精神病の治し方   カラダに悪影響なのは「意識」

 

目次

はじめに

原因      自意識過剰 脳の思うようにならないのが自然  先進国 都会生活者 贅沢病

治療法     体を使う       汗をかく 歩く ヨガ 呼吸法 瞑想     「カラダの復権」

意識を使わない    温泉に入る ボーとする メリハリをつける  「意識の限界」

社会に貢献する    自分が社会にできることを見つける      「動機」

全体像を知る     メカニズムを知る 理性の限界と智性の可能性 「考え方」

治療の心得   自己治癒  治療者

自分を分けつづけるプロセス   自分って何?   

観察者を育てる

コラム

参考文献

 

 

 

はじめに

精神病には、分裂症やうつ病や癲癇などいろいろとある。    

参照エッセイ  分裂症の治し方    脳内イメージに誠実なうつ病    

分裂症は分け続けること、うつ病はゴール(あるべき姿)から考え始めること、癲癇は側頭葉の使いすぎと特徴は違うが共通点は「自己意識」を使う時間が多いこと。

脳内で作りあげたイメージを、脳の外側でも常に適応させてしまうことが病気の原因となる。

だから寝ているヒトや植物状態の人は精神病にはならないので、起きている人が持つ特有の「意識」の病気。

だから意識を使わない機会を増やしたり、「分ける」ことをやめて逆に元の一つの状態に戻したり、脳内イメージが通用しない体験を積み重ねたり、深層意識での「この世」との付き合い方のパターンを付け加えることにより病気の症状が緩和する。

 

精神病といわれると、「精神」という漢字の意味から、動物にはないヒト特有の霊魂(精神)がおかしくなったという捉え方や、アタマがおかしくなってしまったイメージや、感情や本能などを抑える理性に障害が起こってしまった病であるという考え方があります。

私はこのどれも誤謬の見解だと思っていますが、

参照エッセイ   理性のできること・できないこと  大学に行ってパーになろう

 

まずは精神病が日本語に翻訳される前の mental illnessに注目してみます。

Mentalとはラテン語のmensに語源を持ちphysical(肉体)を対語にする語句で、日本語ではココロと訳されています。このココロとは「自分」を肉体とココロの2つに分けた時のココロを意味しています。

肉体ではないものですから他の言葉でいうと、自分の中にある目には見えないもの全部を指し、一言でいうと「意識(表層・中間層・深層意識)」や現代医学では範疇の外に置かれている「魂魄」ということになります。

「魂魄」については別の機会(参照エッセイ 自分の中の4人のプレイヤー)に話すこととして、ここでは「意識」は大脳皮質と強い関係性があることに注目します。

この大脳皮質の細胞が完全に死滅したケースで意識が復活した例がまだ人類史上にはありません。

この大脳に障害があると意識に影響があることは明確です。

ですから精神病とは意識に障害がある病であることから、大脳について深く理解することで分かることもあるでしょう。

 

脳の構造やそこから推定される機能やメカニズムを理解すること(参照エッセイ 脳は可愛がってあげなくっちゃ)で、脳が持つ特有のクセやパターンを理解して、精神病を治しちゃおう、という提案です。

そんな脳のことを知るのを面倒くさい人は、「治療方」の項目から読みはじめて、をただそれを実践するのが早くてシンプルでおすすめです。

先に言っておきますが、この場合の「治す」とは完治することではなく、精神病と程よく仲良くやっていきましょう、ということです。

というのもアタマを利用する限りは私たちはみんな精神病なので、完全に直っている状態などはないからです。

病を除去するのではなく、暖かく見守り、包んであげるのが精神病と接する時のコツだと思っています。

 

 

原因

はじめに精神病とは「意識」の問題でもあり、誰もが精神病だといいました。

それは脳のメカニズムがヒトを精神病に導いていることからこのようにいったわけです。

脳は刺激を電気信号として受けいれ、そのオンとオフや、プラスとマイナスをベースにして信号を積み上げて加工して情報に変容させ、この世とつながりを持ちます。神経管で感じることができる世界観のことです。植物や微生物にはなく、昆虫や魚にはあるこの世の捉え方です。

アタマからみるとこの世がどのように見えるのか?

ちょうど私たちが今、この世界を感じているようにです。

喩えでいうと、真っ暗闇に懐中電灯でスポットライトで光を当てて、光の枠内だけを分けつづけてそれを分類という「カゴ」に入れ、一つづつにラベルを貼ることで、対象物(光が当たっている囲まれた部分)のことが分かった、というとらえ方です。そして「カゴ」の中で何か法則でも見つけたらもう、自信満々です。

これが意識がこの世をとらえる方法ですし、アタマがしていることですし、理性がすることですし、モノを知るということですし、自己意識が働いている状態ですし、視覚が無意識の内に行っている作業ですし、認知学が明らかにしようとしているメカニズムです。

 

そして、これが精神病の原因です。

こうやって対象物を分けるだけではいいのですが、分け続けることに取り憑かれてしまうとこの世で生きることが難しくなります。

というのも「分け続け」ていると、その間はエンザイムや成長ホルモンや免疫細胞を生成する効率が下がり、カラダにとっては害になるからです。

参照エッセイ 脳が忙しいとカラダは弱る 二元論を必要とした訳

脳のためには交感神経の活性化がいいのですが、カラダのためには副交感神経の活性化も必要なわけです。

「分け続ける」とは自己意識を中心にして「思考」している状態のことです。

この状態が続いている限りは、肉体は主導権を取ることができず、抵抗力も新陳代謝も自己治癒力も弱まり、これがある地点を超えてしまうと、暮らしづらくなる兆候が表面に出てきます。

これが「これ以上は意識を使わないでください」というカラダからのメッセージです。例えば、発熱や、疲れや、痛みや、倦怠感や、ヒステリーや、億劫な心持ちや、気分がすぐれない状態です。

それなのに、行動を変えないとカラダはもっと明確に表面に出てきて、いわゆる精神病となります。こうなると社会活動も難しくなりますので、負のスパイラルに突入することになります。

原因は、自己意識が次々と分け続けようとしてしまうクセから発症するので、このクセを止めることが第一です。

ではなぜ自己意識が過剰に分け続けてしまうのでしょうか?

それはそのような環境にいるからです。

精神病の少ない環境もあります、もしくは病いとして問題にならない地域は、山や森や海などの自然の力の強いところ、後進国、村、どれも人(自己意識)の思い通りにはならない時空です。

それに対して精神病が多く、これが問題となる時空はどこなのでしょう?

人が多くルールが必要な地域、効率化された空間、先進国、都会生活者、貨幣文明圏、ホワイトカラー

参照エッセイ 人口密度と変動率で考え方が決まる

精神病の本人はたいへん苦しまれて生死にかかわる問題ですが、山や森で暮らす人々から見ると、実情が理解できないので都会人の贅沢病だろうと感じている人もいます。カラダがしたいことやカラダを動かさざるを得ない環境にいればそんな病気にはならないだろうという考えです。これは一面的な偏見ですが、ここにも精神病を治療するヒントがあります。 

 

脳が求めることだけをするのではなく、カラダが求めることを実践してみるのが治療の第一歩です。

 

治療法     

治療法は以下の順番でやっていきます。

1 自己意識を使わない  温泉に入る ボーとする メリハリをつける

2 体を使う       汗をかく 歩く ヨガ 合気道 体操 ダンス 呼吸法 瞑想 

3 社会に貢献する    自分が社会にできることを見つける

4 全体像を知る     メカニズムを知る 理性の限界 この世の認識の仕方

 

少しでも元気な人は2の「汗ばむ」ことから始めることをお勧めします。

しかし重症な人で、体を動かすことがしづらい人には、1の意識を使わないようにすることから始めるのがいいかもしれません。

精神病の長く続いているケースには、依存症(飲酒、病院のシステム、社会保険のシステム、過剰な安全圏)、昼間まで寝ている(メリハリの欠如、セロトニンやオキシトシンの生成不足)、運動不足などの傾向があります。

 

私の定義では脳(意識)の使いすぎが精神病の原因ですから、まずはボーとすることから始めます。

一番のおすすめは入浴して何もかも忘れてしまうことです。近くの銭湯や温泉にでもいってのんびりすることがいいでしょう。こうしている間は「思考」することはないので、自己意識は発動されません。

ハンモックに揺られて雲の形が変わることを見ていたり、目をつぶって雨音を聞いているのも効果的です。

カラダとココロとカラダを緩めるのが治療法の目的ですが、そのためにはメリハリがあることも重要です。

緩和は緊張の後にきますから、まずは集中や緊張させることで力の抜けた状態を実感することもできます。

ポイントは「波のように」山と谷の両方を大事にすることです。

 

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少しは動きたいという人で庭がある人や近くに空き地がある人は雑草取りがおすすめです。

この雑草や庭の世話をしている時が一番ボーとできる人も多くいます。

 

 

次に本丸。カラダを使うということです。

はじめに「意識」によって「自分」が分割されて肉体とそれ以外に分けたところが問題の始まりなのですから、元に戻って、切り離してしまった肉体の復権が近道です。

汗をかくことが一番の特効薬です。

汗ばむ程度に早歩きをしたり、ヨガや太極拳や合気道やダンスを実践したり、呼吸法や瞑想法を習うのが私には相性があっていました。

いちばん大切なのは、本人が心地よく感じることを心地よく感じる方法で心地よく続けるのが一番だと思います。

私の場合は面倒くさがりなので、「飴と鞭」で自分がカラダを動かすように誘導しました。

 

鞭(むち)といっても楽しみながらできるものがいいので、昔から関心があって実践していたシンプルな生活の実践にしました。公園や河原に野草を取りに行ったり、空き地に山菜を取りに行ったり、山に薪を取りに行ったり、美味しい湧き水を汲みにいったりすると知らないうちに体を動かしており、気がつくとカラダが汗ばんでいました。

 

飴(あめ)は、好きな温泉やプールや水遊びや食べられるものを近所で探すことでした。各自が好きなことは違うので、カラダを動かしても億劫にならない習慣を自分の過去を振り返って探してみるのがいいかと思います。

 

どちらにしても、カラダを動かそうとしても面倒になってしまうように脳(無意識)はできています。

脳は燃費の悪い臓器で、多くの酸素と栄養を必要とするので、新しいことをしようする時には言い訳を見つけてブレーキをかけて、これまでのパターンを繰り返そうとするクセがあります。

それはまだタスク(やろうとしていること・やっていること)の魅力やその結果のイメージが明確化できていないためでもあります。

そこで、脳は騙されやすい性質があるので、苦痛をも楽しくできる方法を探してみます。

例えば単純作業のリズムの心地よさ、複雑作業のパズル感覚の楽しみなどなど。

やる気はやり始めてからはじめて出てくるのが脳の構造だからです。

とにかくまずは手足(末梢部位)を動かしはじめることで、徐々にやる気は目を覚ましはじめます。

はじめにやる気を上昇させるのではなく、先に体を動かしてモチベーションがあがってくる準備をするのがいいかもしれません。

ゴールから考えるのではなく、心地よい手先の動きや触感、柔軟体操の心地よい痛きもちよさだったりです。

 

3つ目の社会貢献とはボランティアをして何も良い社会人になろうといったことではありません。

自分のための生活で必要なことは自分でやる、そして次にできることがあれば、周りのためにも少しカラダを動かすということです。

自分を守るために生きる世界と周りの人のために生きる世界では感じるものや見えるものが全く違うからです。

これは老人ホームでもいえることで、すべてを施設に面倒みてもらうのではなく、身の回りの掃除をしたり、たまには食事やおやつをみんなで作ってみるなどして、当たり前のことを自分ですることからはじめます。これだけでも介護の人は助かりますから、十分な社会貢献です。

目的はまずは自立への第一歩、次に他者の目を通しての自分を知る、ということです。

 

脳は脳にとって都合の良いことしか実践しない傾向があります。当たり前のことですよね。

自分(自我)がしたいことをしようとするということです。

そしてウツのようにしたいことがなくなった時には何もする気力がなくなってしまうのです。

それで「行動の基準」を自分の脳のやる気だけに任せるのではなく、他の人のやる気(願望)にも対応させるのです。モチベーションの軸を2つ持つというやり方です。自分が何をしたいのかというこれまでの軸だけではなく、同居人や隣人や近所の人や社会の人が私に望んでいることをカタチにするということです。そんなのは面倒くさいと感じる時はそんなことをする必要はもちろんありません。

ただ他者や社会とつながっていることに喜びを感じる体質であれば、ウツで自分自身は何もやる気が無くなっている時にでも、この喜びを利用して、周りの人が求めていることをモチベーションにすることができれば、カラダを動かすきっかけになります。近くの公園に落ちているゴミ拾いや近所の神社の神主さんと前もって話をして天気の良い時には掃除をするなどなんでもいいので周囲がしてほしいことをするのがいい。

社会貢献とはボランティアとは限らず、時給800円の仕事をすることも含まれます。

8時間働こうとすることで大変なストレスを抱える人はたった1時間でもいいので働くことで社会とつながることが治療というか、「動物」」として暮らすには重要だということです。数時間だけのほうが喜ぶ雇い主も多いことでしょう。

 

自分探しとは、本当の自分を探すことではなく、周りの人がしてほしい事をわかることであるように。探すのは自我がしたいことではなく、自分のカラダや周りの人がしたいことです。

ポイントは自分の脳内だけの世界から外に出て、そこでの常に移り変わっている世界に身を置くことです。

時に身を任せ、時に対応しながら。

自分の脳内ではすべてが想定できる社会ですが、脳の外の世界(カラダ、社会、自然、この世)は、来月の天気予報のように、統計的に推定はできますが誰にも正確に予測することができません。

ところがカラダの法則はシンプルです。動かすところは維持しますが、動かなさいところは退化します。

「動物」は動くからこの世にいる意味があるので、動かくなったらこの世ではいられないようにできています。

 

4つ目は、カラダとココロとアタマの仕組みを図解で理解してみることです。

全体像を掴んでそれが腑に落ちるのを「待つ」ことです。

すると、脳や内臓のメカニズムを知って、それぞれの役割やできないことや他の器官のセンサーの存在などを体感すると、精神病の治療に効果が上がります。これまでの分類して理解する方法ではなく、一つのままで体感する経験です。

2つに分けてカタチにするだけではないという可能性を知ることで、まずは「考え方」で治療します。そしてその後は実践して思考ではなく体感するだけです。

これまでのこの世の交流(認知)の仕方に、隠れていたり忘れていた方法も付け足して上げる方法です。

 

 

4つのパート

神経管の進化に伴い複雑化した脳を簡単に分類してみると、脳には4つのパートがある。

大脳皮質以外にも大脳辺縁系や脳幹がある。

 

 

部位

機能

目的

把握方法

関連器官

場所

人口密度

意識

大脳新皮質

一般化・言語

合理性

法則

自己意識

大都市

過密

意識

大脳旧皮質

感覚・筋肉運動

効率性

因果関係

感覚器・筋肉

潜在意識

大脳辺縁系

情感・条件反射

個の維持

波動

循環器系器官

潜在意識

脳幹

いのち・反射

種の保持

融解

消化器系器官

小屋

過疎

 

アタマとココロとカラダのセンサー

 

 

器官

機能

「自」のとらえ方

関連する脳

観察者

アタマ

神経系器官

思考・法則

自己・ペルソナ

大脳新皮質

表層

アタマ

五感器官・筋肉

反応・意思

自我・主観

大脳旧皮質

表層

ココロ

循環器系器官

条件反射

自動的・機械的

大脳辺縁系

中間層

カラダ

消化器系器官

反射

自分

脳幹

深層

 

ヒトの一生の視点

 

 

区分期

意識の可能性

意識の入口

意識機能

1と2

生活

他との繋

哲学

美学

観点

主要基準

幼児期

先験的

作成

開く

分ける

1→2

経験

共感

カオス

成長

主観

感情

青年期

可能性

閉じる

白を選択

2・選択

論理

言葉

二元論

正義

客観重視

理性

壮年期

成熟期

限界

開閉

黒の再評価

2→1

 道

陰陽一致

相反一致

多層

主観=客観

智性

老年期

通用不可

開ける

分けない

ボケ

非分化

一元論

往生

主客交代

老人力

生前死後

 

 

 

1も2も

 

 

空論

再生

大きなもの

 

 

 

この世の認識の仕方

はじめに自己意識とつながりが深い大脳皮質以外にも脳にもいろいろある(新旧の皮質、大脳辺縁系、脳幹)ことに気づいてあげる。

次に、脳を基準にするだけではなく、他の器官のセンサー(筋肉、リンパ、血管、脳脊髄液、心肺、小腸)にも気づいてあげる。

 

脳の認識の特徴は電気信号のオフとオンを使い、一つのモノを2つに分けることでカタチにしていくことです。

宇宙という見えないものを「天と地」に分けることで見えるものにしたり、一つのケーキを2つに分けることで左右、上下、大小、軽重、遠近、明暗、内外、優劣と対立するものが生まれ出てきたように。

 

このような脳の認識の仕方に比べて、循環器系器官のセンサーでは一つのものを分けないで把握しようとします。

脳を退化させたホヤや微生物や植物はどのようにして環境に対応しているのでしょうか?

具体的には、対象物を両極を持つ「波」のように把握して、その波動に共鳴することで体感するという方法です。

波とは勢い(加速度の力)のプラスとマイナスを一つとしてとらえることです。

動と静を波の一つとしてとらえるのが循環器系器官の特徴です。

視覚がなくても脈の強弱、急緩、速遅をリズムとして把握します。

 

対象物を分析するのではなく対象物を抱きしめる感覚です。

心地よさが特徴で波の山と谷のように性質は相反して違うが一つにつながっており、脳の二分法と比べると、尖っているのではなく滑らかで、急ではなく緩やかです。

 

プラスとマイナスや光と影のように一見すると対立しているものでも、波動の中では流れの過程として捉えます。

ですから神経系器官の特徴である電気のオンとオフの二項対立ではなく、光の密度が高くなると明るく、密度が低くなると暗い、と全体の流れのリズムの一部として体感します。

見える形になると陰と陽や、マイナスとプラスにいう対立する二つの世界になってしまいますが、これを「波動」として捉えると、相反するのは「あちら」があるからこそ「こちら」もあるというお互いが補完し合う関係になります。

そしてこのプラスとマイナスの「波」を使ってこの世と関わる方法でもあります。

肺臓でいうと、呼吸という方法で外界の空気を吐き(呼)、次に空気を取り入れる(吸)ことで、交流しています。呼吸は一つではなく、呼と吸でセットになってはじめて機能します。

心臓でいうと、血管という管を使って、動脈で養分を運び、静脈で老廃物を回収しています。

このようになんでもプラスとマイナスがセットになるものが体感されます。

 

これを「自己意識」が理解できるように過剰一般化して拡大解釈して翻訳すると、この世は善悪も白黒と分かれて見えるのもすべて仮の姿で、実際は二つはつながっていてセットになることで成り立っている、とういう世界観です。

 

波動の特徴

波長、速度、波形によって、それぞれの特性を現れてきます。

共鳴のように波動は力を持っているので、響く器があればその力は伝導します。

また、唸りといって、二つの波動が重なることで、新たな波動が生じ、新たな機能を持つことになります。

 

一つの中にプラスとマイナス、光と闇、陽と陰、白と黒を見つける

これを逆から見ると、カタチになっているものは相反しているものが結合してできているという捉え方です。

カタチになったモノの中に一見すると相反する二つの「極」を見出すのも、この循環器系器官の特徴です。

また、カタチになった時の片方の極のシンボルになっても、中身には反対の極が内在しています。

例えば、プラスのカタチに見えているものでも、その中にマイナスを見つけることができ、反対にマイナスのカタチの中にプラスを見つけるのも、この世界観の特徴です。

人間でいえば、男性の中に女性原理をみつけ、女性の中に男性原理をみつけ、それらを大切にするということです。道教ではこの陰陽の関係を図柄でシンボライズしています。

眼(意識)で観たと時とは違って、この世を波動が織りなしている光景として感じるのが循環器系器官のセンサーです。

そして、これに消化器系器官のセンサーが加わると「対象物と観察者」という関係も渦巻きの中に溶け込んでしまって一つになる体感の世界も体験します。

 

脳のメカニズム

脳の目的は意外にシンプルです。

本来の目的は「サバイバル」のための効率化でした。

 

「自我」を守る

快に近づき、不快から遠ざかる

矛盾を排除する

自動回路を作って意識の利用をサボる

 

