多摩川 メタファーでトライ
地球を一周したら
地球を一回りして5年ぶりに東京に戻ってきても、自分は何も変わっていないように思っていた。
ところが、家族や友人たちは当たり前に成長しており、中学1年生だった一番下の妹は大学受験を控え、中3だった弟は車のメカニックとしてすでに社会人として働いていた。
自分の気持ちは出発前の10代のままであったのに、家族や友人と話し始め、多摩の川面に映る自分の顔を見ると、まるで玉手箱を開けたかのように時計の針が一挙に飛んだ。
家族や友人から地球一周の旅についての体験談を聞かれと楽しく旅の話をはじめるのだけど、いつも困ることが起きた。それは東京というメトロポリスで生活している人に、その外側の世界での当たり前の体験を伝えるのはとても難しいという実感だった。
形や音は写真や録音で伝えるので簡単のようだけど、たとえば南米のアンデスの風景を四角く切り取った写真を東京で見ると、それは私の伝えたかった包み込んでくれる山でも宇宙までつながっている空でもなくなっていた。
またクスコのランラクーヨという遺跡で夜通し演奏した太鼓とケーナの調べを東京でテープレコーダーで聞いたら、エッと言うほどショボくてびっくりした。
そしてどうしようもないのは場所が持つ特有の香りと味と雰囲気だ。
東京で経験できる感覚に置き換えるしかないのだけど、これがまた難しかった。
ワニの尾の付け根の肉は硬い鶏のような味だとか、コカの葉は煎じたお茶の香りだとか、東京にある例えを使うのだけど、ワニを食べた時にカラダに拡がっていく不思議な力や、コカ茶を噛んだ時の透徹とした意識の感覚やキリマンジャロでもらったクッキーのパワーを伝えるのは難しかった。
またキリマンジャロの雪のように、冷徹なのに暖かく、時に痛く、時に神々しいという相反した感覚は、私にはこの東京では体験できなかったものであり、どのように表現すればいいのかわらなかった。
また言葉も原語の内容と翻訳との間には大きな違いがあった。たとえばケチュア語では「家族」とは絶対の核であり、「友人」は体、時には命をも張ってくれる存在だったり、「天竺鼠」はペットで掃除機で御馳走と、この東京での意味の内容とは違いがあり、言葉をただ翻訳しても、それぞれの語句の奥にある体感や関係性は伝えられない、というシンボル(言語、数値、イメージ)の限界をよく感じた。
東京の外の体験を都会で話をする時に、みんなの理解が私の意図するものとはどうしても違ってくる理由は私の使っている喩えが的確なものではなく、5感覚の外側にあるものを私がちゃんと説明しきれていないことが原因だった。
たとえば、アンデスの空の色が紫色になっているのは写真を見たらわかってもらえるが、その紫色にははるか宇宙からつながっている見えない力との関係性がある。
後から知ったことだが、素粒子が物質の最小の単位ではなく、それよりもはるかに微細なダークマターやそれらを形成して拡がり続けるダークエネルギーが感じられるような時空がアンデスの私にはあった。
それらは計測さえもできないのだけど、宇宙の奥にある力がカタチになってこの空になるという想いを覚えさすものだった。
今ならばいろいろなメタファー(たとえ)で伝える方法があるかもしれないけれど、当時の私の使えるメタファーのバリエーションは乏しく、東京の中で再現できるものはあまりに少なかった。
日常の都会生活には人工のガラスとセメントと金属とプラスティックを素材としたものと、カタチのないイメージの濁流が街中に溢れている。
そしてヒトの関心のスポットライトは見えないプロセスよりも見ることができる完成品と空想をふくらませるイメージの渦に当たる。
完成品の奥底にあるプロセスの力が人の精神状態を変化させて各自の感じ方自体を変えるのだが、久しぶりに戻った東京の表面の力にその頃は知らぬ間に圧倒されていた。
特にその場の「気」や「流れ」や「密度」などの「見えない力」については喩えをいくら探して見つからなかったが、経験した大事なことををちゃんと伝えられなくも適当に話を進めていく自分のいい加減さも再確認していた。
そんな時に、説明するのに役立ったのが、東京の外側にしかない世界の感覚体験を、東京の周辺にある「都市と郊外と村と山」という地理的体験に置き換えることだった。
これだと東洋と西洋だとか、北と南だとかのイメージの比喩よりも体感が伴うので、よっぽどしっくりと説明することができた。
しかし、常時うまくいくわけではなかった。
その原因は東京の住人が感じている村と山と、私が実際に暮らしてみた村や山で感覚と体験の違いだった。
つまり訪れるのと住むのとでは実際の体感と内容が大きく異なることによる。
新たなメタファーを作ってみる
東京に滞在しているうちに、お互いのメッセージが伝わらない理由は各自がもつ思考パターン(メタファー)が違うからだということがわかってきた。
北南米やアフリカの生活体験を東京の家族や友人にうまく説明できなかったのは、1つのものをなんでも2つに分けて論理を進めていくコンピューターや大脳が使っているメタファーしか私が持っておらず、体が呼吸や消化をする時のような、はじめから全体性をそのまま受け入れるメタファーを私がまだ上手に使いこなしていないからではないか、と思うようになった。
だれもが自分の経験とそこから作られる思考パターンで、目の前のことを理解しようとする。
そこで同じものを見ても、使っているメタファーが違うと感じ方や理解の仕方が変わってくるのは当然のこと。
そこで、私が気がつかない内に南米やアフリカの自然や人たちに教えてもらっていたメタファーをみんなとシェアできれば「自然」と近いところで暮らしている人たちのエッセンスがもう少しは伝わるかもしれない。
昆虫からヒトに至るまで、意識があるものは各自が過去に作った概念を何度も使い回してこの世界を認識している。
そこで、新しい感覚を伝えるためには、感覚はしているのだけど、まだ言語化してはいない新しい思考パターンをそこに加えてみようというのが今回のエッセイ(試み)。
どのようなメタファーを使って理解するかによって、ヒト(意識体)の未来は異なる。
そして体験した過去の出来事でも、その時と違う解釈を加えることで、過去も変わる。
幼児期の母親の気持ちをずっと後になってからでも知ることで、過去の当時の解釈が変わり、そのため現在の自分の母親に対する気持ちにも変化が起き、これによって未来では自分と母親の関係性や言動も変わってくる可能性もある、というような。
TPOに適したメタファー
