認知プロセスと自動反応回路

 

ヒトは目の前の事実をありのままに認識することができない理由

そのメカニズムと解消法

 

 

 

目次

知覚のプロセス   物理的現象

認知のプロセス   心理的現象

          バイアスの7段階

 

認識システム    自動反応回路の生成

メカニズム   メリット、デメリット

認識システムで判別できないこと   「連続性と1つの因果関係と主体」がない世界

弱体化の条件

 

 

コラム

免疫システムの知覚プロセス

上座部仏教による認識プロセス

 

 

 

 

知覚のプロセス   物理的現象

生物が周囲の状況を知覚するには

5つの身体感覚を通して、私たちは心で内と外の世界を経験します。

外側の現象は目で見、耳で聞き、鼻で匂い、舌で味わい、体で触れ、また、記憶や想像などの内側の現象をマインドが知覚します。

 

たとえば対象を「見る」とき、光が眼球の網膜に接触し、その信号はニューロン(神経)を介して脳に送られます。

そして脳はそれを「信号の束」として0.01秒(10ミリ秒)処理します。

現代科学では、その処理された情報を脳で知覚することで、対象と「わたし(主体)」が同時に生じる、と考えています。

 

MITMassachusetts Institute of Technology)の発見では、身体が感覚データを取得するのに必要な最小時間は約13ミリ秒であるとされています。Detecting meaning in RSVP at 13 ms per picture

知覚プロセスの詳細については

未知が既知になる過程 を参照してください。

たとえば木を「見る」ときに何が起こるかを、Jeff Hawkinsの著書「On Intelligence」を参照しながら、網膜、神経反応、化学反応、脳科学について考察しています。

 

現代科学とは、経験的に論証できる系統的な合理的認識で、実証性、再現性、客観性、因果関係があるという条件があります。

このように計器を使って計測できる領域を対象にしています。

 

しかし、仏教などの宗教やある種の哲学思想では、素粒子よりも微細な領域であるメンタル界というものを想定(体感)して、そこで認識が生じることで、その主体(わたし)を創作してしまうと考えます。

 

 

認知のプロセス     心理的現象

心には知りたいことだけを知り、関心のないことは感覚していても気が付かないという特性があります。

たとえば、知覚プロセスが同じで、同一の景色を見ても、各自によって見えるものや気付くことが異なる場合があります。

 

なぜでしょうか?

対象を認識するよる時に、7段階にわたるバイアスを通過するプログラムが本人に自覚はありませんが、はじめからデザインされているからです。

 

1つ目は過去に学習された認識システムのバイアスです。

同じものを見ても認識が異なるのは、これまでの体験によって作られた認知システムが各自によって異なるからです。

本人は自覚していなくても、何を見るか、何に関心が向かうのか、ということがすでに準備されています。

たとえば、環境、地域、時代、民族、事前情報、関心、文化的背景、トラウマ、コンプレックス、体験、遺伝子などの違いによって、各自の脳に入ってくる信号データは異なります。

 

ヒトの脳の機能は同じだとしても、すでにはじめの初期状態で、知覚できることは限定されています。

ここで1つ目のバイアスがかかります。バイアスとは古代ギリシャ語源 epikarsiosから来ている「傾き」( slanted)のことです。

具体化、特殊性、傾向、必然性、癖、偏見、パターンなどの意味があります。

時代や環境によって、はじめから「知る」ことは限定されています。これが認識システム自体のバイアスです。

 

 

2つ目は感覚のバイアスです。

感覚器官からの信号(刺激、情報)には、その信号に近づきたいか、遠ざかりたいか、もしくはどちらでもないか、という条件反射の情報が自動的に付加されます。

この3種類のうちの1つが「タグ付け」されるのは、自覚がない潜在意識によって行われているので、表層意識で確認するには、検証が必要となります。

ある特定なものを感覚するときに、それに関連付けられているさまざまなデータから、どのタグが付加されたのかを推察することができます。

 