ところが上記のメカニズムを多用しすぎて、今では逆に「いのちの働き」に反するようにまでなってしまい、その一つがカラダからの忠告である精神病です。

目的達成のつもりで始めた行動がいつの間にかメカニズムに乗っ取られたことを知らせるメッセージです。

 

この精神病を治すのは、ちょうど大雨で土手が決壊しそうな川べりを再建するのに似ています。

まずは水流を弱め、次に水の流れを変え、そして最後に削れ取られた土手の修復します。

これを逆の順番にすることはできません。いくら削られたところを補修しても、水流がまた削っていってしまいます。

 

この水流とは外からの刺激を感知する「意識」のこと、そして土手とは「カラダ(いのちの根源)」ことなので、

まずは意識の多用を減らします。これが、

1 自己意識を使わない  温泉に入る ボーとする 早起きして昼寝する。 

それからメリハリをつける。

できるだけ外から入ってくる情報の量を遮断します。ただ全部遮断してしまうとアタマもカラダも平坦になって活動しなくなるので、意識を使う時と使わない時のメリハリをつけます。掃除・洗濯・料理などの身の回りのことをして、それが終わると今度は充分に休息をとって意識を休めます。

 

次に水の流れを変えないと土手の土が削られるのが続いてしまうので、意識の関心のスポットライトを変える必要があります。

これが、

2 体を使う       汗をかく 歩く ヨガ 合気道 体操 ダンス 呼吸法 瞑想 

これまでは肉体の外側に関心が向かっていたので、外への関心をやめて、それを自分の内側へと方向を180度転回させます。

皮膚、筋肉、内臓、血管という自分の内側の変化に気づいてあげるようにします。

ポイントは「変化するもの」です。

生まれては消えていくモノ、すなわちカラダの変化に関心を向けるようにします。

たったこれだけのことで、これまでの意識の流れが土手を削ることがなくなります。

ちょっと信じられないかもしれません、あまりにシンプルで。

こんな単純で簡単なことだけですべてが変わるのです。

決壊しそうになっている土手のほんの少し上流に板を舵のように置くだけです。

すると流れは土手の方向から川の真ん中へとほんの少し変わります。

ほんの少しだけでいいのです。

これで関心が肉体の外側(視覚などの五感)から肉体そのものにほんの少しだけですが変化します。

この急激な変化を世間では魔法と呼ぶかもしれません。

魔法の正体は自然(いのち)の摂理(法則)です。人のはからい(計、測、図)などは届かない原理です。

時に厳しく、時に優しい、不思議な妙力です。

 

この方向転換の作業を続けていると、物理的なモノの変化だけではなく、ココロと呼ばれる感情や条件反射と呼ばれるこれまでの自分が作り上げてきた自動的な仕組み、すなわち梅干しを見たら唾液が出るようなインプットがあると勝手にアウトプットが実行されている回路が信じられないほど山積みになっていることに気づいていくでしょう。

 

次に削り取られた土を復興させていきます。

それが、

3 社会に貢献する    自分が社会にできることを見つける

社会(自然の摂理)と自分のカラダ(土)とは関係がないように思っているかもしれませんので、どうして土が削れてしまったのかを説明してみます。

川がゆったりしている場合は水流が土を運び、川辺に泥や小石が堆積して岸を作ります。ところが激流になった時には土手を削ってしまいます。水流にはどちらの作用もあるからです。

作られた人工の土手もありますが、もともとは川の流れの長い長い作用によって土や石が両端に積み重なって川辺ができました。

また土手を削ることは必ずしも悪いことではなく、遠くから見ればそれは新陳代謝であったり、大きな変化という再生のケースであることもあります。

 

では、この水流はどのような時に激しくなり、どのような時に緩やかになるのでしょうか?

台風などで大雨が降ると濁流になり、静かな雨だと緩やかなままです。

 

さきほど、水流とは意識の喩えだと言いました。

ヒトはこの意識のおかげで肉体に栄養を運びいれて生きています。だから意識が悪いといっているのではありません。しかし意識が強くなりすぎたり、常に優勢となって量が多すぎると、カラダに害を与えることになってしまいます。

意識や理性を信用したり好感を持っている人にとっては、はじめは信じられなかったり理解しがたいことがあります。

それは意識の本性とは激しい水流であり、「思考(法則・一般化・言語)」が大雨だということです。

意識との距離感を上手に保つ練習を積みかさね、時に意識そのものを上手く操縦してあげないと、意識が自分のカラダや「いのち」を削ってしまう道具でもあるということです。

便利であるけれども、危険なものだとも言えます。

虫の意識やヒトの五感器官の意識は緩やかな水流ですが、「思考(法則・一般化・言語)」は激流なので取扱い注意です。そんな事を言っても思考がないと生きていけないと思う人も多いでしょう。

なにも24時間思考を使うなと言っているのではなく、使う時間を少し減らしてみては、という提案です。

もう一度、先述した思考がなくてもこの世に存在している生命体は植物をはじめ多くあることを思い出してください。 思考だけではなく脳の意識はなくてもこの世に存在することはできます。微生物や睡眠時のように。

 

参照エッセイ 

ユートピアを使えば他人を踏みにじれる   

インカの智慧・脳が体を殺す時代

 

「思考」はとても強いエネルギーだと言い換えてもいいかもしれません。

ですから脳内で作り上げた意識をそのままに放おっておくと、脳にとっては自明の正しい法則なので迷うこともなく真っ直ぐに大量に流れるので激流となって土手の土を抉ってしまうのです。

そこでこの意識という脳内の回路を脳外にある自然(いのち)の摂理(法則)に触れさせる必要が出てきます。脳の外にあるものならば何でもいいのです。

ただ脳が作ったものは効果が薄いです。例えば、エンジンの設計や都市生活では。

というのも、そこには自然の摂理が見えにくい状態になっているからです。

一番かんじやすいのは「いのち」と一体になることですが、急にそんなことを言われても訳がわからないと思いますので、まずは自然の摂理が少しは浸透している「社会」すなわち「脳の外にあるもの」と接触を持つのがおすすめです。

そうすると水流は激流から穏やかになる可能性が高まります。「社会」といっても社会の悪いところを批評するのではなく、身近な家族や仲間や共同体の欲していることを聞いてみて、それを実践してみるということです。

するとこれだけで大脳皮質の本性である「思考」の激流がおさまり緩やかな「五感の意識」の流れに変わります。

こうなれば、これまでの脳(意識・無意識)の自動的な反応にまかせておいた激流(回路)をカラダのための流れにすることで土手が自動的に再生していきます。

 

2の「体を使う」で、関心を肉体の外から内側に変えるだけで、ココロと呼ばれる感情や条件反射と呼ばれるこれまでの自分が作り上げてきた自動的な仕組みの回路が信じられないほど山積みになっていることに気づいていくと書きました。

ときには、その気づいた回路をカラダにとって都合の良いように書き換えることが精神の病を治すのに必要なときがあります。

参照エッセイ  考え方を進化させる   既知から未知へ

その時には、情感が伴うような落ち着かない気持ちで書き直すと、それがまた勝手に反応してしまう条件反射になってしまうかもしれないので、改善したい回路を心安らかな落ち着いた心情で包み込むことが大切になります。

 

こうやって激流が削った土を元に戻すことができるようになります。

これには

4 全体像を知る     メカニズムを知る この世の認識の仕方

のが未来において、同じことを繰り返さない智慧になります。

何故こんな事が起こるのか分かれば、次からは自分の望む方に意識を向ければよいだけです。

参照エッセイ コルディレラ山脈  意識が生まれる瞬間     新しいものを自分のものにする

 

 

精神病と二分法 図表

與那覇さんという学者は、躁うつ病になって入院することによって、言語と身体の2分法こそが正しい意味で脱構築されねばならない、と分かったそうだ。彼は2分法自体が無効だと糾弾するのではなく、その2分法がどういう無理をしているかをきちんと自覚したうえで、有効な局面に際して使っていくということで、例えば、言語の方が身体より高尚で一段上だというのではなく、逆に、ことばというのはたやすく理性を裏切ることがある、と分かったという。

しかし、同じ人が、

言語と身体という2極を頭に置いて考えると、言語によってこそ人は複数の個人を結びつけ、より大きな一体感が得られるのに対し、身体の方はあくまでも自分という1個の個体に自己を閉じこめるみたいになる、と言う。

また、彼の実感としては、うつは言語より身体の方に寄っており、軽躁を含む躁状態に入った人間のあり方は身体より言語の方に極端に寄ってくるのではないか、という。頭の中でどんどん想念がふくらんで、こんなやつは殺してかまわない、殺されて当然だというところまで行き、しかし、相手の身体を目の前にすると、さすがに面と向かってバカとか死ねとかとは言えないという局面に入るのだそうだ。

これは有効な局面で使う二分法ではないことを本人も自覚しているだろう。

 

それなのに、なぜこのようなことになるのか考えてみた。

これは理性で二分法は脱構築しなければならない、と判断しても、思考する時に無意識に利用している図表(イメージ・「想蘊」)が固定化されしまっていることに起因する。

具体的に、上記のような人が使っている言語と身体のイメージは下記のような図になる。

 

 

 

 

 


だからいくら理性で二分法を脱構築を試みても、気を抜くとすぐにこの図が意識に出てきてしまう。

 

ここで、生命体における言語と身体の関係をもう一度考察してみよう。

シンプルな例でいうと、植物は言語は持たないが、身体(根・茎・枝・葉)は持つ。

アリも言語は持たないが、身体(手足・頭部・内臓)は持つ。

胎児や言語障害者は、言語は持たないが身体は持つ。

すなわち身体があっても、言語を持たない例は多い。

 

では逆に、言語を持つが、身体がない生命体はあるのだろうか?

 

生命体においては、まず身体があり、その中に言語を持つものが特例としてある。

すなわち、言語はなくても身体はあり、身体がなければ言語もない。

言語と身体の関係は、同列にあるのではなく、言語は身体の中に含まれている。

Oval:               

 


身体

 

 

 

 

それなのに、なぜ並べてしまったのか?

それは「意識(注意、カーソル)」が全体像ではなく、オレンジンの部分にスポットライトを当てたので、左側には言語、右側には身体が並ぶことで2つが同列のように見えたためだ。

スポットライトの枠組を拡大することができれば、2つの含有関係が浮かび上がる。

この図表のイメージを持たないかぎりは、いくら意識(彼の言う理性)によって脱構築しても、元の木阿弥となる。

 

彼は上記のようなスポットライトを使うことで、論文を書き、そして大学の先生になれた。しかしこれを多用することで躁うつ病を患った。

この意識のスポットライトを使うことこそが、精神病となるはじめの第一歩となる。

これが一番始めに、「誰もが精神病である」といった意味だ。

 

 

パソコンに例える

うつを身体的、躁を言語的というような並列的な分け方をしないために、精神病をパソコンに喩えてみるのも一案だ。そうすれば「身体(基盤)がある生命体の中に言語(一般性、抽象性、法則性する機能)を持つものがある」ことをアタマではなく実感で捉えることができるかもしれない。そして、これがどうやって精神病と付き合っていけばよいかヒントになるかもしれない。

適切でないアナロジーやメタファーを使う指導者はそれに従う人たちに害を与える。もし医師がこのような安易な二分法を使っているのならば、実際の被害にあうのは患者自身だ。 

いのちある生命体に「機械」というメタファーを使うのでは、本質的な比喩にはならないが、それでも表層的な類似点を確認することで、カラダに害を与える思考法を避けることはできる。

「身体」にこそ、言葉の源泉があり、かつ「いのち」そのものであることを証明できていない(関心を向けようとしない)現代科学の状況では、このような方法で、知識人が使いたがる二分法のメタファー(身体・言語、肉体・精神、機械・意識、感情・理知)と、それに伴う優劣の選択行為とは違う視点を提示してみる。

 

 

統合失調症

パソコンを使う人ならばドライブという言葉をきいたことがあるだろう。

「ドライブ」とは、パソコンの本体と接続してデータの読み出しや書き込みができるデータ記憶装置のことです。ハードディスク(HDD)や SSD、光学ドライブ(DVD,CDMO)や記憶メモリー(USB,SD,Flash)など様々な種類があり、パソコンに接続すると「Cドライブ」「Dドライブ」といった名前で区別されます。20世紀ではAドライブとBドライブにはフロッピーディスクがよくあてられていました。

パソコンを立ち上げる時に、どのドライブから始めるか指定する( BIOS設定)ことができ、それによってパソコンの性質(OS,初期設定、条件設定)を変えることができます。多くのパソコンではCドライブにプログラミングされている設定で立ち上がります。

これはヒトでいうとが目を覚ますようなものです。

次にISOというパソコン用語を知っていますか?

ISOイメージとは、国際標準化機構 (ISO) の定義した形式の光ディスク用ディスクイメージのことで、ソフトウェアをインターネット経由で転送する際のフォーマットとして使われている。

これを使うと、DVDデバイスがなくても、一つのハードディスクの中にソフト(DVDFab)を使えば最大18までのドライブを仮想で作ることができる。このように設定するとDVDプレイヤーがなくても、一台のパソコンの中に複数のバーチャルなDVDがあるように利用できる。

実際には一つのハードディスクなのだがその中にたくさんのDVDがあるかのように利用できるので、便利な仮想システムです。

しかし、デメリットもあって、複数の仮想DVDアプリケーションを同時に利用している場合には、CPUの処理能力を超えてしまって、処理スピードが極端に遅くなってしまうことがある。

また、お互いのアプリケーションの処理がぶつかり合って、それらを統合して調整しようとしても処理ができないこともある。

スピードが遅くなるばかりではなく、動作が不安定になり、同じキーを打っても再現性がなくなったり、時にはハングアップして止まってしまうこともある。

このような状態の時は、パソコン使用者の意図したようにパソコンは働かず、時には各DVDのアプリケーションの都合により動作しているように感じることがある。

これらの様子を統合失調症のメタファーとして見てみる。

 

うつ

自分のパソコンには上記したISOを使っていないので、ドライブが1つか2つ(C,Dドライブ)しかないパソコンを使っている人は多いだろう。

そしてPCを立ち上げた時に、まだどのアプリケーションも起動していなければ、CPUの処理能力が十分にあると思っている人は多い。

しかし、もしウインドウズを使っているのならば、

スタートボタン→「ファイル名を指定して実行」→msconfigと打ってEnter→システム構成の画面が表示→スタートアップのタブをクリックすると、

今、使っているコンピューターの画面には現れていないけれども、実働しているアプリケーションの数々があることがわかる。

(他にはCtrlAlt+Delを同時に押してタスクマネージャーを立ち上げ、そこにあるプロセスのタブをクリックすれば現在使用されているが表に現れていないアプリケーションが判明する)

 

このように使用者本人は、何もしていないと思っていても、実際にはアンチウイルスソフトや音声コントロールソフトや言語入力ソフトや無線接続ソフトなどの多くのアプリケーションを立ち上がった瞬間から同時に使用している。

これらのアプリケーションが可動しているだけでもCPUの処理能力が使われるので、処理スピードは鈍化する。

 

また、処理スピードが遅くなる原因は、複数のアプリケーションの使用以外では、処理能力をフルに使っても足りないほどの能力を必要とするアプリケーションの使用だ。

特に動画や静止画の編集をする時には、膨大な計算が必要なので、これまでの私の体験で言うと、Adobe Premierephotoshopを使った編集をした時に、寝る前にコマンドをしたのに、起きた時にまだ処理を続けていることもあった。そこで、これらのソフトを使う時には、時間のかかる処理はまとめて寝る前にコマンドするのを習慣にしていた。

動画の編集などで問題になるのは、扱うデータ量(バイト数)が大きすぎることが原因の場合は、それらをエンコードという簡略化することや、イラストなどを使ってデータそのものを小さいものにしてしまうことで、処理に負担をかけないようにしていた。

はじめから完全なもの(大きなデータ量)から作るのではなく、まずは簡略したものや、使いやすいプロセスのモデル化を確立することを第一優先にし、仮りの小さなデータで試してみることで計算処理に負担をかけない工夫をしていた。

完成形(大きなデータ量)から試してみると、いくらコマンドを打っても、処理機能が足りないので、CPUは目まぐるしく働いていても、画面は停滞したままで、時にはフリーズしてハングアップしてしまう。

CPUは複数の矛盾もしくは重なり合う命令を同時に処理できないようにできているためである。

 

これらのコンピュータ使用者が意図しても結果に長時間かかってしまう状態を「うつ」のメタファーとし、そして、停滞の合間に一つの計算処理が終わって元のスピードに戻る時を躁の状態のメタファーとしてみる。

 

 

 

コンピューターでこのような状態の時に事態を改善するには、

1新たなコマンド(アプリケーション)を追加するのを控える

2スタートアップ(表に現れていない)のアプリケーションを減らす

3大きなデータを扱わない

4要素が多い状況での関係性は因果関係はすぐには明確にはできないので、一対の原因と結果を追求しない。

CPU、メモリー、ハードディスクのキャッシュに学習したパターンが残っているので、それらを空にする

6フリーズした場合は再起動

 

これを人の場合に例えてみると

1新たな関心事を増やさない   → ボーとする    真面目にならない

2無意識の内に気にしていることを減らす → 心配事を減らす、気になっていることを片付ける

3ゴールや完成形から考えるのをやめる、また完璧にやろうとすることをやめる  →プロセスを楽しむことで、「あるべきもの」や「しなければならない」からの解放。

4一つの原因から病気になっているという考え方をいったん保留する。 →川を遡らず、7つの海と比べない。何故ならば、導かれる答えは脳が好む気休めでしかないから。

5単純なこと(呼吸法、草むしり、掃除、瞑想など)を繰り返して、これまでに使っていたパターンから脱する

6そのまま考え続けても改善しないので気分転換

 

このようなことを試すことで、二分法に問題があるのではなく、二分法をしたことで片方を自動的に選択する反応(条件反射)をしてしまっていることに気づくことが治療の第一歩である。

反応を止める必要はなく、ただ反応していることに気づいているだけで、条件反射の濃度が希薄化していく。

 

思考の濃度が密になり処理能力限界を超えてしまうことで、自分の意思をコントロールできなくなったり、身体からのリスポンスがなくなったりする。

思考方法をシンプルにして、思考量を減らすことで、計算処理が極度に鈍化することを避ける。

 

一言でいうと処理能力を超えた思考はカラダには毒といえる。

だからもし病気になったのならば、これを減らしてみようという提案である。

病気になっていると自覚しているのならば、原因を探すことでまた思考を続けてしまうのではなく、これらの作業自体もやめてしまうことだ。自分の体に刺さった矢を分析するよりも、まずは、ただ矢を抜いて止血することが先決のように。

 

その後に、血が止まり、余裕ができてくれば、二分法をした結果として自動的に排除してしまっているもの(影、不便、非効率、不合理、不純、ネガティブ)を再評価(抱きしめてあげる)することが次の扉を開ける鍵になる。

扉の先には、身体を実感する世界がある。

ここを歩き始めることで、本人の関心(スポットライト)が精神病の思考の苦しみから、身体の不思議さへと移行していくだろう。

カラダの深層は面白くて不思議で荘厳だ。

 

 

治療の心得

自己治癒

病院に行っても相性の合う医者に出会えるとは限りません。また相性が合っても考え方が違う時もあります。ただ、治療者と会うことで、一人でいるときとは違い、他者の目を通して自分のことを見ることができるので、こんな有り難いことはなかなかないので、医者の考え方を多いに参考にさせてもらう良い機会です。

医者の指示に従いながらも、自分で治癒していくことも大事です。医者が面倒を見てくれるのは何分かだけですから、後の時間で自分のことに寄り添うことができるのは自分しかいません。

 

「思考」しない練習、

カラダを動かす機会の必然性を作り、一日一度は少しでいいので汗ばむ日常生活、

少しは周囲ののぞみを叶える練習、すると必然的に脳内から外の世界に出ることができます。

そしてこの世を感じる時になんでも白黒はっきりつけるのではなく、この世はグレーだと一色にしてしまうのでもなく、白と黒の両方がかわりばんこに繰り返す波として感じてみることも面白いのかと思います。

この様に感じるようになると、今まで気が付かなかったことが次々と目の前に現れるようになり、カラダからのリズムやメッセージや聲も感じるようになり、気がつけば自分の病気に関心がなくなっているかもしれません。

 

治療者の心得

患者の自我がしたいことをするだけではなく、「他者」を通じて自己がいかに素晴らしいものなのかを一緒に体感しながら気づいていくのが治療者の仕事ではないだろうか?

