ヨーロッパ精神の病い  理念と歴史

 

ヨーロッパとタイトルがついているが、実際は先進国や都心で起きている症状が、ヨーロッパ特有のものではないことも多く含まれているので、これをたたき台として一緒に討論することで修正できればと思っている。

 

 

信用できないヨーロッパの社会

精神の病と歴史  

病の元  分けること      固定化 怠慢 理念化 美学・地理

行動の元 形にする必要性  外を攻撃する生き方  歴史 基準の変化    性格 理念が発達したわけ

本音 現実の変化 責任から逃げる

武器 理念 科学

病の治療法

 

 

信用できないヨーロッパの社会とは

人間は見たいものしか見ない。見たくないものは見えない。見ようと思わなければ見ることができない。

見たいと思うものだけが見える。

21世紀になってヨーロッパの社会が語る科学は信用できない、という偏見が必要だ。ヨーロッパ人はいいけれども、社会はだめなのである。社会が評価する、賞や大きなプロジェクトや組織たちのいう科学は眉唾だ。

なぜこんなことになってしまったのだろう?

 

それには二つの要因がある

ヨーロッパの精神の病と歴史

のためだ。

精神病と歴史は、他のアナロジーにしてみたらもっと立体的に見えてくる。

理念と現実、大脳皮質と大脳辺縁系、夢と実情、人間と動物、実験室と自然界、意識と体。

病の反意語が健康というのは常識であるが、定義は曖昧だ。

精神の病を数式にすれば簡単だ。    理想―現実=病  

理想  ありたい自分   この世のあるべき姿   大脳皮質の法則

現実  そうである自分  この世の事実      宇宙の法則

 

ヨーロッパの抑圧しているものとは理想―現実=病 

これを意識が見たくないために、意識の領域から追い出すためにこれらが無意識に呼ばれ、意識が起きている間は表に出てこないようになる。

理念(理想的信念)をこの世の基準として考えるから、本末転倒になり、因果関係ならぬ果因関係でこの世を見つめてしまう。

ヨーロッパが隠したいものはこの現実であり、またここからでてくる本音である。

 

こう考えると病になった理由が簡単にわかる。理想を多用して、時にこれを基準としてしまう時空間が多いためである。

理由は簡単にわかるのに、この病がすぐに治療できない人たちがいるのは、この理念を武器にしてヨーロッパが生きてきた歴史のためである。

たとえば、プラトンはidea(理念の原語となった)を直観的には理解したが、体験してはいないと推定する理由は4つの特徴が誤謬だからである。

(1不生不滅 2美そのもの 3具体的なものとして現れることはない超越的存在 4純粋でただ一つの相を維持しており、ここからカタチに美を分有している。)

リンク プラトンの闘いと限界        「プラトンの哲学」藤沢令夫(岩波新書)  における分有の問題点

 

 

精神病から逃れることだけに関心のある人は、最後に書く治療法を読んで欲しい。

付き合ってもらえる方は、この病の根本の話、形にする力の話、本音の話、ヨーロッパ社会の無意識について一緒に考察してみよう。

 

 

病の元は「分けること」 

すべてはここから始まった。

意識、言葉、理性、知識も全てここから産まれてきた。自然の摂理である。

そして分業、専門が産まれてきた。これだけならば問題がない。

そして学問、科学が産まれてきた。これらは全体から切り離される部分になることで病となった。

部分になれば、責任から逃れることができ、自由でいられ、平和でいられた。

ところが最後には、分け続けることによって、本人が成り立たなくなる分裂症が産まれてきた。

こうならばもう自滅するしかない。

 

ヨーロッパでは分ける時に二つの基準がある。

見える世界の「内と外」と見えない世界の「上と下」だ。

見える世界では、塀を作って内と外に分ける。

塀の外のものをとってきて、内で山分けする。これがフラタナティ博愛だ。

塀の外は仲間ではない。敵である、エイリアンであり、異民族であり、異宗教であり、異物である。

もう一つの見えない世界では、上と下に分ける。仏教で言う「空」と「有」。数学で言う∞(無限)。

ヨーロッパはこれで神と悪魔を作り出した。

二つに分けて片方を選択することによって、片方を除外して、そして時に殲滅させようとする。

しかしそれは心の表層から深層に押しのけるだけなので、いつかは反動でまた表層に現れるのでそれを恐るようになる。

 

この二つを統合した「分け方」を作り上げた人たちがいる。証拠が残っているものでは、古代メソポタミアの人たちだ。紀元前16世紀頃の粘土板プリンプトンNo.322にはピタゴラスの定理の15例が楔形文字で刻まれている。

これが頭の中で作り上げた「理念」があった証拠だ。

 

塀の内側にある見えない上位を「理念」「天使」とした。中位を「人」「仲間」下位を「現実」「生物」とした。

 

理念に異様にこだわる理念主義では、理念を基準としたために全ては形を持った劣ったものとされ、自己批判や現実批判を繰り返し、それによってかえって物質主義に陥っている。

 

 

一面化 怠慢 理念化 美学・地理

分けることだけならば細胞分裂のような自然の摂理であるが、これを硬くさせることでいろいろな欠点が伴なっている。

 

一面化

分けることに固執して、二つの違いと進化にばかりスポットライトを当てるのが一面化である。分けたものをまた元に戻す「統合」や、分ける前の「柔軟性」が欠けることになる。

例えばダーウィンの進化論のように、新しく加わった変化に過度な注目をすることで、本来の多様性から独自性(違い)ばかりに関心が向いてしまう。一面性を強調することで柔軟性があるものを固定化させてしまっている。これによって、多くの人は無意識のうちにであるが、適応力のない硬い考え方に囚われてしまう。

脳の発達による独自性ばかりではなく、神経管が発達したものが脳であるので、神経管そのものの特徴を知ることで、脳の本来持っているTPOで使い分けている多様性に触れることができる。

 

怠慢、もしくは自己愛

「分けること」は個々の立場を考えない、思いやりのない判断に結びつくことが少なくない。自己愛(相手に対しての愛の無い)と分けることが関係し、これを怠惰とよぶ。

これは一般化と具体化の過程で起こることで、共通点と相違点のことだ。演繹と帰納、抽象と具象、観念と実在

普遍と特殊、理論と実践ともいう。

モノを理解する時に、これを多用することで、簡潔に合理的に便利に効率よく「分ける」ことができるのだが、

実際には他者の立場を共に歩んではおらず、「分ける」本体の都合で行っている場合がある。

これを過剰一般化と過剰具体化と呼ぶ。

Overgeneralization(過剰一般化する) ある条件の下の相関性をそれ以外の条件でも普遍化させること

Overmaterilization (過剰具体的する) 普遍的なことを各々の条件に適応させずに具体化してしまうこと

 