場所によって、時間によって、関係性によって、そこでのルールや心が感じるものは変わるので、それに合わせて、メタファーを変えるのが便利です。
機械には「機械のメタファー」を、いのちには「いのちのメタファー」を、です。
それなのに、同じメタファーを使って理解しようとするのが混乱の元です。
一番多い勘違いは生命体に機械のメタファーを使っちゃうことをよくやっています。
たとえば、コンピューターのようにはじめから世界を2つ(0か1か)に限定してしまうものです。
AでなければBだと限定しまうのも機械のメタファーです。
0と1さえあれば仮想空間は作れますが、生命体には、これがいつでもどこでも通用するものではありません。
また他には、ご飯を食べるのにカロリー計算やビタミン計算などをします。
これは車が動くにはガソリンが必要なんで、ガソリンがどれぐらいあれば時速何キロで計何キロ走る、みたいに計算できます。
ところが生命体というのは、体に入れたものを、体の一部にしてしまいますが、ガソリンはエンジンやハンドルやタイヤにはなりませんので、部分的にはわかりやすいメタファーですが、それだけでは表すことができないものもあります。
たとえば、白い表層筋は糖分をエネルギーとするのでガソリンという炭素と類似性はありますが、赤い深層筋(インナーマッスル)は酸素をエネルギーとします。
また、ミトコンドリアはなんと放射能をエネルギーとして体に取り込むのは生命体特有の特徴です。
また、意識はエネルギーであり、それによって対象が変化する可能性も考えることができます。
また、半年間の間、炭水化物だけを食べて健全であった体験も私にはあります。
ですから、カロリー計算も目安にはいいのですが、それだけでは食事のクオリティーを把握できません。
そして人の意識そのものもエネルギーなので、誰と食べるか、状況、思い込み、作ってくれた人の気持ち、食べる本人の想いや背景などとカロリー以外に大きなエネルギーが多種あるので、機械のメタファーだけでは収まりません。
生命のメタファー
ここでオススメの「生命を知るメタファー」のメニューは次の3つです。
「ニラ」は、溢れ続けるエネルギーを、
「鼻水」は、中心点や根源がなく変化し続けていることを、
「新陳代謝」は、完全に分類ができずコインの裏表のような関係性があることを、
生命を表すメタファーとしてみてみます。
まず一つ目のオススメのメタファーはベランダにもあるニラの植木鉢。
料理の時にハサミで伐って使ってしまっても、3週間後にはまた元の大きさになっているスグレモノです。
光と湿度がある限り、いくら伐ってもまた大きくなります。
車のガソリンのようになくなったりしないんです。
経験したことがない人は初めは信じられないかもしれません。
ニラだけではなく、暖かい所では稲も刈った後に、その株から茎がまた生え、そこに花が咲き、米が実ります。
他にも、キャベツ、ほうれん草、レタスも根から引き抜かなければ、切った所から新しい葉が生え始めます。
これが地球そして宇宙にある「いのち」の力のシンボルです。
際限なく溢れる出る「いのち」です。
2つ目のメタファーは鼻水。
子供の時に垂れそうになった鼻水を途中で啜って、また鼻に戻した経験はないでしょうか?
粘り気のある鼻水が下に垂れ落ちる時をスローモーションで見るとすると、鼻水には中心があるのか?という問いです。
これはテレビでみたアメーバの動きから思いついたんだけれど、アメーバは肉眼では見れないから。
ただ一つだけの中心があるのではなく、重心は次々と移り変わり、多数の中心がローテーションのように変わっていく。だからそれらの全部が中心になっちゃいます。
言葉で極点とか中心と書いちゃうと、文字にとらわれてしまって、いかにもそれは「1つの点」しかないようですが、実際には多くの中心が流れるように変化していくことが自然の中には多いようです。
たとえば、ヒトが走ると、重心は丹田、仙骨、右股関節、仙骨、丹田、仙骨、左股関節、仙骨、丹田と移動するように。
点は根源とも関係しています。
たとえば、この多摩川の水源はどこですか?と聞いてみると、
多くの人は奥多摩といい、マニアの人は大菩薩嶺と答えるかもしれません。
でも多摩川の水源は分水嶺の内側に降った雨の凡てであって、奥多摩周辺はその一部でしかありません。
川崎市や羽田空港に降った雨だって、多摩川に流れれば水源ですから。
ところが、アカデミー(学問)をはじめとした根源から物事をはじめようとする人は絶対の原点を勝手に設定して、次にそれを定義してから話を進めなければならないと信じ込んで生きているんです。
そこで多摩川ならば東京湾から一番遠い地域で目立つ場所を任意で選んでそこを水源と定義づけます。
同じように、根源や最小の単位を仮設して、それを基準にして学問を成立させることをアカデミーの世界では常套手段にしてきてしまいました。
たとえば、17種類の素粒子が物質の最小単位であると言われ物理学は構成されていますが、もう数十年もすれば、それも否定されると私は推測しています。
当時は最小単位だと信じられていた分子が、原子核が、中性子が、そうではなかったように。
話が横道にそれるようですが、上達の意欲や能力の高い人や勉強のできる人ほど、ゴールに近い最後の段階でデッドロックに乗り上げてしまうことがあります。それはこれまでの過程を一点に収束させようとしてもできないことが多いからです。
これまでの経験全体を一つの法則につきつめて表そうとして、それができないことで苦しんでいるのが特徴です。
このように中心点や、原点や、根源を勝手に決めて基準とし、、その仮設された世界を法則化(一般化、効率化、理性化、合理化)するのが、コンピューターのお仕事であり、人間では大脳がその機能を司ります。
その結果、近似値が測定されたり、推測されたりして便利になるので、都会生活や組織や道具や文字や数字の世界では通用することが多くなるので、この手法が社会では多用されます。
確かに、その結果を参考にするのは便利だけど、信じたり、これを基準にして、そればかりに頼り、「いのちの世界」にもその基準を当てはめよう(メタファー)とすると、生命は元気をなくして足元からくずれちゃいます。
生命のエネルギーには、このようなアプローチでは接することができないからです。
鼻水が垂れる時に固定された1つの中心点などはなく、重心は常に変化していくように、宇宙は常に変化し続けています。
そうでないのはヒトの頭の中の概念(理性、理念、哲学、思考)で組み立てた世界と、行ったことはないので知らないけれどお釈迦様のいう涅槃だけでしょうか?