他者とは治療者、家族、周囲の人だけではなく、本人の筋肉、内臓、呼吸、鼓動も含まれる。

 

このように患者が「他者」と接触する機会をつくることで、患者の脳内で作り上げている世界観は全体の一部でしかないという事実に気づいていくプロセスになる。

 

治療者は患者の苦しみや憎しみを感じることができるが、患者から傷つけられたりしないことを示す必要がある。

患者の脳内世界は必ずしも患者の外界では効力を発するとは限らないという事例を積み重ねるためである。

治療者には不平を言っても安全な人で、治療者のことは喜ばす必要のない人だと患者に思ってもらうことも治療を早める要因の一つになる。

また、治療者が望んでいるのは患者のココロとカラダの安らぎであることを本人にわかってもらうことも大事だ。

そのためには、患者の脳内で作り上げた世界観だけではなく、「他者」(治療者や本人の肉体)を通しての世界の面白さを患者に体験して貰う必要がある。これが真の自己としての出発点になる。

 

患者の心情は以下のようだ。

Meを見つけることのできなくなったIがいる。Iが存在しなくなったのではない、ただそれは実体がなくなり、身体を失い、アイデンティティを失い、共にあるべきMeを持っていないだけである。

「他者」を理解しようとするIが最後の破片でも残り屑でも残っていれば治療も可能であると思う。すべてのIが消失しているケースを見つけるのは難しいと思う。

 

個人的には、患者の「思考」という部屋の中から外に出るために、物理的に外に出ることが効果があるという経験がある。

雨に打たれたり、山道を歩いたり、火をおこして焼き芋を焼いたり、川で水遊びをしたり、テントで寝たり、貝や山菜を収穫したり、果物でドライフルーツやジャムを作ったりして、自己意識(思考)から意識(感覚)の世界へ移動して暮らす時間を増やすのが良かったと思う。

 

治療者がやってはいけないことは、実際以上の愛や関心があるフリをすること。

関心がない領域まで入り込み、そこで無理に「いい人」を演じることで良い結果になったことを未だ知らない。

必要なのは偽りや無関心ではなく、単なる関心である。

 

 

自分って何?

似た言葉には自我、自分、主体、主観、自己意識、自意識、わたし、セルフ、などと、詳しく見れば違いはあるけど、少し離れてみると、どれも大体似たよう意味です。

自分自身とは、さまざまな感覚の印象と記憶を統合し、私の人生を「管理し、自由意志で選択をし、一つのものとしてここに存続しているものです。

 

自分          その人自身   一人の中に4つ(もしくは30兆)の自分がいると筆者は説く

アイデンティティー   自我視点の自分定義集  自分が自分であるためのもの

自我 エゴ       自分視点の自分が考える自分  自我が強いとは、外から自分を見ずに自己中心的。

パーソナリティ     他人から見た自分の性格  キャラ(クター)  社会の中での役割・仮面

自己 セルフ      他人からみた自分も取り入れた自分    他者からの視点を含めた「わたし」

わたし         自我と自己の両方 割合は各自の自覚によって変わる もしくは自我を含んだ自己

主体          自我、自己、わたしのこと 対義語は他者、また文脈により対義語は客体

主観(クオリア)    自分視点の感覚  例)科学的な700nmの波長では説明の意味がない赤色の感覚

観察者         はじめは「わたし」と一体だが、訓練によって深層意識まで降りていける主観

 

この中で観察者という概念はわかりにくいので後でもう一度説明する。

 

例えば、自分は女だけど「男っぽい」と、周囲(他人)から言われたとします。

自分の中(自我)では「自分は女だ」と思っていても、周囲の目を通す(自己)だと「男っぽい」のです。

もし生物的に女なのに「私は男だ」と社会的な観点は一つも取り入れずに本気で「自我」で思い込んでいるとしたら、性格(パーソナリティ)が分裂している状態で性同一性障害の傾向があります。

自我(エゴ)は自己(セルフ)を動かして他者とかかわるため、他者と直接にはかかわることはない。

他者との直接の交流はパーソナリティが担当するので自己(セルフ)はそれらの指揮官。 

自己(セルフ)とはキャラではなく自分自身が本当に感じることを集積したもの。

 

ちょっと大袈裟に定義しましたので、異論がある方はぜひご指摘ください。一緒に考えていきたいと思います。

 

 

「わたし」の重層

「わたし」というのは一つだけではなく、多くの面があることは確認してきた。

それらの関係性はどのようになっているのであろうか?

宗教的、瞑想的、霊的区分ではどのような順列になっていのか表で見てみる。

 

いろいろな「わたし」   私には段階がある

これから意識の段階を説明するのに、話が分かりやすいように、表を先ず書いておくことにする。

ヒトの意識の構造は段階的になっていてこれを古今東西では呼び方を変えて解釈してきた。

詳細はリンク先や各章で説明するが、まずは大まかにどのように段階になっているのか見てみる。

インド哲学や現代心理学や仏教哲学ではどのように「わたしたち自身のこと」を定義して、それらはそれぞれがどのように対応しているのであろうか?

 

 

 

心理学 哲学

物理学

「わたし」の段階

内容

仏教

瞑想

サーンキヤ哲学khya

 

 

 

解脱

 

paraātman brāhman

 

 

 

涅槃

 

アートマンātman

 

(観察者)

変化のない実体   

観照する主体

ほとけ

阿羅漢の覚り

Vasumitraの覚り

択滅無為

観察者

プルシャ

purua霊我

 

エネルギー

超感性的な根本物質

無明のはじまり

自性

虚空無為  「空」

般若心経の覚り 

無色界

プラクリティprakti

 

直観意識

叡智 観照

消化器系感覚

腸内微生物

知る根源状態

全体性把握機能

智慧 

citta(覚・我・意)

阿頼耶識

金剛般若経では覚

八千頌般若経では大

「空」の瞑想

無形象唯識派 

パンニャ 般若

ブッディ

Buddhi

mahat 

 

分別意識

自我の根源

循環器系

器官感覚

感覚器官と心による認識

自我分別機能

mulādhāra chakraにある

自我、我執

末那識

有形象唯識派

分別する自分を基準にすることから離脱する瞑想

アハンカーラAhakāra

観察者

共通意識

(深層意識)

 

意識体の共通の意識

陽子と中性子と電子

普遍的正と邪の判断

色界

意識

論蔵の心と心所

経量部の覚り

思考、意志、疑問

他者との共通性を求める瞑想

マナスManas

アイデンティティー

自己意識

自意識

アイデンティティ同一性

個性(進化するgati)を持つ「ダイナミックな自己」

欲界

アイデンティティのある(違いを求める)私は「わたし」ではない

ジーヴァ

jīva

生命我・個我

 

 

無意識

主客未分別  集合意識

 

即非の論理

 

 

 

主観(クオリア)

潜在意識

 

ヘーゲル弁証法的感情

 

 

 

 

自己 セルフ

主体

 

顕在意識

基礎論理

内の対立による進行

viññāna

泣いている私は

「わたし」ではない

 

自我 エゴ

感覚器官

身体

感情

五感覚器官

感覚パターン

感情パターン

眼耳鼻舌触

受蘊 快・不快

行蘊 自動アプリ

 

歩いている私は

「わたし」ではない

五感覚器官

Jñānendriya

五行為器官

Karmendriya

 

物質

対象、客体

 

五唯・五境Pañca Tanmātra 

五大  Pañca Mahābhūta

色法 rūpa

 

 

 

 

 

 

インド哲学では、独自のアイデンティティによって決定されて個性を持つ「ダイナミックな自己」から、カタチのないただ観照するだけの自己である真我(霊我)へと導く「道」を説きます。

同じ「わたし」という語句を使っても、その時にいる環境により「わたし」の段階は違います。

「わたし」の領域を大きく4つのタイプに分けると物質、肉体、心、霊のレベルになります。

物質  私の家、金、服

肉体  私の体は疲れている

心   私の感情は悲しい

霊   私は物質でも肉体でも心でもカタチでもなく、ただ見ることしかできないもの。

このように、玉ねぎを剥くようにだんだんと外側の皮から一枚ずつ内側に入って、それを体感することをいくつかの宗教では修行と呼んで毎日実践しています。

 

リンク サーンキヤ学派の特徴

 

 

 

 

自分を分け続けるプロセス

精神病の共通点は、外部からの情報だけではなく、「わたし」である自己意識自身を次々と分け続けてしまったこと。

 

はじめに、「わたし」(自己意識)をキャラ(ペルソナ)とアイデンティティ(自我)に。

こんな分け方を時々するのではなく常時してしまう人たちが現代には多くいます。本人にしてみれば、これが現代的で都会的にマッチした考えで、現代の都会ではこれが常識となっている。彼らは精神病院には送られることはない。

次にはアイデンティティを本当の自分(自律的)と仮の自分(他律的)に。

これらを元の一つに統合できなくなってしまった人たちがいる。下手に心療科で診察を受けてしまうと精神障害あるとされ、時には分裂病者 (schizophrenia)と診断されてしまう可能性がある。そして油断していると精神病院に送られて投薬治療を強制的に受けさせられてしまう可能性もある。少なくても私の周りの人たちの体験を見てみると。

次には「本当の自分」を、「本来あるべき力のある姿」と「実際には力のない姿」に分けてしまう。

ここまで来ると、力があると思っていた「自分」はすでに霧のような曖昧な存在になってしまっており、「自分」では制御できなくなっている状況に気づいて驚き戸惑い、心身の不調を覚える。

 

運よく病院で精神病と診断されなくても、いつもの「分化」させるクセを続行させてしまうと、「真の自分」をも分け続けて、もう自分では制御できない「自分」が生まれてしまい、多重人格を持ってしまうリスクが増加する。

 

 

分化していくプロセスの詳細  

一番初めの「分化」のきっかけは自分を身体とそれ以外の「わたし」に分けたことからはじまります。

物理的な肉体とカタチのないものすべてという二分割です。

身体以外である「わたし」にはいろいろなものが含まれています。

意識できる「自我」、他者と関わる「自己」、意識できない無意識の領域、そして賛否のある「魂性」

この「魂性」は「いのちの根源」であり、大切な領域ですが、精神病における分化し続けるプロセスにとっては根源的ではあるが二義的という矛盾した話になるのでここではスキップします。

ここでは、意識できている「自我」、意識できていないが時々において表面に出てくるのであることは理解できる無意識の領域、そしてこれと関わり統御している「自己」にスポットライトを当てます。

 

脳内で作成した回路をベースにしている「自我」にとっては、この外部にあるもの全てが「他者」となります。

これは家族や他人の周囲の人や台風や地震の環境だけではなく、自分ではコントロールできない内臓も含まれます。

「他者」は自然の法則によって常に変化し続けることを本性とします。川の淵にある泡沫のように、H2Oが大気から雲、雨、川、氷、そして海へと変化しながら流れていくように。

 

これらの「他者」は「自我」にとっては予測ができず計算ができないものなので、青年期にはできるだけこれらを除外してコトを運ぼうとします。「他者」が法則(一般化)になった限りにおいては、これを「自我」に取り込みます。計算ができるようになったことで想定内になり、安心して支配することができるからです。

「自我」では分からないこと(計測不能なこと)は「他者」担当の「自己」に任せます。「自己」は他者と付き合う時の司令塔で、「他者」からのフィードバックに対応して成長していくので、パーソナリティという人格を使って「他者」と関係を持ちます。今で言う「キャラ」です。

パーソナリティの語源はラテン語のペルソナpersonaで仮面の意味もあります。これはTPOの状況によって変化するので「この時間・この空間」では一つのカタチになっていても、次の「べつの時間・べつの空間」では違うカタチになることから由来します。

ですからペルソナは一面的な仮りの姿であり、本質的なものではないという解釈も生まれます。

このペルソナの世界観とは違う2つの世界観、言いかえれば視点もあります。

それが悟りの自分と自我の自分の世界観です。空と自我です。

ここでいう「空」とは仏教的解釈のもので、自意識(自我)に囚われていない自分、いわゆる無私や無我とも呼ばれる執着心のない状態を指します。

 

「自己」からみれば仮面(ペルソナ)こそが当たり前の姿であり、ちゃんとした現実の姿ですが、この姿は「空」からみれば、この世での一つの姿の可能性であり、TPOや次元が変わったり、あの世ではまた違う姿になります。次に「自我」からみた場合は、ペルソナとは一時的な臨時の姿であって、本来の自分ではないという視点を持ちます。

自己意識にとらわれない「空」の視点を体得するには一般的には長い訓練が必要なので特殊なケースであり、日常生活でペルソナの世界を観察しているのは「空」ではなく「自我」と呼ばれる自分です。

自意識がなくなる時に「空」からの視点を得ることができますが、自意識過剰の時空の中にいると、「空」ではなく「自我」と「自己」の視点でこの世を見ようとしてしまうのです。

「自己」がやっていることは、必ずしも「自我」が望んでいることではありません。

「自我」は自由に勝手に想いを馳せることができますが、「自己」は常に変化する「他者」に対応しなければならないので、この役割を担うことでカタチは限定されることで自由自在に妄想することができなくなります。

 

これが「想いと現実のギャップ」です。

ここに「自我」が「勘違い」を起こす可能性が生じます。

「自我」は「自己」のパーソナリティを否定したり、仮の姿であると思い込んだり、偽物だと断定したり、仕方なく一時的なものであると忍耐したりするのです。

きっかけは日常的なものです。

例えば、「この仕事はわたしには相応しくない」「今の仕事はこの世の仮の姿だ」「こんな仕事は嫌だ」「こんなキャラは本来の私のキャラじゃない」「自分を偽って生きているだけ」「対人関係が煩わしい」「社会とのコミュニケーションなんか面倒くさい」

どれもが「わたしの想い」と「他者の想い」の間に事実認定の相違がある時に勘違いが起こります。

 

「自己」が持ち込んだ情報に対して「自我」は満足できない状態になることがあります。

このような時に脳内で嫌悪感が発生し、それらを除去するために「自我」は次の手を打ちます。

まずは「他者」やそれに対応している「自己」を変えるように試みますが、必ずしも「自我(自己意識)」が望んでいるように「他者」や「自己」を変えることはできるとはかぎりません。

 

こんな時に、2つのケースがあります。

「自我」が「他者」を変えようとする欲望を抑え、「自我」が「他者」を受け入れる、もしくは

「自我」が「他者」の受け入れを拒否する。

自己意識を大切にして、受け入れを拒否した場合に

「わたし(観察者)」が「自我」を二つに分ける作業をします。

 

「自我」を「本当の自分」と「ウソ(仮の姿)の自分」の2つに分割します。

現実に関わっている「自己」には「ウソの自分」を担当させ、「本当の自分」はこれまでの自分が望んでいた願望の世界を作り上げて、その中で生きていこうとします。

 

 

自意識が弱くなければ「自我」は「自己」の現実を受け入れる場面も増えるので「自我」にこだわることに徹することができなくなりますが、この世には「自我」に、こだわり続けることを許す時空間がこの世にはあります。

例えば、乙女、守られる者、可愛い者、家の中で暮らす者、都会生活者、組織を主体する立場、文字を主体とする世界、理念を大事にする世界、合理的世界、効率主義などです。

どれも「自己」を保つことで成り立っている世界であり、これが失なわれると自分が生きている意味がなくなるのではないかと勘違いしてしまいがちな視点です。なにもない自分には価値がないと感じてしまい、これがなければ生きる目的が見つからないという「自我」の世界です。

 

これだけだと特に問題はおきないように思いますが、この「守られている世界」の中だけに暮らすことで大きな変化が生じます。

「わたし」を「ウソ(仮の姿)の自分」から「本当の自分」へ移動できるようになったために、「わたし」はますます「他者」から遠くなってしまい、常に変化するこの世との接点が減ってしまうのです。

ここから現実感のない空想の世界で暮らす時間が急に増えていきます。

理屈好きの人ならば「思考」の時間といってもいいでしょう。

空想好きの人ならば「妄想」の時間といってもいいでしょう。

これらの特徴を「売り」にして世間と付き合う時のセールスポイントとする人も出てくる時代です。

これらを上記のように生かしている場合はまだ、一方的ではありますが「他者」との交流はあります。

しかし、だれもが知識人や芸人や俳優やタレントや芸術家やパフォーマーのように「思考」や「妄想」を売りにして生活できるわけではありません。

 

「だれも本当の私を知らない」

「私の才能を社会は認めてくれない」

「だれも私の才能には気が付かない」

「この時代に生まれてこなければ成功していたのに」

「世間は程度が低くバカだからしょうがない」

「自分はもっと優秀であるが運が悪かったので現在のような自分を演じざるを得ない」

「周りの人は関心がないが自分はあるべき人間の未来に対して生きている」

「人間の真実の本質を周囲の人は理解しようとしない」

「苦しい私の状況を周りの人は理解しようとしてくれない」

 

例えば上記のような実感を持つ本人は次にどのような行動を取るでしょうか?

「本当の自分」を理解してもらえる人を探します。

しかし、そう簡単にはそんな都合の良いことは起こりません。

現実の世界では患者の理解者をみつけたり、社会から評価されることは稀です。

余談ですが、「都合」は文字通りに都市の中で出合うこと、なので都市内では出合う確率は少しは高くなります。

 

そして、理解者と共通認識を共存させて暮らすことができない人は、ついに「本当の自分」までも二等分してしまいます。

「本来あるべき力のある姿(いざとなれば力を発揮する全能者)」と「実際には力のない姿(力がなく誰からも評価されない自分)」にです。

こうなってしまうと、自分が力を出す居場所がなくなってしまいますので、よく言えばなんでも妄想できるし、わるく言えば現実の世界では評価されることがなくなります。

「自分の姿が消える」ことにより、カタチもなくなり、現実性をなくすことができので、空想の中では何でもすることができるようになる「全能感」とカタチのある現実世界の中では何一つなしとげることのできない「虚無感」との間を行ったり来たりします。本人の立場から見れば、何かできる気持ちとやる気のなさが交互に訪れます。

 

この段階まで来ると現代社会では精神病というレッテルを貼るようになります。

区別することでこの世を理解することに依存してしまうと、他者からも同じように理解されると考えるので、自分のことは見透かされていると感じ、それを隠すために、自我の奥底までを次々に分化させてしまい、多重の人格をもつことで安定しようとするが、それらをまとめることができない統合失調症と呼ばれる人々。

 

区別する時に基となるイメージ(saññā想蘊)に固執するために、生命体のプロセスではなく、完成したイメージから物事を考えてしまうために、カタチとしての結果を出すことができず、徒労感におそわれ、やる気が無くなってしまうウツ的症状と呼ばれる人々。

 

自分の姿が感じなくなることで、空想の中では何でもすることができるようになる「全能感」と現実世界の中では何一つなしとげることのできない「虚無感」の間で生きることで、躁うつ病と呼ばれる人々。

 

これらの共通点は、「自我」を分け続けていった人たちが経験する内面の感覚です。

 

 

分け方の典型例

下記のように「ひとつ」を次々に分化させていくのが精神病そして現代人の特徴です。

 

1.肉体以外                    肉体

意識(思考と感覚)・無意識(深層意識と魂性)  筋肉 五感器官     循環器系器官  消化器系器官

 

2.意識                      無意識(内臓感覚 植物感覚 リズム感覚 波動感覚)

3.自我(脳内) 自己(他者との関係性、パーソナリティ)  

4.本当の自分    ウソの自分

5.本来の姿 力のない姿

 

 

観察者

観察者って何?英語で言うobserverを日本語訳したものです。

漢字で観察者というと客観的な視点を暗示するように印象を与えるが、Ob-sereveとはobの「〜に向かって」とconservereserveで使われるserveである「守る」というラテン語源の接合語で、日本語訳にすると見守る者というニュアンスを持つ。

TPOによって性質や特徴や機能が変わってしまう「主体」のことで、ヒトは複数の「観察者」を同時に持つことができる。  

例えば幼い時に犬に噛まれた「わたし」のビデオを操作している「わたし」を宙から眺めている「わたし」がいるとを想像することができる「わたし」。この場合のどの「わたし」も「観察者」です。

しかし、「わたし」は主体として一人のはずとして社会では使用されているので、正確に言うと「観察者」は「わたし」ではありません。

また観察者が「自己」でも「自我」でもなく、固定化されるものではなくTPOによって基準になる位置を変えます。

 

ヒルガードの「隠れた観察者」 

ヒルガードは、古典的な「隠れた観察者」の実験を通して、これが通常の人にも存在するという可能性を示した。

被験者に催眠下で暗示を与える。「これから大きな音をたてますが、私があなたの右肩に触れるまでは、あなたには何も聞こえません」次に大きな音をたてて被験者が無反応であることを確かめる。 さらに被験者に「催眠中でも観察しているあなたがいて、声が聞こえています。この私の声が聞こえていれば、右人差し指を上げてください。」と指示する。(実際に指が持ち上がる)被験者が突然「大変です。私の指が誰かにより動かされました。なにか変なことが起きているようです。音が聞こえるように戻してください。」検者が被験者の右肩に触れ、催眠が解ける。
このHilgard の実験は、解離や人格の分離という現象の奥深さを表している。

Description: Description: http://4.bp.blogspot.com/_UIfmsqsRM50/TT6tCdt8TLI/AAAAAAAAAKE/Vmkmilwkmx0/s320/110121+%25E9%259A%25A0%25E3%2582%258C%25E3%2581%259F%25E8%25A6%25B3%25E5%25AF%259F%25E8%2580%2585.JPG (Hilgard, E. R. (1994). Neodissociation theory. In S. J. Lynn & J. Rhue (Eds.), Dissociation: Clinical and theoretical perspectives (pp. 3251). New York: Guilford Press.) 