このように感覚器官からの信号には上記のタグ付けが行われているのですが、これはその時の他の要素との関係性から決定されるので、絶対的なものではなく、ある種の偶発的なものです。

感覚信号に付加するタグは、たとえば、その時の天候、場所、人などの好き嫌いによっても影響を受けます。

このタグは瞬時に反応する条件反射の回路を作るときのパーツとなります。この回路を作ることで、外界の刺激に対して瞬間的に反応できるようになり、ヒトだけではなく虫にいたるまで、サバイバルの確率を高める効果があります。

たとえば微生物は嫌気性や好気性の特徴をもって行動の方向性を決め、自らのサバイバルの効率を高めているので、これも感覚として捉えることもできます。

一度つけられたタグは新たな体験をして、上書きをしない限りそのままの状態になります。

これが感覚のバイアスです。

 

 

3つ目は感情のバイアスです。

情動の世界にある条件反射です。モノゴト(現象)に出会うと、無関心をはじめ、喜び、驚き、嫌悪感、哀しみ、不安、恐怖など様々な感情が湧いてきます。

怒り・恐れ・喜び・悲しみといった強い感情と同時に、瞳孔や呼吸や脈搏が変化し、消化機能が低下するなどの生理的な変化も伴います。

 

自分がまだ知らなかった(本、テレビ、学校、家庭、地域社会の人たちからの)新しい知識や経験は、以前の既知(知識・法則・体験・感情・快/不快)を基準にして評価されます。新しい知識は既知なるものと結び付けられて理解されるので、新しい知識も過去の感情と連携されて記憶されています。

 

これらの感情は自分の過去にあった体験を情報の基にして、生じます。快いと思うものには近寄り、不快なものからは遠ざかるという経験は気づかないうちに記憶され、次に似ているものと遭遇した時にはこの表層意識では意識されていない記憶によって評価が導かれます。

例えば不快なことがらを強いられた時にそれを受け入れると「悲しみ」となり、それに反発すると「怒り」になるように。

どちらも意図せずに自動的に起こる反応なので、表層意識は反応が起きたあとになって自分は悲しんでいるんだとか、怒っているんだという事実に気がつくことになります。

このように感覚のタグと身体の自律神経とが因果関係で結ばれた感情の回路は、新たな体験をして、上書きをしない限り保存されて、同じようなインプットに対して、同じアウトプットをします。

これが感情のバイアスです。

 

 

4つ目は分類のバイアスです。

次に深層意識による分類が始まります。

理性の認識システムとは、暗闇に懐中電灯でスポットライトを当てて、その明るい部分を分類してそこにラベルを貼ることです。ラベル貼りとは「名前をつける」や「指し示す」や「区分」とも呼ばれます。

 

新たな刺激を知覚した時に、その信号を過去に体験した類似の信号データの集合体と照合します。たとえば、洗濯した靴下やシャツを衣装箱の棚に分けて整理するように、類似したデータを棚ごとに分類しています。

 この分類法は、快・不快、美・醜、好き・嫌い、正・悪、カッコイイ・悪い、や経済性や利便性や概念などなど、TPOに合わせて活用する「棚」の種類も変化します。

「棚に入れる」とは名前をつけた棚に区分することで、これを一般社会では「分かった」といい、本人は対象を把握した気になれます。たとえば、目の前の6本足の虫の詳細の性質が分からなくても、イエヒメアリと特定するように。

 

新たな刺激が過去の体験と強い類似性がある場合は、過去の情感体験の記憶が呼び起こされて、それに連結している感情回路がある場合は、その回路が発動して、出力として感情が表れます。

こうして新たな体験は分類されることで新たな回路を作成して記憶されます。

その時に副交感神経が活性化されていれば、その回路は水面のさざなみのようにいずれ消えゆくものとなります。

心理学では短期記憶と呼ばれます。

その時に交感神経が活性化されて感情が強ければ、雨が土を削って溝を作るように記憶の固定化は深くなります。これが何度も繰り返されると強い回路である条件反射や長期記憶となります。