3つ目の生命のメタファーは「新陳代謝」です。
新陳代謝と聞くと、「新しいものと古いものが入れ替わる」という理解もされますが、
「生きている」という現場では「誕生する生」と「消滅する死」がほぼ同時にほぼ同量あることを意味します。
「生と死」と聞くと、この2つはお互いが対立していて別々の世界にあるというイメージを持つことが多いのですが、実はこの2つがある時空が「生きている世界」で、2つがない時にはどの生命体もこの世に存在できていません。
たとえば、ヒトの体には37兆ほど細胞があると近頃では推定されています。
そして毎秒ごとに約500万個の細胞が生成され、ほぼ同時にほぼ同じ数だけの細胞が消滅していっています。
これが生と死という「相反するものが一緒にあることでなりたっている」という例えです。
もう1つのポイントは「ほぼ」同時に同数ということで、この宇宙には「同じ」ものは何1つ実際には存在していません。たとえば、最小単位とされている1つの素粒子でさえ、崩壊時期は1つ1つで異なります。
日常生活では、心臓が動いているときを「生」、止まったら「死」と考えるので、生を好み、死を忌む傾向がありますが、実際にこの世で起きていることは、繰り返しになりますが、
「生と死が対立しているのではなく、小さな生と小さな死が一緒に成り立っている瞬間が次々と湧き上がってくることで、私たちはこの世に存在」していられます。
生と死の2つはコインの裏表という見方もでき、一見すると相反するモノですが、コインを机の上で、勢いよく廻すことでエネルギーが発生して、生命が存在する基盤になります。
たとえば、電磁モーターのN極とS極のように。
だからといってこの2つが同じものではなく、別々のものです。
たとえば、コインの裏側に小鳥の絵、表側に檻(ケージ)の絵を描いてコインを勢いよく廻すと、小鳥が檻に囚われているよう見えます。
これを表と裏は同じものだとみてしまうと死(檻)に囚われる生(小鳥)と理解して生きるような勘違いを起こします。
スローモーションでみれば、小鳥がいる時もあれば、いない時もあり、檻がある時もあれば、ない時もあります。
機械や大脳の見解
生きている現場から見ると、生と死は単なる別物ではなく、2つで1つになるコインの裏表なのだけれども、
機械から見ればこれらの現象は相反しているものだとして取り扱われます。
これは基準値を決めることで自動的に凡てのものをその上か下か、右か左か、内か外か、と分類しているコンピューターの機能です。
このような分類法を基準にすると、よくわからないことでもAでなければBに分類してしまう判断をします。
この機械と同じ見方をするのが動物の大脳の機能です。
機械と大脳の共通点は、全体である1つを2つに分けて、分けたものにそれぞれの定義を与えて、2つの関連性を切り離して扱うことです。
このメリットは、1つのものを2つに分けて、2つの違いにスポットライトを当てることで対象を「知る」ことができます。
しかし、これは部分を観察するだけで全体性を体感しないのがデメリットです。
「木を見て森を見ず」ってやつですかね。
1つであるものを、生と死や、善と悪や、正と誤や、優と劣に分けて、片面だけにスポットライトを当ててしまうことは、その存在(いのち)がこの世にあることを難しくさせることがあります。
たとえば善悪の問題のように、住んでいる場所や時代や環境や状況によって、私の善が、他の人には悪になります。
このような時にはすぐには判断をしないで、まずは大きな籠を作るイメージをして、すぐに判断できない事柄は納得ができるまでそのイメージの籠に入れておいて保留しておけばいいのです。
こうすることで、生命体は納得ができていないことを無理やりに2つに分類しないことができます。
なんでもすぐに分類するのは機械に任せておいて、生命は自分のペースに合わせてゆっくりやっていこう、よ!?、という提案です。
たしかに、保留したことさえ、そのまま忘れてしまうということもあるんでしょうけど。
それでいいんじゃないかな、と。
このように、☯のシンボルが示すとおりに、白黒に分けたつもりだったんだけど、白の中に黒が、黒の中に白があるというのが生命体の世界です。
現代科学では真空の中身の研究も素粒子レベルで進んでいます。
自然界には、すなわちこの宇宙には何もない完全な真空は存在しないこともわかってきました。
たとえば宇宙の最果てにある星と星の間でも13 cmに1個の水素原子があると推定されています。
また、ミクロの世界である原子核と電子との間は真空ともいえますが、このような空間には「素粒子」が満ち溢れているので、何も無いということではありません。
ヒトが1つのボールを手で持つとしたら右手か左手のどちらかなので、日常生活ではこのような2分法を物事の基準とする思考パターン(メタファー)にして暮らしていますが、ミクロの世界では電子は一つの軌道を移動しているのではなく、上の図のように電子は雲のように広がって存在しているので、その位置を1点に確定することができません。
参照 ハイゼンベルクの不確定性原理 Uncertainty
principle
「粒子の運動量と位置を同時に正確には測ることができない」というものです。
スピードと質量を同時には測れない、というのです。
また、「観測する」とは対象の物体にエネルギー干渉をしてしまうことでもあります。
何もないはずの真空中でも、ほんの一瞬のスパンで見れば、そこにあるエネルギーを利用して2つの粒子がペアになって生まれたかと思えば、すぐに消滅していきます。
逆に長い時間のスパンでみれば、エネルギーは限りなく0に近づくので、そこは「無」に見えるようになります。これが大脳が作り上げて、頭の中でしか存在しない「無」の観念です。
誕生しては消えさる粒子のようすは、宇宙空間から私たちの体の細胞を構成している陽子や中性子の世界にいたるまで見られる現象です。
こうして、素粒子は一瞬である10−20秒程度の時間では、物質はあるともないとも言うことができず、存在自体も定まりません。
つまり無と有の区別がはっきりつかず、さまざまな状態が同時に多数「共存」している、ということもできます。
たとえば、電光掲示板は点灯する場所が移っただけなのに光の点が移動するように見えるのと同じように、実際の素粒子の運動も「固い粒」が動いたのではなく、素粒子が沸き立ち消えていく空間の中でエネルギーの集中した場所が移り変わっていくだけです。
このように主役は空間を満たす「エネルギー」であり、素粒子というカタチ(エネルギーが集中した状態)は一瞬の特殊な状態にすぎません。
段階別の意識
これらの3つのメタファーはどれもが生命に関するものなので、似ていたり共通点が多くあります。
しかし、この世には見えない領域が段階的にあって、その違いに「わたし」の意識が共鳴できると、それぞれに機能の違いがあることがわかります。
たとえば、心理学では私たちの意識を、表層意識、潜在意識、深層意識と3つに分類することもあります。