 

 

 

再び観察者

この観察者は私にとって説明がまだ難しい概念です。

というのもこの観察者はTPOによって性格や機能が変化するからです。

観察者が

「見詰めている」時は、一般的に使われる「わたし」が対象を観察する者となり、

「見守っている」時は、感覚意識で対象を保護するものとなり、

「寄り添っている」時は、前意識で対象と同調しているモノとなり、

「溶けている」時は、深層意識で対象と同一化していて観察者のカタチがなくなっています。

観察者は状況によってカタチも深さも密度も変化してしまうのです。

 

「わたし」は自分自身をモニターしています。自分の認識や記憶や行動をモニターして、それらをまとめ(統合)ていなかったら個々の記憶や認識や判断は一つの整合性がない分裂したままなので、本人はこの世に多重にいるように感じるでしょう。

例えば、正座している最中に足が痛くて我慢できない「わたし」 

痛いということは血管が圧迫されてカラダが害があるとメッセージを出しているのだろうと考える「わたし」、この痛がっている「わたし」と思考している「わたし」、そしてこれらの二人を見ている「わたし」というように、このケースでは3つの「わたし」がいます。

 

モニターして数々の行動を合理的に辻褄の合うように束ねることで、自分も社会も安定して安心して暮らすことができます。

統合する能力がなく、その場その場での判断で良いとしたら、白昼夢のような状態で人を殺しても自分の行動に責任が取れないことになってしまいます。アメリカでは実際に白昼夢で嫁の両親を殺害したが無罪になった判例があります。このようなことが頻発してお互いを恐れて暮らさなくてもよいように、「わたし」は自分自身をモニターする大切な役割を担っています。

ちなみに、これまでの神経学者のデータの積み重ねによると、前頭前野の左半球を中心にした部分に「観察者」がいるらしいですが、信じますか?

このように変化する「見守っている人(observer、観察者)」をTPOによって区別してみました。

 

TPOによる観察者の特徴

 

意識の層

みる

機能

器官

人工衛星

 

見おろす

俯瞰

外部

客観性

大脳新皮質

表層

見つめる

思考・法則

神経管

自我 主観 理念

大脳旧皮質

表層

気づく・見守る

反応・意思

五感器官・筋肉

自己 他と関係

大脳辺縁系

中間層

寄り添う

条件反射

循環器系器官

自動的・機械的

脳幹

深層

溶ける

反射

消化器系器官

複数の自分

 

 

メタ認知能力

Metacognitive Abilityといって、自分の言動などを客観視できる能力がヒトにはあります。

別の表現をすれば、俯瞰して自分の言動を見ることができる能力のことです。

観察者というのは、この能力を発揮している時の、主体のことで、現在進行中の自分の思考や行動そのものを対象化して認識することにより、自分自身の認知行動を把握できます。

例えば、メタ認知能力が優れているサッカー選手は自分の視覚の視線だけではなく、ちょうど観客席や上空からフィールド全体を見渡せたような視線も併せ持つような感覚を持ち、それによってパスを受けると同時に的確なスペースや味方にパスを出すことができます。

これは特別な超能力ではなく人によって時間がかかりますが、訓練を積むことでできるようになります。

 

ココロが落ち着いている時には、このような観察者の視点を持つことができますが、例えば、激しい討論などで感情の揺れ幅が大きい場合は難しくなります。激しい感情の変化が起きると、観察する視点はなくなり、記憶も主観的だけになり客観的現象をものは除外されがちです。極端な時は、強い心理的なショックを受けると記憶が欠落することもあります。

メタ認知能力が高い人のデメリットは、客観的にみる能力に長けているため、他人の目が気になってしまい自意識過剰になってしまうことがあることです。

 

メタ認知能力の鍛え方

まずは自分自身のことをよく観察することから始めることが一番の近道で、これまで無意識にしていたことに意識を向けることで、新たな自分を知ることができます。

また、他人からフィードバックをもらうことができればこれも有効です。

 

メタ認知能力を鍛えて、患者自身が自分の中に観察者を持つことも治療のキーポイントになります。

睡眠術で精神病が治ったケースもこのメタ認知能力である観察者との接し方がポイントです。

多重人格者には他の人格はお互いに存在を知らないというデータもありますが、催眠療法によって、前帯状皮質を過剰に活性化させるとお互いの存在を「観察者」は認知しているという実験結果があります。

「観察者」が精神病の治療には有効であることを示唆しています。

 

観察者のレベル的関係性

上から見ている臨死体験感覚もしくは人工衛星感覚   

思考による分別感覚  

五感によるリアル感覚

内臓の波動感覚

内臓の螺旋感覚

ヒトは五感器官を基準とする観察者として生まれ、体験を重ねることで、上部の2つと内部の2つの観察者を創出して共存することができる。

 

 

付録  コラム  ティーブレイクのため息

精神医学の現状

「いのち」と同様、自我も分けることができないものだ。例えば仏教ではこの自我を幻だとさえいう。

それなのに勝手に健全な自我(主体性)を想定して、それ以外を精神病者とすることにした。

あー、いつものやつである。

街で暮らし、本(とコンピューター)に囲まれて生きる人間のクセである。何でも先ず初めに大脳皮質の中で「完全な状態」をでっちあげ、そこからモノ(世界)をみて他者に判断を下す。理性優先主義の典型だ。

20世紀の精神分析学は、流動する自我を囲いの中に閉じ込め、それを分ける(次々と切り刻み)ことによって、精神のビョーキを産み続けさせて、それを昆虫標本のように取り出して書き並べているかのように見える。精神分析学は本来の患者の欲望やこれまで学んできた条件反射や体の欲求の動向を見届ける前に、まずは健全な主体性というものを設定して、そこからずれるものを心の病いにしてしまっている。

 

そうならばケンカするしかない。

乱暴に言えば、心理学というものは、修正が日進月歩で行われているが、意識がうまくコントロールできずに外にはみ出してしまった心理現象に名前をつけて〇〇症と規定してきた学問である。これに疑問を投げかける新しい心理学が出てきている。しかし分けることから始まることに変わりはない。

 

フロイトの父殺しとは何でしょうか?殺したのは父ではなく、そこで暮らしていた人を殺したのだ。母親と繋がりたいのではない、そこで暮らしている女をやったのだ。自分が正義の側にいたい為に、目の前に起きていることを捻じ曲げる必要ありません。世の中はシンプルです。人を殺したくなり、人を犯したくなるのはなにも異常なことではない。未熟な状態では、自我を肯定しないものを抹殺したいと思ったり、他者の立場を考えず欲しいものとつながりたいと思うことは普通のことだ。だがこれを実際の行動にうつせば、それは他者から同じ行為で報復されるか、社会から罰されても文句が言えない立場になる。だから未熟な間はこのような感情をどのように昇華させるかが一人一人に問われている。学校の勉強よりもよっぽど大切なことだ。スポーツ、禁止、忍耐、思考、ずらし、他への転換、言い訳、みんなそれぞれの方法を模索している。そして成熟することで、全体(他者)から自分の自我を見ることを学習し、これまでは他者と判断していたものも、実は自我と繋がりを持ち、他者でさえも自分の一部であることに気がつくことができるチャンスが誰にでも与えられている。これもこの世を生きる意味の一つである。これは意識や理性や学問では体感できないことなんだ。

ここでいう他者とは家族や友人や敵や社会だけではなく、自分自身の内臓やそこに棲む微生物のことも含んでいる。

 

だから言い続けているんだ、フロイトやラカンなんやら精神分析を信じちゃいけないって。参考にするだけでいいんだ。

彼らのクセは大きく言って二つある。OvergenlizationOvermaterilizationだ。過剰な一般化とその反対に過剰に具体化する両方の誤ちだ。

特殊なケースで実際に起きたことから相関関係を見つけ、それを因果関係にでっち上げ、それを法則としてこの地球上だけではなく宇宙までも通用するかとばかり一般化し、次には隣の家に行ってこの法則に従えと同調圧力をかけながら誹謗中傷するクセである。

頼むから冷静になってくれ。

あなたが見つけたのは相関関係でしかない、それもある時間と空間と状況で限定された中だけのことである。そして相関関係さえ、100ある要因のたった一つでしかない。その外側では通用しないケースが多くないかい?

そして次にはそれを因果関係にするには、他との関係も考慮に入れてくれ。

物理学だけで言っても、温度、湿度、風力、圧力、陽子、重力、電磁気力、弱い力、強い力、宇宙線、周波、素粒子、電子、・・・とあるし、それから両親と兄弟と親族と共同体の関係や、時代や、意識や無意識や考慮しなければならない相関関係はゴマンとある。その中の一つだけを強調して、人を裁くのは勘弁してくれ。自分の見つけた相関関係を一般化するために、全ての人を、ビルの中に閉じ込め、無菌室に押し込め、同じ条件を作り出そうとしている。あなたは自分自身の意識(表舞台)が周辺に追いやって(抑圧)しまった無意識(裏舞台)に関心はないのか?

他人を判断する前に、大脳皮質で偶像を作り上げる前に、自分の無意識に向かい合って、そして自分の体と付き合っておくれ!

分裂症でもリビドーでも情動でも健全なる主体性でも何でもいいのだけど、どれもが囲まれた塀の中で苦しんでいる事例のあつまりだ。

 

そして正義をいうのをやめ、善人面して行動することを止めればよいだけのことだ。世界を閉じたから正義が浮かび上がってきたに過ぎないではないか。思い上がって判断する前に、静かに洞窟に閉じこもり、神に懺悔し、祈り続ければよいのです。あ、それと精神分析学にはユダヤ系の人が多いけれど、ユダヤ教は一神教ではありませんよ、ヤウェは彼らだけの守護神みたいな神であって、宇宙の神と同じではありません。すべての神は宇宙神(創造神)とつながっているからといって旧約聖書の途中からこれらを一緒にしちゃって誤魔化すのはもうこの辺でいいんじゃないですか?これらの閉じ方と繋げ方がホロコーストを生み出してしまったことに気がついているじゃないんですか?

 

今の資本主義だって塀の中でのルールでしかない。中にいることだけを前提に正常と異常を決められるんなんてたまったものではない。

精神病治療が都会のルールが合わないのならば、田舎のルールを、それが合わないのならば森のルールを適用すればいい、ただし塀の外に出ると同時に体と心と技を鍛えなければならないけれど。

 

精神医学がやっている「主体」がすべてを統合し、無意識をコントロールしなきゃあんたは未熟だっていうのはインチキで卑怯なやり方で、心と体と愛がないよ。自分が得意な「分析と統合」という穴を掘って、「分ける」ことで成り立っている都会の真ん中で、弱っている奴が落ちてくるのを待っているアリ地獄みたいな戦法よ。

あんたたちは強靭ないけずの根性と金と環境と肩書きなんかで世間の中での居場所をキープできるけれど、わちきらは関心ないんだから、そんな生き方は。 そっちで勝手に仲間内で遊んでいてよ。

ヒステリーも神経症もほんの軽い精神病でさえも人間には必要なのよ。やっとこれで意識から解放されて体が元気になれるんだから。 これらは山では、沙漠では、森では、村では、自然との交流の大切なメソッドの一つなんだから。都市に必要ないからって病院にぶち込むのは止めてください。こんな時の知識人やインテリの哀れみの表情や優しい態度や悲しみのため息もわちきらの心に刺さるんです。

そして患者と呼ばれる側の怒りと消えてしまった「わたし」の意思に、わちきらの心が重なり本当に自分の体が痛くなっちゃうんです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

参考資料

 

催眠療法

多重人格の治療には、催眠が有効とされてきました。

国際解離研究会(ISSD)は、その効果を次のように挙げています。

1. 突然起こったフラッシュバックを終わらせ、現実に気づかせる(催眠を解く)

2.次にセッションするまでに危機が起こっても、安定していられるよう自我を強化させる

3.激しい感情の表出を安全な表現に変えるトレーニング

4.心的外傷(トラウマ)から来る身体症状を和らげる

5. 人格を融合・統合する時に行う、「儀式」としての催眠

 

ただ、「悪影響を与える」とする指摘もあります。

実際とは違う記憶に間違ったラベルを貼る可能性

良くない幻覚や急激な外傷性体験を招く可能性

本人が依存しすぎるようになり、回復への意欲を減退させる可能性が起こるのです。

これらの出来事は、催眠のやり方が充分でなかったことから起こる場合もあります。

 

充分な催眠をするために、催眠の効果と目的を的確に説明し、本人の同意を得て行います。危険性や限界を知った上で、催眠は慎重に行うべきとされています。

「自律訓練法」「呼吸法」「イメージ療法」「良性のトランス状態」「瞑想」も催眠を用いた術といえます。

 

イメージ療法の例の1つには「ビデオ画面を操作することのイメージ利用」があり、画面に映る過去を自由に操作できるようにします。

操作できないと感じていた外傷性記憶の入りこみを、操作できるようにするのです。

 

催眠術  無意識と意識の分離

催眠状態は、集中力によって起こる。空想や放心(ぼんやりしていること)のように、意識が一つのアイディアや思考だけに集中されるとことで、一時的に、その他のことが意識できなくなる。

 

催眠術をかけられると、特定の思考に集中するあまり、外部から他の情報が入らなくなり、はじめの暗示を受けつづけることになる。

催眠術による誘導とは、かけられた本人が無意識の状態になっているから暗示にかかっているのではなく、自身が行っている想像に対して極度に集中しているためである。

催眠術の暗示とは、脳内シミュレーションを他者によって押し付けられ、そのイメージに意識が独占されることである。暗示によって集中して一心に何かを想像すると、それはちょうどアスリートのイメージトレーニングのように、本人の脳内ではイメージとしてシミュレーションの再生が行われている。 

 

前帯状皮質Anterior cingulate cortex (ACC)

Description: ダウンロード脳梁を取り巻く""のような形をした領域

 

血圧や心拍数の調節のような自律的機能や報酬予測、意思決定、共感や情動といった認知機能に関わっている

 

 

 

 

前帯状皮質は矛盾を解決する時に活性化する領域だ。言葉を変えると矛盾を監視して察知する領域である。

ここが無意識の内に対立する信号を感知し、意識的な分析によって矛盾を解決するため、それを前頭葉に報告するのだと推定される。これでストループ課題(色と意味が違う文字ホワイトブラックで書かれた文章を音読する)を実行する時には反応時間が増加する。色と意味の矛盾をこの領域が察知して異常を知らせるために時間がかかると推定されている。

 

 

催眠術をかけられると、前頭葉(意識的現状分析)は活動せず、前帯状皮質だけが異常に活性化されることがMRIの電気信号検査でわかっている。

睡眠状態の時には前帯状皮質が無意識で行っている矛盾の監視と、前頭葉の意識的分析が切り離されることをジョン・グルゼリアは実験によって発見した。

催眠術は矛盾の監視を阻んでいるのではなく、二つを分離して矛盾の報告を前頭葉に伝わらないように妨害することでストループ効果を失わせていた。

催眠術によるトランス状態に入っている間に受けた暗示は、前頭葉の意識的な精査の対象とはならない。そのため、催眠術をかけられた人は、突飛なことをするのだと推定される。

 

 

解離と催眠術のアナロジー      知覚を集中させて残りを除外する、という共通点

特定のビジョンに集中するために、残りの知覚をないがしろにする、カクテルバーティーで雑音を無視するように。自分の行動を熟考する知覚もないがしろにする。

 

解離同一性の場合は、脳が集中すのは安全な心地よい状態で、除外するのはトラウマの記憶。

 

MRIで検査すると、共通点はどちらも脳の前帯状皮質の活性化していること。

ここは矛盾する情報の処理に関与して、歪曲(ストループ課題、皮肉)を感知して、矛盾を暴露し、誤りを発見する。

一見すると矛盾を押さえ込むのではないかと推定されるが、実際には逆に活性化させているのだ。

 

催眠のトランス状態とは、連絡が取れなくなった前頭葉にメッセージを送ろうとして、前帯状皮質がより懸命に活性化することだ。電波を受信できない山中で携帯が電波を探して、バッテリーが過剰に消費されるように。

矛盾を報告しようと無駄な努力を懸命に続けていて、他のことができなのがトランスの正体?だから、この活動を続けている間は、第三者の目で自分を見る視線を使うことができないのではないか?

 

解離を経験する人は、トラウマ記憶から自身を守るために、トランス状態になる。過集中の精神状態を作り出すことで、自我の比重を減らして、トラウマの記憶だけではなく、新しい精神的経験の大部分を意識に上るのを避けようとした。エピソード記憶ではなく手続き記憶で生きていこうとするのだ。

感情によって出来事を記憶装置に「マーカー」する眼窩前頭皮質の活動が低下することで、エピソード記憶能力は減少する。

しかしある刺激でトランス状態が中断して心の壁が崩壊すると、トラウマ記憶を思い出す。すると過去の厳しい現実がよみがえり、脳内では前帯状皮質の活動は鎮まる。

 

解離性同一障害は催眠の一形態である

違いは催眠は外部からの暗示なのに、解離性同一障害は内部の無意識のシステム(潜在意識)によって生み出される。言い方を変えれば自動暗示状態もしくは自己催眠症候群だ。

 

転換性障害

ストレスによって、突然の麻痺や衰弱や失明といった身体に現れる神経疾患

健常対照群と比較すると、前頭前野が活性化され、視覚野の活動が低下している。

視覚伝導路は無傷なので目は機能している。潜在意識が意識的な資格をブロックして、盲視を連想させる。

意識には上がらないのだが、認知はできている。無意識のドライバーのように。

前帯状皮質は過剰に活動している、催眠状態や解離性同一障害者のように。

この過剰さが他のことをさせない原因である。意識は一度に一つのことしか集中できない。一つ事に集中したら、あとのことは潜在意識(小脳)に任せるしかない。そこで矛盾を監視する領域である前帯状皮質が以上に活性化すると、意識的分析をする前頭葉は活性化できなくなるのではないか?

 

このような大変な状況に対して患者本人は動ぜず無関心な態度を示す。なぜか?