快か不快のスイッチが入ることで、情感(感情+体の反応)が生まれ、この情感が強い時には記憶は深く刻まれるということです。

 

このように分類の仕方の基準そのものがパターンとなり、新たな体験をして上書きをしない限りその分類法は保持されて、新たなインプットに対して、同じ分類法を繰り返します。

これが分類のバイアスです。

意識に使われるな、意識は時々使うもの

 

 

5つ目は分析のバイアスです。      

分類したものを、もっと詳しく知ろうとすることがあります。その関心があるものに意識のスポットライトをあてて、対象を分析します。

このスポットライトは色々な喩えで表現されます。例えば、マウスの⇒、関心、注目、注意(心理学)、興味(教育学)、好奇心(脳機能学)、差異(哲学)、想い(文学)、影響(経済学)、関係性(科学)、探求衝動(生物学)などです。

 

それは暗闇に光を当てることで、暗闇の中に光の部分が生じ、光があたったところだけを分析して知ることができます。

こうして闇に光を当てることで、捉えることができていなかったものを把握することができるようになります。

 

このスポットライトがバイアスだというのは、暗闇にどのように光をあてているのかは、自覚していないことが多いからです。スポットライトの方向、範囲、強弱、回数、時間は潜在意識によって操作されることが多いからです。

また、光を当てなかった暗闇の部分は表層意識にのぼらないままです。

 

無意識の使い方マニュアル     

 誤解されている因果関係   因果関係は科学ではなく各自の勝手な決め事?

 

たとえば、ボールが飛んでいるのをみると、その方向性、スピード、回転数、色、大きさ、などの要素に従って分類されてから分析され、最後に統合されて認識になります。

脳の中の幽霊 ラマチャンドラン

 

 

6つ目は概念化のバイアスです。

具体的な事象の数々をまとめ上げて、共通項を抽象化することで概念が生じます。

日常会話では、一般化と呼ばれ、抽象度を1段階あげることで、1つの事例から他のケースでも通用する普遍的なルールを見つけることです。

また記号化とも呼ばれ、対象をシンボライズ(象徴化)することで、その機能が明確にわかります。

これは個々の特殊な事実から一般的な原理や法則を導く方法で、帰納法とも呼ばれているものです。

 

この概念化を使って、わたしたちは周囲や心情を認知しています。

これは、分かり易い地図を作るようなものなので、マッピングとも呼ばれます。

具体的には、等高線のある地図に、イメージ化された記号を書き込むようなものです。

記号化されることで、人工衛星から撮影された衛星写真では分からなかった建物の機能が明確になります。

 

概念化のメリットは状況を素早く把握することができることです。

デメリットは個々のTPOは異なるので、精密に正確に言うと一般化することはできません。したがって、概念化したものを他のTPOにも適応させるのはどうしても誤謬がともなう、ということです。

城の中のプリンセスへ

 

概念化は自覚せずに行われる作業ですが、意図的に喩え(メタファー)を使うことで対象を表層意識で効果的に捉えることができます。

しかし、概念を使って対象を把握すると、実際の対象の一部分の一面性だけを捉えることになるのが欠点です。

群盲象を評す  Blind men and the elephant 

地図で同じ記号をみて、同等の機能だと想っても、その場所の人口密度によって機能が異なります。たとえば同じ〶のマークの郵便局であっても、山間部の〶は都会の〶とは違い、地元の名士の家であったり、お茶が飲めるみんなの集会所であったり、荷物を預けたりする機能があったりします。

これも概念化によって生じるバイアスの一例です。

 

 

 

7つ目は統合のバイアスです。

次の認知プロセスの「統合」によって、対象を具体的に、相対的に捉えることが可能になります。

周りとの関係性で対象を理解することができるようになるのです。

 