また、上座部仏教などのインドの実践宗教では、対象を認識する時に9段階以上の意識(心)があると考えて暮らしている修行者たちがいます。
メタファー |
内容 |
インドの段階別意識 |
ニラ |
生まれ続ける「いのち」の世界 物質と生命の違い |
普遍エネルギー意識 |
鼻水 |
中心点や根源がなく変化し続けている世界 |
アハンカーラ(我執)意識 |
新陳代謝 |
完全に分類ができず最後にまた元の1つで繋がっている世界☯ |
全体性意識 |
私が南米やアフリカや山頂や砂漠で出会った事柄も、このような段階的意識の一段階なのかもしれません。
紫の空 素粒子よりも微細な世界 重力エネルギーの最小単位
アンデスの演奏 音になる前の世界 メンタル体のメカニズム
クッキー 意識から物質が生まれる世界 意識から物質が生まれるプロセス
冷たくて暖かいキリマンジャロの神々 31領域での宇宙エネルギーの流転 キリマンジャロ 寒の神
また段階がある意識は、生物の誕生や、神話や、ビッグバンや、瞑想とも深いつながりがあるのだけど、それはまた次のエッセイにします。
記憶の多摩川
家の近くにあった多摩川は視界が180度開いていて、10代の私にとって唯一の別天地で、あちこちの時空と繋がる「まど」がある「時空船」だった。
小学校、中学校、高校のマラソン大会はいつも多摩川の土手だった。
花火大会の閃光は川いっぱいに拡がった。
体育の授業ではここで相撲をとった。
学園祭の映画では川に飛び込むシーンをここで撮影した。
通学路としてこの土手を毎日歩いた。
卒業写真はここで撮った。
台風で川が決壊して知人の家が流された。
ロケット花火を牛乳瓶に挿して、戦争ごっこをここでした。
五本松では手作りの爆弾を試してみた。
直結のバイクを集めてモトクロスで順位を競った。
土手から見えないように秘密基地を作った。
都会にあるのに紫の空につながっている。
ヒトは川(自然)を概念で抑えつけるかのように、名前をつけ、処々をコンクリートで固定させて囚えようとしているが、水々の流れや泡は、古(いにしえ)から永劫まで瞬間瞬間を変化し続け、捕まることはない。
「よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。」と方丈記にあるように。
川のよどみに浮かんでいる水の泡は、一方では形が消えてなくなり、一方では形ができたりと、そのままの状態で長くとどまっている例はない。この世に生きている人とその人たちが住む場所も、また同じようなものである。
しかし、これはわかったような気にさせられて少しは心地がよさそうだけど、胡散臭い理解の仕方。
「久しいものはない」と詠いながらも、泡が消えてはまた生まれてくる久しい未来を前提にしている。
瞬間瞬間と詠いながらも、遥か遠くの永劫までをも勝手に予測しては悦に入っている。
誰もそんなことを実感することなどはないのに。
すぐに死んでいくヒトが言葉(思考)だけの物知り顔で「自然」を詠う。
多摩川の「まど」
すると、白昼夢の中で法螺貝の音が響き、ひつじ雲の割れ目から光が川面に射し、「まど」が開いた。
ニラと新陳代謝と鼻水までも一緒になって「まど」がワッチの中に流れ込む。
ヒトの思考(記憶・空想・言葉)の特徴って何じゃら?と野太い聲が腹に響く。
思考とは、別々の2つの事柄を無理やりに一緒にする自分勝手な編集作業、
そして、この「結び目」を前提にすることではじめて成り立つお遊び。
これが大脳の喜び、快感、生きがい、お仕事、悲しさ、虚無。
それらの共通点は、「まとめあげてしまう」こと。
その結果は、たとえば、錯覚と連続性と同一性。
1つ目の錯覚とは英語訳ではイルージョン。
それはほんの一瞬の半分にも満たないものなのに、いつもちゃんと「ある」ことを前提にして話を進めてしまう。
たとえば、表に描かれた小鳥と裏には何も描いていないコインを机の上で勢いよく廻すと、そこにいつも小鳥がいるようにも見えてしまうように。
そして、それは別々の2つのモノをまとめて1つモノとして見てしまう錯覚。
たとえば、表に描かれた小鳥と裏に描かれた檻のコインを勢いよく廻すと囚えられた小鳥を見てしまうように。
2つ目の連続性とは、実際には分断されているのに繋がっているモノだと想わせること。
それは、別々のモノを次々に並べて「まとめる」力を使うと、まるで一連の繋がりがあるかのように知覚する大脳が行なっている習性のマジック。
たとえば、1秒間に24コマの動画を重ねている映画やパラパラ漫画のように似てはいるが異なる絵々を並べて知覚すると、「同じモノ」がまるで動いているように見える。
しかし、実際は唯一無二の個別のモノが一瞬一瞬で消えていき、2度と同じモノは再現しないので、そこにあるのは分断されたモノの集合体でしかなく、それは「同じモノ」が動いたのではない、というのが事実。
この世に起きる出来事はすべて、複製不可能な一瞬の分断されたモノ、そしてそれらの集合体でしかないのに、「連続している」と知覚するのは脳と心が目の前の事実を本人が気づかないうちに自動編集して1つのものに「まとめあげて」いるから。
換言すると、複数の構成物を1つに「まとめた」概念と概念の間には繋がりなどはなく断絶している。それなのに、並べて「まとめる」ことで連続性があるように思わせる幻覚の技。
たとえば、「冬が春になる」ということは「ない」。
参照 正法眼蔵 現成公案
そんなことはない、何を言っているのか、と想うのは当然なこと。
しかし、具体的に1本の桜を見ていると、冬には枝から葉が落ち、春になると新たな芽が違う所から出る。
すなわち1つが終わり、違う1つが始まった、というのが事実。
ところが「冬」と「春」いう概念で「まとめて」から2つを並べると、同じ枝で起きる出来事、そして季節の周期性という新たな要因をそこに導入することで、散った葉と新たな芽に連続性があるように感じさせている。
繋がりのない2つの概念(冬と春)を結びつけていることに気づかせないのが、思考が行なっているトリックの「はじめの一歩」。
3つ目の同一性とは2つの違うものを同じものだとして扱うこと。 英語でいうidentity。
この世には同じTPOのエネルギーなどは一つもないのに、同じものがあることを前提にすることで「思考」は存在できている。
たとえば、今のところは物質の最小単位だとされている素粒子である電子はどれもが同じだと科学は見たいのだけれど、実際にはその素粒子の生滅の変化する方向性や時間や空間や崩壊時期の全部が異なっているのにも関わらず、このような同一性を前提に科学者は学問を成立させている。
同一性とは生まれるものと消えていくものを一緒にして扱ってしまう妄想でもある。
たとえば、上に投げたボールと、下に落ちるボールは運動量には±があるけれども同じものとして扱うこと。
すると、+のエネルギーが運動を終えてエネルギーが0になるプロセスと、エネルギーが0であるものが+になるプロセスを、±のセットとすることで、まるで物質やこの世が循環しているかのように扱うことができる。