催眠状態の人が自分の行動の特異性を認識できないのと同じだ。

催眠状態で鷹に襲われているように「想像」すると、視覚を使って見ているのではないが、「想像」する意識によって鷹の存在は確信している、目で見ていなくても。

転換性障害は一種の催眠状態である。

 

ヒステリーと転換性障害

神経学者 ジャン=マルタン・シャルコーは公開実験を行い、25歳の被験者の左足に、催眠術を利用して転換性麻痺を引き起こした。この時に前帯状皮質は過剰に活動していた。解離状態と同じように。

 

臨床的観点から見ると、催眠術は解離性同一障害を引き起こし、同時に治療できる。また同じように転換性障害を引き起こし、治療もできる。

神経学的観点から見れば、どちらの症状も催眠術によるトランス状態を連想させる前帯状皮質の過活動を示す。

 

トラウマは解離を引き起こすことができるのと同時に、特定の感覚情報から注意をそらして失明などの知覚麻痺や運動麻痺を引き起こすこともできる。

どちらも潜在意識が特定の方向へ意識を向けさせ、意識的経験を操作する。

 

潜在意識と解離性同一障害

解離性同一障害の場合は、心の傷となった記憶や感情から「自我(アイデンティティー)」を守るために、潜在意識は傷の記憶から注意をそらし、意識の表層に現れるのを防ぐ。この隔離する時に、行き過ぎてしまうこともある。よくあるのが解離感覚で、世界から隔絶しているという感覚を持つことになる。患者はトラウマと一緒に自分の一部を失ったように感じていた。

潜在意識は自我を守るために、患者自身が転換性障害による失明という状況になっても、やむなく自我を分離する。分離した人格はこうして生まれる。

 

分離脳患者は、反対側の脳半球がつくりだしたものでさえも、潜在意識は整合させて唯一の物語にしようとする。

解離性同一障害の患者の潜在意識も整合した物語をもとうとする、人格を分けることによって。たとえそれが自我を分割することになっても。そして転換性障害を引き起こすことになってもだ。

 

 

 

 

側頭頭頂接合部の刺激

この接合部に過度な刺激を与えると、ゴーストという他者の気配を呼び起こす。

逆に刺激が足りないと、自分が存在しないという感覚が呼び起こし、自分自身がゴーストになる。

また刺激が足りないと、人に対して感情的になれなくなる。そして、これが進行すると、感覚が鈍くなり、何も感じなくなる。その時は扁桃体、海馬、側頭葉の領域が萎縮している例がみられる。

 

矛盾する刺激を一致させる時の物語の作り方の違い  二つのパターン  

ある患者は接合部に過度な刺激があり、他者の気配を感じるが他者はいない。そこで妻を知らない別人と思い込んでしまう症例がある。聞いただけでは信じられない症例である。

他のある患者は、接合部に刺激がなく、自分の気配が感じられないが私はいる。そこで自分は死人(ゴースト)であると思う症例がある。

症状

心情

責任

気分

精神状態

精神分析

現状理解

妻が別人になった

別人との浮気

他人

潑剌

興奮

パラノイア

信念

自分は死人

自分はいない

自分

憂鬱 

虚無

うつ病

超自然的

 

 

 

心臓発作生存者の臨死体験サンプル   オランダの344人のデータ

死んでいるという認識 50

多幸感 56

死者と会う 32

トンネルを通る 31

天上の風景を見る 29

体外離脱 24

瀕死状態になると脳内で何かが起こり幻想を生み出す。酸欠と幻想には関連が深いようだ。

個人的な体験では、登山、念仏、ランニングハイ、スウェットバス、神輿かつぎ、潜水、ダイビングによって。

 

 

幻覚を生み出すレム侵入の原因は血液と酸素の欠乏

ダン・フルガム米空軍大佐が戦闘機の飛行中のコックピットで体外離脱体験した。

海軍軍医ジェイムズ・ウィナリーは強大な遠心分離機を使ってパイロットを被験者とする調査を続けた。

脳と目への血液が妨害されると、脳は視覚を補足しようとする。これをレム侵入と呼ぶ。映像が意識に入り込むプロセスで、現実と空想の境目を曖昧にする。

境目は眠りに落ちる途中や目覚めた直後にあり、臨死体験者の60%がこの時間帯に体験している。

これらの幻覚は脳内の青斑核でノルエピネフリンを放出することで、ストレスやパニックを低減するための生理学的反応を助けるためだと推定されている。

酸素と血液の欠乏という身体的ストレスによって、恐怖や不安といった感情が起こり、それに対処するためにホルモンが放出されることにより幻想を見るのではないかと推定されている。

このような幻想を見ることで脳(無意識)はストレスの緩和を試み、表層意識がリラックスして落ち着きを取り戻すことができると推定される。

 

金縛りと心臓発作の共通点は血液の酸欠かもしれない。これを深い意識が死の可能性として察知し、これが引き金となり、幻覚を起こしやすくしている可能性はある。

幻覚を見る3つの特徴

闇に包まれている

身動きがとれないと感じ無力感におそわれている。 ロープなどに拘束されていることも幻覚を誘発する。

恐怖を感じていることは強い要因の一つである。

 

統合失調症のサブボーカル・ボイス(独り言・思ったこと)

独り言の声が自分の耳に届いても、脳に欠陥がある時にこれを自分のものとは不一致であると誤判定し、自身の声だと認識できないことがある。

耳が感知した声とこれは自身の声ではないという二つの情報を両立させるためには、「他の誰かの声に違いない」と論理的な推定に結論づける。

 

思考吹入という妄想

独り言だけではなく、自分の考えを自分のものではないと誤判定することで、思考にも同じようなことが起こる。

患者は自分の思考が自分のものではなく、外から吹き込まれたものだと信じ、時にこれが強い妄想になる。

幻聴と同様に、不可解な力によって思考が吹き込まれていると患者は信じ込むケースがある。

 

自己監視障害

統合失調症とは自己と非自己の区別ができなくなる病気なので、自己で行ったことでも、それは他者によってなされたことだと思ってしまうため、他人の思考や感情が自分のアタマに植え付けられて行動が制御されると考えるようになる。

これを基にして、自我や個性を形成してしまうと、妄想が患者の日常となる。

 

自分をくすぐることができないのは何故?

自分をくすぐろうとしても、意図された行動行為のコピーが感覚系に送られ、随伴発射が発生する。随伴とは、セットになって伴なうということなので、行為を行う寸前には感覚器官にも信号が届いている、ということである。

これによって、身体は予測ができるので、くすぐられる予定の皮膚の感覚は守る準備をして、構える心持ちが予めできているので、くすぐりの効果は低減される。

しかし、統合失調症患者は、自分自身をくすぐることができる。自己と非自己の区別ができないと、自分の指でくすぐるとしてもそれが不意だと感じ、くすぐられる準備や心持ちができていないためだ。くすぐりとは「笑い」の共通点は、予知できぬ突然の行為に対する緊張と安心だ。

 

アフリカの電気サカナ

アロワナ目モルミルス科の魚はコミュニケーションを取る時に電気信号を周囲の水に放つ能力を有している。

電気パルスを発射することを決めると、二つの指令を同時に出す。電気器官に、信号を発射せよ、と同時に感覚系には、これから信号を発射するがこれは自身の信号だから無視するように、と。

このような機能がヒトにもあってこれがうまく機能していないのが統合失調症だと推定される。

 

広告マンがしていること

外からの影響力(情報)を無意識の情報処理の背景ノイズに溶け込ませることに努力している。

そうすれば、後は、顧客の無意識のシステムが勝手に、顧客自身の意識に対して納得のいく説明を考え出してくれる。

 

具体的には、

現状に問題があることを提示し、売りたい商品の必要性にスポットライトを当てて、欲望を生み出す。

広告の中の人物と視聴者を同一視させる。

CMの主人公と同じように使えば問題を解決できることを確認させる。

最後には、輝き、快適に、○○らしくなる、という主人公の使用後のイメージを見せる。

その結果、視聴者の無意識が主人公の使用後の状況と同調させるようになると・・・。

 

催眠術から抜ける方法

脳内の無意識システムが即座に注意を払うような重要な情報を感知しさえすればいい。

たとえば本人の名前、火事、地震、憧れのアイドルの裸のイメージなどなど、感情が大きく動く刺激。

 

無意識で人を殺して無罪

オンタリオ州トロントのケネス・パークス(当時23才)は義理の両親を殺したが、半意識の状態にあったと判断されて無罪になる。

判決文は、

「コモン・ローでは、他の場合ならば犯罪となる行為を行った人物が、無意識または半無意識の状態であった場合には無罪である。精神の病気または理性の欠如のために、その行為の性質やそれを実行するのが間違っていることを認識できなかった場合も責任を問われない。

人は意識的、意図的行為に対してのみ責任を負うというのが刑法の指針である。」

 

ゾンビと徐波催眠

ヒトは深い眠り(ノンレム睡眠)の最中には、筋肉が麻痺し、この間に鮮やかな夢を見る。筋肉が麻痺しているため、夢が現実世界で行動に移されることはない。

一方、徐波睡眠(レム睡眠)時には、夢遊病のように無意識で行動をする例がある。

頭の中は夢が占めていて、まるで夢を実行に移すロボットのように体は自動的に動く。ゾンビはノンレム催眠ではなく徐波催眠の時に行動するのだ。

眠れなかったり、熟睡できなかったり、衰弱した精神状態の時に危険な空想が頭に忍び込む可能性が増える。

ノンレム睡眠時に夢を見た場合はそれを記憶している確率は75%だが、徐波睡眠では60%以下になる。

昼間にしっかりと体を動かして熟睡するのがいい。

 

 

 

 

催眠術をかけられると、前頭葉は活動せず、前帯状皮質だけが活性化される。

前帯状皮質の無意識の矛盾の監視と、前頭葉の意識的分析が切り離されることをジョン・グルゼリアは発見した。

催眠術は矛盾の監視を阻むのではなく、二つを分離し、矛盾の報告を妨害することでストループ効果を失わせていた。

催眠術によるトランス状態に入っている間に受けた暗示は、前頭葉の意識的な精査の対象とならない。そのため、催眠術をかけられた人は、突飛なことをするのだ。

 

サブリミナル・メッセージの効果は誇大宣伝

催眠術に比べれば微小でしかない。ボーリングに例えると、ボールによって弾き飛ばせるピンの方向に比べて、催眠術は投げる方向をレーンの外に設定することさえできる。

 

ペプシコーラ・パラドックス

催眠術は前帯状皮質の活動パターンを変え、広告のブランドは内側前頭前野に影響する。

 

すべては自我を守るため

無意識のシステムは、補足したり、理にかなっていない行動を合理化したり、でっち上げたりする。なぜそんなことをするのか?矛盾した経験を首尾一貫させるような説明を創作する必要があるのか?答えは自我!

 

意識的システム  熟考や決断を可能とする  感覚や感情を覚える 

無意識システム  自我の統合性や連続性を保持し、そのために極端なことをする。しかしこれをあくまでも追求すると、自我を守るために自我が分裂するケースがある。

 

自我やアイデンティティのある場所

内省している時は、右前頭前野が活性化される 他者のことを考える時には活性化されない

ここが破壊されると、自己や大切な人を認識する能力、個人の歴史の記憶、個性や他者との相違点に対する不変の意識、思考や行動をコントロールできているという感覚がなくなる。   ピョートルの例では

 

離断症候群

癲癇の治療のために、脳梁分離術で左脳と右脳を分断すると、右手で欲しいものを取ろうとしたら、左手が伸びてきて、右と左で争っている感じがした。反発し合う磁石のように。

 

両脳半球がひとつの自我を共有

右目に笑う、左目に顔という文字を分離脳患者に見せて、なんでも見たものを書くように口頭で指示すると、患者は笑っている顔を描いた。

理由を尋ねると、「悲しい顔を見たい人なんかいますか?」

言語生成する左脳が右脳が見たものに気がついていないにも関わらず、論理的な説明を考え出す。

理由を考えるのは左脳である。

仮説では左脳が日常経験をまとめて、それを意味のある者にするために唯一の統一された物語を組み立てる

自我は右脳であることを認めつつ、自己処理は脳の至るところで行われ、左半球は重要な役割を演じている。

 

命にかかわる出来事に対する二つの対応

過覚醒 

PTSDの特徴であるストレス反応 フラッシュバックや悪夢 緊張して集中できない 驚きやすくなりビクビク

前頭葉と側頭葉と頭頂葉が活性化され、脈拍が著しく増加

 

ショック状態

失神したかのように外の世界に対して何も感じなくなり、外から遠く離れているように感じ、感情を失う。

後頭葉の一部だけが変化  過覚醒反応を未然に阻止するために情緒反応を麻痺させるかのように

 

自我の最大の脅威は心の傷

健康な人が悲しみのせいで無気力になり、ベッドから出れなくなることもある  例えば退役軍人

 

解離性障害

周囲の世界から切り離され、アイデンティティー(の一部)を失ったような感覚。

解離の目的は、トラウマによる苦しみの追体験を防ぐこと。過去の精神的な痛手に苦しめられずにすむように無意識が行う防衛機制である、自己防衛機能だ。

もろい心を守るため、ジギル博士はハイド氏を生んだ。

心(無意識)は記憶や耐え難い感情を切り離すことができる。

細菌感染のメタファーで言えば、免疫系は体の組織内に膿瘍を作って、病原菌を遮断する。この膿の膜に包んでバクテリアを近くの組織から離するように。

 

解離とは、心の痛みを伴い自己を脅かす有害な思考を、自己意識から隔てる作業だ。例えば侵入したコンピューター・ウイルスを、隔離フォルダーに入れておくように。このフォルダーを神経学者は「感情を担当する部位」と呼んでいる。

ヒトとコンピューターウイルスとの違いは、この隔離したウイルスは、ヒトでは交代人格として再び姿を表すことがある。

 

離人症性障害 「わたし」が自己や周囲から切り離されて、世界を体験するのではなく見ているように感じる。

解離性遁走  自分が何者かも、住んでいる場所も忘れてしまい、新しいアイデンティティーを持つ傾向がある。

解離性同一障害 人格や自我が分裂し、いくつかの別々のアイデンティティーのようなものに分かれてしまう

 

解離性同一障害

メインの「わたし」  外の世界に対してリアリティを感じなくなり、外から遠く離れているように感じる。

           心のなかでバリアが築かれている  解離した自己が標準

           心の傷になった記憶はブロックされておりアクセスできない

神経学的証拠はPETスキャン  解離状態を経験している人と同様の活動 活動の鈍化

           怒った顔を見せても、無意識がメインの「わたし」を守る

   

交代人格       ウイルス隔離フォルダーから甦った人格や過去の一部

           過覚醒と解離の2パターン

過覚醒でPTSDの特徴であるストレス反応がある  苦しみに襲われる

           驚きやすくなりビクビクなるのを避けるためにはどうすればいいのか?

答えは退行する

アイデンティティー全体を守るために、自我の一部を取り除くのだ。

だから交代人格は枠未熟であることが多いのだろう。

PETスキャン     偏桃体(感情中枢)が突然に活性化される

           海馬(エピソード記憶の中枢)が交代人格により異なる活動

           仮説 各交代人格が記憶領域の違う自分だけの記憶にアクセスしている、

           怒った顔が無意識のうちに心の傷となった記憶を呼び起こす

 

眼窩前頭皮質の活動が低下

ヒトは経験をする時に感情が神経系に印象を残し、出来事の記憶装置に「マーカー」する。

この情動記憶で自分自身の過去の経験を使ってシミュレーションするのだが、これが低下してしまうということは、もしかして各人格は記憶装置と部分的なアクセス権しかもたないことの裏付けになるかもしれない。

 

 

どうしたら交代人格が現れるのか?

ストレスや条件反射や学習や刺激によって、隔離フォルダー(不活性化の海馬)に閉じ込められている苦悩にさいまれる自我の一面(交代人格)が活性化される時。

 

神経の論理

意識と潜在意識が別々に働き、自我が形成されている。

アイデンティティーを構築するプロセスは、脳が資格を生み出すプロセスとアナロジー。

視覚経験は、形、色、大きさ、速度、方向といった幾つかのパーツによって分離され、脳の異なる部位で計算され、それから融合される。

同様に、自我の経験も自伝的記憶、感情、感覚、思考や行動のコントロールといった幾つかのパーツで構成され、異なる脳領域で扱われ、最終的には合体して統一された外界の経験を作り出す。

どちらも、二つのシステムに依存している。意識的なシステムによって私たちは自我を経験する。苦痛や喜び、行動する意志、心身を故意に制御する。そして潜在意識が作り出した物語を体験することができる。

一方の潜在意識のシステムはこの物語の作者だ。まとまりのない経験の断片を集め、必要があれば補足し、人生の物語を編纂する。自我を構築するのだ。さらに自我を維持して保護し、そのためには解離を利用して有害思考や記憶を排除さえする。

なぜそこまでするのか?アイデンティティーの何がそこまで尊ばれているのか?

サバイバルだ。内生的な生物は生き残りやすい。自分の生存、家族や仲間を守ることに力を注ぐ。個人の物語を持つことで、洞察するという行為を行うことができる。自分という軸がないとできないことは一杯ある。自身の意図を理解したり、推論や決断を熟考したり、目的や願望と一致する行動を取ったりするのに役立つ。アイデンティティーを持つことで、自身の性質をよりよく理解し、世界における自身の位置を向上させることができる。

 

 

 

とうでない知る》とがあるというのだ。たしかにこれは奇妙だが、しかし、じっさいわれわれは「ピンとくる」「腑に落ちる」「行間を読む」といったことばづかいによって、ものごとの理解にいわば《表層的な知る》と《深層的な知る》とをそれと意識せずに、ごく自然に区別しているのではなかろうか? しかし、この二つの「知る」の違いはいったいどこにあるのだろう?

 

 

 

教育とことば

 ここまで述べてくれば、「知る」ことをめぐる奇妙さはすべて「言葉」というものの性質にそのカギがあるらしいことがわかるだろう。われわれが心底から《ああ、なるほど》と納得する「知る」ではない、あの字面だけの、実感の裏づけを欠いた表面的な「知る」は、なによりも言葉による知識なのである。かんたんにいえば言葉とは他者と経験を共有するための媒体である。だからもんだいは言葉というものがどこまで経験をつたえることができるかということなのだ。このことをもうすこし具体的に述べてみよう。

@「おい、それとってくれや」「これ?」「いやちがう、それだよ、それ」「ああ、こっちね」「うん、それそれ」…

A「絶対主義諸国は貿易や産業を統制した重商主義政策により、国内に貨幣や金銀をたくわえることにつとめた。そのため原料品を安く輸入し、国内産業を育成して海外に自国の製品を輸出し、あるいは中継貿易により利益をおさめたりする方法をとったが、いずれにしても植民地をもつことが必要であった。いわゆる《地理上の発見》以来、西ヨーロッパ各国が植民地獲得の競争に没頭したのはそのためである。」


 上の二つの文章のいちばんの《違い》はなんだろうか?それは@では言葉があくまでもわれわれの経験のそのつどの具体的な状況という文脈のなかにはまり込んだ形でしか通用しないのに、Aでは言葉がそうした状況をはなれて《ひとり歩き》しているということだろう。@の文章に出てくる「それ」や「これ」は、会話がなされている状況に自分も身を置いてみなければわからない。だから@は他者と経験を共有するという点で言葉のはたらきがAに大きく劣っているのである。@では、その場に居合わせた人間しか話し手の言うことが理解できないが、Aのばあいにはこの文章を受けとった人間すべてが、どこに居ようが何をしていようがその内容を(おなじものとして一様に)理解することができるのだ。だが裏をかえせば、Aの言葉は(すべての人に共有されるという意味で)「普遍的」であるそのぶんだけ同時に「抽象的」でもある。ようするに「ピンと来ない」のである。逆に@のほうは個別的な経験からひき剥がせないぶんだけ具体的である。つまり、あくまでも経験のひとつの要素として言葉がそのなかに組み込まれているので、言葉が《独り立ち》できないのだ。

 おなじ言葉が同時に具体的にも抽象的にもなるというのは不思議だが、岡本夏木はそれを子どもの言葉の発達と関係づけて《一次的ことば》から《二次的ことば》への重心移動として性格づけている。《二次的ことば》の特徴として、岡本はつぎのような点をあげている。(岡本夏木『ことばと発達』岩波新書 51頁)

(1)ある事象や事物について、それがじっさいに生起したり存在したりしている現実の場面をはなれたところで、それらについて言葉で表現することが求められる。したがってそこでは《一次的ことば》のように、現実の具体的状況の文脈にたよりながらコミュニケーションを成立させることが困難になり、ことばの文脈そのものにたよるしかすべがない。

(2)ことばをさしむけるコミュニケーションの対象が、《一次的ことば》のように、自分の経験や状況を共有してくれやすい親しい少数の特定者でない。自分と直接に交渉のない未知の不特定多数者にむけて、さらには抽象化された聞き手一般を想定して、ことばを使うことが要求される。

(3)《一次的ことば》が原則的には一対一の会話による自他の相互交渉、相互照合によって展開していったのに対して、《二次的ことば》では自分の側からの一方向的な伝達行為として言葉が用いられ、少なくともその行為がおこなわれるあいだは、相手から直接の言語的フィードバックは期待できない。そうした状況にあって、話のプロットは自分で設計し、調整してゆかなければならない。

 さらに岡本はこうした二つの言葉の違いをつぎのようにかんたんな表にして示している。

 


コミュニケーションの形態

一次的ことば

二次的ことば


状  況

具体的現実場面 

現実を離れた場面


成立の文脈

ことば+状況文脈

ことばの文脈


対   象

少数の親しい特定者

不特定の一般者


展   開

会話式の相互交渉

一方向的自己設計


媒   体

話しことば

話しことば、書きことば

 