しかし、分類したものを統合したら、元の全体性とは機能も意味も数値も違ってくることがあります。

これは、なかなか気が付かないバイアスです。

たとえば毎年A野球打者よりも打率が劣る成績のBでも、生涯打率ではAを上回る可能性もあります。

シンプソンのパラドックス  分割して統合すると答えや心象が変わる統計学

 

統合によって生じる錯覚

統合は便利ですが、ただ、この統合によって私たちは勘違いを起こしてしまうことも覚えておかなければなりません。

錯覚がいい例ですが、新しく理解したものを周りとの関係性の中でとらえて統合することで、どうしてもついてきてしまうのが勘違いです。これを防ぐ方法は非情に難しいことなので、こんなことが起こることは常にあると自覚していることが大切です。

 

蛇足になりますが、(表層)意識とは常に深層意識による自動修正によって成り立っています。そして「自我とは幻想である」と哲学者が言うのは、この表層意識を使った認識だけで自己を形成している人に対してです。理性にできることは限られているからです。理性は使い勝手のいい素晴らしいものですが、当然のごとく欠点やできないこともあります。

たとえば、理性は潜在意識や深層意識に直接アクセスすることができません。

そんなことはない、という人は多くいます。

それは表層意識ができないことがどれほど多くあるのか体感していないことによります。

 

そこでクイズです。

ABではどちらの色が濃く見えますか?

Description: checkershadow1

わざわざクイズにしたのですから答えを予測する人もいるでしょう。

よくよくABを見比べてみてください。

 

この錯覚は2つの概念(一般化された方程式、法則、ルール)を統合することで生じています。

市松模様の白と黒が交互になる、という方程式

影は光の当たるところよりも暗い、という方程式

があるので、この2つの概念を基準にして見てしまうと、目の前にある色の濃度を正確に判別することができません。

 

概念を基準にした視覚に囚われているかぎり、あるがままの色の濃淡を識別することはできません。

ABよりも濃くみえるという認識です。

わたしたちはこのような感覚を信じて日常生活を暮らしています。

脳をいまだに信じておられるのですか?

 

「わたし」という主体も数え切れないほどの自動反応回路を「統合」することで浮かび上がってきたものです。

これが統合することで生じるバイアスです。

 

 

 

 

 

 

自動反応回路という認識システム     

 

自動反応回路の作られる過程

メカニズム   メリット、デメリット

認識システムで判別できないこと   連続性と因果関係と主体がない世界

弱体化の条件

 

 

自動反応回路の作られる過程

ヒトの認識は対象を即座に把握する自動反応回路によって生じています。

肉体のレベル、表層意識、そして深層意識に作られた条件反射の反応(自動反応回路)を統合したものが生命体の認識システムになります。

このような回路が作られるのはどのようなプロセスなのでしょうか?

 

新しく知覚したものが周囲のものや記憶や概念と関係性(因果)を結ぶことで既知のものになります。

新たな既知を何度も意識することで、他との関係を即座に持つことができるように因果関係で結びつけていきます。 

たとえば、記憶の中から過去の経験を取り出し、新たに加わった既知と照らし合わせます。

未来予測や空想の時にも新たな既知の因果関係を使ってみます。

次には、この新しく既知になった因果関係を使ってさらに新たな未知を知ろうとします。

このように、いろいろなシチュエーションの中で新しいツールの「既知」を使うことで、これまでのデータを刷新して、新たな自動反応回路が修正されていきます。

 

例えば、自転車に乗ることを会得するのに、はじめは右足をどれぐらいの力で押し、その時は右手に少し力を入れてハンドルを押さえ、次に素早く左足に力をいれ・・・、と考えて体を動かしますが、これを無意識で順序よく動作と修正ができるように自動化する訓練をします。これができると大脳皮質で考えることなく、小脳で情報が処理されて自転車を操ることができるようなります。そして左手で持ったボトルの水を飲みながら、次の四つ角を右に曲がれば近道だなとか、いろいろなことを一辺に同時にこなしながら運転を続けられます。