こうすることで、2度と取り戻すことができない、たった一度きりしかない「ありのまま」の姿が見えなくなってしまい、±がセットとなるパターン化された瞬間が何度も繰り返えされる、つまり同一性の世界をヒトは知覚して、それを基準にしてこの世を理解してしまう。
上記の3つのパターンを数式で表すと
1が1/2A+0=A (実際に前からみたら回転しているので面積だと1/2どころか約3/8しかない)
1/2A+1/2B=A+B=C
2がA+A’=2A
A≠B 、A=A’ B=B’、 A’→B’
3がA=B
+A=−A
このように数式にすると成り立たない関係になる。
そして、数式の根源的な問題は、
どれもイコール=で左辺と右辺は等しいと定義しているので、引いたり足したりするとそこに「0」が顔を表す。
もしこれらの数式が成り立ったとしても、0や=がこの世にあることを前提にしているので、頭の中にしか存在しない世界が私たちヒトの「思考の時空」である。
そして、この思考とは主体があってはじめて成り立つモノなので、すべての知識には「私」という実体がある、状態を必要としている。
換言すると、「実体の私がある」という前提に基づかないとヒトは思考することができず、シンボル(言語、数値)も知識も成りたたないのである。
「実体の私がある」というのは「ありのまま」の事実ではない。
「私はいつもある」と考えるのではなく、5感覚器官を介した信号を対象にした時、そして思考(イメージを対象に)しているときにだけ、「私」が瞬間的に現れ、そして消えていくので、「私」がある時もあるというのが私たちの日常の事実である。
ここで思考や数学の欺瞞性や虚偽性や仮想性を否定しているのではなく、その「プロレスのリング」の中のストーリーを楽しんでいるだけ。
定番の「将棋」や大勢でも遊べるバリエーションも多い「人生ゲーム」が楽しい魅力的な娯楽であるように。
そして、ゲームに遊び疲れて休憩している時に、妄想のグーグルアースで大気圏まで浮上してみると、机の上の盤上だけが頭の中の思考世界で、他のところ全部が、大脳の思考を経由していない「ありのままの姿」であることに改めて驚く。
「思考の外」にある世界
川は自分たち人間の思考の中に納まるようなやつではない。
またもあの世とつながる「まど」となって、私たちを宇宙の外側にまで連れ出そうとする。
今日はどこに遊びに行こうかしら、と。
先程に目の前に流れていた川水のプランクトンと泡はあっという間に下流に移り、「いま、ここ」にある流水にはミジンコと枯れ葉。
そうかと想っていると、目の前の水はもう瞬時に流れ去っており、新しい流水が目の前にすでに来ている。
この「まど」にはイメージも繋がりも同じものも妄想も、ありはしない。
ヒトの考えにも汚されず、ただあるがままに明るく蠢く。
この世をちゃんと見れば「同じこと」などは一つもない。
それなのに同じという幻想を見て、同じことの再現を願い、それに囚われることに何の意味があるのか?
体験したらそれっきり、それで十分ではなかろうか?
また、「連続している」ことなども一つもない。
それなのに連続という幻想を見て1つにまとめ上げて、そんな嘘を基準にすることに囚われる意味があるのか?
まとめて概念にしなくても、分断された瞬間だけで十分ではなかろうか?
「ある」でもなく、摑まえられることもなく、空しく、虚しく、儚く、流浪し、
想いの影を1つも作ることもなく、この「いま・ここ」を照らすのみ。
すべてが次々と生まれては消えさり、生まれても消えさり、生きても消えさり、また次に生まれる保証などもせず、ただ消えていくだけ。
この世が面倒になったり、嫌になれば、生まれてくるモノたちを止めちゃえばいい。
参考資料
上座部仏教の9段階のcitta(心)
上座部仏教 |
内容 |
説明 |
サーンキヤ派 |
意識 |
|
|
|
|
|
citta |
知る機能 |
機能だけを持つ白いキャンバス |
prakrit 根本空 |
根本意識 真空意識 |
manō |
全体像を把握 |
全体性機能 智慧paññā |
chitta心素 |
全体性意識 |
mānasam |
分割して「知る」根源状態 |
阿羅漢はこの段階までしか認識せず後のプロセスを続けない |
buddhi 理智 |
分別意識 |
hadayaṃ |
我との関係性認識 私の・・・ |
私という枠組みの内と外 saññāの生成と執着が始まる |
ahaṇkāra 我執 |
枠組意識 |
paṇḍaraṃ |
エネルギー増大 |
bhūtaレベルの微細要素を認識 執着に多くのエネルギーを割当てる |
jñānendriya 微細知覚器官 |
直観意識 |
manōmanāyatanam |
±のタグが付加 |
対象に受容的or反発的or中立な心 |
manas意思 |
近遠意識 |
mānaindriyam |
意識エネルギー |
対象に対する執着の力を強化する 迷わぬために作られた動機 |
karmendriya 微細運動器官 |
運動意識 |
viññāna |
分割された智慧 日常の認識 |
智慧が除去された部分的認識と統合 世俗的な欲求・渇望 |
jīva 個我 |
統合意識 |
viññākkhandō |
思考、記憶、空想 |
愛着を強め、現状を評価し、将来への新しい希望と計画のパターン認識 |
tanmātrā 微細元素 |
回路意識 |
上座部仏教の論蔵にある9段階のcittaの変化プロセスも宇宙コスモロジーに対応して説明できるとおもいます。
citta、manō、mānasam、hadayaṃ、paṇḍaraṃ、manōmanāyatanam、mānaindriyam、viññāna、viññākkhandō
についての詳細は別のエッセイにします。
次に地球における個体の生命体では
真我purusha(ātman)によって
根本自性prakritiは内部の3徳性gunaのバランスが崩れることで、
善性sattwaからは心素chitta、
動性jajasからは理智buddhi、
暗性tamasからは我執ahamkāraが生じ、
我執ahamkāraにも3徳性があるので
善性我執からは微細知覚器官jñānendriya
善・動性我執からは意思manas
動性我執からは微細運動器官karmendriya
暗性我執からは微細元素tanmātrā
微細元素tanmātrā(上座部のbhūta)からは繊細な物質元素dhātu(素粒子レベル)
最後に地球元素dhātu(原子レベル)に内在して生物になった。
これを発生した意識の順序に並べ、現代用語での表現を試みると
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サーンキヤ派 |
段階別意識 |
内容 |
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真我puruṣa(ātman)
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真我意識 |
