釈尊はこの本能を書き換える方法があることを他者にも伝え、それが釈尊の教えとなり、現代まで連なっています。
本能の価値観は「生物学的利益の獲得」
生得的行動innate behavior(本能行動とほぼ同義)とは「遺伝的性質に基づき、習得的な影響を受けない行動」反意語は「習得的行動」
「本能行動」は脳幹中枢神経で処理され、大脳皮質まで信号がいかないので、未来の結果を予測することができない。
生物学では、絶対的な価値観とはいったい何かというと、それは意識でも心でもなく、ヒトが動物として定められた「生物学的利益の獲得」です。
本能行動の選択基準とは遺伝的に定められたものであり、この結果を一代で変更することは意識のない生命体には絶対にできません。従って、これに対して良い・悪いなど、如何なる評価も存在し得ません。
行動とは「複数の反応が組み合わされた運動」と定義
ヒト動物の「行動」とは、入力情報に対して「利益・不利益の価値判断」が行われることによって選択されるものです。
「行為」とは、「主体が行動を選択すること」
「行為」とは 行動選択には、そのプロセスにおいて、「意識を伴うもの」「心の動きに従うもの」「どちらとも無関係で遺伝的なプログラムに無条件で従うもの」の三種類にはっきりと分かれています。
これが思考、感情、無意識という分類につながります。
意思 Mind, Intention 自分がしようとする行為に対する認識
大脳皮質の意識に上る「計画行動を選択するため動機」のことを「意思」と呼びます。
意思はどこまで意識のもとなのか?
ヒトは自分の考えを自分の意思で決定します。ならば、意思とは自分のものということになります。しかしヒトの脳内には意思というものは実際には存在していません。
ヒトは自分の考えを自分の意思で決定します。すると普段は、自分の思考や記憶は自分の意思で扱っていると思っています。ならば、意思とは自分のものということになります。
ですが、実はそうではありません。ヒトは物事を自分の意思で決定しているのはありません。
では、その意思に命令を下しているのはいったい誰なんでしょうか?
意思とは脳の働きの一部であり、それは単なる「随伴現象」であるという考え方が用いられています。ヒトは物事を自分の意思で決定しているのはありません。脳内で物事が決定されることを「意思決定機能」と言います。
ヒトの脳が意思決定を行おうとするならば、そこには何らかの選択肢が与えられているはずです。何の情報の選択肢もない状態では、脳が意思決定の機能を使う必要がないからです。
ヒトは目や耳などの感覚器官を用いて外部からの情報を脳内に取り込みます。そして、脳内ではこの感覚情報を基にそれに一致する記憶情報が検索されるわけですが、ここまでは「全自動」です。
すなわち、意識の中にどのような情報が入力され、そこでどんな記憶が選択されるかにはヒトの意思決定機能は全く関わっていないということになります。
脳内でこの二つの情報(学習したデータと入ってきたデータ)が比較されることを「認知」と言い、これによって意識の対象が決定されます。そして、これによって意思決定が可能となり、ここで初めて考える、近寄ってみるなどの様々な自発的な思考や情報の取り込みができるようになります。
このように、ヒトは意識の中である思考を保持している場合は意思決定による連続的な情報の処理を継続させることができます。しかし、ひと度これが途切れてしまうならば、次にどのような思念が意識の中に取り込まれてくるのかは自分でも予測ができません。
つまり、ヒトには無意識の中にどのような意識が生み出されるかを選択することはできないということです。
ヒトには、このようにして意識の中に何らかの思念が取り込まれるまで、それが雑念であるかどうかの判断を下すことはできないということです。
それが雑念と判断できるならば、ここは勉強に集中しなければならないといった意思決定も可能です。
これが、ヒトが自分の意思でもって雑念の発生を阻止することのできない本質的な理由です。
雑念は排除される対象ではありません。
その雑念と呼ばれる思念がむしろ、それが新しいアイディアである可能性もあります。
ヒトが意識を集中して論理的な思考を行うというのは、それは今得られる限られた情報や自分に持ち得る既存の記憶体験の組み合わせでしかありません。すなわち、論理的な思考だけでは何時まで経っても同じ結論しか出せませんし、それでは未知の問題を解決することはどうやってもできません。ところが、脳は少しでも無意識の空白が生まれるならば、そこに自分にも予測のできない無作為な思念を取り込もうとします。
それは冷静な思考を妨害する愚にも付かない雑念であるかも知れません。ですが、もし仮にこれがなかったとすれば、人類史の中で、次々と新しい発想に巡り会うという偶然を手にする機会は恐らく生まれなかったでしょう。
自由意思はない? 自分ではそう思っていても生物学的利益の意思の影響下でしかない?
現在、生物学では、例え人間であろうともその脳内に自由意志の存在を認めることはできないという考えが持ち込まれています。
ヒトの脳が如何に高度な情報処理を行おうとも、それは進化の歴史の中で遺伝的に構築されたシステムであり、その全ては生物学的利益の延長線でしかありません。つまり、ヒトは自分の意思で生きているのではなく、自然界の意志によって活かされているのではないか?ということです。従って、全ての生物がこの原則の下で生きているので、そこに完全な自由意志の存在が否定されてしまいます。
「意思決定の機能」のシステム
ヒトの意思決定とは、それは複数の結果を比較して行動を選択することです。そして、少なくともそのためには大脳皮質の発達が条件ではあるのですが、これは意思の大きさではなく、基本的には思考能力に比例することです。
ここに問題があります。実は、ヒトの行動選択を厳密にみると、これは意思決定ではありません。
ヒトの脳内で行動選択の動機として働くのは「意欲」や「欲求」であり、これは本能や情動の機能によるものです。
ですから、大脳皮質が如何に高度な計画行動を想定しても、そこに動機が発生しなければ一切の行動に移ることはできません。
つまりヒトの脳内では、大脳皮質には決定権がないのです。
行動選択の最終的な動機となる欲求とは本能や情動に従うものです。これは外部入力に基づく定められた反応であり、これは自分の意思ではありません。
意思の内容
大脳皮質に行動選択の決定権が与えられていないのならば、ヒトの「意思」とはいったい何でしょうか。
「心の動き」とは行動を選択するためにある。ならば意思は心理現象における全能的な役割をしていることになります。しかし、それは大脳皮質の中にあるものではなく、意思はすなわち「行動選択の動機」であり、本質的には情動行動や本能行動を選択するための「欲求」に伴って発生するものである。
つまり、どちらのリンゴが大きいかを判断するのは大脳皮質ですが、大きなリンゴを選ぶのは大脳辺縁系です。しかしいつも大きい方を選んでいるとは限りません。大きい方を選ぶという、思考行動や情動行動をキャンセルして小さなリンゴの方を選択するには、代わりになる代理報酬や未来報酬の価値観が必要になります。
行動選択の動機が自覚されることで、より価値の高い未来の結果を獲得することができると判断すると、小さいリンゴを選択することになります。たとえば、満腹であったり、ダイエットであったり、誰かに大きい方を与えたいと思ったり、好みでなかったり、いろいろな要因があります。
小さいリンゴを選んだとしても、それも欲求の実現を効率良く行う手段です。
理性的な計画行動を選択するための動機を意思と呼びます。