たとえば、ある特殊なコロナウイルスの特徴を普遍的なものとしてしまったり、

重力の法則があるので宇宙空間でも地上と同じように行動してしまうようなことである。

 

 

どちらも他者の立場に立つことはせず、自分の立場でしか「分ける」ことをしないために、他者に対しての思いが欠けている。

効率化するために行ってしまう行為だ。

二つの方法を無茶苦茶に使い、そのインチキは見なくてすむように正義と理念と優しさとプライドと怠惰で覆い隠して、今日も他者の体を踏みにじり続ける。

これを愛がない、または心がない、という人もいるが、まだ心が閉じおりちゃんと開いていない状態のことである。

現代の人の優しさの多くは、過剰一般化・具体化に因るものなので、心の優しさではなく、頭(意識・脳)の優しさであることが少なくない。

 

理念化

分けることは意識の役目なので、意識がある限り、恣意することを次々に分けていく。その時に一つの特徴が生じる、これが理念化だ。

分けることによって、形なき理念の方に吸い込まれていくのは簡単な理屈だ。実際には分けることができないものや、分ける手間暇を省略するために、空想の中で分ける行為を続けるために、形のある体から形のない理念に引き寄せられていくのである。

一面化と過剰一般化が進むと、柔軟だった分け方が固定化されてしまい、特に見ることができない世界のものは、応用、適応、加減ができないために、特殊性のための修正をし続けることができず、そのまま硬くなってしまう。

この見えない世界のことを観念ともいうが英語ではideaなので理念のことである。

 

そして次にこの理念が正しいことを証明しようとするためには、物体化する必要が出てくるために、いろいろな装置を生み出そうとする。これが成功すれば、形のない観念が、実際の世界でも「存る」ことになると信じ込めるので理念化にますます拍車がかかる。いつもの本末転倒だ。

理念が作り出したものを物体化するためには、操作が自由にできるように、特殊条件が必要になる。そのためには実験室を必要とした。例えば意識が物体化した象徴が、都市であるように。

都市に水と酸素とエネルギーを補給しないと、すぐにそこは廃墟となる。

 

美学

分け方は、各自の美学によって決まる。美学とは、かっこよさであり、心地よさであり、ベクトルであり、メタファーである。

どの学問でも分類とはその文化の好みである。

分類とは恣意的なもので、その人やグループや地域の「計らい」なので、普遍的なものではない。

生物分類でも同じことが言える。

 

ヨーロッパの美学にはその気候と深い相関性がある。

気温、雨量、そこから生じる豊穣さが、美学に影響を与える。

温帯

夏の短かく冬はマイナス40度になるツンドラ地帯、湿度と気温が高い赤道付近の熱帯、雨が少なく温度差が激しい乾燥地帯、これらと違う豊かさが温帯にはある。そしてそこから生まれる余裕、贅沢、遊び、浪費、時間つぶし、正確さがある。

ヨーロッパの分け方の特徴に、これらが深く関与している。

 

ヨーロッパの病は気候とも関わる、物質的な要因もある。

次には病の要因である理念だけではなく、もう一つの実質について見てみよう。

 

 

行動の元 

形にする必要性  外を攻撃する生き方  歴史  基準の変化   性格    理念が発達したわけ

 

病があってもそれだけでは、その生命体が自滅するだけで、問題はその生命体だけである。しかしその生命体が周囲に行動を起こすと、もう、それだけのことではなく、周囲も対応せざるを得ない。

この世では、形のない理念だけでは暮らしていけず、形のある実質が必要だ。飯と水がなければ体は生きていけない。だが形にしない美学の時空間を増やす選択しないのは何故なのだろう?

ここで問題にするのは、外を攻撃する生き方をしてしまうヨーロッパの判断の元を探ることだ。

 

行動の元

人の判断はどうやってなされているか?

行動の判断は意識ではなく、無意識の領域で行われている、と言ったら信じてもらえるだろうか?

たしかに大脳皮質が司る理性行動もインプットされるのだが、最終的な決定は、脳幹の本能行動と大脳辺縁系の情動活動を加味して、無意識の領域である脳下垂体で行われている。  (参照  自分の中の4人の自分)

大脳皮質を働かせるにはエネルギーがいるので、できるだけサボって簡潔に自動的に判断をしようとする。

いままでのパターンで目の前に起こっていることを判断しようとするのだ。

特に活躍するのが大脳辺縁系である。そこでは過去にできたパターンで現在の行動を直接はじめてしまう。

わかりやすいのが条件反射。梅干を見ると唾液が出るというやつだ。車の運転も大脳皮質を使うだけではなく、この条件反射を使うことによって可能になる。危ないと大脳皮質に信号が行くと反射的にブレーキを踏むような場合だ。

このような意識を使わずに自動的に行動にでることを無意識と呼ぶ。

人間の行動はほとんどがこの無意識が占めている。

いやいやそんなことはないとビルの中で働く事務職の人は言うだろう。でも意識を使って仕事をしている間にも、足を動かしたり、電話をしながら利き手でペンを回したり、パソコンの画面を見ながらお茶を飲んだりしていませんか?席から立ち上がる時にどちらの足から先に動かしているか意識していますか?もらった領収書をどこにしまったか忘れたことはありませんか?

無意識の占める割合は行動の80%以上だと言われている。これも実験方法によって大きく変わるので定義は難しいかが。

 

 

大脳辺縁系と判断

次に情感反応について、簡単に書いてみる。頭と心と体での説明もいいけれど、ここでは脳機能学によるデータを基にした話にする。

ヒトは常にそのヒトにとってベターであろう選択を意識と無意識にかかわらず判断して、  

梅干を見たら唾が出るように、ヒトは無意識の条件反射を日々学んで暮らしている。忙しい大脳皮質反応に余計な負担をかけないために、簡略化による間違いは承知の上で、自動的に判断して行動を起こすように生命体はプログラミングされている。虫や魚も含めてね。ヒトでは自転車の運転をしながら片手でアイスクリームを食べながら、交通標識を見るように。運動は中脳で自律的に他は大脳辺縁系でこれらの処理を行っている。