観照するだけだが、唯一の実体 |
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根本prakrit 空prakriti (sattwa、jajas、tamas) |
根本意識 真空意識 |
定まったカタチはなく普遍エネルギーの塊 3つの徳性のバランスが崩れるとカタチが創出する 善性、動性、暗性 |
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心素chitta |
全体性意識 |
善性 より微細なモノに抽象度を上げる機能をもつ |
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理智buddhi |
分別意識 |
動性 知を使って1を2にする機能 |
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我執ahamkāra |
枠組意識 |
暗性 具象化することで抽象度を下げる 普遍エネルギーの塊であるgati回路が構成される |
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微細知覚器官 jñānendriya
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直観意識 |
微細エネルギーのレベルでの差異を知覚する 視覚と聴覚のみで、嗅覚、味覚、触覚はない |
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意思manas
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近遠意識 共通意識 |
対象に対する感覚に±or中立のタグを貼る 2つをつなげるために共通点にスポットライトを当てる |
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微細運動器官 karmendriya
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運動意識 |
微細エネルギーと身体との連動を体感 アーナパーナによる鋭く微細な感覚 |
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個我jīva |
統合意識 |
アイデンティ(同一性)を仮設して基準にする 分類したものをまとめてあげて統合する |
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最微細元素tanmātrā
仏教でいうbhūtaのレベル |
回路意識 |
パターン認識するアプリを作成する |
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粗雑元素
rūpaの中の細かいdhātu |
概念意識 |
一般化、概念化、シンボル化する |
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物質rūpaの中の粗いdhātu 五感覚器官の信号が基盤 |
自我意識 |
差異にスポットライトを当てる5感覚器官と心による認識手段 |
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他者の意識をも信号に含有 |
自己意識 |
他者を含めた「自分」を主体として、感覚器官を通じて外界からの信号を認識する子供の意識 |
これをヒトの誕生から具体化する流れでの表現を試みると、
まずはヒト以前にある意識では、
ゼロ意識 エネルギーを持たない生命の意識(31領域)の外側にあるモノ
宇宙意識 受精以前からあるエネルギーをもつ溢れ出る宇宙の意識
霊魂意識 メンタル体がもつ「いのち」の意識 輪廻転生する主体
次にヒトの意識では、
真我意識 受精の瞬間に生じる個がはじめて持つ純粋意識
真空意識 受精の瞬間の意識 定まるカタチはないが「いのち」そのものとなる意識
全体性意識 受精直後の意識 カタチは生じるが、内側の境界線はまだ確定されていない意識
分別意識 細胞分裂後の意識 外部(母体や自分の身体)の信号を体感する胎児
枠組意識 外界と自分の意識との間に違いがあることを内胚葉の蠕動で認識しはじめる胎児の意識
直観意識 未完成の眼耳鼻舌身の感覚器官からではなく、微細器官が直截に波動を認識する胎児の意識
近遠意識 中胚葉(循環器系器官)で外部の波長と同調することで対象と共通性と近遠を付加する胎児の意識
行動意識 自分の微細体と肉体がつながっていることがわかり、肉体を意識的に動かす胎児の意識
統合意識 内/中/外胚葉が器官となり、信号の差異を把握して、それらをまとめて統合する新生児の意識
回路意識 パターン認識 インプット信号に対応する自動反応回路で世界を認識する乳児の意識
概念意識 シンボリズム認識 外界の信号をシンボルとして認識する幼児の意識
自我意識 「自分」という主体を基準にして、感覚器官を通じて外界からの信号を認識する幼児の意識
自己意識 他者を含めた「自分」を主体として、感覚器官を通じて外界からの信号を認識する子供の意識
コラム
言葉の定義
「いのち」 この宇宙の根本となる普遍エネルギー、ここからダークマター、素粒子、生命が誕生する。
常に宇宙にダークエネルギーとして力が放たれる
重力は持たない
生命 心があるもの 物質である肉体を持つ動物もいれば、肉体がなく心だけのカミのような生命もある
心は4元素を構成要素とし、内外の変化に対応する。
生命は「いのち」を構成要素とし、作られた回路の中に「スクリュー」があるので、そこを「いのち」が通り抜けることでエネルギー運動をする。
上座部仏教では欲界の地獄、餓鬼、阿修羅、動物、天人、色界のダークマターを体とするブラフマン、それさえもたない体がない無色界のブラフマンも含む31領域にわたる存在bhava
「生命の流れ」の1領域であるbhavaが地球物質の結合体の隙間に入ることで生物が誕生する
精神 自分の肉体(見えるもの)に対するのが精神spirit(肉体以外の見えないもの)
こう考えてみると精神とは自分の肉体ではないものなので、多くのものが含まれる。
文脈によっては、体の中にある時の精神は、魂や、心や、腸内微生物の可能性さえあり、
体の外にある時の精神は、霊とも、ゴーストとも、カミとも、精霊とも、悪魔とも、「空」とも、大いなるものとも、生きとし生きるものとも呼ばれている。
意識 意識とは、目覚めている時の心の状態を意味する。
しかし、現在では、潜在意識や深層意識や宇宙意識などと意味が拡大されて使用されている。
ここでは目覚めいている時の心の状態を表層意識、本人も気づかない領域を深層意識とよぶ。