前述のプロセスにおいて必ずしも小さなリンゴを選択することが自分の意志とされる根拠は何処にもありません。何故ならば、意志というものが行動選択の動機である限り全ては自分の欲求に従うものであり、紛れもなくそれは「自分の意志」であるからです。
計画行動とは違い、情動行動は自覚の伴わない無意識行動であります。ですが、だからといってその行動選択の動機が他人の意志であるはずはない。
ですが、意志とは大脳皮質の機能ではありません。それは、すべからく実現すべき欲求に伴って脳内に発生する心の変化であり、大脳皮質はただ単にそれを自覚しているだけに過ぎません。そして、大脳皮質の意識に上り、ヒトが自覚できるのは認知作業を伴うほんの一部でしかなく、それ以外の行動選択は全てが無意識のうちに行われています。
価値観が意思を生む 価値観が欲求を生む
価値観によって欲求が生まれ、欲求によって争いが起こるのが世の中です。ならばせめて、より多くの見識を持つことによって自分の価値観を広げ、周りの動きに無闇に惑わされることのない、おおらかな生き方をしたいものだと思います。
ヒトは、自分の意思で生きているのではなく、価値観によって生かされているだけではないかということです。
ひとたび価値観を持ったならば、それに対して欲求というものか決定されてしまいますので、ヒトはその欲求に対する行動しか選択できなくなります。まして、本能の方の価値観は自分の意思では決して変更できません。
もちろん、ヒト人間は論理的な思考によって複雑な行動の選択をすることができます。ですが、それが如何に論理的であろうとも、ひとたび価値観というものを持ってしまったならば、ヒトはそれに反する結果を選択するということはできませんよね。そこに自由意思はないということになります。
このように、人間は価値観に対して選択の自由を持っていません。何のために生きるのかは価値観によって決定されてしまうのですから、このメカニズムがある限り、人生に自分の意思が反映されることはありません。
では、行動選択に自由意思を反映させ、自分の意思で生きるためにはどうしたら良いかということになります。そのためには、価値観の持ち方を変えなければなりません。
ヒトは、価値観に対する判断をYESからNOに変更することはできません。ならば、価値観の方を自分の意思で変更すれば良いのです。本能の価値観は変更できませんが、理性の価値観は変更が可能です。自分の意思によって価値観を持てるのであれば、それに基く行動選択には自分の意思が反映されているということになります。ヒトが自分の意思で生きるためには、自分の意思で価値観を持ち替えなければなりません。
ヒトは自分の意思で価値観を選択しなければなりません。ですが、その選択にはまた基準が必要になります。それが個人的な評価や、その社会の慣習に従うものであるならば、ヒトは価値観を持つのではなく、持たされているということになってしまいます。
人間が持つべき究極の価値観とはいったい何かを論理的に追及したのがお釈迦様でした。
この世の全ての現象に拘らない価値観を「無我の境地」といい、これを、慈悲の動機に基く行動選択と言います。
欲求というのは価値観によって決定されるものであり、行動の動機とは、その欲求の実現です。
人間原理 Anthropic principle
物理学、特に宇宙論において、宇宙の構造の理由を人間の存在に求める考え方。
人間原理を用いると、宇宙の構造が現在のようである理由の一部を解釈できる。
「宇宙が人間に適しているのは、そうでなければ人間は宇宙を観測し得ないから」という論理を用いる。
宇宙の物理法則と生命の関係
物理学では、自然法則とその中に現れる物理定数が求められている値とごくわずかでも異なる値であれば、あるいは3次元空間でなければ人間のような知的生命や、あらゆる生命活動に必要なエネルギーを放出している太陽のような恒星はおろか、それらの物体を構成する原子すら形成されなかったであろうと推測されている。
つまり目に見える物体は何も形成されないような宇宙であり、多種多様な天体が存在するような宇宙の姿ではありえなかった。しかし、人類が存在する宇宙における自然法則やその中に含まれる物理定数は、人間のような高度な知的生命を生み出すために必要な条件を満たしている。このことはファイン・チューニングと呼ばれる。
人間原理は、このファインチューニングという状況に対し与える事が可能な一つの説明である。
宇宙の自然法則と物理定数が生命の存在を許す非常に厳しい条件を満たしている理由の他の説明には、知的な存在を仮定する宗教的な立場として創造論あるいはインテリジェント・デザインがある。それらに対して、人間原理は超越的な存在を仮定しない自然主義的なアプローチである。
弱い人間原理
大数仮説が成立する時に人間が存在している不思議さを、人間の存在による必然と考えたのがロバート・H・ディッケである。ディッケは宇宙の年齢が偶然ではなく、人間の存在によって縛られていることを示した。それによれば、宇宙の年齢は現在のようなある範囲になければならないという。なぜなら、宇宙が若すぎれば、恒星内での核融合によって生成される炭素などの重元素は星間に十分な量存在することができないし、逆に年をとりすぎていれば、主系列星による安定した惑星系はなくなってしまっているからである。このように宇宙の構造を考える時、人間の存在という偏った条件を考慮しなければならないという考え方を弱い人間原理と呼ぶ。
強い人間原理
ブランドン・カーターはこれをさらに進めて、知的生命体が存在し得ないような宇宙は観測され得ない。よって、宇宙は知的生命体が存在するような構造をしていなければならない。という「強い人間原理」を示した。
関連する理論
ジョージ・エリスは、通説となっている膨張するモデル宇宙に対して、裸の特異点のあるモデル宇宙を提唱し、地球は特異点と正反対の最も遠い場所に位置すると提唱した。物質の密度が特異点付近ほど濃いため、銀河の分布は一様ではなく、地球の周りでは極めて薄いとされる。このように物質の分布が偏っていると光の赤方偏移が生じ、地球からは各銀河が遠ざかっているように見える。そして、地球がなぜ裸の特異点と正反対に位置するかと言えば、特異点に近づくほど温度が高くなるなど、生物の存在に適さない環境となるため、生物=人間が存在する地球は、特異点から最も離れているべきとする。
参考文献
大栗博司(著), 重力とは何か -アインシュタインから超弦理論へ、宇宙の謎に迫る, 幻冬舎新書, 2012,
青木薫(著), 宇宙はなぜこのような宇宙なのか―人間原理と宇宙論, 講談社現代新書, 2013,
コラム 反射のメカニズム
脚気の検査
膝蓋腱反射
太い骨格筋につながる腱を、筋が弛緩した状態で軽く伸ばし、ハンマーで叩く。すると、一瞬遅れて筋が不随意に収縮する。これが観察しやすい箇所はいくつかあって、
大腿四頭筋の膝蓋腱(下腿前面、膝蓋骨と脛骨の間隙)
腱反射は、急な外力によって筋が損傷するのを防ぐための生理的な防御反応である。弛緩した筋は損傷し易いため、外力のかかった際にすばやく筋を緊張させている。 反射は感覚器-求心路-中枢-遠心路-効果器とモデル化することができるが、腱反射のメカニズムをこのモデルに当てはめると、
感覚器に相当するのは骨格筋に含まれる筋紡錘である。筋の長さの変化のセンサーであり、その感度はγ、β線維と呼ばれる神経によってコントロールされている。
求心路として働くのは主にIa線維と呼ばれる神経である。これは太く、すなわち伝達速度の速い神経である。外力からの防御を素早く行うのに適している。
中枢は脊髄にある。ここでIa線維は前核細胞二次ニューロンとシナプスを形成する。