 そして岡本は、こうした特徴をもつ《二次的ことば》はとりわけ学校の授業において子どもに優勢化してくるのだと述べている。

 かんたんにいえば《二次的ことば》とは言葉が人間の経験として「ひとり歩き」することだろう。しかし経験をかんぜんに、余す処なく言葉の土俵にのせることは可能なのだろうか?たとえば自分が苦心惨憺(くしんさんたん)して会得したゴルフのドライバーショットの打ち方を(他人に教えようと)言葉で表現しようとしても、とてもできるものではない。名状し難いなにかが残ってしまう。それがコツといわれるものだが、それはけっきょく各自が自分自身で《経験する》以外にないのである。(しかも面白いことにプロのコーチが言葉で教示するばあいにも専門用語などより、むしろたとえば《腕が笹竹になったような感じで》といったイメージや比喩を多用するという。感じをつかませるにはそのほうが効果的だというのである。ここからも比喩やイメージというものが経験をとらえる特有の力をもつことがわかる。その特有の力とは言葉によって経験を文脈ごとそっくり浮かび上がらせる点にあるのではなかろうか?ある意味で小説や詩というものは、一般的な言葉をつかって個別的な経験をつくり出す努力だといえるだろう。経験が個別的なものとして生命をもつためにはそれを文脈ごとひっくるめて再生しなければならない。小説が純粋の情報伝達という観点からみると必要以上?に膨大な言葉を費やすのはそのためである。)

 実験で、たとえばチョコレートの香りのエッセンスをカレーライスにかけて食べさせると、被験者は甘いと感じてしまう。においに味がひっぱられてしまうのだ。カレーにたいするわれわれの味覚は見た目、匂い、舌の感覚、噛んだ時の音や弾力、そして味といった要素が複合的にからまりあってできあがっている。このようにわれわれの経験はそれ自体が複合的・多面的なものである。それを味や香りという単一の要素に還元してしまうことはできない。それをすれば経験の中身はひどく貧弱になってしまう。おなじことは言葉についてもいえる。つまり経験をかんぜんに言語化することはできないのである。言葉へとおきかえることは一元化・一面化することであって、経験の中の何かが失われるのである。(もちろんそれだからといって言葉がもつ利点が失われるものではない。言葉は経験を凝集し、それを他者と共有することを可能にするのだ。われわれは父親を殺されなくともハムレットの苦悩を体験できるし、都会にいながら冒険者の目でアマゾンの奥地を見聞できるのである。もっとも、そのさい同時にわれわれは実地の経験からは抜け落ちたものを、各自の創造力によって補わねばならない。)


 ところで学校の教育、いわゆる勉強というものはまさにこうした言葉をとおして子どもに「知る」を媒介するものである。しかも岡本が述べているように、それは徹底して《二次的ことば》によっておこなわれる。国語、算数、理科、社会、英語のいずれにおいても授業は(そのつど具体的な経験を参照しながら副次的に言葉をもちいるのではなく)言葉そのものを独立に操作する作業によってその大部分が占められている。だから言葉をぬきにした授業など、これらの教科では考えられない。(ちなみに2頁のAにあげたのは中学の歴史の教科書に記載されていた文章である。)こうした作業にわれわれはどこまで「知る」という言葉を当てがうことができるのだろうか?それは大いに疑わしいのではないだろうか?それはちょうど、人に香りだけ嗅がせておいて、ライスカレーを食べさせたというのと同じではあるまいか?しかし、それでは(「世の中は教科書どおりにはゆかない」とよく言われるように)そこにはほんとうの《知る》が全くないということになってしまうのだろうか?もしそうだとすれば、たとえばゴルフのスイングを「知る」のに教本(マニュアル)などまったく無意味だということになってしまう。

 だがこれは、教本(マニュアル)を読むだけでかんぜんにスイングのコツがマスターできると思い込むのとおなじくバカげたことだ。ほんとうに問題なのは言葉に置き換えることができなかった経験の次元を実地の経験でおぎなうこと、つまりマニュアルを読みながら同時に自分で手足を動かしてあれこれ試行錯誤してみることなのである。それは言うなれば、言葉に翻訳された他者の経験をこんどは自分自身の手でもう一度経験に翻訳しなおす作業である。そしてこれはたんなる機械的な「置き換え」ではない。むしろそれ自体が一つの創造的な作業だと言えるだろう。それというのも経験を言葉にするとき、かならず経験のある要素が抜け落ちてしまう。その抜け落ちた部分を自分自身の実地の経験でもっておぎなってやらなければならないのだが、それには想像力が不可欠だからである。(「真っ赤なりんご」というきわめて具体的にひびく言葉も、じつはまったく具体性が乏しい。それが脳裏にありありと思い浮かぶのは、われわれがそのつど個人的な経験によってその欠損部分を補填(ほてん)するからであって、言葉そのもののおかげではない。そしかし言葉というものは、それによって人間たちの間に状況の共有ができれば良いのである。それは事物をありのままにコピーするものではないのだ。)

 だからほんとうに肝腎なのは、言葉を、もともとそれが生まれた経験の文脈のなかにもういっぺん投げ返してやることである。あとはこれが学校の勉強のなかでどこまでやれるかという問題ではないだろうか?

 

 

自意識からの脱出の一つのメソッド  ただの人になるためには「愛」

自意識が大きいままの人がいる。

現実界にすまない人がいる。  

子供を持たない人がいる。

愛する異性が普通ではない人がいる。 例えば歴史上の人物やアイドルだったり。

彼らにはある共通点を持つ傾向がある。

 

脳内イメージを大事にして暮らしているということ。

しかし時に、それが膨らみすぎた時には、一度は小さくするのもいい。

 

ただの人となるための最大影響は愛する異性の登場。

愛する異性への想いは、自分の内部にある想いの枠を作るが、

同時に相手を受け入れることで、自己像(自意識)がだんだんと小さくなる。

 

 

多重人格  解離性同一性障害

多重人格の治療法

誰でも、「これが本来の自分だ!」と思ってる自分(主人格)と、別の人格(副人格)を持っているのが普通です。

そして、この色々な自分の部分が、例えば生真面目過ぎてストレスが溜まるのを防いでくれたりしてくれています。

つまりバリエーションや選択の巾を拡げて主人格だけだと偏ってしまって行き詰まる所を助けてくれています。

一方、トラウマ(心の傷)になるようなショックな出来事が起きた時には、脳の扁桃体が異常興奮して記憶を消してしまう事があります。

勿論、記憶が消えた訳ではなく、その記憶が保存されてる脳の神経組織へのアクセスを遮断して、再びショック状態になる事を防いでくれている訳です。これがいわゆる「解離」した状態です。

(但し、同じ様な心理状態になった時=トラウマ体験と同じ脳内の情報伝達物質が作用した時は、その記憶が眠ってる神経組織へ再びアクセスしてしまいます。これがフラッシュバックです)

多重人格障害の場合は、幼児期等のトラウマ体験や過度のストレスに対抗する為の副人格が形成されます。(例えば虐待を受けている子供が”甘えたい自分”や”反撃したい自分”を作る等)

そして、一方で主人格は「甘える事は絶対無理だ」とか「反撃するなんて絶対にしては行けない」等と絶望し、副人格を認めないとどうなるでしょう?

副人格の欲求が強烈であればある程、そして主人格の抑圧しようとする力が強烈であればあるほど、副人格は”解離”され、主人格と切り離された「別の人格」として育って行きます。

 

治療方法

ある一つの厄介だとみなされてる副人格を薬で抑えようとしたり、出て来ないように、より抑圧=解離が進む方向で治療すると、その副人格が逆に強力になったり、その副人格を守る為の「代わりの副人格」が新たに形成されて、人格がどんどん増えていったりする事になります。

ですから、まずは副人格一人一人と仲良くなる為に話を聴いてあげて(大抵”名前”や”年齢”、”性格”等を持っているはずです)、それぞれの「意図と目的」をわかってあげる事が第一歩です。

そして、副人格が形成されるきっかけになったトラウマ体験を癒し、解離させた主人格との葛藤を解消してゆく事が大切です。

更には、副人格が代わりにやってくれてた事を、少しずつ主人格ができるようにしていき、副人格が本来の意図や目的を変えずに別の方法で主人格を援助していく道を見つけてあげる事も大切です。

また同時進行で「副人格が出て来なくて済む(=副人格が納得してくれる)行動やシチュエーションを見つけていって、それを少しずつ増やしてゆく事も非常に効果があります。

 

多重人格(解離性同一性障害)の治療法で一般になされている「しなくても良い事」を書きます。

まず代表的なこととしてあたかも人格が一つになるかのような治療法でされている「記憶の統合」です。

人格が違えば忘れていて当然だからです。

必要な事はもちろん覚えているでしょうから生活上、記憶が曖昧になっていようが過去の名前であったときのことですから今に関係ありません。思い出さなくても今の時点で人格は一つです。

 

次に「他人格との話し合い、理解」も必要ありません。いつまで経っても他人格を気にしては今を肯定できない負のスパイラルに陥ります。といっても気にしてるからやめられないのでしょうが・・

間違った解決方法の一つは、

「自分がなりたい自分、どの性格で行きたいか。多分他人格を理解して生きている人が大半だと思います。だからこそ、分かるはず。どれで行きたいか?自分がそれでやって行きたいと思う人格を一つ決めるんです。それは他人や行っているカウンセラーの人達と一緒に決めても良いですし、どれか一つ決めることに専念することです。よく考えて今じゃ嫌だなと思ったら他で行ってみる。結局どっちが良いんだろうか?悩みに悩むことだろうと思いますが、それでも決めてしまう事です。かなりスッキリしますし、決められた後は吹っ切れます。

記憶の再読み込みなどは一切しなくていいということです。」

「フラッシュバックからの人格アクセスについて・・いきなり思い出してアクセスしてしまうのは今は仕方ないと思い、感情を開放させてスッキリしたら、また決めた名前や出身地でやっていくか、そのままの人格で行くか選択していきます」

 

多重人格とは、正式には解離性同一障害( Dissociative Identity Disorder ; DID)といい、解離性障害の一種だとされています。以前は多重人格障害( Multiple Personality Disorder ; MPD)といわれていました。

解離性障害とは、耐え難い状況に直面した際、自分のことではないように感じたり(離人症)、その時の記憶や感情を切り離し思い出せなくする(解離性健忘)ことによって、精神的ダメージを避けようとして起こる障害とされています。

解離性同一障害は、そのうち最も重篤な症状だといわれ、切り離した記憶や感情が個々に成長してしまい、別の人格として現れるものです。

多くの場合、子供の頃に受けた虐待やいじめ、トラウマなどが原因で起こる自己防衛反応によるものと考えられています。

 

多重人格の兆候

・知人に「誰?」と尋ねる

友人、恋人、配偶者、同僚(親に対してはあまり見られない)に対して急に「あなた誰?」と尋ねたり、急に怒り出したり、泣き出したり、パニック状態になったりすることがあります。

・性格や年齢と符合しない態度をとる

大人なのに急に子供のような態度で甘えるなどの兆候がみられることがあります。幼稚園児のような話し方をしたり、自分の子供よりも年少であるかのような態度をとることもあります。

また、男口調で罵倒するなど、極めて乱暴な話し方になることもあります。仕草や利き手、服装や味覚が変わることもあるようです。

・明らかに自分がしたことを、自分ではないと言い張る

嘘をついたり言い訳しても無意味な状況下であるにもかかわらず、自分がしたことを「自分ではない」と主張するという行動もみられます。

・自傷行為

解離が起こっているとリストカットなどを繰り返す場合があるといわれています。

実際に自殺を試みることもありますが、現実感が喪失しているために、痛みによって生を実感したいがためであることも少なくありません。この場合、消滅してしまいそうな自我意識を取り戻すための防衛反応といえます。

・良い子の性格

兆候とはいえませんが、多重人格を発症する人は、子供の頃から大人しく聞き分けが良く、受け身で依存的であることが多いといわれています。

症状が悪化すると次のような兆候が現れてくることもあるそうです。

・自分のことを、「私たち」「彼、彼女」「彼ら」と呼ぶ

・別人格の自分の声が聞こえるようになる

 

多重人格の診断方法(4つの診断基準・10のチェックテスト)

現在、多重人格(解離性同一障害)の診断基準は下記のようになっています。

A2つ以上の、はっきりと区別できる人格が存在する。それぞれの人格が、周囲の環境や自分自身を認識しており、独自に関わったり思考している。

B、これらの人格が繰り返し現れる。

C、通常の物忘れとは言えない、重大な記憶の欠如がある。

D、これらは飲酒などの物質的な要因、または発作など他の疾患によるものではない。子供の場合は、空想上のものではない。

多重人格を見分ける最大のポイントは、2つ以上の明らかに異なる人格が観察されることに加え、解離性健忘がみられるということです。以下が解離性健忘があるかどうかのチェックテストです。

1、時間感覚を失っていると感じることはありませんか?頭の中が真っ暗になり何も思い出せないことがありませんか?記憶がない空白時間はありませんか?

2、自分が記憶にない行動をしていたことを他人から聞かされませんでしたか?送信した覚えのないメールが送信箱にありませんでしたか?

3、自分の持ち物の中に、自分の物ではない物、身に覚えがない物が入っていることはありませんか?レシートなど。

4、思い当たる理由がないのに人間関係が変化していませんか?

5、気が付くといつの間にか見知らぬ場所にいることはありませんか?行こうと思っていた場所とは違う場所にいたことはありませんか?

6、態度や話し方、運動能力・芸術的才能・労働様式・味覚や習慣などが変わったり、人から変化を指摘されたことはありませんか?

7、子供の頃の記憶や、大人になってからの記憶が部分的に失われていることはありませんか?

8、初めて会ったはずの人がすでにあなたを知っていたり、違う名前で呼ばれたことはありませんか?

9、他人との会話やメールの内容で思い出せない部分はありませんか?また、人から忘れていると指摘されたことはありませんか?

10、ひどい頭痛はありませんか?

 

多重人格の治療方法

・薬物療法

多重人格そのものに有効な薬はないといわれ、心理療法の補助的な方法となります。統合失調症と誤診されやすい幻覚に対しても、投薬は有効ではないとされています。

主に対症療法として、抗うつ薬、抗不安薬、睡眠薬、投薬が行われますが、多重人格の人は薬物依存になりやすい傾向があり、オバードーズ(大量服薬)の危険もあるため、投薬する場合も慎重なる必要があります。

 

・心理療法

精神分析治療と催眠療法の併用が有効といわれており、カウンセリングや認知行動療法が用いられることもあるようです。いずれの方法をとる場合でも、治療者の力量が重要だといわれています。

多重人格の人の多くは被害体験を持っているため、治療の基本は、安心できる環境を保証するとこ、治療者との信頼関係、家族や周囲の理解だとされています。

患者が治療者を信頼しきれず、治療を中断せざるをえなくなったり、治療自体を始められないというケースもあるようです。

 

にせものの多重人格について

多重人格という精神状態は、映画や小説などでよく知られているため、そう偽ることで利を得られる人が詐病する場合もあります。詐病とは病気である演技をすることで、犯罪者が裁判で心神喪失を訴えるときなどにもみられます。

詐病かどうかは薬物補助面接(薬物を用いて半催眠にする)などによって判定できるようです。目的のある詐病や演技でない場合も、他の気分障害や人格障害であるケースもあり、さまざまな精神疾患と区別しなければなりません。

 

多重人格に似ているが疾患ではないもの

性格の多面性

お酒入ると性格が変わったり、悪態をついても翌日には覚えてもいなかったりといったことは少なくないと思います。

相手によって態度や言動が変化したり、普段は大人しい人は急に激怒することもあります。自分の秘めたる声や別の自分を感じることもあるでしょう。

これらの変化は、性格の多面性や心理的葛藤が現れたものにすぎず、障害ではないそうです。障害ではないばかりか、解離ですらないそうです。

 

イマジナリーフレンド(イマジナリーコンパニオン)

「想像上の友達」のことであり、幼児期にそのような経験を持つ人は約2030%だといわれています。なお、イマジナリーフレンドの人数は通常12人のようです。

24歳頃に現れ、8歳頃に消えてしまうことが多いといわれ、一人っ子や長女に多いそうです。イマジナリーフレンドを持つ幼児は想像力に優れ、知性や創造性の現れとも考えられており、多重人格とははっきり区別されます。

ただし、多重人格(解離性同一障害)を発症する人には、イマジナリーフレンドを持っていた割合が高く、通常の2倍、約60%もおり、人数も多く平均6人といわれ、思春期や青年期まで続くこともあるそうです。

最大の違いは生々しさで、多重人格者は姿が見え、声も聞こえるため、実在していると信じていることが多いといわれています。

また、通常のイマジナリーフレンドは優しい友達ですが、多重人格者のイマジナリーフレンドは、友達・救済者・慰め役・守護者・家族など役割が一様ではなく、多重人格における交代人格の原型ともいえそうです。

 

一時的、または軽度の解離

金縛りや幽体離脱などの話を聞くこともありますが、それらも病的な解離とは区別されます。また、憑依(狐憑きなど)や宗教的なトランス状態は、当人の文化圏で慣習として受け入れられている場合は、多重人格とみなさず障害ともいえないそうです。

「没入」や「白昼夢」などは一種の解離状態ではありますが、記憶や自己同一性は正常であるため、多重人格とは区別されます。多重人格の大きな特徴は、現れる人格によって、自分に関する記憶・自己同一性がかなり変わることだといわれています。

なお、多重人格であっても、それぞれの人格の記憶が共有されている、別人格が普段は表出しないため社会生活に支障をきたさず、本人も困っていないのであれば、障害ではないとされています。

 

多重人格に似ている疾患

統合失調症

自分を自分以外の人間だと思い込んだり、そこにはいない人の声が聞こえるなどの症状から、統合失調症の幻覚・幻聴・妄想と誤診されるケースもあるようです。

しかし、統合失調症の場合、非現実的な妄想(自分は総理大臣だ、など)、慢性的な社会的荒廃、思考障害(話の筋が通っていない)がみられるとされていますが、多重人格にはみられないといわれています。

誤診されることで起こる大きな問題は、統合失調症と多重人格では治療方法が異なることです。統合失調症に用いる精神薬は、多重人格には効果がないといわれています(緊張を緩和するための少量投与であれば有効だとされる)。

誤診したまま統合失調症の治療を続けると、かえって悪化する場合もあり、より強力な薬を投与されると副作用のみが増幅していくことになります。

 

境界性パーソナリティ障害

イライラを訴える気分障害や移り気、自己イメージの混乱や歪みなどの境界性人格障害の症状は、多重人格と誤診されることがあります。境界性人格障害では変身願望があることが多く、似たような症状が現れることもあるといわれています。

境界性人格障害は気分障害が激しく、相手を褒めちぎったかと思うと、翌日には徹底的に罵倒するといった行動がみられますが、本人の人格やアイデンティティー(同一性)が変わるのではなく、相手への評価が変わる点が、多重人格とは異なります。

つまり、多重人格の特徴が「解離(自分自身が分かれる)」のに対し、境界性人格障害の特徴は「スプリッティング(相手を分ける)」だといえます。どちらも分裂した自己イメージを持ちますが、それが外界・内面世界どちらに反映されるかが異なります。

多重人格の場合は、虐待などの抑圧経験を持つため、葛藤やストレスを内界で処理しますが、境界性人格障害の場合は、自分自身を外に投影し、それを攻撃します。

子供の頃のトラウマ体験や自己破壊行動などの共通点が多く、合併するケースも多いため鑑別が難しく、どちらなのかはっきり診断するためには、面接して人格交代に立ち合うことが必要です。

ただし境界性人格障害の定義として、重い解離症状も含まれており、両者の関係には非常に近いものがあります。。

 

うつ病

様々な精神疾患にうつ症状はみられますが、多重人格の場合も、大うつ病や気分変調症の合併がみられるようです。多重人格患者の初診時の症状で最も多くみられるのが、うつ症状ともいわれ、約90%にものぼるとする報告もあります。

多重人格の診断前に誤診されがちな病気の中でも、うつ病が最も多く約70%にものぼるといわれています。周辺症状ではありますが、精神的負担が大きい場合は対症的に抗うつ剤を用いることもあります。

 

PTSD

PTSDPost-traumatic stress disorder)、心的外傷後ストレス障害では、精神的不安定、不安、不眠や過覚醒などが生じ、ショック状態やフラッシュバックが現れることもあります。

多重人格とPTSDを併発するケースはそれほど多くないといわれていますが、トラウマ(心的外傷)が原因であるという共通点や、解離性フラッシュバックなどの症状から、両者は近い関係にあるといわれています。