このような潜在意識化は、自転車などの運動だけではなく、五感から入力された刺激に対しても行われます。これが条件反射とも呼ばれる自動反応回路です。

 

日本人には梅干を見るだけで唾液が出てくる人が多いと思います。見ただけなのに梅干の酸味を強くイメージしなくても、唾液腺が勝手に反応してしまうのです。梅干を食べない文化圏の人にはこのような体の反応は起こりません。これは新たに加わった既知のできごとが体の酵素や交感神経までにも強い影響を与える良い例です。

こうして条件反射のパターンが新しく作られます。

 

非常に単純な学習であっても、体内ではシナプス部分の細胞の中で、cAMPを介して信号伝達系が活性化され、既存のシナプス結合の強化につながります。

長期記憶が形成される場合には、この信号が核内に伝わって、細胞のスイッチをオンにします。すると新たなタンパク質が作られて、新たなシナプス結合が形成されます。現代科学では、こうして記憶貯蔵がなされると解釈していますが、仏法ではシナプス結合は、膝蓋腱反射のような反射回路の作成はしますが、記憶が保管されるのはメンタル界の領域であると解釈しています。

記憶の保存場所 Viññāa Dhātu

 

この信号が核内に伝わるかどうかは交感神経との関係性が推測できます。

自動反応回路は自律神経の交感神経と意識が提携を結ぶことで生じることが推測できるからです。

つまり、生命体にとって、自身の安全性を脅かすときに、交感神経は活性化して身体が緊張し、自動反応回路が作成されます。

この自動反応回路とは、体、感覚、感情、言語作用、思考の各レベルで作成される条件反射のことです。

どれも各自の経験によって作成されたものなので、回路の内容が各自で異なります。

たとえば、快・不快の感覚、好き嫌い、妬み、怒り、憎しみ、比較、こだわり、決めつけ、偏見、判断、過剰一般化による言動や評価はこの回路によって起こるものです。

 

現実の世界で、この新たに加わった既知を使ってみて、結果が同じになることが幾度か重なると、これは何か大切な法則だと思えるようになり「信念」になります。

そしてついにこの新たに加わった既知を肉体化しようとします。ここでいう肉体化というのは意識で意図的にしていたことを、条件反射として学習させることで潜在意識の状態で反応させることです。脳機能学でいう、大脳皮質の活動から小脳の活動に置き換えることです。

外からの刺激を統合化することで信念が生じ、次には「信念」からこの世の現象を評価し、判断しようとさえしてしまいます。この法則を基準にすることで「信仰」がはじまります。

哲学でいえば、帰納法で法則を制定し、演繹法で対象の性質を知らなくても具体化する、ということです。

このような哲学は真理の探索というよりも浅薄な信仰だ、といえるのは、TPOの範囲を極端に限定して、なんでも法則を基準にして思考を始めることを習慣化してしまったケースだからです。

 

多くの学問がこのプロセスを基盤にして成立し、この適合化(効率化・合理化・法則化)がTPOに不適正な場合は、思い込みや「間違った確信」へと発展していきます。

 

 

メカニズム  そのメリットとデメリット

自動反応回路の構成要素は、入力信号に付加する3つのタグ(近づく、遠のく、どちらでもない)と概念であり、これらを部品として回路は作成されています。

 

しかし、なぜこのようなTPOが不適正な場合でも回路が発動したり、間違った確信が起きたりするのでしょうか?