運動系の二次ニューロンが遠心路となる。二次ニューロンは正常であれば上位中枢から抑制を受けており、α線維からの刺激に過剰に反応はしないようになっている。
効果器は、刺激された筋と同一方向に働くすべての筋(協同筋)となる。
筋収縮中には上位中枢からの入力によりγ神経細胞の興奮も、錘外筋を支配するα神経細胞と同様に高まり筋紡錘の感度も増加する。そのため、筋収縮中は筋紡錘からのIa出力も増加し単シナプス性にα神経細胞への興奮性入力が増加する。これをα-γ coactivationといい、筋収縮の円滑な維持に役立っていると考えられている。
深部腱反射はシナプス接続の一回しかない単シナプス反射なので解析がしやすく、反射の代表として取り上げられることが多い。
参考資料
人間原理
現在の宇宙がかくあるのは「観測者」としてのヒト人類が存在するからだという「強い人間原理」といったものも提案されており、これは宇宙がかくあったために人類の誕生が許されたという従来の「受動的な人間原理」とは全く異なるものです。
この「強い人間原理」は、量子力学における「不確定性原理」の発見を基に生み出されたものであり、今のような状態にある宇宙は、実は「観測という行為」によって「無数の可能性の集合」の中から「ひとつの現在とし選択された事象」であり、それは観測者としての人類の要求に従ったものであるという考え方です。
ですから、ここでは宇宙の法則は観測者の要求に従って決定されたものなのですから、あらゆる偶然が人類の存在にとって丸々都合良く作られていても全く不思議ではないわけです。
数ある科学哲学の中でも、これは人類を宇宙の創造主として祭り上げてしまうというたいへん過激なものです。ですが、ここで最も重要なことは、神や意思の存在、即ち「必然」というものを否定するならば、従来の「弱い人間原理」ではこの矛盾を解決することはできないということです。 したがってビッグ・バンは何故起きたのかを説明することも絶対にできません。
二十世紀には量子力学における「不確定性原理」の発見に伴い、物理学の世界では未来は未確定であると結論付けられました。これにより、二百年の長きに渡り人類の自由意志を否定し続けたニュートン力学に基づく「確定論」は崩壊しました。
未来とは「ありとあらゆる可能性の集合」であり、現在とは無数の可能性の中から「観測という行為によって選択されたひとつの事象」です。すなわち、どのような未来が選択されるかというのは当然のことながら未確定ということになりますし、何よりも、観測という行為が行われない限り、あるいは観測者が存在しないならば如何なる未来も可能性のままでしかなく、それが現在として出現するということはありません。同時に、観測者の存在を否定するような現在が観測によって出現するということはあり得ませんから、結局それは観測者の要求に従って選択されているということになります。「強い人間原理」の考え方に基づくならば、現在の宇宙の法則とはこのようにして決定されました。
惑星運動を司る重力の大きさが少しでも違っていたならば現在のような地球環境が生み出されることはありませんでした。また、もし核力や電磁気力が別の値を執っているならば、この宇宙に水素や窒素といった元素が生成されることもなかったはずです。ですが、このような別の宇宙の可能性は、現在では全て消滅してしまっています。何故ならば、未来の中から現在が選択されるということは、その確率が100%になるということでありますから、この時点でそれ以外の可能性は全て0%になってしまうからです。
重力定数6.67×10^−11、光速度秒速29万9千何がしkm、このような数値が自然に定まり、宇宙の秩序が整然と維持されてきた、それが全て偶然だなんてのがそもそもおかしい、確かにそうですよね。ですが、これが元々無数の事象の集合の中に可能性として存在し、その中からは観測者の要求に従わない結果が選択されることはない、ということでありますならば話は全く変わってきます。
では、そもそも観測者というのはいったい何処からやって来たのでしょうか。従来の人間原理では、それは138億年前のビッグ・バンによって発生したという宇宙の歴史の中にひとつの現象として存在を許された者です。これはどちらにとっても未解決問題であり、どうして人類が生み出されたのか、ここでもそれは偶然としか説明はされていません。ですが、「強い人間原理」がこれと異なるところは、人類が誕生したという宇宙の歴史そのものが観測者の要求に従って決定されたものであるということです。
宇宙の果てから星の光が届くのに約160億年掛かります。このため、宇宙は誕生してから160億年が経っていると考えられています。ですが、実際に160億年前にその星が瞬いたかどうかは可能性でしかなく、観測という行為が実行されるまでは確率でしか示すことはできません。そして、そのうちの何れかが100%になることによってそれは現在として確定され、同時に他の全ての可能性は消滅します。すなわち、それは観測という行為によって160億年前に遡る事実として現在に確定されるものであり、これによって初めて宇宙の歴史は160億年であると決定されます。
ヒトは偶然の連続という宇宙の歴史の中に産み落とされたのではありません。不確定性原理を用いるならば、歴史そのものがその出発点に遡り、観測という行為によって決定される現在の事象なんです。そしてそこには、ビッグ・バンも人類誕生も、観測者の存在を肯定する要素として全てが必然的に組み込まれていなければなりません。
このように、「強い人間原理」とは、ともすれば人類を宇宙の創造主としてしまうような究極の詭弁術でもあります。ですが、従来の人間原理では説明できない問題を扱うためには、また別な考え方が必要になります。
かつては神という架空の存在を用いなければ解決できなかった問題もありましたし、現在でもあるかも知れません。ですが、ここで最も重要なことは、双方が共に古典宇宙論に従う解釈や量子力学の発見から新たに発展したものであるように、それは無闇に必然性を要求することではなく、与えられた事実に基づいて行われる試行錯誤でなければならないということです。
人類がこの難問に挑戦するためには、このような制約をひとつひとつ乗り越えてゆかなければなりませんし、そのためには既存の知見に基づく未解決というプロセスをきちんと受け入れる必要があります。
「ロバート・ディッケ」「強い人間原理」 S・ホーキング博士が支持している考え。
コペルニクス以前と以後、古典的な「人間原理」と「宇宙原理」とに分かれた・・・そして前者はさらに「弱い人間原理」と「強い人間原理」とに分かれる。このうちさらに前者は、人間が発生するには偶然によるものではなく一定の法則があってその範囲内で選ばれた値でなければならないとするもの。後者は宇宙は発展のある段階で人間を創り出すように作られているとするもの
「人間原理の立場に立つことによって、もろもろの考え方が、パッと目が開けたようになるし、宇宙からさらに話をすすめて文明の進化といったものにまで一つの暗示を得られるような気がする」
「…宇宙空間から地球の姿を見たとき、この地球が宇宙において全く特別の存在であることがどう否定しようもなくわかった。地球と、地球以外の宇宙のすべてとは、全くの別物なのだ。その否定しがたい事実が目の前に突きつけられる。そのとき、これは神の直接の創造物以外ではありえないと思った」と言っています。
これなどはヒトと同時代の人類が身を持って体験した貴重な資料といえます。
塀の中の解釈 地球と宇宙は全くの別物 神の創造物
塀の外の解釈 宇宙の中にこそ地球がある 光と闇 すべてに意志がある 地球は創造物であり創造主である
子供が欲しいと思うのは
これは確実に「本能ではない」です。 ????