PTSDは、戦争や災害、事件など一過性のトラウマが原因で起こるというイメージがあると思いますが、これらを「単純型PTSD」、性的虐待やDVなどトラウマが長期間繰り返されたことに起因するものを「複雑性PTSD」とする分類もあります。

 

多重人格が発症する要因

ストレスの影響

多重人格は、生理学的障害ではなく心因性の障害とされるため、内科や外科のようにはっきりと原因が特定されるわけではありません。時代や研究者によって見解は変わりますし、原因はひとつではない、または個人によって異なると考える方が臨床的ともいえます。

多重人格(解離性障害)の原因は、幼児期〜児童期の強い精神的ストレスがほとんどだといわれています。ストレスの要因には、虐待(心理的虐待・身体的虐待・性的虐待・ネグレクト)、いじめ、親などによる抑圧的な人間関係、殺人事件や交通事故の目撃、家族の死などが挙げられます。

 

居場所の喪失

トラウマによってPTSDなどを発症することがありますが、解離性障害が多重人格に重症化しやすい原因は、両親の不仲や学校でのいじめなどによる「安心できる居場所の喪失」だといわれています。

肉親など、本来であれば自分を守り癒すべき人から傷つけられると、心の傷を癒すことができません。解離や記憶喪失を引き起こすほどの深いトラウマは、孤独感、安心して出来事を分かち合える人の欠如によるところが大きいと考えられています。

安心できる居場所を喪失してしまい、置かれた状況から逃げられなくなると、

愛情の裏切りと孤独→現実への絶望→空想への逃避→解離に至るといわれています。

戦争や犯罪、事故や性暴力などもトラウマとなりますが、「安心できる居場所の喪失」はこれらのトラウマとは性格が異なり、ネグレクト同様「十分な癒し」の欠如が大きな要因として浮上してきます。

 

愛着関係の問題

明らかなトラウマ(心的外傷)がなくとも、幼児期における生育環境や、愛着問題(アタッチメント)が多重人格の原因となることがあるといわれています。

家庭が無秩序・無方向型や逆に過度な秩序・一方向性の生育環境だと、解離性障害になりやすくなるとされ、多重人格の治療でも、まずこの愛着関係に焦点をあてるべきとする説もあります。

無秩序・無方向型の生育環境とは、親が接近しながら拒否を示したり、急に声色や表情が変わったり、パニックになったりするなど、養育者が精神的に不安定な場合を指します。

虐待を伴うケースもあり、子供は親に恐れを抱くようになることも多いとされており、親自身も虐待を受けた経験を持つことが少なくないといわれています。

 

本人の資質

多重人格など解離性障害を発症する原因として、「空想傾向」も大きく関わっているといわれています。空想傾向とは、普通の人々が該当するレベルを超えた「ファンタジーに深く没入しやすい性格」であり、人口の約4%が当てはまるといわれています。

幼児期に空想世界に没入し、実体験と空想の記憶を混同してしまったり、妖精や精霊、天使などが実在していると思っていたり、人形やぬいぐるみが生きていると信じていたりします。

ただし、空想傾向=解離性障害というわけではなく、空想傾向はファンタジー願望であるのに対し、解離性障害の場合は怯えや恐怖が含まれるという違いがあります。

イマジナリーフレンドの項でも触れましたが、空想傾向は創造的な資質であり、そういった才能を持っている人が幼少期に何らかのストレスを受け続けると空想に逃避し、重症化すると多重人格を発症することがあるといわれています。

 

自発的治癒力の弱さ

「解離しやすい資質」は「脆弱性」ともいわれ、その反対概念は「レジリエンス(レジリアンス)」といわれています。レジリエンスとは「極めて困難な状況に直面しても正常な精神バランスを維持できる能力」のことです。

同じ不幸が起こっても全ての人がPTSDになるわけではなく、深刻なトラウマに晒された人のうち、PTSDを発症するのは約14%だとする報告があります。

その違いは、レジリエンスの差によって生じるとされ、PTSDなどを発症しやすいかどうかの性格的な特徴「脆弱因子」「レジリエンス因子」があるといわれています。

といっても、脆弱因子があったとしても、レジリエンス因子も十分に持っていれば深刻な事態にはならないそうで、レジリエンス因子には、自尊心、安定した愛情、ユーモア、楽観性、サポートしてくれる人がそばにいること、などが挙げられます。

いうなれば、レジリエンス因子は自発的治癒力であり、PTSDになりにくいということだけでなく、治療の重要な手がかりになるといわれています。

 

多重人格者にみられる主な人格

基本人格

基本人格とは、トラウマをきっかけに別人格が分離したあと最初に現れる、多重人格の核になる人格を指し、受け身で控えめな性格であることが多いといわれています。

基本人格は幼少期には現れない場合も多いといわれていますが、生まれたときから存在する元々の性格とする捉え方もあります。

主人格

主人格とは、最も多くの時間、体を支配をしている人格を指します。多重人格の治療を求めるのは、多くの場合この人格だとされ、良心的で強い不安を抱いており、頭痛に悩まされている傾向があります。

主人格と基本人格は、他人格が現れている時の記憶がないことが多く、治療が行われていない場合は、他人格の存在を認めていないケースが多いようです。いっぽう、交代人格はお互いを認知していることが多いとされています。

交代人格

交代人格とは一般的に、主人格と基本人格以外の人格を指すとされますが、主人格も交代人格のひとつとする解釈や、人格交代と体の支配を意識的に行える人格を交代人格とする解釈、行動様式や感情が明確にあることを交代人格の条件とする解釈もあります。

準(准)主人格

準主人格とは、主人格の次に主人格の役割をする人格を指し、表に現れる頻度も多く、体を支配する時間も長いのが特徴です。

子供人格

子供人格とは、多重人格者に必ず存在するといわれ、トラウマの記憶や感情を保持するため、幼少期のまま時間が止まったものだと考えられています。甘えられる状況や自傷行為後に現れる傾向があります。

異性人格

異性人格とは、肉体的性別とは異なる性別の人格を指し、女性における男性人格は保護者の役割を担っていることが多いとされています。また、男性における女性人格は、表に出る時間が少なく、主に意識内部で活動するようです。

無性別あるいは中性の人格もあり、それらも異性人格に分類されます。

救済人格

救済人格とは、良心が具現化されたような人格で、それぞれの人格の状況を全体的に把握しており、危険を避けたり、生きやすいように働きかけます。理性的で感情の起伏に乏しい傾向があります。

統括人格

統括人格とは、意識内におけるリーダー格のような存在で、どの人格に交代させるかの決定権を持つなど、全人格を統括する役割を担い、厳格で冷静な傾向があります。

統括人格が2人以上存在する場合もあり、状況ごとに統括者が変わったり、ある統括人格が一部の人格だけを統括している場合もあります。

その他の人格

・記録人格

生活史に関してほぼ完全な記憶を持ち、出来事や他人格の行動についての情報源にもなります。記録人格が2人以上いる場合は、一部の記憶のみ管理している人格もいます。

・保安人格

トラブルを起こす人格の監視・抑制をするなど、意識内部で人格システムを管理する役割をします。

・人格断片

特定の感情表現や行動を行う役割を担う、人格の断片のような意識を指します。多重人格者には人格断片がたくさん存在し、融合や分離を繰り返しているといわれています。

・人外人格

動物など人間以外の人格で、特に猫が多いようです。半人半獣や非生物である場合もあり、大抵は言葉を解し話すこともできますが、動物の仕草や鳴き声を出すこともあります。明確な人格というより、人格断片であることが多いとされています。

・憑依人格

悪魔や精霊などの憑依によって現れる、霊的な人格を指します。

 

多重人格者の代表的な傾向

多重人格では、様々な人格が立ち代わり入れ替わり出現しますが、それぞれ示す傾向にも違いがあります。

物質嗜癖傾向

薬物やアルコール、タバコなどを異常に求める嗜癖傾向がみられることがあります。嗜癖とは依存症ともいい、特定の物質や行動、人間関係などを病的に求めることを指し、拒食・過食といった摂食障害もこれに含まれます。

強い欲求があるため衝動を抑えられず、有害だと分かっていてもやめることができません。

浪費傾向

浪費傾向もみられ、お金を使いすぎて他人格を困らせるケースもあります。衝動買いが多い場合は、買い物依存症傾向があります。

性的傾向

性的に奔放になったり、セックス依存になったり、援助交際や性的職業をするなど、性衝動を行動に移す傾向もみられます。

自傷傾向

リストカットなど自己破壊的行為を繰り返す傾向もみられ、情緒不安的で自殺願望を持っていることも少なくありません。自傷行為とは、リストカットなどだけでなく、オーバードーズなど自分の体をわざと害する行動全てを指します。

自傷行為は必ずしも自殺を意図したものではなく、不安や虚無感を紛らわすために行うことも多く、習慣化してしまう傾向があります。

他害傾向

常に怒りを抱いており、憎しみを発散させようとする傾向がみられることもあり、他の人格を中傷したり、自殺をそそのかしたりします。

他人格を攻撃するために体を傷つけたり、生活を妨害しようとすることもあり、特定の人格(基本人格と主人格に対してが多い)のみに攻撃的なケースもあります。

治療者に対しても攻撃的になったり、治療の邪魔をすることもあります。過去において患者に被害を与えた人間が、他害傾向人格として現れるケースもあるようです。

それほど悪意のない他害傾向人格もみられ、悪ふざけをして困らせる程度のものもあります。

パニック傾向

不安やフラッシュバックによってパニック発作(息苦しさ、動悸、めまい、吐き気、しびれなど)を起こす傾向もみられます。情緒不安定で、気分障害や不眠がみられる場合もあります。

癇癪傾向

不安や怒りで暴れたり、ヒステリーを起こしてわめいたり、周囲の人や物を殴ったり投げたりして傷つけてしまうこともあります。

虚脱傾向

抑うつや虚無感などを感じ、元気がなくなる傾向もみられます。自分の殻に閉じこもり、正常なコミュニケーションをとれなくなることもあります。

保護傾向

特定の人格を守ろうとする傾向で、子供人格の保護したり、他人格を守るために攻撃的になることもあります。

身代わり傾向

虐待などのダメージを受けるときのみに出現したり、深いトラウマの記憶や感情を受け持つ役割の人格もみられ、その人格が身体的・精神的な痛みを感じにくい場合もあります。

 

多重人格を扱った書籍や作品

多重人格の研究書

・「解離性障害ー多重人格の理解と治療ー」岡野憲一郎(著)岩崎学術出版社

「解離」という心理現象を理論的に詳しく解説し、臨床例や治療例も示されています。

・「続解離性障害ー脳と身体からみたメカニズムと治療」岡野憲一郎(著)岩崎学術出版社

上記書の続編で、失われた記憶の担われ方(記憶喪失の数だけ交代人格を持つ可能性)など「解離」に対する考察が深くなされています。

多重人格の原因や、解離とレジリエンスの関係だけでなく、神経ネットワークなど脳科学的な分析、治療の方向性についても解説されています。

 

多重人格を扱った小説

・「ジキル博士とハイド氏」ロバート・ルイス・スティーヴンソン(著)早川書房

ジキル博士は、自分の悪の面を分離するために、姿も性格も全く違う人間に変身できる薬を発明します。

別の薬でジキルに戻ることができますが、ハイドは暴行や殺人など悪事の限りを尽くし、だんだんハイドの人格が強くなっていき、悲惨な結末を迎えます。最後まで真実が分からない構成がスリリングな小説です。

・「24人のビリー・ミリガン」ダニエル・キイス(著)早川書房

連続レイプ犯として実際に逮捕された24重人格者ビリー・ミリガンに、巨匠キイスがインタビューや取材を行い、心理を克明に描いた傑作ノンフィクションで、多重人格の実態を世に知らしめました。

・「ビリー・ミリガンと23の棺」

上記書の続編で、犯罪者病院や司法界でのビリーの闘いや、24人格の統合と再分離、再び自分を再構築しれいく想像を絶する精神的な闘いを、ビリーの日記や手紙を交え、本人の視点から描いたノンフィクションです。

 

多重人格を扱った映画

・「アイデンティティー」(ジェームズ・マンゴールド監督、2003年アメリカ製作)

大雨の夜、寂れたモーテルで11人の老若男女が立ち往生することになり、何者かに次々と殺されていきます。

実はこの11人、多重人格者で殺人鬼の死刑囚マルコム・リバースの人格たちで、そのうち1つの人格が殺人犯なのです。

つまり、モーテルは実際に存在するのではなく、マルコムの意識内部を表しており、殺人事件は犯人の人格が他人格を消そうとしているというわけです。果たしてどの人格が犯人なのか?推理を誤れば、殺人鬼人格に淘汰されてしまいます。

終わりに近づくまで11人が一人の人間の人格だとは気づきませんでしたし、正直ラストまで真犯人に気付かず驚愕しました。かなりスリリングな映画だと思います。

 

・「ファイト・クラブ」(デビィッド・フィンチャー監督、1999年アメリカ製作)

物質主義的な毎日を送っている「ぼく」は、生の実感の欠如や虚無感から不眠症に悩んでおり、そんな折自分の部屋が爆破され、出会ったばかりの「タイラー」の家に転がりこみます。

2人は意気投合してファイト・クラブという男が殴り合うクラブをつくり、「ぼく」は生きている実感を取り戻していきますが、だんだんクラブの活動が爆破事件などにエスカレートしていきます。

「ぼく」はクラブを阻止するために奔走するのですが、「タイラー」の姿が見えなくなったため、必死に探し回るうち、驚愕の事実を知ることになります。

実は「ぼく」と「タイラー」は同一人物であり、常軌を逸した活動は全て「ぼく」の計画に基づいていたものだったのです。

神経衰弱したヘタレ「ぼく」をエドワード・ノートン、イケメンで筋骨隆々なタフガイ「タイラー」をブラッド・ピットが演じているのも対照的です(エドワード・ノートンは「真実の行方」でも多重人格詐病の殺人犯を演じていました)。

「ファイト・クラブ」は結末を知っていても、初見では気づかなかったシーンにさりげなく「タイラー」が映りこんでいたり、様々な解釈ができるので、何度観ても深く考えてしまう、本当に素晴らしい名作です。

 

多重人格を扱った漫画

・「多重人格探偵サイコ MPD PSYCHO」(原作:大塚英志、作画:田島昭宇、角川書店)

漫画なのですが、小説化・ドラマ化・劇化されており、漫画で触れられていないエピソードを小説で書いたり、わざと食い違うようにしてあるのも特徴です。

元々刑事だった小林洋介は、恋人が猟奇殺人の被害に遭ったことで多重人格(小林人格は消失)になり、それによって現れた人格・雨宮一彦は猟奇殺人探偵になりますが、事件を解決していくうちに、犯人たちと自分の共通点に気づいていきます。

雨宮は記憶にない複数の別人格の過去や、猟奇事件に隠された巨大な陰謀を知るようになり、単なる犯罪ものではなく、人格転移などSF要素も加わってきます。

死体などの描写がかなりショッキングで残酷なため、有害図書に指定されたり、出版社の役員が印刷を中止して連載が延期になったといういわくつきの漫画なので、苦手な方は注意してください。

 

多重人格を扱ったアニメ

・「幽遊白書」(原作・富樫義博)

多重人格者が登場するアニメはたくさんありますが、中でも特に印象に残るのは「幽遊白書」の仙水忍ではないでしょうか。

富樫先生の漫画はいつも敵キャラの内面の葛藤が大きな魅力ですが、人一倍繊細で正義感の強い仙水が人間の業の深さを目撃して多重人格になり、妖怪側についた経緯には特に感じるものがあります。

仙水は、泣き虫の女の子、快楽殺人者、理屈屋、趣味担当、など7人の人格を持っています。基本人格であるはずの「忍」は数ケ月表に出てこないこともあり、人格の豹変ぶりや、「忍」人格の静けさには、子供心ながら深い悲しみを感じたものです。

・「遊戯王」(原作・高橋和希)

「遊戯王」には二重人格者がたくさん出てきますが、心因性のものというより霊的なものなので、憑依人格といったほうが適切かもしれません。

基本人格と闇人格(ファラオの憑依人格)の2人の遊戯が主人公ですし、宿敵のマリクやバクラも闇人格です。普段の遊戯は優しく頼りなげですが、闇遊戯になると途端に頼もしいクールガイになります。ヒロインも闇遊戯に恋していましたね!

 

以下、多重人格を扱ったアニメとキャラクターを挙げますが、他にもたくさんの作品に登場しています。

・「クレヨンしんちゃん」上尾ますみ

・「テニスの王子様」河村隆

・「三つ目がとおる」写楽保介

・「NARUTO」重吾

・「聖闘士星矢」双子座のサガ

・「ジョジョの奇妙な冒険」ディアボロ/ヴィネガー・ドッピオ

・「うる星やつら」ラン

・「ドラゴンボール」ランチ

 

多重人格者のブログ

・「解離性同一性障害(多重人格障害)40余りの人格と共に生きる」

子供時代から虐待を受け続け、約40もの人格を伴う解離性同一障害に苦しまれた、りんこさんのブログです。

発症するに至った過去のトラウマや、日々の苦しみや感情を赤裸々につづられています。ブログを記していた人格は3人ほどのようです。りんこさんは大量服薬によって亡くなってしまいましたが、死の直前の文章が残されており苦しみが伝わってきます。

 

・「解離性同一性障害の彼女と僕。」

りんこさんの彼氏の方によるサイトです。りんこさんの病状や経緯、軌跡、解離性同一障害に苦しむ方やその家族への励ましなどが記されています。

 

まとめ

多重人格は映画や小説の中だけでなく、現実にも存在し苦しんでいる方がいるということがお分かり頂けたと思います。

難しいのは「解離性同一障害」の原因はひとつではなく、トラウマや生育環境などが複雑に重なって発症するという点で、治療のアプローチも人によって異なるため、慎重に時間をかけて行う必要があります。

周囲に多重人格を発症している方がいる場合は、身近な人の理解や協力が不可欠です。多重人格について、より多くの方に興味や知識を持って頂ければ幸いです。

 

治療

目標・原則・治療の原型

過去の多重人格の治療では、解離した多重人格の融合・統合が大切な目標とされていました。

しかし、現在は「本人の今、直面している困難の解決」が大事とされています。

それぞれの自我同一性に協力して困難に立ち向かうよう自覚させ、統御できる能力を多重人格の人へ身に付けさせるのです。

中には、多重人格が人生を生き延びていくための手段であると考え、そのままでいたいと希望する人もいます。

治療の目標は本人が決めるものであり、その希望は治療する人に尊重される必要があるのです。

治療は原則として、個人での心理療法が行われています。

心的外傷(トラウマ)を扱う必要があり、治療が再外傷体験となる場合があります。

治療を受ける時は、このことに注意しておくといいでしょう。

治療する人の間でも、気をつけるようにされています。

そして、PTSD(外傷後ストレス障害)の治療過程に沿って行われることが多いです。

多重人格がPTSDと、強い関係を持っているためでしょう。

 

注意すること

《治療目標の選択と、進めるスピード》

実際に治療を体験した人達は「非常に辛い」と語ることが多かったです。

生き延びるために思い出せない場所に置いた心的外傷(トラウマ)は、細かく練られた治療に対しても大きな影響を与え得るのです。

治療する人は本人の状態に気を遣いつつ、治療目標や進めるスピードを決定します。

ただ、「非常に辛い」とした声から、治療に対して恐怖を抱くことは状態を悪化させるでしょう。

大切であるのは「どういう治療かあらかじめ、少しでも知っておくこと」です。

「非常に辛い」と語った人の中には、「あらかじめ知っておけばよかった」とも語っている人が結構いました。

 

《交代人格の取り扱い》

治療する人は、各交代人格の取り扱いに違いを持たせるべきではないと言われています。

交代人格のあるままでいいとする人もいますが、ほとんどはこの状態を解決したい人でしょう。

そのため、交代人格が別の存在だと思わせるのではなく、「解離による困難の解消と統御能力をしっかり身につけさせること」が治療の目標となっているのです。

 

《蘇った記憶》

心理療法を始めると、多くは幼児期に受けた虐待の記憶を取り戻します。

これに関して、アメリカ精神医学会やオーストラリア精神医学会は、次の発表をしています。

1. 思い出せなくしてから長い年月が経っても、正確な記憶を思い出せる状態にすることはできる

2. 年月の経過によって記憶の正確さを検証できないため、一部の人が実際とは違う記憶を作ってしまっている可能性も否定できない

多重人格の人が外傷性記憶を語り始めた場合は、「患者の語る真実」として傾聴され、治療する人による真偽の確認や細部の究明は「治療行為」として合わないと言われています。