ところで、この条件反射を書き換えない人が意外に多い。幼児期や成長期に起きた時には正しかった選択と条件反射をそのまま成熟期になっても使っている人がいる。特にリベラルと言われる理念を大切にし、田舎の地域共同活動を行っていない人たちは慣習や儀式などの地域のイニシエーションを古く非合理的で迷信なものとしてしまっているから尚更である。儀式の本来の意味は生命体の合理的なもので判断するのに、モノの一面の一時でしかない機械の合理性で伝統を批判し、その領域外のものは簡単に魔術や迷信や語るべきでないものとして除外してしまった。

この条件反射もまさしくそういう無意識のことなので注意が払わられることが少ない。しかし、生命体では情報の伝達と判断を簡略化するために利用されている生命体の合理性である。合理性という言葉が良くないのならば、システムであり効率化である。

 

そしてもう一つの無意識がヨーロッパでは増大している。意識が見たくないものが増えると、この領域も無意識と呼ばれるようになる。

無意識の形成が病と行動を生み出してしまう。人の意識も無意識に多大な影響を受けているので、これからしばらくはヨーロッパ社会の見解には期待できないのもしょうがない。

 

 

歴史

アルファベット

精神の病は、理念の強調によって起こったが、これはヨーロッパ言語の書き言葉によって予測されていた。アブジャドと呼ばれるアラビア語やヘブライ語の書き言葉は、子音だけで書かれるので、文脈によって意味が変化する可能性がある。それに比べてアルファベットを使うギリシャ語やラテン語は26文字から80文字で全ての概念を言葉に書き換えることが可能である。考えつくものすべてはこの26文字に分けたアルファベットで表現することができてしまうのだ。これを聞くとこれは便利でいいことだ。だが便利なことにはデメリットの副作用がある。

古代文明は分けることの危険性を知っていたと私は推測する。例えば命や自己を分けることができないことをよく知っていた。だからこそアブジャドのように文字を限定しなかったり、何かを具体化するためには無限に続く他者の変化に合わせて、分けられる限りといわんばかりに徹底的に分けて無限にする。これによって分けること無力化するという智慧を使った。

例えば、アディゲ語では、動詞に主語・直接目的語・間接目的語をさす人称の接辞、否定・時制・使役・可能・再帰性・場所方向の接辞などが加わり、動詞の変化形が25億もある。またギリシャ語で、単語は500万語もある。英語は50万語。

 

 

ルネサンスは翻訳文化

アラビア語やヘブライ語は当然だが、ギリシャ語や一部のラテン語の文献も12世紀になってからイスラム諸国からの翻訳してヨーロッパに入ってきたものだった。日常生活や伝統的な伝承ではなく、書き言葉から連想されたことを空想で具体化する翻訳文化であった。宗教画や当時の文書を読めば、この空想が色濃く残っている。これは幻想文学やヨーロッパ化したキリスト教を生むには役立ったが、実際の実質からは足が浮いた文化になってしまう素地を作った。

 

 

大航海時代 植民地時代

名前は大航海時代と悪くないが、実際はヨーロッパの外のものをぶんどってくる植民地時代がはじまった。南米、アフリカ、アジアで起こした奴隷制度、傀儡政権の歴史を見ればわかる。この時から欧州だけに富を集積させるシステムを作り上げた。

不思議なのは、何故欧州だけが、他者を認めないで、奴隷や搾取や虐殺を推し進めていったのか?

イスラムではアッラーの下で他者を認めたし、中国では利のためには他者を利用したし、アフリカやアジアやアメリカの先住民族は他の共同体ともちろん戦争もしたが、他者との共存も模索した。しかし欧州ではゲットーをつくり他者を閉じ込める手段を選んだ。

 

 

異教徒迫害

他者を差別することは判断だけであるが、迫害するには行動が伴うので大きな違いがある。ヨーロッパの狭隘な判断とそれに基づく行動は、どこから生まれてくるのだろうか?

ユスティニアヌス1世( Justinianus Iは、東ローマ帝国皇帝(在位:527 - 565年)の宗教政策は帝国の統一は宗教の統一を前提にし、上流階級の人々も含む厳しい迫害をした。

529年にアテネのヘレニズム教育機関を事実上では閉鎖し、リビア砂漠のアウギリアにおけるアメン神崇拝やナイル川第一瀑布のフィラエ島のイシス神崇拝を廃止し、ユダヤ人は市民権を制限し、礼拝の際にヘブライ語を用いることを禁じた。反抗者は肉体的な処罰や追放そして財産の没収で脅された。

コンスタンティノープルでは、少なくないマニ教徒が厳しい宗教裁判の後に皇帝の御前で火刑や水責めなどの手段で処刑した。

 

 

十字軍

後の十字軍も異文化への直接的な物理的介入を行っている。

十字軍 cruciataは、ヨーロッパが聖地エルサレムをイスラム教諸国から奪還することを大義名分として派遣した遠征軍だが、実態は、第4回十字軍や北方十字軍では、正教会を敵として遠征の対象とし、第4回以降はエジプトを目的とし、第8回の十字軍は北アフリカのチュニスを目的とした。

 

 

ローマが作ったキリスト教とその後のプロテスタント

今のキリスト教というものは発展しつつある国で人気を得ます。キリスト教の基本の一つは、自らを愛するように他人を愛しなさい、という事です。この事が人々にこの世に積極的に関わる動機を与えました。キリスト教とは他人の尊重に、他宗教よりも積極的です。

ところが、この時の「自ら」とは、自己のことです。脳機能学でいう大脳皮質をさします。理性としての自分です。ですから大脳辺縁系の情動や脳幹の体の「自分」を含まないことが多くなってしまいました。

理性を大切にする領域の「自ら」は、想いを形にする力に秀でています。充実した世界ではなく、繁栄した世界で受け入れられる考え方です。

だから、アラブでは人気が出ずに、欧州で人気が出たのです。その欧州でも”滅びつつある”上流社会での人気はなく、これから興隆しつつある下層階級で人気がありました。

 

 

中世の宣教師たち

カトリックのドミニコ会は異端審問の審問官に任命されることが多かったため、「ドミニコ会士(Dominicanis)」をもじって「主の犬(Domini canis)」とも呼ばれ、反対者にとっては畏怖と揶揄であった。

同時期のフランシスコ会は、貧しいイエス・キリストの生涯を範として、その福音を使徒と同様忠実に生き、ローマ教皇に対してはあくまでも従順をつらぬき、人びとに「神の国」と改悛(悔い改め)を説くことにあった。

1221年につくられたフランシスコ会の会則

われらの主イエス・キリストの福音を守り、服従のうちに生き自分の物な何も持たず、常に貞節のうちにあらんことを。修道士は頭巾付き上着1枚だけ持ち、履物は必要な者だけに許される。衣服は着古したもので、袋地か、ぼろでつぎはぎさるべきこと。高価な衣装を着、美味な飲食物を食べている人を見ても軽蔑したり裁いたりしてはならず、むしろ自分自身を裁き軽蔑せよ。直接にせよ間接にせよ金銭を受け取ってはならず、何物も所有せず、清貧と謙譲のうちに主に仕え、喜捨を請うことを恥じず、清貧を友とせよ。

 

清貧を掲げているが、ヨーロッパの植民地政策の時に先頭にいたのは彼ら宣教師たちである。軍人と商人と同じ船に乗り、ヨーロッパの外の世界に物理的な征服を行った。

彼らのメンタリティーや考え方とはなんなのだろうか?