本能行動には「思う」とか「認識」、あるいは「情動」といった過程が存在しません。それはヒト動物が生命活動を実現するため、遺伝情報として定められた結果を「無条件で選択するもの」であり、そもそも本能行動にはご飯が食べたいとか子供が欲しいといった判断を下す機能がないのであります。
では、子供が欲しいという思いが本能行動でないということは、それは必然的に学習行動であるということです。
この世に生まれ出たとき、学習結果は誰でも白紙状態ですので、ヒトの脳は「空腹」や「苦痛」といった「遺伝情報として定められたもの」にしか判定を下すことができません。そして、生後体験において実際にこのような判定が下されることにより、初めて「ご飯が美味しい」とか「針は痛い」といった観念が学習されます。このため、ヒトの社会の認識や文化とは、そのほとんど人間に与えられた本能行動の基準に従うものとなります。
「子供が欲しい」というのもこれと全く同じです。そして多くの場合、ここには性的成熟に至る以前から「文化的価値観」としての社会通念が学習されているため、それは未来の結果を予測することできる「理性行動」も多分に含まれています。すなわち、どう考えてもそれは「100%学習行動」ということになります。
人が感じるスティグマや分離・排除の感覚について
ヒトの脳内に生み出される感情とは、自分に与えられた状況に対応して選択されるものです。この選択基準は質問者さんの脳内に質問者さんの性格や価値観といった潜在意識として存在します。ここで潜在意識とは「前意識」のことであり、意識として自覚される前の無意識領域に当たります。
ここには障害者に対する質問者さんの前意識が録音されています。そして、それは個人的価値観や生まれ育った社会の文化的価値観であり、質問者さんの個人体験から多くのひとに共通する利害や道徳観などが丸ごと混在します。このため、質問者さんの脳内では無意識に再生された感情と、そうあってはならないといった道徳観や正義感が葛藤するわけです。
これは質問者さんの深層心理でありますから、自分が何故そう感じるかといいますならば、内省か精神分析という手段があり、恐らく、心理学で有効なのはこちらの方です。では、そうではなく、質問者さんは飽くまで心理学にその論理的な答えを求めたいと仰るならば、残念ながらそれは、質問者さんはご自分の内面以外に何らかの理由を見出すことにより、これによって自分の気持ちを安心させたいという欲求を抱いていることになります。
障害者認定を烙印とは思いませんが、その人達がヒトとは異なる運命に曝されてというのは事実です。この事実から目を背けるわけにはゆきませんし、自分の心に嘘を吐いても仕方がありません。通常、ヒトにとってはそれほど身近というわけではありませんが、質問者さんは自らがその世界に足を踏み入れているわけです。
「同情」とは、立場が対等である場合には発生しません。すなわち、質問者さんが同情心を自覚するのは、それは立場が対等ではないからです。
ヒトの感情とは、脳内の情動機能が利益・不利益の判定を下すことによって発生します。そして、他人の不利益に対して悲しいと感じることを「共感」、可愛そうに思うことを「同情」と言います。
まず、共感が得られなければ情動反応は発生しません。そして、脳内に発生した情動は表出の過程で様々な状況判断が行われることにより、分類の可能な特定の感情へと分岐します。
何れも悲しいという情動であることに違いはありません。ですが、ただ悲しいと感じているだけでは、ヒトの脳はそれが誰の苦しみであるかを認識することはできません。そして、ここで自分に与えられた状況が正しく評価されることにより、それは他者に対する同情として分類・自覚されることになります。
このように、状況の判別が行われるならばそれは結果に反映します。このため、立場が対等である場合、ヒトの脳内に同情という感情は発生しません。では、逆に発生した共感が同情に分岐しないというのであるならば、それは脳が双方の立場を認識していない、ということになります。
その苦しみを理解するのはまず必要なことですが、共感だけでは障害者を支援することはできないと思います。そして、お互いがその関係にあるならば、それは必然的に同情となります。
では、ここで同情心を排除しようとするならば、そのためには、これを自覚した状態で自分を相手と同等の立場に持ってゆかなければなりません。ですが、相手は障害者ですから、物理的には無理です。ならば、その障害を事実と受け入れた上で、それを自分の問題として解決しようとするならば立場は対等ということになります。
障害に対する嫌悪感とは誰の心の中にもある通常の反応です。ですから、道徳観だけでこれに対処しようとするならば必ずや心に矛盾が発生します。ならば、質問者さんが実際にこれに携わろうとするならば、それは単なる道徳的適応ではなく、これには使命感によって対処しなければならないということになります。そして、これを同情やおせっかいではなく、使命感として運用するためには、障害者支援に関する正しい知識とは、そのためにも必ずや必要になるのだと思います。
竦み
被食動物に本能行動として備わった静止行動は「無条件反射」として発生するものであり、この場合は捕食者など「特定の刺激」に対応するものと考えて良いと思います。
猛禽類などの餌となる小動物は、その声や姿に対して一斉に動かなくなります。但し、これは動くと見つかってしまうからです。ヤマネコは500m先を見通すことができますが、相手が動かない限りそれを獲物と判別することができません。食物連鎖の頂点である肉食動物にもこのような弱点があり、ならばそれは「小動物の防衛手段」として必要に応じて獲得された脳機能ということになります。そして、これは「本能行動としての無条件反射」ですから、ヒトが体験する「竦み」とは種類がちょっと違います。
人間にもまだこのような反応が残されているかどうかは分りませんが、通常ヒトが恐怖などによって体験する「竦み」とは、こちらは純粋な本能行動ではなく、そのほとんどが「情動性の身体反応」と考えられます。
小動物の静止行動とは本能行動を実行するための生命中枢の指令によるものです。これに対しまして、ヒトの脳内で恐怖や不安といった情動反応を司るのは「大脳辺縁系」という、学習機能を持つもう少し上位の中枢です。
このような情動性身体反応とは「ストレス対処反応」として発生するものであり、ヒトの脳は遺伝的に定められた反応基準ではなく、「過去の学習結果」や「生理的な苦痛」などをストレスと判定しています。ですから、ここでは特に捕食者など特定の刺激との対応関係はなく、生後環境から獲得された様々な学習結果に基づいてそれを危険と判定することができます。
大脳辺縁系の情動反応はそのまま運動神経や自律神経など、身体の末梢系に直接出力されます。これによって引き起こされる様々な身体反応を「情動性身体反応」というのですが、これがストレス刺激であった場合は直ちに交感神経系の方に活性の指令が下され、心拍・呼吸の増加などと共に「筋肉の収縮」が起こります。
筋肉とは縮めるのと反対の側は伸ばさなければなりません。通常、運動筋とは運動神経の命令によって交互に動いているわけですが、それが交感神経の活性化によって一斉に収縮してしまいます。当然、思うように動けませんよね。ヒトが「竦み」と感じているのは恐らくこれではないかと思います。
交感神経によって筋肉が収縮するのは立毛筋・汗腺を締めたり血管の血圧を上げるためです。そして、このような交感神経の活性化による一連の生理的な変化は、これはいざストレスに対処するための準備と考えられます。
では、ヒトは一瞬、次に何をしたら良いのか分らなくなってしまった状態も「立ち竦む」などと表現します。ですが、この辺りはもう精神的な要素がだいぶ大きくなると思います。また、高い吊橋を渡ろうとして腰が引けてしまいますと中々足を前に出すことができなくなります。、次に何をすれば良いのかは分っているのに怖くてできないのです。
このように、捕食者に対する動物の本能行動とヒトが普段に体験する「竦み」とは構造が違います。ですから、「蛇に睨まれた蛙」などと良くいいますが、これは小動物の生物学的習性ではなく、ヒト人間の価値観に基づく単なる憶測だと思います。ヘビを怖がるためにはカエルは自分の死を意識することができなければなりません。ですが、常識的に考えてこのようなことはカエルには無理です。
>・すくみ上がる元々の発端はアドレナリンの過剰供与という認識で合っているでしょうか?
どうなんでしょうか、このような話はちょっと聞いたことがないです。
自律神経系において交感神経の伝達に使われているのは「AD(アドレナリン)」です。「過剰供与」というのがどのような状況なのか良く分りませんが、これが「過剰分泌」ということになりますと、それは竦みの原因といいますよりは「自律神経の失調」ということになるのではないでしょうか。
では、ストレス対処物質としてのADは副腎髄質から分泌されます。身体末梢の交感神経伝達はこの副腎ADによって亢進されるのですが、これは体液循環を介して行われる投射ですので効果が現れるのに数分を要します。すなわち、咄嗟の竦みとはまず関係がないと思います。そして、最初に述べました小動物の行動抑制は、こちらはそもそも「統率の執れた本能行動」でありますから、ここで何らかの伝達物質の過剰分泌が起こっているというのはちょっと考えられないです。
「すくみ」がヒト人間のDNAにプログラミングされている行動でない事については理解致しました。後天的な学習により獲得されたものだという理解をしました。生物学への質問として一番良い回答を頂いたかと思います。
ただ、頂いた質問から更に疑問が出てしまいます。「ではどうして、どうやって人間が『すくみ』を学習するのか」という点に頭の中で繋がっていってしまうのです。
1.どうして人間が「すくみ」を学習するのか。
社会的には不要な筈の「すくみ」を学習しない人間は見ないと言って良いくらい、必然的に人間の成長と共に備わる「すくみ」ですが、なぜ「すくみ」が人間に備わるのでしょうか。素人目には生物としての、あるいは社会に生活する人間としての学習の必然性が無いように思われますが、それでも獲得してしまう負の要素の性質は、どのような社会メカニズムにより形成されてしまうのかに興味が沸いて来ます。
2.どうやって人間が「すくみ」を学習するのか。
上記と重複する部分もありますが、すくみを学習するプロセスがどうなるかという事に興味が出てきています。これは児童心理学などが当該するでしょうか。
ほぼほとんどの人がすくむ事が可能だと思うのですが、ある社会的プロセスを経てこの性質が形成されるのであれば、逆に言えば、その機会を排除・あるいはワクチンのように克服と勝利を与える事によって、すくまず、困難を乗り越える力を獲得させる事も可能な筈です。
これはDNAにプログラムされていなくても、人間社会がひとたび構成されると、その結果として「すくみを学習してしまう機会」を必然的に生産してしまうからでしょうか?