これは生命体がサバイバルの効率性を向上させるために、表層意識を使わなくても、即座に反応できる自動反応回路を作成するようにプログラミングされているからです。

条件反射のメリットは生命体が対象に注意を払っていなくても、体(深層意識にある回路)が自動的に反応してくれるので、スピードの早い対応ができるようになることです。

また、動脈の流れの分布を見たらわかるように、表層意識を使うと大量のエネルギーが消費されるからです。

このように自動反応回路を作成することで、生命体は繁殖できる生命圏を拡大しようと試みてきました。

 

しかしこの自動反応回路が発達することで、弊害も多くでてきました。

この自動反応回路は自身の表層意識では直接に操作することができないので、あまりに多くの自動反応回路を作成してしまうと、それらに操作されてしまう状態で暮らすことが多くなります。

そして、大きな問題点はインプットに対して自動反応回路がTPOの違うところでも発動してしまう可能性があることです。

たとえば、保存された梅を見た場合、極東文化圏外では梅は砂糖漬けも多いので酸っぱい梅干しとは限らず、保存された梅を見ても唾液を出す必要がないにも関わらず、条件反射の反応を回路がしてしまうことです。

この反応を止めようと意識しても、作成された条件反射を元に戻すことは、すぐにはできません。何度も酸っぱくない梅を食べたり、情感の伴ったイメージのトレーニングを重ねたりすることで、梅が必ずしも酸っぱくないことを潜在意識に作成された回路に上書きしなければなりません。

 

自動反応回路の限界についての詳細は

ちゃんとしたロボットになれたら、次は人になろう

 

 

認識システムで判別できないこと     無常がない連続性

またこの自動反応回路という認識システムは、あるインプットに対して決まったアウトプットをするパターン認識なので、これを使うことでの欠点があります。

 

すべての自動反応回路はある特定のTPOで有意義な反応を出力する因果関係として作成されたので、これを他のTPOでも発動してしまうことで、上記のような「保存された梅」のケースでは、不適応なTPOの時にも出力してしまうことがあります。

たとえば勘違いの怒りや憎しみなどの強い感情も自動反応回路です。したがって、自身の意志で止めることはできず、まるで憑依したように自身が自動反応回路に乗っ取られてしまっています。

 

これは過剰一般化といって、過去に適切なTPOで作成された自動反応回路を不適応TPOでも発動してしまうようになったものです。

この認識システムを利用すると、トラウマのように決まった入力に対して決まった反応が出力されるようになります。

 

また、この認識システムを利用すると、この世の変化よりも法則に関心が移行し、「無常」を判別することができなくなり、この世の現象を連続性のあるものだと識別してしまいます。

 

たとえば、自分が大家族の一員だとしてみます。玄関を通って戸外に出るときに、自分が履く靴だけに関心が向けられ、その他の家族たちの靴のことには関心が向いていません。しかし、前日にあった靴の配置の記憶と目の前の玄関の自分の靴とを合成する自動反応回路が発動して、自分以外の靴は見ずに自分の靴だけを認識しやすいようにします。

 

この表層意識と潜在意識の関係性についての詳細は以下を参照してください。

ヒトはなぜ宇宙人に誘拐されるのか? 意識と無意識の並列システム E.J.スタンバーグ 

 

 

潜在意識の回路が本人の意図なく発動されるのは、表層意識を使用するには多くのエネルギーが必要になるので、大脳皮質の働きをできるだけサボらせて省エネ化するように生命体はデザインされているためです。

 

この自動反応回路は省エネ化には効果があるシステムですが、問題点は、目の前の感覚世界と観念世界を正確に把握できないことや、自分の把握した認識を正しいと確信してしまうことです。

たとえば同じ出来事があっても、それをどう解釈するかによって戦いが起こり、敵対してしまうことが生じるのは、わたしたちの日常をみれば理解できると想います。

群盲象を評す  Blind men and the elephant 

 

一般的な哲学は「主体があるという信仰」を基盤にした「測らいの観念」から始まっているからです。

私が「ある」と思ってしまう理由

 

こうして、自動反応回路をつかってしまうと、この世の現象は「連続性と因果関係と主体」があるように認識されてしまい、これらがない世界を認識することができなくなります。

 

仏法の解釈では、因果関係は前世から来世にまたがり、無数で複雑なものです。

しかし、それを明らかにできるのは釈尊のような能力を持つ者だけであるのに、少数の主要な因果関係だけにスポットライトを当てて、因果関係を理解しようとする傾向が私たちにはあります。

 

 

 

回路を弱体化する条件

作ってしまった回路はそのまま永久に維持されるわけではなく、環境や条件によって、その回路は強化されることも弱体化されることもあります。

まと各自の意図によって回路自体を変化させることも可能です。

必要な回路はそのまま維持しておけばよいのですが、トラウマのように必要のないときにも発動される回路は弱体化もしくは消去するのが便利です。

ではどのようにすればいいのでしょうか?