 

ヨーロッパの他者を征服する時には、「正義を行う」という核があり、そのためには他者の考え方を洗脳する「布教」のは良いことで、できない場合は「抹殺」しても仕方がないという考え方がある。

ここで注目したいのは正義のつくり方と抹殺の二点がヨーロッパ特有のものではないか?

 

 

正義を科学に持ち込む無謀

この正義とは、信じないと思うんだけど、実は自分の守護神のことなんだが、このエンジェルを科学の世界に持ち込んだのが、トマス・アクイナス。

トマス・アクイナスは、アリストテレスの空間と時間の区分け(見えるものと見えないも、過去と未来「形相−質料」(forma-materia)と「現実態−可能態」)を継承しながら、この範疇に入らない神を特異点「存在−本質」(esse-essentia)として加えた。

理由は、哲学にカミサマが必要だったから。まずは思惑ありきというやつです。言い訳は決まって、人間は有限、神は無限、人間に神のことなんかわからないんだから、というやつです。小説や詩ではいいんですが、哲学や論理学や科学の範囲外のやり方なのでやっちゃいけないんですけどね。

 

 

正義のつくり方   do right    正統化  理論の組み換え 本末転倒

 

この正義を作ることは現代でもハーバード大やあちこちで推し進められている考え方だ。

まず表面にスポットライトをあて、そこからモノを考えようとし、結局は答えは見つからないので、考え続けることが正しいと生徒たちに意識を持たせることを目的としている。  参照 オックスフォード 正義

ところが、正しさとはどのグループに属しているかによって善悪が逆になるほど不安定なものである。極端なことを言うとどんな聖人であっても、微生物にとっては毎日被害を受けている張本人であったり、蚊にとっては宿敵であったりする。

 

 

抹殺

居場所によって善悪ができるのは仕方がないが、問題はこれをどう扱うかということだ。

悪の立場を理解して、認める方法もあるし、悪を減らすように工夫する方法もあるし、悪を抹殺する方法もある。

この悪に対しての付き合い方で歴史上でヨーロッパに多いのが抹殺である。それも正義を大義名分とするやり方である。

何故、それほどまでに抹殺にこだわってしまうのだろうか?

それは悪の存在が自分の存在を脅かし、死に至らせると考えてしまうからなのだろうか?

村を出た人たちが持つ「遅れた来た」コンプレックスをエンジンにしているためなのか?

ハザールの地からインドとヨーロッパに拡散した民族の古き歴史の幻影のためなのか?

二元論と生真面目な性格とヨーロッパの陽明学が結びついたためなのか?

精神と身体を分けて考えてしまう宿命なのか?

 

この抹殺という行動は、ナチスの政策、今の中近東における戦争、優生学と脈々とつながっている。

これについてはまたみんなと話し合いたいと思っている。

 

 

分業世界の確立   理念、分業、共同体の崩壊 魔女狩り

産業革命以前のずっと前から人類は分業をしていた。しかし、これほど分業した世界の中に留まり、外の世界と接触を持たず、外の世界と摩擦を感じず、全体の中での責任を果たす必要性を感じなくなったのは近代以降のことである。中世では塀の外に出たら、農民や狩人や傭兵や酔っぱらいや貧者や世捨て人や乞食が一杯いた。

ところが都市生活者の割合が増えるに従って、理性行動の機会を増やした人たちが急激に増大し、無機質だけではなく生命体までも機械的・合理的・効率的に扱う考え方を持つ割合が増えた。

部分である分業を当たり前とし、全体を前提にする必要がなくなった人たちが増大し、共同体の必然性が変化し、繋がりの必要性の意味が変化した。生きるために必要だった共同体が、形だけになったり、理性の社交クラブになったり、趣味のサークルになったり、行政の支配機関になったりしていった。体から頭への変換といってもいい。

そんな分断された共同体に、入り込んだのが魔女裁判である。これが全体との繋がりを持つ共同体を完全に分断させた。

魔女裁判の前と後では分業の意味が変わる。

 

 

魔女裁判以降の分業

分業の前 階級の上は働かない 下が働く 中は監視役

分業後 産業革命、資本主義   自分で作ったものを誰かに売り、その金で自分に必要なものを買う。その間に資本家が介在し、売る時と買う時に値段の差をつけて儲ける。

資本主義は分業システムから発し、差ができるところで成り立つ。

差を簡易化するのが数値であり、貨幣である

グループで共給共足していれば、資本主義も不要になる。

専門とは全体から見れば特異性でしかない その専門には本体の責任がない。全体の一部を信じるほうがどうかしている。

ライフラインなどの大切なインフラを他人に任せる。これを近代化という。

この自然の世の中を脳化することを人類史はやってきた

近代化による自活能力の低下がクレーマ−を生んだ。自己家畜化した人間の象徴である。

クレームするのは自分で自分のことをできないからである。

分業して任せたのに、自分の思うようにならなかったので文句を言っているのである。

一次産業ではない業種の人間がクレーマーになる。

水と食料と燃料を自給できれば人は生きていける。

 

 

学問と分業と家畜化と脳

現代人は「自己家畜化」した人間   ドイツ人の人類学者アイクシュテット1937

人工環境の中で暮らす、自然の脅威から遠ざけられている

家畜 より役に立つものに品種改良される 健康優良児、優劣をつける分ける行為

繁殖の管理 人工授精、体外受精、出生前診断、ダウン症殲滅検査

 

これがなんでも「分けて」しまう意識の限界と、便利な両面である。

 

 