(そして、今の学校教育はそうした危機と克服を社会システム的に与えているように思いました)。
できれば、のお願いなのですが、ここにご意見などを頂ければ幸いです。
※ご負担になるのであれば結構です。
とまで書いたのですが、これらは社会学的、哲学的な方面への質問になりますので、カテゴリー違いだから質問を切りなおすべき、というご指摘があるかもしれないのでいったんCloseさせて頂こうかと悩んでおります。
#3です。回答をお読み頂き、ありがとうございます。
前回答では、被食動物の「防衛本能」とヒトが体験する「情動性身体反応」の違いに就いてご説明致しました。
本能行動には危険から身を守るという明らかな生物学的利益が対応します。では、ヒト人間には逃げるとか身を隠すといったより有効な回避手段があるのにも拘わらず、どうして一時的な行動不能状態を執る必要があるのか、私はこの点に就きまして質問者さんの疑問にまだきちんと答えてはいません。中々難しいですね。
その前に、前回では説明が不十分でしたが、「情動性自律反応としてのすくみ」とはヒト人間だけの特徴ではありません。これは宜しいでしょうか。情動反応とは大脳辺縁系で発生するものであり、これは哺乳類や鳥類では人間と同様に十分発達しており、他の高等動物にも「恐怖によるすくみ」というのはあるはずです。
質問者さんの要求とはやや異なるかも知れませんが、ここでは執り合えず「すくみの学習」に就いて整理をします。
生得的な「本能行動」と大脳辺縁系の「情動行動」の違いとは、本能行動では「遺伝的に定められた反応基準(無条件反応)」に従って判定が下されるのに対しまして、情動行動では「生後の学習結果(条件反応)」を用います。
本能行動では入力に対する判定の結果が遺伝情報として予め定められているため、それ以外の反応を発生させることは絶対にできません。小動物はそのたったひとつの方法で生き残ることに成功し、それを遺伝情報として引き継いだのだと思います。これに対しまして、「学習行動」では生後環境から獲得した様々な体験を基に判定を行いますので、状況に応じたより多彩な行動の選択が可能となります。
これがどういうことかといいますと、つまりヒトの脳は生後環境からすくみを学習したのではなく、「何に対してすくめば良いのか」という判定を学習していることになります。
生後環境において動物が何らかの苦痛を体験したとします。苦痛に対する遺伝的判定はほとんどの動物で不利益と定められていますので、ここでは無条件反射として確実に回避行動が選択されます。そして、これによりこの判定結果が大脳辺縁系に学習されます。
では、次に同様の事態に遭遇した場合、この学習結果に基づき大脳辺縁系に「恐怖という情動」が発生します。これにより、動物は自らが苦痛を味わう前に回避行動を選択することができるようになります。
本能行動では実際の苦痛が与えられなければ回避行動を選択することはできません。ヒトはすくみを学習するのではなく、恐怖を学習するのです。これが「恐怖の生物学的意義」ですね。
では、怖いと思ってすくんでいる暇があるならばすぐに逃げた方が良いのではないか。私もそう思います。
大脳辺縁系からの指令によって交感神経系が活性化されるのは、それは心身の生理状態を亢進させ、与えられた事態に対処するためです。残念ながら私はこれ以外の答えを知りません。「筋縮」はこれによって全身に起ります。
筋肉を収縮させることにより、血管の血圧が上がりますと、細胞に酸素や栄養分が供給されやすくなります。もしかしたら弛緩させるよりは衝撃に強く、次の行動も迅速なのではないでしょうか。
憶測はともかく、私の知る限り交感神経系の活性化は次の行動に備えるためであるというのは、これは一般的な認識として間違いないと思います。ですから、それで一時的に行動が制約されたとしましても、次に適切な行動が選択できるならばそれほどの問題はないと思うのです。
「筋縮」って本当に起るのでしょうか。
起ります。
車で、危ないと思って急ブレーキを踏むとき、手はハンドルを握り締め、身体は硬直しています。ブレーキを踏むことができるのは、脳がそれを繰り返し学習しているからです。
同様の体験が学習されている、あるいは何らかの解決手段が見付かる、このような場合は脳内に「動機」が発生します。つまり、脳内でも状況が変わるわけです。これは大脳辺縁系の判定に従って起ることですから、大脳皮質が無意識状態でも行動は実行に移されます。恐らく、これが切っ掛けになって行動抑制は解除されるのではないかと思います。ですが、何もできなければパニック状態です。極度の緊張でこれを体験するひとは幾らでもいると思います。
怖いと思ったら逃げるなり隠れるなりするのが動物の本質です。交感神経はこのために活性化されます。ですが、ヒト人間の社会では中々そういうわけにもゆきません。
何かの発表会で緊張してしまい、足がすくみます。この苦痛から逃れようとするならば発表会を放っぽらかして家に帰ってしまえば良いのです。ですが、そんなことはおいそれとできることではありません。逃げ出したい、脳内には既に動機が発生しているのですが、人間の社会ではそれを行動に移すことが許されないのです。自律神経系の活性化による緊張状態は出口のないまま継続されることになります。これが「社会性ストレス」ですね。
ヒト動物にとって「すくみ」とは元々自律反応として備わったものです。躊躇する必要があるからすくむのではありません。行動が抑制されるために緊張状態が継続するのです。
ヒトが生後環境から学習するのは自分にとって何が不利益であるかということです。これにより、与えられた状況に応じた適切な行動を選択することができます。ところが、ヒト人間の社会環境とはたいへん複雑でありますから、これだけではとても対処できません。このため、しばしば情動行動と理性行動が対立し、不必要なストレスを発生させてしまうわけですが、これが人類の苦悩、即ち「悩み」であります。
表現欲求
「表現」とは「他者の存在を前提とした行動選択」です。
そして、ヒト動物がこれを実現するためには、
まず、「自分の行動の結果は相手に伝わるものである」
そして、「これによって何らかの利益が獲得される」
ヒトは生後環境において最低でもこの二つを学習しなければ表現をしたいという欲求を発生させることはできません。すなわち、これは本能行動ではなく、明らかに「学習行動」ということになります。
では、孔雀が羽を広げたり繁殖期の魚がメスにアピールしたりするというのは本能行動です。ですから、こちらの場合には何らかの生後学習をする必要は一切ないわけです。
「本能行動の特徴」とは、何よりもそれが全人類に共通であるということです。
心理学とは統計学ですから、このように多くのひとに共通する行動を「○○欲求」などと分類することができます。ですが、生物学的では統計的な数値ではなく、飽くまでそれが先天的要因であるか後天的要因であるかによって本能行動と学習行動という線引きが成されます。
ヒトの脳は身体内外に発生する環境の変化に対して利益・不利益の判定を下し、これに基づいて与えられた状況に応じた適切な行動を選択します。
本能行動とはこれに用いられる「利益・不利益の判定基準」が多くのひとに共通するかではなく、それが「生まれる前から遺伝的に定められているかどうか」によって分類されます。これに対しまして、ヒトが生後体験の結果に基づいて個々に獲得してゆく様々な判定様式を「学習行動」と言います。このため、本能行動とは結果的には無条件で全人類に共通ということになるのですが、学習行動にはそれぞれ生後体験の違いによって必ずや個人差というものが反映します。
「食欲」「性欲」「快感・苦痛」、このように、ヒト動物が生命活動を実現するために必要な判定基準を「生物学的利益」といい、これに適応しない遺伝情報とはあらゆる生物の進化の過程で尽く淘汰されてゆきました。このため、「ヒトの脳(中枢神経系)」とは必ずやこの生物学的利益・不利益に基づいて反応を発生させます。