深層意識とは表層意識とは違う機能(ルール)を持つ領域で、主体(わたし)がそれに気づき、表層意識が深層意識の波動にチューニングしないと、深層意識の世界を認識することができない。
このような解釈にすると、主体(わたし)とは表層意識のことで、他の階層には主体がまだ気づいていない「わたし(たち)」がいることになる。
この解釈では意識には段階もしくは多層な領域があり、これを上座部仏教では意識の代りに心と呼んでいる。
現代では心理学の普及により、心の段階化よりも意識の段階化として認知されているので、ここでも心ではなく意識という概念を使っている。
しかし、もし意識よりも心のほうが適切だと体験した時は、理由を添えて将来的に変更する可能性はある。
無意識と呼ばないのは、そこに「ある意識」について語っているのに「意識が無い」と定義するのは言語矛盾しているように感じるから。
たとえば、インドの修行者は10以上の深層意識があると考え、それを体感することを目指している生きている。宗派によって領域の区分は異なる。
領域ごとに機能が違い、そこに(表層)意識が同調できるとその領域に気づくことができ、その領域での体験を○○意識と呼ぶ。
consciusや機能領域との同調など、なにか新しい造語が必要な概念である。
consciousness ラテン語conscius
(con-共に+scLre知る+-us-OUS=承知している).SCIENCE, CONSCIENCE
心 対象を知る機能 英訳ではmindのこと
知る方法には、対象を分割してその2つの違いを認識するだけではなく、肺臓による呼吸や心臓による血流循環のように全体性を把握したり、消化を腸内微生物に任せて「知る」こと放棄するという把握の仕方も含まれる。
上座部仏教では表層意識では普段気づけていない8段階の心があると考える。
ヨガと関係の深いサーンキヤ派のように1つの心が10段階以上の意識にチューニングすることで、対象
を知ることができるという考え方もある。
心と意識は混同されやすいが、このエッセイでは、1つの心によって各段階の意識が認識されたり、
気づけなかったりすると考える。
つまり1つの心が10段階以上の意識を体験できるという設定になる。
「生命の流れ」の31領域の存在(餓鬼、天人、ブラフマン、カミなど)が心を持ち、その心の働きによって輪廻の転生先が決定される
認識することを、心のはたらきといい、心のはたらきがあるものを生命と呼ぶ。
このように定義すると、どの細胞も生命であり、心がある、ということになる。
単細胞の生命体、たとえばアメーバーやゾウリムシや菌類などは環境を認識してサバイバルしているので心のはたらきがある、ということになる。
したがって、このエッセイでは1人の中に、脳の意識、心肺の意識、腸の意識など多くの意識があると考えて、話が進められる。
現代用語では意識よりも機能という言葉がいいのだろうが、機能には機械的アプローチが伴いやすいことと、表層意識がその機能に同調ができれば、それはもう意識として働くことになる。
実際に脳震盪を起こして倒れていても、毒物が腸に混入すると下痢として体外に出す反応は「腸の機能」だが、それを表層意識が意図的に使用したり、理解できるのであれば、腸の意識といっていいのではないか?
脳から見れば腸の意識は普段は認識されないが。勝手に外界に反応するので深層意識と判断される。
したがって脳のない微生物にも好気性や向光性の意識があるとしてみる。
このような分類法は意識をかなり拡大解釈してしまっているので不都合が多く出てきたら、再考することにする。
意識と機能と心と主体については再考して書き直す必要がある。
コラム
ヒトは事実を解釈(思考パターン)で誤解する
これまでの科学は、1つのカタチを優先して取り上げて、それを主張することが多い分野です。
ある物質、たとえばビタミンCが体に良いからといって摂取することを勧めるような情報が毎日のように新しく流されていますが、実際にはそれは実験室の中で起きた事例であるばかりではなく、その因果関係が証明されたのは100の中の1つの例でしかないのかもしれません。
その他のTPOを踏み潰すことで過剰一般化できるので、なんでも言い切ってしまうケースにこの世はあふれています。
たとえばダイオキシンがいけないから落ち葉で焚き火することを禁止したり、植物は地球に酸素を供給するので伐採行為に規制をかけたりとか。どれも科学的に否定されていますが、悪者と正義のヒーローを作り出すのが好きな人は、未だダイオキシンは毒だとか、植物が二酸化炭素を減らすとか信じています。
こんなときは、大脳から生まれた理性から見たら2つは別のものだけど、「いのち」から見れば「相反するものが一致」することもあるんだ、というメタファーを使って、世の中を見ると、これまでとは違ったものが浮かび上がってくるかもしれません。
教育、家族、善意、脱炭素化、エコ、理念などなど、面白いテーマがあります。
付録
メタファー(metaphor)とは、隠喩(いんゆ)、暗喩(あんゆ)のこと Wikipedia要約
「metaphor メタファー」という語はギリシャ語の「meta-(〜を越えて)」「 -phorein(運ぶ)」に由来している。
「〜のようだ」のような形式の比喩(=simile 直喩、明喩)ではないもののことである。
メタファーは人間の類推能力の応用とされることもあり、さらに認知言語学の一部の立場では、人間の根本的な認知方式のひとつと見なされている(概念メタファー)。メタファーは、単に言語の問題にとどまるというよりも、もっと根源的で、空間の中に身体を持って生きている人間が世界を把握しようとする時に避けることのできないカテゴリー把握の作用・原理なのだと考えられるようになってきた。
例
男の子は見つけた、野に咲く薔薇を ゲーテの詩『野ばら』
その時彼がふと窓の外を見ると、一羽の鷹が、強風にも流されず、空中に静止していた。
わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっていれば、その人は実をゆたかに結ぶ。— 新約聖書、『ヨハネによる福音書』 15:5、イエスの言葉
私は、世の光です。私に従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです
— 新約聖書、『ヨハネによる福音書』 8:12
難思の弘誓は難度海を度する大船、無礙の光明は無明の闇を破する惠日なり
— 親鸞『教行信証』総序冒頭部
『涅槃経』第29巻では比喩を、順喩、逆喩、現喩、非喩、先喩、後喩、先後喩、遍喩の8種類に分類している。その中で、現喩は現前のものをもって表現する比喩で、遍喩は物語全体が比喩であるもののことである。
メタファー観の歴史
初めてメタファーの意義に言及したと言われているのはアリストテレスであり、彼は『詩学』のなかで次のように述べている。
「もっとも偉大なのはメタファーの達人である。通常の言葉は既に知っていることしか伝えない。我々が新鮮な何かを得るとすれば、メタファーによってである」