中心地の寒冷地への移動

現状に満足できればそれは良いことだ。改善しようとすると意識を使って工夫する必要が生まれてくる。暮らし易いところに人が集まり、近辺の森を伐採してエネルギーとして文明が栄えた。時代とともに人口は増え、寒冷地にも都市ができ、冬の食料と暖房の対策が必要となる。そこでは意識をフルに活動させて次々と発明や発見を生み、暮らしにくい場所でも快適な生活ができるようになってきた。自然が厳しいところでは、理性を使う時間が増えるというわけだ。

ヨーロッパの中心の文明の移動は海軍力の変化を見れば一目だ。エジプト、イタリア、ポルトガル、スペイン、

オランダ、イギリスと変わっていった。

意識が力であり、今でもヨーロッパ人がエネルギーと技術をベースにして世界を考えているのはこのような歴史があるからだ。

これは自然から実験室への指向に呼応する。

 

 

一方向に流れる時間 歴史

この地球に人類が関わる方法はいろいろある。受容、魔術、科学

採集、農業、工業と言い換えてもよい。 もしくは体、心、頭でもいい。

時代が魔術から科学へ変わったことをヨーロッパでは良しとし、喜び、自信を持ち、時の変化としてとらえた。

ヨーロッパの癖は時間を一方向に流れると捉えることなので、時代とともに世界が変化していくように感じている。実際には層が深層から表層にスポットライトが当たっただけのことなので、表層のバリエーションの数が増えたことに過ぎず、深層の世界になにか変化があるわけではない。

一つものが消え去り、新しいものが生まれたのではなく、古いものの横に新しいものができたのである。母屋の横にできた別棟そして蔵のように。もしくは動物の進化系統のように。そして神経管のつながりの中で脳幹、大脳辺縁系、大脳皮質と進化したように。

層が増えてることにより選択肢が増えたことを意味する。遡ることのできない一方的な時間の流れではなく、溯源が可能な時間や考え方や関わり方も同時にあるということだ。

この時間の捉え方もヨーロッパ特有のものではないか?

 

 

性質と疑問   腹がない文化  利益の追求の謎  正義の実現化の謎 短いスパン  テオトニー 

ヨーロッパ特有の性質とは何か?

アジアから見ると「腹」ということにスポットライトを当てないのは不思議に思える。

聖書を見ても腹に関する供述は少ない。腹をはじめ身体と関わる表現はどれぐらいあるのだろうか?その中で他者との関わりでじゅうような小腸や腹に関するものがどれほどあるのか調べてみたいので、知っている方があればご教授お願いしたい。

 

次に、利益の追求をやめないのが不思議である。多くは満足すればそれ以上に富の集積をする動機が減るはずだが、ヨーロッパは富の分配や浪費や消費に対する関心はあるのだが、徹底的に増やし続けることへのこだわりはどこから来るのであろう。

カルヴァンの予定説、エートス(慣習、習俗、道徳)が資本主義へつながると説明されるが、根本は恐怖心ではないのか?

存在の不安、そして救済の必要性、そのための償いの気持ちが一段と深く大きいのではないか?

 

三番目は判断を他者に対しても実行しないと落ち着かない気質の不思議である。

モノの間に壁を作り、二元論でモノを捉えることは、理解できる。 二つに分ける必然性や諦めには関心が向かず、深みのある層は見ることがなく、形だけの多様性に陥ることも理解できる。

しかし美学や正義のために外(他者)を排除したり、抹殺するのは、これまたヨーロッパの特徴でなないか?

 

四番目に、短い期間で物事を判断するのはいつごろから始まったことなのだろうか?森や山や沙漠の生活者が少ないからだろうか?三代続けて物事をみるような視点はいつごろから希薄になったのだろうか?単純に産業革命からなのか?

 

5番目に、欲望に素直で、あるものを使うことに躊躇しない気質は現代では当たり前のように思えるだろうが、外からみると不思議である。行動を起こすこととは、誰かにとっては善悪、損得があることなので、その必然性を問い、必要ならば、責任をもって形にする。だから時により、目の前にあっても使うことをしない生き方がある。世界と関わるということに覚悟がないからだろうか?自分の行動の影響について考えることがないからだろうか?隠す大切さを実感しないことにも関係があるのだろう。

 

6番目に、順番を大切せず、直接に形にしようとするのは不思議なことである。波が来れば消え去るのに、砂上の楼閣を作っている。消え去ることをわかって作るチベットマンダラやナバホの砂絵ならばわかるが、本人は成果があがると思って行動しているのだが、順番を踏まず、直接に形にしようとするのだから外から見ると虚しい。

 

7番目に可愛らしく生きることを選択するのがよくわからない。確かにテオトニーは進化を生む要因の一つであるけれども、誰かが面倒を見なければならないのである。いつまでも自分の進化のために人や地域や国に頼っているわけにはいかない。

 

 

本音

ヨーロッパの本音はシンプルだ。

自分の利権は他者に譲らないことだ。

しかし、それはあからさまにならないようにいろいろと言い訳を作り上げる文化も発達した。

たとえば理念(平和、平等、公平など)を持ちだして、バランスをとるようにしてはいる。

問題は、理念に基準を置く時空が増えてしまったために、本音を見るのを避けて、それらを意識の外に押し出したり、本音を悪として排除しようとしていることだ。

このことによって新たな問題が発生した。

 

意識に操られる人形の時代

インカの智慧   脳が体を殺す時代 

現代の病   モノを分けることを優先してしまった人たち

時代が求めた二元論   脳が忙しいと体は弱る 人間も自然の一部である  

ユートピアを使えば他人を踏みにじれる      

正しいことをしたがるのはなぜ? 

都会人と山を結びつける無粋 

捏造されたロゴス  弱者と囲いと言語と理想と知識人と保身が「いのち」を蔑ろにする

先住民殺戮史   人類のメンタリティー   

 

 

 

全体の責任をおえないシステム   責任を取らないのは何故か?

正しいと思っているので責任を取らない

常識をとるので、責任を取らない

受身なので責任を取らない。

理性を基準にする 

内側を作らない  その方が客観性だと思っている。

ユニバーサルを目指す。  

結果的に逃げた人達がする常套手段である。

 

専門を全体から分離させることによって、各専門家には責任がない、と感じることができると信じ込んでいる。実際に責任を感じないのだ。そのように飼い馴らされて、責任を感じない条件反射の中で暮らしている。

こうわかると、全体の一部でしかない専門を信じるほうがどうかしている。

 

必要なことをせず、次々と欲望を持たせて、自分自身に意識が向かないようにしている。

今の大学を出たヨーロッパ人の潜在意識とはなんだろう?