食欲や性的刺激に対する反応とは遺伝情報として定められており、生涯に渡って変更することはできません。このようなものが「本能的欲求」ですね。
ヒトが生まれたとき、脳内の学習記憶とは全くの白紙状態ですから、使えるのは本能行動の判定基準だけです。このため、赤ちゃんとはこのような本能行動の判定に基づく様々な結果を体験することによって自分に与えられた生後環境において何が利益であるのかを学習してゆきます。これがどういうことかといいますと、つまり学習行動とは生後体験にこそ個人差はあるのですが、その学習の基盤となりますのは誰しも例外なく全人類に共通の生物学的利益であるということです。
例えば、学習行動において何が利益であるのかは後天的に獲得された価値観であり個人差があります。ですが、それがどのような判定基準であったとしましても、脳内でひとたび不利益という判定が下されたならば、ヒト動物とはこれ対して接近行動を選択することは絶対にできません。これは生得的定められていることであり、何びとといえどもこれに逆らうことはできないです。
では、「欲求」というのはどうして発生するのかといいますと、それはヒトの脳が環境からの入力に対して利益・不利益の判定を下すからです。で、この判定結果に対応して脳内に生み出される「行動選択の動機」が即ち欲求ですね。すなわち、何らかの自己表現を行うということは、これに基づく利益の獲得がその動機ということになります。
何かを表現し、それを他者に受け入れてもらいたいという欲求は、これは本能行動ではありません。ですが、ヒト動物の行動選択における動機の出発点とは、その全てが生命活動を実現するために定められた生物学的利益・不利益です。
不利益に対して行動を選択することはできないと申し上げましたが、ヒト人間には本能行動や情動行動を抑制して「理性行動(計画行動)」を選択するという高い知能があります。もちろん、現代人においてはそれで社会性ストレスを溜め込むという代償も払っていますが、これによって共通の利益を共有する高度な社会行動を構築し、結果的には人類が種の存続をより有利にすることが可能となっています。
全ての生命とは生物学的利益を獲得することによって生き延びるというのがその使命であり、例外はありません。
人間とは少々特殊な生き物ですが、その行動において「○○欲求」といった心理学的分類が可能であることは注して不思議なことではありません。そして、基を正すならばそれがヒト人類の生命戦略に繋がっています。ですが、この知能の高さという特徴によって人類の進化の延長線上にどのような結果がもたらされるのかというのは全く予測できることではありませんし、また、これが生物学的に最も有利な戦略であるかとうかを知るというのは、残念ながらヒトにはできないことです。
>2つめは、必ずしも相手の存在を前提とせずに表現する場合もあるのではないか、ということです。
他者の存在を前提としないということでありますならば、これまで私が論じてまいりました社会行動とは考え方が大きく異なると思います。
上手く説明できないのですが、
社会行動であれば「他人に対してこうあって欲しい」ということですが、
個人行動の場合は「自分に対してこうあるべきだ」というのがその対象になるのではないかと思います。
では、この場合はそこに他者の存在という条件は不要ということになるわけですが、ここで目的が「自己充足」であるならばその手段が必ずしも外部表現である必要が見当たりません。つまり、それは何かを表現したいという欲求とはまた別物なのではないかと思います。
因みに授業中の落書きは、これは「無報酬刺激に対する回避行動」ですね。恐らく自己表現の類ではないんじゃないでしょうか。
文字や絵を描くというのは、それを思考の対象として表象化するということです。紙や鉛筆を使って行うのは「外部記憶」に当たりますが、それが表現や情報伝達でないならば、対象を具現化することによって「思考の支援」を行っていることになると思います。では、その目的が表現の実現ではなく「思考あるいは好奇心の充足」であるならば、脳内報酬はこれによってちゃんと発生するのではないかと思います。
観測者 強い人間原理
質問者さんが「こじつけ」と仰いますこのような解釈は、言葉としてひと括りにしますならば「人間原理」を追求するための「定立」に当たります。
「人間原理」を定理するということは、ヒト自身がヒトの存在理由を説明するということでありますから、ともすれば、それは人類が絶滅するまでに成しえるような仕事ではありません。ですから、必然性が見出せないからといってこれを「こじつけ」と呼んではなりません。それは、与えられた事実を基により適切な解釈を行うためのテーゼです。
もちろん、何を積極的に受け入れるかに決まりというものはありませんが、証明されていないからという理由で宗教団体が進化論を相手に裁判を起こすなんてのは、このようなことは私には本末転倒と思えてなりません。これでは単なる水掛け論にしかなりませんよね。
人類は神が作り賜うたものではなく、それは宇宙の成り立ちに従う偶発的な産物であるというのが現在では最も現実的な人間原理です。ですが近年では、現在の宇宙がかくあるのは「観測者」としてのヒト人類が存在するからだという「強い人間原理」といったものも提案されており、これは宇宙がかくあったために人類の誕生が許されたという従来の「受動的な人間原理」とは全く異なるものです。
この「強い人間原理」とは、量子力学における「不確定性原理」の発見を基に生み出されたものでありまして、只今のような状態にあるヒトの宇宙とは、実は「観測という行為」によって「無数の可能性の集合」の中から「ひとつの現在とし選択された事象」であり、それは観測者としての人類の要求に従ったものであるという考え方です。ですから、ここでは宇宙の法則というのは観測者の要求に従って決定されたものなのですから、あらゆる偶然が人類の存在にとって丸々都合良く作られていても全く不思議ではないわけです。
質問者さんの好奇心に応えられるかどうかは分かりませんが、数ある科学哲学の中でも、これは人類を宇宙の創造主として祭り上げてしまうというたいへん過激なものです。ですが、ここで最も重要なことは、神や意思の存在、即ち「必然」というものを否定するならば、従来の「弱い人間原理」ではこの矛盾を解決することはできないということです。すなわち、ビッグ・バンは何故起きたのかを説明することも絶対にできません。
二十世紀には量子力学における「不確定性原理」の発見に伴い、物理学の世界では未来は未確定であると結論付けられました。これにより、二百年の長きに渡り人類の自由意志を否定し続けたニュートン力学に基づく「確定論」は崩壊しました。
未来とは「ありとあらゆる可能性の集合」であり、現在とは無数の可能性の中から「観測という行為によって選択されたひとつの事象」です。すなわち、どのような未来が選択されるかというのは当然のことながら未確定ということになりますし、何よりも、観測という行為が行われない限り、あるいは観測者が存在しないならば如何なる未来も可能性のままでしかなく、それが現在として出現するということはありません。同時に、観測者の存在を否定するような現在が観測によって出現するということはあり得ませんから、結局それは観測者の要求に従って選択されているということになります。「強い人間原理」の考え方に基づくならば、現在の宇宙の法則とはこのようにして決定されました。
惑星運動を司る重力の大きさが少しでも違っていたならば現在のような地球環境が生み出されることはありませんでした。また、もし核力や電磁気力が別の値を執っているならば、この宇宙に水素や窒素といった元素が生成されることもなかったはずです。ですが、このような別の宇宙の可能性は、現在では全て消滅してしまっています。何故ならば、未来の中から現在が選択されるということは、その確率が100%になるということでありますから、この時点でそれ以外の可能性は全て0%になってしまうからです。