多重人格の人自身が、自分の記憶を再評価する余地を残しておくのです。

 

《家族との関わり》

多重人格になる原因の1つに、児童虐待が挙げられています。

児童虐待を起こしたのは、原家族の関係している場合があります。

そのため、原家族に対して反発や愛着、実際と違った認識の生じている場合もあるのです。

治療する人はもし可能であれば、家族と会うなどして本人との関係を改善していくよう努めた方がいいとされています。

 

《自分から「多重人格だ」と名乗って来院した人》

自分から「多重人格だ」と名乗って来院する人もいます。

多重人格は、解離性障害の1種です。

解離性障害の原因となるような外傷性記憶は本来「健忘」されているため、語られにくいです。

また、多重人格の人は気づかれないよう、注意深く振舞っていることが多いです。

自分から「多重人格だ」と名乗って来院した人にも、受容的になって訴えを聞くようにされています。

その場合、薬物やアルコール摂取の影響・意識でも無意識でも、病気になることで他の何かを得ようとしていないかを踏まえて冷静に分析する必要があるのです。

コリン・ロスは多重人格の原因の1つに「虚偽性障害経路」を挙げました。

なかったにも関わらず「ある」として、多重人格を作ってしまうのです。

訴訟が絡んでいる患者の場合は、とくにこのことに注意されています。

 

《やり過ぎなくらいの依存と退行の予防》

多重人格の人は余分な治療・身体的接触の要求、治療の時にした約束の違反を行うものもいます。

こうなるのはもともと、人間関係に悩みを抱えていたためです。

治療する人を他のものと比べものにならないような存在とみなし、やり過ぎなくらいに依存・退行したり、治療している人を「虐待している人」と考えたりすることがあります。

充分に治療計画を練って、本人と相談した上で進めたとしても、なり得ます。

何を伝えようとしているか判断し、何回も続く場合は治療全体を見直すこともあるのです。

考えるべきとされているのは「多重人格の人がもっともいい状態になること」であり、治療する人はいつも道徳的な基準に則る必要があります。

 

《治療する人へのメンタルヘルス(精神衛生)への配慮》

治療の際は多重人格の人のみならず、治療する人の外傷性記憶も思い出されてしまう可能性があります。

このようなこともあるため、秘密を言わないでくれる仲間内で支え合う環境を作り、治療する人の、メンタルヘルスを保つよう配慮されることも必要です。

 

治療過程

多重人格の治療は、PTSD(外傷後ストレス障害)のものを原型としています。

この治療過程については、ジュディス・ハーマンが次のように分けています。

第一段階:安全の確立

第二段階:回想と服喪(慎むこと)

第三段階:通常生活との再結合

(『臨床心理学大系 第19巻 人格障害の心理療法』P266 なお、元は「Herman1992」)

 

《第1段階:予備としての介入と安全の確立》

確定診断・告知・診断の共有を行います。

治療する人は概要を説明し、同意を得ます。

同意を得てから、治療は始まるのです。

多重人格の人と治療する人の間には、治療契約が結ばれます。

外傷体験は「自我の境界を無理やり破ったもの」とされていることが多いため、治療が同じものでないと理解してもらう必要があります。

「契約」という安全で堅固な枠組みで治療の詳細を決定することにより、本人を守るのです。

契約の内容は場合によってですが、面接に関してリチャード・クラフトとフランク・パットナムは「週2回の90分面接」を推奨しています。

契約書の署名は責任の取れる人格にさせ、それぞれに行動への連帯責任を自覚してもらいます。

お互いに日記や掲示板を利用し、コミュニケーションし合えるようにするのです。

このように、第1段階では早まった外傷想起をせず、安全確保から始められます。

 

《第2段階:回想と服喪による、心的外傷(トラウマ)の消化》

外傷性記憶を思い出し、消化していきます。

そのため、外傷性記憶によるさまざまな影響の表れる場合があります。

他の交代人格や他人のした体験と思ったり、混乱や激しい感情の表出があったりするのです。

現在の困難が語られる時、同じような外傷性記憶が思い出されることもあります。

治療する人は日常生活で起こるこのような危機的状況への、さまざまな対処法を身につけさせる必要があるのです。

それを踏まえて、本人を尊重した治療は外傷性記憶の意味を理解することへ進みます。

再外傷体験とならないよう、行われるのです。

治療する人たちも、語られる生育暦や外傷性記憶を「非常に辛いもの」と感じています。

その中で、「多くの辛い経験をしてきたのに、ここまで頑張って生きてきた事実」があると気づきます。

人一倍辛さを耐え抜いてきたと、自信を持っていいのです。

心的外傷の消化によって症状が改善され、訴えていた困難が解決するかもしれません。

 

ただ、2つのことに注意してください。

1. 「非常に辛い心的外傷を処理し、生き延びる手段」とも考えられる解離状態でなくなること

2. 低く自己評価する感覚や、人間関係を上手く築けず適応しにくいと感じる気持ちが残り続けるかもしれないこと

なお、訴えていた困難の解決が何かは、人によってです。

交代人格のいるままでもいいとする人など、人格を融合・統合する以外の状態で「解決」とする人もいるのです。

 

《第3段階:社会へ新しい一歩を踏み出させる》

訴えていた困難が解決すれば、次に考えられるのが「本人と世界の新しい関係」です。

どうやって社会への1歩を踏み出していくかが話し合われるのです。

治療を終えそうな人が心配することなく、新たな1歩を踏み出せる環境が整っている必要があります。

 

 

《芸術療法》

多重人格の人の衝撃的な外傷体験は、脳でうまく処理されずに「映像」として留まっているとする説があります。

それを裏づけるかのように、外傷性記憶は「イメージの侵入」として訴えられることが少なくないです。

心的外傷(トラウマ)の消化を安全で効果的にするため、中井英夫は箱庭療法を薦めています。

 

《薬物療法》

体の病気ではないのに、そのような症状が出る・激しい行動や交代人格の出現の抑制・不安・不眠を抑制するために薬は使われていますが、有効性は確立していません。

治療の中核となる心的外傷や多重人格状態は、薬で解消できないのです。

交代人格によって表に出やすい症状や薬の効果は異なり、薬物依存や自分を傷つける目的で薬を溜めこむ人格も存在します。

自分を傷つける行動に結びつかないよう、さらなる研究の望まれている状態であるのです。

 

《集団心理療法》

多重人格の治療におけるこの療法は、有効性が疑問視されています。

心を許せず、近づかなかったり近づけなかったりする人もいるのです。

それぞれに潜んでいる場を乱す可能性は、新たな可能性を切り開く力と紙一重になっています。

これは日常で人間関係を築く時、誰にでもあることです。

言い換えれば、新たな可能性を切り開く可能性も「事実」なのです。

本来、簡単に理解されない悩みを抱えている人には、同じ悩みを共有し合えるグループのあった方がいいです。

このため、「多重人格と向き合う」の章にある「多重人格の人同士のグループ」です。

細心の注意を払いつつ、集団心理療法の可能性は両面から考慮する必要があるのでしょう。

 

《入院療法》

多重人格の治療は基本的に外来で行われ、必要に応じて入院治療をするようにしています。

交代人格に代わることの影響から他の人とうまくいかない場合もあり、大変なことが多いと言われます。

そのため、きちんとした治療契約が必要とされるのです。

治療する人は改善の意欲を引き出させて自立できるようにさせること、多重人格の人は人格同士でルールを守ることが求められます。

 

多重人格の臨床像データ

1920年代以来にあまり見られなくなっていた多重人格の臨床像は、1970年代以降ふたたび多く報告されるようになりました。

《年代と男女比》

多重人格は30代に多く見られ、男女比は約19と女性が圧倒的に多いと言われています。

ただ、本当はこれほどの差がないのではと指摘されているのです。

《交代人格に関して》

交代人格のタイプでとくに多く見られるのは「子どもの人格」「さまざまな年齢の人格」「保護してくれる人格」「迫害する人格」です。

「異性の人格」もまた、多く見られます。

交代人格間での健忘は約94.9%で、多くは「健忘障壁」によって隔てられています。

ただ、幻聴などから少しでも、もう一方の存在に気づいていることが多いです。

交代人格は抑うつ状態や薬物依存、強迫性障害のような精神的なものを、それぞれに抱えている場合が多いです。

刺激への反応やアレルギー、薬の効果など生理的・身体的な反応も交代人格によって違います。

このことは薬物療法があまり行われない理由にも、関係しています。

 

《「問題」とされる行動・反社会的行動》

自殺しようとすること・自分を傷つけること・精神を活性化させる物質の乱用などが当てはまり、しばしば見られます。

とくに最初の行動は約72%見られ、内2.1%は亡くなっています。

他にも反社会的行動として犯罪行為や売春が見られ、刑に服していた場合もあります。

ただ、これらの行動が見られる人の割合は少ないです。

 

多重人格の臨床像は多種多様な症状・「問題」とされる行動を示すことが特徴です。

このことはヒステリー神経症・解離タイプの神経症水準から、境界性人格障害や統合失調症(精神分裂病)に近い水準のものまで、幅広い度合いの多重人格が含まれていることを意味しています。

 

治療中・治療後の経過

国際解離研究会(ISSD)から1997年にされた報告によると、治療中・治療後の経過は次に引用した通りです。

1. 一部のDID(多重人格の別名「解離性同一性障害」の略称――こちらで書いた注)患者は、23年の集中外来治療後、内部の隔たりの感覚を減じ、比較的安定した状態に達した。

2. 大半の患者は症状の改善・回復まで確定診断後35年を要した。

3. 重篤なU軸病理(人格障害や精神的な遅れ――こちらで書いた注)や、他の重要なcomorbid(併存している――こちらで書いた注)精神障害をもつ患者は、緊急時の短期入院措置を含め、6年以上の年月が必要である。

 

引用した報告からは、治療に長い年月のかかることが分かります。

ただ、このことから治療に対して不安を抱くのは、状態を悪化させるでしょう。

大切なのは「どういう治療かあらかじめ、少しでも知っておくこと」です。

 

普段多重人格に関わっていない人も、このことを知っておいた方がいいでしょう。

一般に健忘や遁走などといった解離状態のそれぞれのエピソードについては治療後の経過がよいとされていて、治療が成功した場合はとくにそうなると言われています。

このようになって、初めて訴えていた困難を解決した本人は、自分が自身の人生における主人公になったような体験をするのです。

 

多重人格自体を消すのは実は、簡単なことです。 最上 悠

多重人格といいうのは、結局、現実逃避なんですね。ただ、現実に向かいあう力が足りないから不安や恐怖が強すぎて、わざととは言わないですが、おかしな言動が出現してしまう。

だから、不安や恐怖をやわらげる治療(薬だけではなく、自分で不安の感じ方をやわらげる方法や現実への対処能力の向上)で、ぴたっと多重人格はなくなります。 

治療期間を無駄に長引かせないためには薬も大切な要因で、若い精神科医の方に薬のアドバイスするとすれば、多くの精神科医がわりと好む妄想をとるという発想よりは、不安をやわらげるというスタンスでの薬の使い方がコツだと私は思っています… 

かえって、多重人格の人格をいちいち本当の人格のように扱ったりしていると、患者さんにとっては現実逃避を増長していることになるので思うツボ…

あくまでも、治療初期の段階が過ぎたら、多重人格の話は本人は都合の悪い時ほどしたがりますがすべて無視するようにするのが治療のコツです。

そういった意味では、専門家らしき人が、フィクション作品等で訳知り顔に多重人格の人格をこねくり回しているのは多重人格の治療面という意味では、私は疑問に感じてはいます。

でも、そんなおかしな多重人格で現実逃避するといったような異常な不安や恐怖を感じるような体質になってしまったり、下手な現実対処能力しか身についていない背景には、身体的虐待や性的虐待も含めた過去のトラウマが関係していることが多いのはよくわかります。

そして、誤解してはいけないのは、多重人格の症状自体は専門家がまじめにやればすぐに消せるけど、このトラウマによって傷ついた心の回復に至るためのプロセスは決して簡単ではなく時間をかける必要があるということです。

一方で、現実に向かいあう能力を高める方法を教えることなしに、「現実逃避するな」と患者さんに言うのはやってはならない、もっとも危険な患者さんを追いつめることだとは思いますので丁寧な配慮も不可欠であることも思います。

現実に向き合えるようになるための第一歩は、多重人格をあんまり不思議がったり興味深く感じるのではなく、よくわからないけどそんなおかしな現実逃避が出るほど現実に向き合えず困っているサインなんだな…と理解する程度に周囲がふりまわされないことが、本人が無駄に膨らんだ症状に苦しむことから回復させることにつながると私は思っています。

もっともこれって、他の精神疾患もほとんど同じ原理で治療理論が構築されているんですよね。 

それは、薬物療法とか認知行動療法とか、そんな浅い部分の話だけではもちろんありません。

でも、この話をすると一番いやがるのは、多重人格に苦しんでいる本人です。

なぜなら、現実に向き合う力が足りない時に、この話は非常に追い込まれることになるから。 

でも、これを乗り越えないと、いつまでも逃避が続いてしまうんです。

もっとも、これは多重人格を早く治したいと本人が思っている方に対しての話ですけどね…

そうじゃない価値観もありますから…

とにもかくにも…

多重人格の治療は、オカルト的なことを期待している人にはつまらないでしょう?

どちらかというと、そんなものが消えた後のトラウマを扱う道のりは、コツコツ積み上げていくべき本当に辛抱のいる超現実主義的な作業の積み重ねだと思っています。

どうやって、現実に向き合うか、そんなことについて私なりに書いた方法論は、以下に書いたようなものです。

多重人格も含めた多くの解離患者さんとも、共有してきたノウハウです。

きっと、心はラクになる―大きな幸せを呼ぶ小さな悩み方 単行本 – 2006/8  

 

 

分裂することで生きていられる 生命の定義

 

別れ続けることによって生きている。

分かれることをやめると生きていけなくなる。

絶えず分裂することによって生を保つことができる。

 

 

修復機能 

減数分裂する時に相同相手を見て自身を修復する。逆に言うと、生を存続させるために減数分裂を行う。

減数分裂がないと生きていけない。 分裂している限り死なない。

 

性の起源は非対称コミュニケーション

粘菌アメーバも接合する時に消えるミトコンドリアが決まっている。

性があるということは死ぬということだ。性が不死性とトレードオフの関係

 

物質が生命体の中に入ると、化学反応を起こし、外に出て行く  

この循環の回路を形成していることが代謝だ       この回路はたんぱく質

この回路である生命体は動的平衡状態を保たれる

生命体とは代謝を絶え間なく続ける閉域のことで、これは分裂していくことで保たれている 遺伝  DNA

保つためには絶えず分裂し続ける必要があるのだ

 

生命の定義  遺伝子とタンパク質とどちらが先か?

自己複製の機能 生物は遺伝子の乗り物 リチャード・ドーキンス 

代謝の機能   タンパク質が化学反応を進める間に遺伝子を作った。代謝を保持するために複製機能を開発した。

複合機能   タンパク質とDNA(ヌクレオチド)が別々にできて合成した。

 

GADV仮説 池原健二 タンパク質ワールド仮説のひとつ

4つのアミノ酸は無機物から容易につくられる。この四つが蒸発と乾固を繰り返し、熱水噴出孔で熱水と冷水の間を行き来することで、アミノ酸がランダムに結合して、GADVタンパク質ができた。

このタンパク質は擬似複製する能力がある。

こうして最初のRNA遺伝子が作られて様々なタンパク質が作られる

 

グリーンランドの地層に推定38億年前のところにC12の比率が通常よりも高いものが見つかったので、これがおそらく生物の痕跡だと考えられている。

化石で一番古いのはオーストラリア北西部のワラウーナ層群の堆積岩にあるフィラメントが発見された 1987

全ての生物の祖先は好熱菌という仮説が有力視されている。

 

 

初回エピソード精神病におけるオランザピンとリスペリドンの認知機能に対する効果

 統合失調症圏疾患において認知機能障害は頻繁に認められ,機能的予後に多大な影響を及ぼす。非定型薬の全般的効果,または練習効果に関する疑問がある中,本研究では初回エピソード精神病症例に対し,6ヶ月にわたりオランザピンとリスペリドン治療による認知機能への影響,及び改善の予測因子を調査した。

〈方法〉継続的な初回エピソード精神病の100症例が評価を受けた。1665歳で,統合失調症またはその他の精神病性障害を有し,過去に抗精神病薬の服用歴がなく,書面にて同意しかつ神経心理学的検査を受けられる症例を組み入れた。11名が1ヶ月,12名が6ヶ月で脱落し,全ての検査を完遂したのは77名であった。基準時点での患者背景は男性53名,平均年齢は30歳,罹病期間は1.1年,IQ96であった(統合失調症43%)。症例はオランザピン(n44),またはリスペリドン(n56)による治療に無作為に割り付けられた。通常の治療の結果,最終的にオランザピン(22名,6ヶ月時クロルプロマジン換算量145mg),リスペリドン(29名, 同213mg), 他の非定型薬へ変更(16名, 同288mg),最後の3ヶ月間は抗精神病薬治療なし(10名),となった4群を調査した。

 神経心理学的検査としては,言語流暢性(1分間で想起できた動物数),Trail Making TestパートB,ウェクスラー記憶検査,コンピューター化された神経心理バッテリーCOGLABのうち4つの課題[反応時間検査(Redundancy-Associated Deficitを含む),注意および理解力検査(Asarnow's test),視覚的逆向マスキング検査,ウィスコンシンカード分類テスト],を行った。神経心理学定期検査の推移にはANCOVAの他,Reliable Change IndexRCI)による評価も用いた。

〈結果〉教育歴を除き,脱落群と完遂群における差異を認めなかった。完遂群においては,リスペリドン群はオランザピン群より精神病症状スコアが高く,抗精神病薬なしの群ではリスペリドン群より抑うつ症状が強く,リスペリドン群と他薬剤へ変更群ではオランザピン群と比べ解体症状スコアが高かったほかは,各群で背景に差異を認めなかった。各群でほとんどの認知機能検査で改善を認め,それぞれ治療群による影響の差異を認めなかった。RCIにて6ヶ月時点で症例のおよそ半数が改善を示し,各神経心理学的検査で1755%改善し,基準時点より悪化した症例はなかった。認知機能改善の予測因子は基準時点での点数が低いことであり,学業不振,低IQによる影響を受けた。女性,若年,6ヶ月時点での抗精神病薬低用量も,認知機能改善とわずかに関連を示した。

〈考察〉治療薬の種類に関係なく,認知機能の改善は4週でみられ,6ヶ月にわたり持続した。非定型群と抗精神病薬なしの群で差がなかったことは意外だが,初回エピソードにおいては効果が初期に生じ,それが持続することを示すのかもしれない。本研究の症例では,基準時点の障害が強いことと認知機能改善が関連した。予備能力が低い症例では急性期障害がより顕著となり,検査で大きな個人差が生じる一方,もともと認知機能が高い症例においては,大きな変化を期待できないのかもしれない(天井効果はRCIの限界である)。認知機能における不均一性を規定する要因に関する更なる研究が待たれる。(鈴木 健文)

CUESTA, M. J., DE JALÓN, E. G., CAMPOS, M. S., et al. Cognitive Effectiveness of Olanzapine and Risperidone in First-episode Psychosis. BR J PSYCHIATRY, 194, 439-445, 2009

 

精神病疾患に対してのアプローチ

脳内の神経伝達物質やレセプターに生じる変化を突きとめ、薬を使って変化を修正するアプローチ

育てられかたに起因するとされるフロイト的アプローチ

進化神経精神医学  脳機能や解剖学や神経構造から症状を説明するアプローチ

 

統合失調症

自分の内部に生じたイメージや思考と、外界に実在する事物によって生じる知覚とを区別できない、ことから起きる症状です。これが幻覚、幻聴、妄想です。一時的な考えが、現実によって阻止されず、本格的な妄想になってしまいます。

 

多重人格

自己という機構が、異常を禁じて統一のとれた信念体系を保持するように働くことで、自己の一貫性と安定というメリットを得ている。

しかし、もとの信念体系では処理できない非常事態に直面した時は、解決策のない自己に任せておくわけにはいかない。そこで登場するのが、新たな人格だ。思考停止して緊急事態の中に立ち止まるよりも、分裂してでもそこから離れて新たな対応をすることを選択するだろう。