ナチス時代の人間の行動、科学による核爆弾の開発と競争、そして気がついてみれば、良いと思ってやってきた科学や産業革命からまるで湧き上がるように現れ出てきた地球を破滅に導く悪の二酸化炭素。

これに立ち向かうことのできないヨーロッパ人のインテリたち。智慧者を演じて、人間のサガを嘆き、滅亡の未来を予測しながら、自分たちの責任逃れのための言い訳と無力感しか感じられず、今日しなければならないことが思いつかないふりをする。

 

どうしてこんなふうに世界を見たいのか?

私にはヨーロッパ人の罪の意識が自分たちの世界をそのように見ているのだと思う。そして命と向き合うことをやめて、モノに頼ってそこから世界を見るためではないのかと思う。

理念の綺麗ごとと本心(潜在意識)の自分だけの利益を保持することの矛盾に気がつき、実際には何も行動しない方が損をしないという判断をしていることだけだと感じる。

自分を誤魔化してきた人間たちが歩む方法です。

御託を並べるだけでどうしたらよいかわからないように自分を騙し、言い訳だけを連ねて、責任を取らないのは、向き合うことから逃げて、理念の中だけに暮らしているからである。分裂症者が、自分を身体と分割し、その自分をまた自己とパーソナリティに分割し、そしてまたまた自己を真の自己と偽自己に分割した。嫌なことはなんでも偽自己に任せ、また実務はペルソナにやらせた。そして真の自己は理念の中に閉じこもり、空虚さと全能感を同時に味わいながらも、ニセ自己とパーソナリティに自分が乗っ取られはしないかと怯えている。だんだんと水中に消え去ろうとする真の自己は、時々息を吸うために水面に顔を出して、人から評価されることによってアイデンティティを確認し満足するのが精一杯だ。

インテリは、無意識で作った自分のモデルを優先する。これに都合の良い科学や言葉を世界中から探してきて体裁を整えて落ち着こうとする。形になったモデルがないと落ち着かない。インチキのモデルを周りに強要して不幸にしていることに気がつかない生き物である。

ヒトは一つの小さな行動にさえその人の思想が表出されてしまう。いくら否定しようが、それは言い訳に過ぎない。

いくら理念で自由・平等・博愛を語り、マイクロファイナンスやチャリティーなどの福音主義を掲げて誤魔化そうとしても、それらは嘘の塊なので、真の自己は癒されない。一時の安堵の後に来るのは逆に渇き苦しむだけだ。

自分たちの利権は一切だれにも与えず、囲いの外の人間たちを教育(洗脳)して囲いの中の利益にすることしかしない。表向きは優しさを振舞うがそれは形だけに過ぎないことを真の自己ははじめから気がついている。

これが21世紀のヨーロッパの精神の病の源である。

 

 

武器としての理念   科学  理念の副作用   武器にした落とし前が病

理念を武器にして他人を殺している歴史と現在がある。

例えは、自由、平等、平和、博愛で掲げて、戦争をしている人たちだ。

 

西欧史では魔女裁判と30年戦争を経て、理念を庶民が日常生活で使うことを覚えた。この道具は別に新しいものではなく、紀元前2000年のメソポタミアでもあったありふれたものである。それまではインテリの道具だった。修道士、学者、数学者など一部の者たちだけが利用する武器だった。

これは便利だった。刀で刺すのは血が流れるだけだが、理念は血を流さず悶死させる力を持っている。

早速あちこちで利用された。

修道士たちは、植民地拡張運動(大航海時代)の中で、同じ船に修道士と商人と軍人を乗せて、各地で領土と奴隷と物品をぶんどった。その尖兵が理念を武器にした修道士たちだった。

メリットは世界制覇ができること。

デメリットは、 当然ながらこれには大きな副作用があること。

 

この武器を意図的に使うと、想いという形なき力が目に見える形になる。理念という武器は、物質化する力を持っているのだ。言い訳、哲学、科学、都市の便利なもの、どれもが理念を武器として使ったことによって形になったものである。

こんな便利なものにも、便利なものだからこそ、これを使うことによってデメリットである副作用がおこる。

分けたりや行動を起こすと、良きものと悪きものがセットの二つの世界が目前に現れ、良いことが大きいものほど副作用である悪いことも大きくなる。

こんな武器を無意識に使ってしまうと、病に陥ってしまうとは仕方がない。

無意識にこの武器に触れると、理念の立場でこの世を見てしまう機会が急激に増えてしまい、理想と現実の間のギャップに悩まされることになる。分裂症の第二段階だ。(第一段階は自己と体を分けること)

そして、いま。

5百年かかってやっと理念を武器にすることが危ない現実に突入した。

いままでは他人を貶める武器になったが前世紀からはこれが自分たちの喉元に突き刺さるようになったのだ。

 

理念が武器になるとはどういうことなのか、考えてみる。

科学を道具にして利用するように、理念も道具として利用できる。

平和、優しさ、民主主義、などの大義名分を御旗として印籠をかざすだけで人がひれ伏せる。これで革命を起こすことができた。フランス、アメリカ、ロシア、明治維新、中国。

また理念は革命だけではなく、テロリズムの語源を知れば当たり前だが、恐怖政治を起こすことができる。

歴史の中で使われている武器としての理念は、ある領域だけで通用する普遍性を持ち出し、それが適用できない外側の特殊性を、理論ではなく、騙しと武力と多数決と同調圧力で踏み潰してきた。

自分たちだけが利益するために、キレイゴトである理念を武器にして、論理である科学の鎧をまとい、理念の外にあるものを潰してきた。

武器としての理念はカミの形なき力を人間のものとして振りかざし、都合の良いところの一面性だけを切り貼りした科学で固めて、意識の外にあるものを洗脳にし、うまくいかねば悶死させ、それにも失敗すれば物理的な武力で殲滅させてきた。

理念は振りかざすものではない、形ある生命体の限界を謙虚に反省するものである。

科学は身にまとうものではない、分けることしかできない理性の至らなさを噛み締めるものだ。

 

 

意識がみたくないもの  無意識

なぜこんなに精神病(本人も気がついていない無意識の病)が多いのか?