重力定数6.67×10^−11、光速度秒速29万9千何がしkm、このような数値が自然に定まり、宇宙の秩序が整然と維持されてきた、それが全て偶然だなんてのがそもそもおかしい、確かにそうですよね。ですが、これが元々無数の事象の集合の中に可能性として存在し、その中からは観測者の要求に従わない結果が選択されることはない、ということでありますならば話は全く変わってきます。
では、そもそも観測者というのはいったい何処からやって来たのでしょうか。従来の人間原理では、それは160億年前のビッグ・バンによって発生したという宇宙の歴史の中にひとつの現象として存在を許された者です。これはどちらにとっても未解決問題であり、どうして人類が生み出されたのか、ここでもそれは偶然としか説明はされていません。ですが、「強い人間原理」がこれと異なるところは、人類が誕生したという宇宙の歴史そのものが観測者の要求に従って決定されたものであるということです。
宇宙の果てから星の光が届くのに約160億年掛かります。このため、宇宙は誕生してから160億年が経っていると考えられています。ですが、実際に160億年前にその星が瞬いたかどうかは可能性でしかなく、観測という行為が実行されるまでは確率でしか示すことはできません。そして、そのうちの何れかが100%になることによってそれは現在として確定され、同時に他の全ての可能性は消滅します。すなわち、それは観測という行為によって160億年前に遡る事実として現在に確定されるものであり、これによって初めて宇宙の歴史は160億年であると決定されます。
ヒトは偶然の連続という宇宙の歴史の中に産み落とされたのではありません。不確定性原理を用いるならば、歴史そのものがその出発点に遡り、観測という行為によって決定される現在の事象なんです。そしてそこには、ビッグ・バンも人類誕生も、観測者の存在を肯定する要素として全てが必然的に組み込まれていなければなりません。
このように、「強い人間原理」とは、ともすれば人類を宇宙の創造主としてしまうような究極の詭弁術でもあります。ですが、従来の人間原理では説明できない問題を扱うためには、また別な考え方が必要になります。
かつては神という架空の存在を用いなければ解決できなかった問題もありましたし、現在でもあるかも知れません。ですが、ここで最も重要なことは、双方が共に古典宇宙論に従う解釈や量子力学の発見から新たに発展したものであるように、それは無闇に必然性を要求することではなく、与えられた事実に基づいて行われる試行錯誤でなければならないということです。
人類がこの難問に挑戦するためには、このような制約をひとつひとつ乗り越えてゆかなければなりませんし、そのためには既存の知見に基づく未解決というプロセスをきちんと受け入れる必要があります。ですから、質問者さんは何か切掛けがあったはずだと仰いますが、恐らくそうなのかも知れませんが、だからと言ってここで根拠ない架空の概念を用いて必然性だけを穴埋めしてしまおうというのでありますならば、返ってそちらの方がこじつけということになってしまいます。残念ながら科学の世界では、そればかりはできないわけですね。
私の説明ではあまり正確ではありませんので、興味がおありでしたら「ロバート・ディッケ」「強い人間原理」などで検索してみて下さい。
また、グレッグ・イーガンの「宇宙消失」はこのようなことを題材に書かれたSF小説です。いったい、どうして宇宙は消滅してしまうのでしょうか、けっこう面白いですよ。
投稿日時 - 2006-10-06 17:31:02
「人間原理」・・・あのS・ホーキング博士が支持している考えですね。
コペルニクス以前と以後、古典的な「人間原理」と「宇宙原理」とに分かれた・・・そして前者はさらに「弱い人間原理」と「強い人間原理」とに分かれる。このうちさらに前者は、人間が発生するには偶然によるものではなく一定の法則があってその範囲内で選ばれた値でなければならないとするもの。後者は宇宙は発展のある段階で人間を創り出すように作られているとするもの・・・だった様な。
この中で強い人間原理が詭弁性を持つかということについてはそれぞれ解釈の違いがありますから断定は出来ないと思います。
我が国に於いては物理学の雄、京都大学の松田卓也博士が「人間原理はそれ自体が研究の対象というよりは、ひとつの哲学である。」と著書「これからの宇宙論」の中でも述べておられます。さらに、「人間原理の立場に立つことによって、もろもろの考え方が、パッと目が開けたようになるし、宇宙からさらに話をすすめて文明の進化といったものにまで一つの暗示を得られるような気がする」と書かれておられます。
この「人間原理」は宗教や脳科学とも関係していて真理の追究がなされているようです。
実際に宇宙から地球を見て還った人の話を聞くと私などは感慨深いものがあります。アポロ15号の宇宙飛行士ジェームス・アーウィンでしたか彼が立花隆氏との対話(宇宙からの帰還)の中で「…宇宙空間から地球の姿を見たとき、この地球が宇宙において全く特別の存在であることがどう否定しようもなくわかった。地球と、地球以外の宇宙のすべてとは、全くの別物なのだ。その否定しがたい事実が目の前に突きつけられる。そのとき、これは神の直接の創造物以外ではありえないと思った」と言っています。
これなどはヒトと同時代の人類が身を持って体験した貴重な資料といえます。
塀の中の解釈 地球と宇宙は全くの別物 神の創造物
塀の外の解釈 宇宙の中にこそ地球がある 光と闇 すべてに意志がある 地球は創造物であり創造主である
ホーキング博士の{「ヒトはどこから来て、どこに行くのか?」というような、いつまでも暗闇の中を手探りするように運命づけられているのではなく、宇宙を解明する完全な理論への突破口もやがて開かれることでしょう。そのときこそ私たちは本当に「宇宙の支配者」となるのです}・・・この自信に満ちた言葉こそが「人間原理」の考えに基づいたものと思われます。
意識・無意識を問わず、全ての行動選択の動機を意志と呼ぶならば、本能行動の選択もまた自分の意志ということになります。ところがどっこい、この本能行動を選択するための動機とは生得的に定められた「全人類に共通の反応規準」であり、意志は意志でも、こればかりは自分の意志ではありません。
何故、本能行動だけが除外され、神経系における何れも同様の信号伝達であるにも拘わらず、それは心理現象とはいったい何処が違うのでしょうか。、生得的な本能行動の選択と、学習行動の選択に伴う心理現象では、その性質が全く異なります。
本能行動とは遺伝的に定められた「無条件反射」による「種に固有の先天的な行動様式」であります。まず、これは全人類に共通であり、反応の結果に「個人差・個体差」というものはなく、この規準が変更されるということは生涯に渡って絶対にありません。
本能行動は本質的に全人類共通であり、遺伝的な体質を除くならば個人差というものは一切ありません。そして、それはヒトが動物として生きてゆくために最低限必要なものですから、如何なる状況においても確実に実行され、常に同じ結果が選択されなければなりません。しかしながら、ひとの心には明らかに個人差というものがあり、それは常にめまぐるしく変化するものです。ですから、
「ひとの心は十人十色」
「女心と秋の空」
このようなものが心理現象の性質として歴然と反映されている以上、それは本能行動とは全くの別物と解釈する以外にないわけです。
これが、心理現象から一切の本能行動が除外される理由です。すなわち、心とは学習行動を選択するための神経系の情報処理ということになります。
生命中枢によって司られる本能行動とは、生得的に定められた反応規準に従って発生する「無条件反射」によって構成されます。生得的に定められた反応規準とは、例えば、ある特定の刺激入力に対しては必ず「苦痛」という判定を下すことが産まれながらにして決まっており、生涯に渡って絶対に変更されないということであります。すなわち、感覚系を通してこの刺激が入力されるならば、生命中枢は無条件で回避行動を選択することになります。