 

. 回路が作られる環境と条件を考えてみて、そこから対処法を探すことができます。

. またその回路そのもののメカニズムを知ることで強度の対処法を探すことができます。

. 回路によって誤謬が生じる箇所を知ることで回路の自動化を抑える対処法を探すことができます。

 

.環境と条件

自動反応回路が生成されるのは、その生命体のサバイバル状況を優位にするために、即時性と即効性が必要とされる状況のためです。そのときは自律神経の交感神経が活性化されている状況で、肉体的には、血圧が上がり、瞳孔が開き、消化機能が低下し、緊張しているときです。

したがって、緊張するのではなく、副交感神経が活性化していると自動反応回路を生成する必然性がなくなり、その緩和された状況を保持しながら自動反応回路が発動されると、アウトプットが低減する回路に上書きされます。

 

.特徴   回数と強度   アウトプットの抑制

回路は筋肉のように使えば発達し、使わないと減少するというシンプルな原理があります。

 

前述の梅干しのように、酸っぱい塩漬けの梅干しを食べ続けていると、梅干しを見るだけで唾液が出るようになりますが、砂糖漬けの梅を食べ続けると梅を見ても唾液が出る条件反射は止まります。

たとえば、各自の性格とは、これらの「自動反応回路の集合体」であると考えてみると、自身が自覚して自動反応回路を上書きすれば、性格も徐々に変化する可能性がある、ということです。

 

ここでの回路の弱体化の方法は、その回路を発動させはするがアウトプットの量や質を変えることです。すなわち、回路自体の機能を変えることです。

初期の段階では他種のアウトプットに変えるのは難しいので、まずは、「わたしはこのような回路を持っているのだな」、と自覚することです。そして、そのアウトプットにただ気づいていて、「また回路が作動しているな」と感じているだけです。

 

はじめは難しいことなので、「また反応しているな」と自分の反応を自覚することが大切です。

はじめのうちは反応してしまっても問題はありませんが、反応したことで反省したり落ち込んでしまったりすると、新しい他のアプリを作成することなので避けるようにします。

ただ「このようなアプリを私は持っていて、このような状況のときに発動しているな」と自覚するだけがいいのです。

 

同じようなアウトプットであっても、その方向や、量や、同種のカタチに変えてみることか始めるのはいかがでしょう。

とくに量はわかりやすいので、同じ回路を発動させてもアウトプットの量を減らすことができれば、その回路は少しですが弱体化します。

そして、この回路のインプットが入力されても、自分の心が完全に穏やかな状態を保っていることができるときがあれば、この回路はいつか消え去ります。

しかし、この入力のときに、心が動揺している場合にはアプリ回路は逆に強化されるので、入力について思い出すことは逆効果になります。

ですから1日5分でいいので、自分の心が穏やかな時空をつくることで、本人の表層意識は気がつかなくても深層意識にある回路は消えていきます。

 

具体的には、

心がある生命体は自動反応回路によって操作されていること、

各回路には特定のインプットに対応する決まったアウトプットがあること、

回路が発動してアウトプットをそのままにしていると、習慣化して回路が強化されること、

しかし、その回路が発動される瞬間に気付いている練習を積むことで、回路のアウトプットの力が弱まること、

という回路の特徴をまず知ることです。

 

この回路は「自動」であることが機能する条件であるので、もし、このプロセスを表層意識で気付ければ、その一部が自動ではなくなるので、その機能が低減します。

つまり気付きの範囲を限定された部分から少しずつ全体に広げ、事前に問題点を知って準備をしておくと、その自動反応回路はもう自動ではなくなってしまい、その効力が低下していきます。