それは理念を武器にして、綺麗ごとを言って自分だけの利益を得ているからである。

ヨーロッパの無意識。特別難しいことではない。意識が見たくないことを無意識と言う。

意識にとって都合の悪いものを見ないことにすれば、それは自分ではない。この自分とは、自己のことであり、意識の思う自分のことであり、本能活動と情動活動を無視して理性活動だけにスポットライトを当てている主体、

のことだ。

体と心の声(本能欲求や情動欲求)を意識は聞かないようにしているばかりではなく、逆に体は欲望が発生する悪の機関だとレッテルを貼ることで、意識はますますご機嫌になっている。

無意識は意識によって抑圧されてしまっている心や体と向き合う時空を取り戻したいと思っている。

無意識はこのままでいることによってインチキではあるが、楽で、愉快な生活を続けようとしている。

葛藤である。

ヨーロッパは片方を選択することで、精神の病を伴う方を選択している。それなのに、いやだからこそ、今日も矛盾した綺麗ごとを語って生きている。

 

だから、これからも西欧が求める答えは、関心のわかない問答が続いてしまうのであろう。

理念を自分だと思い、体を搾取し、心は痛みの伴わい同情どまりの感情しか持たない。

なによりも責任から逃げ続ける事の方が、体を伴う命よりも優先させる。そのためには、自分の身体に向き合わなくても良い理由を次々と見つけて、それを科学的にみせることに、全エネルギーを使い、何かあれば人類滅亡の結論を提示して、周囲に脅迫し、洗脳させ、自分の安全の担保を優先させているに過ぎない。  

 

例えばダーウィンの進化論にしても、聖書のファンダメンタリストに対しては価値があったかもしれないが、進化の過程の考え方は批評されている。

18世紀の中での必然性は21世紀では喜劇に変わる。ダーウィンも植民地と理念で儲けてきた内側の人間であるというところから逃げきれるものではない。

亜流がこれらを都合の良いふうに勝手に理解して、今の競争や直線的時間の流れを主張して、ダーウインが説いていない弱肉強食と結びつけて他を踏みつぶす必然性を擁護して、法則にまで昇華している。

これらが無意識にそして意識的に利用しているのはご存知のとおりだ。

例えば脳の発達にしてみても、それは人間の自意識が自分を舞台の中心に立たせたいという乙女のナルシズムから言っているだけで、未来のストーリーはこの脳の発達により人類は滅びたという展開になるのかもしれない。

実際にアリや乳酸菌が1000年後の勝者であり、人類は消えていてもなんの不思議でもない。進化を求めた恐竜が滅びたように。

また脳よりも腸の方が生命に近いことを自覚すれば、(脳がなくても命はあるが、腸がなくては命はない)ダーウィンの進化論とは、生命体としては人類が退化していることを表している。脳によってこれに拍車がかかり、この効率化と合理化によってどれほどの同胞を殺し、科学が自分自身の首を絞めているのかを見れば明白である。これがリンゴを食べ、エデンの園を出た者がその罪を自覚して反省しない運命である。分けることに快楽を覚え、一つのものを善と悪(優劣)に分け、自分だけが優劣の優の方にいることを選択することにより、ひとつのものとちゃんと向かい合って一緒に生きることをやめた者が辿る当然の終末への道だ。まさしく自業自得である。簡単な論理だ。神経管から脳への進化は堕落の楽しさを味わうスパイスだ。脳による理性や美学をそんなに崇めたり褒めたりするものではない。神様のちょっとしたありがた迷惑なプレゼントだ。滅びる正しさをしっかり学ぶのもよろしかろうという慈悲深い配慮である。

ここまでくれば少しは理性の限界について、関心が持ってもらえただろうか? 

正しいことをすると、そこから悪が湧き出るという理性社会での叡智がわかっているあなたならばわかってもらえると思う。

だが本当の叡智は心と体の世界を理解してその中で生きることにある。言語世界の叡智は単なる入口でしかなく、はじめの一歩にしか過ぎない。

 

 

スイッチはオンとオフがある。

新しいものを受け入れるスイッチ、そうしないスイッチ

新しいものは知らないことなので恐怖であり、不安であり、不審である。

新しいもな得体がしれず、体に悪いものの可能性がある。

 

私たちは知っている。

頭はリベラル

脳が反省をしたがっているのがわかる。

心は意識と無意識が結ばれるところ

特権階級である選民の感情が意地になっているのがわかる。

体はお粗末

本能が硬くなってしまったのがわかる。

どれもが破滅に向かいたがっている。

 

科学を言い訳にしている。

言葉が言い訳になっている。

何を本当にしたいのか?

キレイゴトは綺麗ごとの時空だけで言えばいい。

自己の中は何を叫んでいる?

私たちの本音は何?

 

 

精神病の治療法

不安を理性と金で乗り切った。

これに代わるものを発見しない限り、呪いはかけられたままだ。

かといって、キリスト教に騙さられるのはもう嫌だ。

カトリックの限界をわかって受け入れている人

プロテスタントの理性に頼って苦しんでいる人

そして体に向かおうとする人たち  合気道、ヨガ

どれもが苦しみの声だ。

静かにボーとして、意識を働かせず、委ねる。ことを学ぶ時期がやってきている。

 

心で無意識を拡げ、腹の微生物に感謝する

呼吸法、中心軸の作成、体の緩め方、体の動かし方、瞑想法

 

できることはいっぱいある。

 

 

 

「絶対矛盾的自己同一」とは、わかりやすくは個物も一般者も、主観も客観も、精神も物質も、ヨーロッパ的に考えられてきた大半の対立的で対比的な現象や概念や感想は、いったん「一」と「多」を入れ替えつつ、その直後に「無」に肯定されることによって、その矛盾したはたらきを失うことなく自己同一されるという意味である。

  ここでは絶対・矛盾・自己・同一という用語にとらわれないほうがいい。西田も「これは一息に読むんです」と解説している。つまり、これは相依相入であって、禅の「喝」であり、「持っているのならあげよう、持っていないのなら奪うぞ」なのである。盤珪(ばんけい)の「このまま」から「そのまま」へなのである。しかし、そこに、よしんば矛盾や葛藤があろうとも、それも「そのまま」、そのかわり私と汝も一切が「このまま」なのである。

 このような「絶対矛盾的自己同一」を瞬時においておこしたとき、そこに西田は「平常底」があらわれると見た。そして、そのようになること、そのようにすることを「逆対応」と名付けた。

 すでに親鸞は「悪人こそが往生する」と言った。これは親鸞における「逆対応」である。その論理を超える論理には「絶対矛盾的自己同一」がある。日本仏教は早くからそれを「自然法爾(じねんほうに)」とも言ってきた。鈴木大拙はそれを「即非の論理」とも言った。