「熱い!」と感じたら手を引っ込める、このような反応は生まれながらにして定められています。何も考えないのですから、これを心の動きとすることはできませんよね。まして、それは全人類に共通の反応なのですから、これを自分の意志と呼ぶこともできません。
申し上げるまでもなく、生命中枢には、「摂食行動」「生殖行動」「回避行動」など、ヒトが動物として生きてゆくための機能が全て備わっています。
放射性同位体の半減期と年代測定法
放射性物質の原子は一定の確率で放射性崩壊を起こして別の物質に変化する。N 個の放射性原子の半分が他の原子に変化するのにかかった時間 tH を半減期(英: half life)と呼ぶ。半減期はその放射性原子の核種ごとに異なる。
放射性崩壊は、E. Rutherford and F. Soddy(1903)において初めて導入されたと言われる。
例えば、同じ化学的元素(陽子数が同じ)であっても質量数の異なる同位体(中性子数が異なる)ごとに半減期は異なる[注 3]。さらに核種によっては極端に長い半減期を持つ原子[注 4]、逆に極端に短い半減期をもつ原子[注 5]もある。
^ 例えば、質量数238のウランの半減期は44億6800万年であるのに対して、質量数239のウランの半減期は23.5分である。たった1つ中性子の数が異なるだけで、これほど大きな違いが生じるのである。
^ 質量数115のインジウムの半減期は441兆年、質量数149のサマリウムでは2,000兆年である。質量数209のビスマスは、2003年まではもっとも重い放射能を持たない核種として知られていたが、これは1.9×1019(1,900京)年に及ぶ半減期の放射性核種であると認められた。これらの極端に長い半減期を持つ核種は学術上、放射性物質に分類されるが、実質的には安定したものと考えて差し支えない。
^ 超ウラン元素の分野では、1秒に満たない半減期の核種が多数を占める。例えば質量数266のマイトネリウムの半減期は0.0034秒、質量数267のダームスタチウムの半減期は0.0000031秒である。簡単に言うならば、あまりにも原子核が大きくなりすぎて、その結合を保っていられる期間がこの程度の長さしかないということである。
原子核変換
半減期の短い核種は、どんどん崩壊していき放射能を失っていくが、短時間に多量の放射線を放つため直接的な被曝の危険度が高い。半減期の長い核種は、少しずつしか放射線を放たないので一時的に被曝する放射線量は小さいが、いつまでも放射線を放ちつづけるため長期的な問題を抱えることになる[注 6]。放射性物質の使用目的や使用方法には依存せず、この問題は常に存在する。
特にかつては、半減期数万年の核種を何万年、何十万年も保管せねばならない事が原子力発電のネックであった。これは古典物理学と化学反応では放射性崩壊には関与できず、放射性物質の半減期を短くしたり、分解する事が一切不可能であるためであり、もし触媒などを用いて放射性崩壊を加速させられるならば、より短期間に放射線のエネルギーが取り出せると期待され、核分裂反応が発見される前の原子力はこの方向で開発が進められたが、このような試みは全て頓挫した[4]。
しかし最近、長半減期物質を分離して、加速器駆動未臨界炉において中性子を照射することにより自然崩壊ではなく、核分裂させて短半減期核種に変換できる見通しが立てられた。これにより500年以下の保管で天然ウラン鉱石以下の放射線に低下させて廃棄/鉛やバリウムとして一般使用が可能になるとして開発がすすめられている。
^ ウランやプルトニウムなどは最終的に放射能のない鉛に到達するまでには約20回もの崩壊を経由せねばならず、全量が鉛となるまでの総時間は、現実的な思考の及ぶ範囲を超える長さである。
放射能を持つ元素(放射性同位体[注釈 2])の原子核はいずれ放射性崩壊をして他の元素に変化していくが、その崩壊は一定時間の間に一定の確率で起こる。はじめの原子数が N 個であるとき、その半分 N/2 個が放射性崩壊するまでの時間をその放射性同位体の半減期 (half-life) と呼ぶ。または、ある放射性同位体の放射能 (activity) を A [Bq]
とするとき、それが時間経過によって半分 A/2 [Bq] になるまでの時間を言う(同値性については後述)[注釈 3]。
半減期は放射性同位体(核種)の安定度を示す値でもあり、半減期が長ければ安定であり、逆に半減期が短ければ短いほど不安定な核種ということになる[注釈 4]。
放射性同位体の放射性崩壊は自然に発生するもので、放射性同位体ごとに定まる確率(崩壊定数)のみによって左右されるものである[注釈 5]。すなわち、崩壊までの期間はその物質の置かれている古典物理学的・化学的環境(熱・電磁場・化学反応など)には一切依存しない[注釈 6]。もともと原子力は放射性物質の半減期を短くすれば、放射性物質の崩壊エネルギーをより短期間に取り出せるだろうということで半減期を短くする研究が行われたが古典物理学的な手法によるものはことごとく失敗した[注釈 7]。
人工的に原子核の崩壊を起こすには加速器などを用いなくてはならない[4]。また、人工的に原子核の崩壊を起こして、半減期よりも早く放射性核子を減らす手法としては核変換技術と呼ばれる技術が研究されている。
なお、一つの放射性核種を対象として、その放射性核種がいつ崩壊するかを決定論的に予想することも出来ない[注釈 8]。
はじめに1ベクレルあった放射性物質がどれだけの速さで減衰するのか表したグラフ。放射能(単位はベクレルなど)も指数関数的に減衰する。崩壊定数は半減期に反比例するため、崩壊定数が大きい(=半減期が短い)ほど早く減衰していることがわかるだろう。グラフで上の線ほど崩壊定数が小さいため減衰していないが一番下では凄まじい速さで減衰しているのがわかる。ここでy軸が放射能(単位:ベクレル)、x軸は時間の単位を秒ととった場合半減期は有効数字3桁で上から17.3秒、3.47秒、0.693秒、0.139秒、0.0277秒である。
放射性同位体の半減期と年代測定法
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放射性同位体
放射性同位体(放射性核種)は,放射壊変によって,より安定な原子(娘核種)に変化していきます。この速度は,存在する放射性核種の数(N)に比例し,温度や圧力など外界の条件には依存しません。この関係は次のような式で表されます。
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dN / dt = λN (λ:壊変定数)
この式を解くと,最初にN0個あった放射性核種は下図の赤線のように減っていくことが分かります。即ち,N0個の放射性核種は一定の時間(T)が経過すると半分になり,さらに同じ長さのT時間が経過すると半分の半分(4分の1),もう一度T時間が経過すると8分の1に減少します。この半分になる時間(T)を半減期といいます。半減期は,炭素14では5730年,カリウム40では12.8億年,ウラン(238U)では44.7億年と,核種によって違っています。
半減期(T)と壊変定数(λ)の間には,[T = 0.693 / λ]の関係があります。半減期の長い核種は地球の歴史のような何十億年という年代を測定するのに使います。一方,人類の遺跡など数万年前までの年代測定には半減期の短い放射性炭素(14C)を利用します。
放射性核種を利用した年代測定法には,次の2通りの方法があります。
現在の放射性核種の数(P)を測定する方法
P =
N0exp
(-λt)
年代測定総合研究センターでは,この方法を14C年代測定に使っています。
現在の放射性核種の数(P)と娘核種の数(D)の両方を測定する方法
D =
P {exp (λt) - 1}
最初の原子の数N0がわからない放射性核種に適応できます。この方法では,娘核種と初生値を区別することが重要です。年代測定総合研究センターでは,この方法をCHIME年代測定とRb-Sr年代測定に使っています。