西洋の伝統的な修辞学では比喩(trope、転義法)が研究・分類されてきたが、その中でもメタファーは特に大きなテーマとして扱われている。
近代の哲学者の中には、メタファーによって説得しようとする議論を「非理性的なもの」として否定する者がおり、例えばホッブズやロックは、メタファーに頼った議論を「ばかげており、感情をあおるものに過ぎない」などとして批判した。
言語学者のロマン・ヤコブソンは、絵画、文学、映画あるいは夢などの表現の中には、根本的な認知方式としてメタファーの作用があることを指摘した。、
1980年にジョージ・レイコフとジョンソン(M. Johnson)らが『レトリックと人生』 Metaphors we live byを出版し、「メタファーは抽象概念の理解を支える根本的な概念操作である」「言語活動のみならず、思考や行動にいたるまで、日常の営みのあらゆるところにメタファーは浸透している」と指摘し、多数の資料を提示しつつ分析してみせ、広範囲の支持を得て、学者らのメタファー観は大きく変わった。
人間の認知と存在の根幹に関わる要素だという認識がされるようになり、メタファーを基礎に据え、概念理解のしくみ・構造を解明しようとする研究が進められている。
政治においても、メタファーがもたらす影響について研究が盛んになってきている。
精神分析学者ラカンのメタファー・メトニミーへの言及が重要視されることがある。
ポール・リクールも隠喩論を展開した。
その他のメタファー概念
寓喩 物語全体で他の何かを暗示するように構成されたもの
換喩 metonym 概念の近接性に基づいて意味を拡張した表現「漱石を読んだ」、「やかんが沸いた」
提喩 synecdoche 概念の上下関係に基づいて意味を拡張した表現「花見」おける「花」は桜の花を指している
認知言語学 cognitive
linguistics
ゲシュタルト的な知覚、視点の投影・移動、カテゴリー化などの人間が持つ一般的な認知能力の反映として言語を捉えることによって、人間と言語の本質を探究する言語学の一分野。
概説
ジョージ・レイコフを中心としたメタファー・メトニミー・イメージスキーマを用いて言語の実態を究明していく理論を特に認知意味論と言い、ロナルド・ラネカーを中心とした、概念化・用法基盤モデルから文法を構築していく研究を特に認知文法(cognitive grammar)と言うことがある。認知言語学の中でも、平面的な共時性を重視する従来の考え方に対して、通時的観点も取り込んで空間的に語句の意味変化を明らかにしようとするメタ・プロセスの理論も現れている。
認知言語学はチャールズ・フィルモアの格文法やフレーム意味論、レイコフらが1970年代に提唱し、いわゆる「言語学論争」にまで発展した生成文法左派の生成意味論、そしてロナルド・ラネカーが独自に研究を進めていった空間文法(space grammar:後の認知文法)などが基となって融合的に発展した分野である。
理念
個々の研究者によってさまざまな違いはあるものの、以下の点で多くの認知言語学者はその理念を共有している(Croft and Cruse 2004)。
これまでほかの認知能力に還元できない生得的な言語知識として記述や説明がされてきた言語現象を、一般的な認知能力の発現として捉え、記述・説明を行っていく。
意味は静的なものではなく事態把握・語用論的面を含めたダイナミックな「概念化」として記述する。
言語の運用という面から言語の実態を見直す。
1.を重視するため、記号化、カテゴリー化、ゲシュタルト知覚、イメージスキーマ、身体性、メタファー・メトニミーなどから言語を記述説明する。また2.のテーゼより、図と地の分化、焦点化、プロファイル、推論などの作用によって言語の意味が発現するというスタンスにつながる。また3.はいわゆる「用法基盤モデル(usage-based
model)」で、言語単位の定着・慣習化、頻度などの面から言語現象を分析し直すものである。その言語運用の立場から記述することで、これまでいわゆる言語知識(competence)と考えられてきたものが実は言語運用(performance)から説明可能であることを示すモデルである。よって語用論・談話分析とも近接性を有するパラダイムであるといえる。
メタファー
従来メタファー(隠喩)は文章技巧の問題とされてきたが、ジョージ・レイコフ、マーク・ジョンソン(哲学者)によって、メタファーは単なる文彩ではなく、我々の基本的な認知能力のうちのひとつ(概念メタファー)である、と捉えなおされた。また、メトニミーやシネクドキーなどの定義や解釈、それらが表層にあらわれた言語現象の説明は、認知意味論でもっとも盛んな研究テーマのひとつである。
また、ジル・フォコニエの唱えるメンタルスペース理論は、出発点は異なるものの、心的領域間のマッピング(写像)を想定する点で共通している。
カテゴリー化
認知言語学におけるカテゴリー化の議論はエレノア・ロッシュらの研究に端を発するものであり、認知言語学を生み出すきっかけの一つとなった。全成員に共通する属性によってカテゴリーを規定しようとする古典的なカテゴリー観に代わり、プロトタイプ理論や基本レベルカテゴリーの概念を提唱しており、それらに基づいて言語を記述している。
また語の意味は、その語の使用が想起する典型的な状況や百科事典的知識(世界知識)と切り離すことができないとされる。チャールズ・フィルモアらのフレーム意味論や、ジョージ・レイコフの理想認知モデルは、この考えに基づいた議論である。
認知文法
認知文法はロナルド・ラネカーの提唱した理論であり、ゲシュタルト心理学において展開されてきた空間認知能力、カテゴリー化、イメージスキーマを抽出する能力、焦点化能力、参照点能力など、言語以外でも観察される人間の一般的認知能力の反映として、文法を包括的に説明することを目的とする理論。イメージスキーマなどは、Diagram(認知図式)という図を用いて説明するため、曖昧で主観的という批判がある。また、言語の構造は、意味極・音韻極、そしてそれを統合した記号ユニットしか認めない、という言語理論の中でもかなり厳しい内容要件を課している。言語構造は使用例からのスキーマの抽出という形で出現するという使用依拠モデル(用法基盤モデル)を掲げている。
レナード・タルミーの唱える力動性(フォース・ダイナミクス)の理論は、人間による状況の言語化は物理的な因果関係のモデルに基づいて行われるとするものであり、メタファー論や認知文法と密接な関連がある。
構文文法
構文文法は文法を慣習化された構文の集合体として捉える立場であり、生成文法のような、文法を語彙項目とそれを合成する規則によって記述する立場と対照をなしている。構文は諺のような固定した表現から、いわゆるSVO構文のように単語が自由に入れ替わるものまで連続体をなしていると主張する。使用依拠モデルとも親しい関係にある。チャールズ・フィルモア、アデル・ゴールドバーグ、ウィリアム・クロフトらが主要な論客として知られている。