 なににつけ、そこには「一抹の無」というものがまぶされているとよいのである。「一抹の無」の混入を「面目の変換」だとみなせばいいのだ。

 西田幾多郎はあくまで哲学をまっとうしようとしたが、その西田を読む者は、無の自転車でそのへんを乗りまわり、無の茶碗で一服の茶をいただけたとおもうのがいい。それでももし、西田のように思索をしたいのなら、「人生坐り込み」だと観じるべきなのである。

 

相互作用そのものを軸に考えるという方法を導入した。この相互作用をおこすことを西田は「行為」とよんだ。また、そのような行為に気づくことを「行為的直観」とよんだ。

 こうすることで何を考えようとしたかというと、以前には「働くもの」と「見るもの」を分けて考えていたのだが、いわば「働くことが見る」「見ることで働く」というふうに、見方をごっそり掴みきったまま、そのまま動かすようにした。

 

 まことに思い切ったものである。かつて西田は「見るものなくして見る」とか「形なきものの形を見る」というふうにしか言えなかった。そこを一気に「行為的直観」が作用そのものとなって動けるようにした。その作用が「主観と客観」や「我と汝」を問うて相互作用になること自体をもって、世界を語ろうというふうにした。

 西田は、こうして「行為」を全面に出しながら、ヨーロッパ哲学の原点に変更を加えていった。さかのぼっていえばアリストテレスがテオリア(観相)、プラクシス(実践)、ポイエーシス(制作)と名付けたところのものを、「プラクシス=ポイエーシス」に当たっているというふうに組みなおした作業にもあたっていた(ポイエシスと西田は綴っている)。

 西田がポイエーシスに注目したのは、行為というのは「作る」ことであって、そこには自己や意志を作ることも含まれると見なしたからである。西田は「行為的直観」という用語をつかったが、ロラン・バルトならば「行為者」ともいえる発想がここに生じたとみていいだろう。物語学(ナラトロジー)なら「物語の行為者」と、スペンサー・ブラウンなら「行為の代数学」と言ったろうか。

 西田はこのような考えかたを驀進させるにおよんで、「身体」や「道具」にも注意を払った。とくに「制作的身体」と「歴史的身体」を重視して、身体は行為における主体であって精神であるという、これまたメルロ=ポンティから大澤真幸までが挙ってそのことを言いたかったのだと言いそうなことを、平然と披露したのである。

 では、「絶対無」や「無の場所」はどうなったのか。すべての相互作用や行為に鏡のように寄り添っていた。「無」を思索に入れない西田は、生涯において一度もなかった。

 かくして西田に晩年の円熟が訪れる。ふいに、まったくふいに、有名な「絶対矛盾的自己同一」と「逆対応」が持ち出されるのは、ここである。

 その前に、晩年の西田が最初に自分の構築しつつあった哲学の特徴を「一即多」とか「多即一」というふうに見なしていたということを付け加えたい。西田は個物と一般者の関係を、まるで鈴木大拙が晩年に華厳に耽ったように、融通無礙に動かすようになったのだ。 そしてその直後、そのような「一即多」とか「多即一」を成立させている世界の見方は「絶対矛盾的自己同一なんだ」とふいに断じた。ついに西田は哲学の禅僧になりきった。最近は、杉浦康平が「一即多」「多即一」をグラフィックに解いている。

 

相反する二つの対立物がその対立をそのまま残した状態で同一化すること。ドイツ流の弁証法においては二つの対立物はその対立を変容させることで新しいテーゼを生みます。(テーゼ⇔アンチテーゼ →ジンテーゼのことです。)

西田の哲学においては対立は解消せず、その対立が実は一体であることを実感することによって人は悟りの境地に至ります。たとえば天と人とは対立物ですが、ヘーゲルの弁証法のようにいくら人間が天に近づこうと思っても道は遠ざかるばかりです。ところが「我はすなわち天なり。天すなわち我なり。」と悟った瞬間、世界観が一転するわけです。この境地が日本人が禅において、あるいは武士道において目指してきた世界であるわけです。

 

 

新しさと体とヨーロッパ

スイッチはオンとオフがある。

新しいものを受け入れるスイッチ、そうしないスイッチ

新しいものは知らないことなので恐怖であり、不安であり、不審である。

新しいものは得体がしれず、体に悪い可能性がある。

ところが新しいものを、そのまま置いておくやり方がある。

箱を開けずに、中の仕組みが分からないままに放っておけばいい。

その箱が心や体にとってよいことならば、「命の力」が箱を周りから溶かしてくれる。

そして時期が来たら新しいものが自分の姿を現すだろうから、それまで待っていればいい。

 

モノを分ける快楽      理解すること、分析すること  理性の中の合理性、合理性をベースにした学問

モノを分けない悦楽     大歓喜 仏教用語で現世の欲求を超越したところに得られる精神の安慰満足

 

私たちは分かっている。新しいものを古いかごの中に入れて、試すことなく既知なるものとするペテンを。

私たちは知っている。 新しいものをそのまま受け入れてしまい、驚き、面倒を起こしている数々の事を。

 

私は新しいものは暇な時にしか試さない、失敗を前提にして。普段は、誰かが成功した道の跡だけを歩いていく。

例外は私と一緒に行こうという先輩がいる時、そして自分の専門分野。

それでも「体からのメッセージ」が不安を発していれば途中でやめて引き返す。

 

ヨーロッパ文明の中では、

頭はリベラル、合理性や実証や理念の「ものさし」を使う。

するとヨーロッパの脳は何かを反省をしたがっているのがわかる。

 

心は保守、意識と無意識が渾然一体となっている。

特権階級である選民の感情が意地になっているのがわかる。

 

体はお粗末、本能が硬くなって枯れていくのがわかる。

なんとヨーロッパではこの三つが共に破滅に向かいたがっている。

 

「いのち」と向かい合わないために

常識を言い訳にしている

専門家を言い訳にしている。

学問を言い訳にしている。

科学を言い訳にしている。

言葉が言い訳になっている。

 

何を本当にしたいのか?

何をしなければならないの?

体と自己に分けてしまった「マインド」はなんて言ってるの?

嘘で織り込んだ布の奥の「心」はなんて言ってるの?

覆われたギブスの奥の「体」はなんて言ってるの?

キレイゴトは綺麗ごとのユートピアの時空だけで言えばいいのに。

私たちの本音は何?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ヨーロッパの言語が信じられない理由

中世から近代で言葉の意味が変わる

視点の変化

客観と主観

内臓と脳 波動から粒子  

集団から個人