 

 

3. メカニズムとその欠点の気づき

弱体化したい回路の構造をよく分析して、そこに感覚、感情、分類、分析、概念化、統合のレベルでのバイアスがあることを各自が自覚します。 

この中の1つのバイアスを除去するだけで、自動反応回路は大幅に弱体化するので、まずはシンプルなところから始めるのがよいでしょう。

アウトプットの量を抑制して、できるだけ反応しないように、観察するだけで、回路は弱体化して、心の平穏を保つことができます。

 

バイアスがある箇所を理解することで、あるがままを見ようとする訓練の準備になります。

 

回路に気付く

感覚      3種類のタグがあることを知る

感情      離れたいタグが付いたものを受け入れると悲しみ、反発すると怒りや憎悪になることを知る

分類      主観(分類の仕方)にはバイアスがかかっていることを知る

分析      思考回路によって、評価や判断が生じていることを知る

概念      パターン認識で評価することはバイアスであることを知る

統合      統合されたものはありのままではないことを知る

 

 

身体や心が「自分そのものではない」ことを理解し、この事実を熟慮することで、安穏な状態に最終的に至るようになります。

ですから、たとえば、布団に入っている状態での起床の5分間や寝る前の5分間に、心の穏やかさを感じているのはとても効果的です。

 

 

 

 

 コラム   

免疫が学習するメカニズム

未知の微生物が体内に取り込まれる時にも面白いことが起きています。

この時に特定の病原体が出す毒素に対して、生命体が特異的に抵抗性を増大させます。

免疫には伝染病にかかった後に得られるものと、病原体あるいはその毒素からつくったワクチンの注射を観戦の前にうけて得られるものとがあります。

この免疫作用を体外に対して体内はどのように対処するかという「学習」としてみてみます。

 

「免疫というシステムは、先見性のない細胞群をまずつくりだし、その一揃いを温存することによって、逆に、未知のいかなるものが入ってきても対処しうる広い反応性、すなわち先見性をつくりだしている」。

 

免疫とは新たな要素そのものまで創り出しながら自己組織化していくシステムのことです。

一つの要素が変わると全体のシステムも変わってしまうからです。

また要素が変わらなくても、全体のシステムの状態や他との関係性において対応が変化することがあります。

例えば、新約聖書で言えば、ワインは人によってはいいもので飲むことを勧めるが、アルコール中毒者にとっては悪いものなので禁酒を勧めるように。

 

生命体には「最もよいという発想」がありません。最適解を求めているわけではないからです。

生命体は、常に変化する、という曖昧の原理が最初から含んでいるので、常に変化する外界に対応するためには、決まった固定化されたカタチを持つことはありません。

しかも目的があっても、それは各パートにとってであって、それぞれ別なものになっているので、何処か一つのパートが全てのパーツを統合する役割をどこかがもっているわけではありません。

例えば脳が全てを司っていると思っている人もいますが、表層意識は潜在識や深層意識をコントロールできないし、腎臓や膵臓や新陳代謝を直接に操作している人はいません。

例外的にヨギと呼ばれる瞑想者たちは自分の深層意識にアクセスすることで、間接的に器官に影響を与えています。

 

生命にはオーケストラの指揮者はません。けれども遺伝子のひとつずつにはそれぞれ意味についても無意味についても何らかの機能をもっています。自分で役割を終えて自殺する遺伝子もいれば、繋ぎ役や何の役にもたたないイントロンやエクソンもいます。免疫系でもアナジーといって、反応をやめちゃう機能をもつこともあるんです。それらを含めて、生命には関係の相対において曖昧性があります。

 

最適解を求めてしまうと、変化に対応しづらくなるからです。硬くなってしまうのです。生命体が求めているのは、柔らかくなるのです。強くなるのではなく弱くなることです。

 

免疫系が何をしているかといえば、抗体抗原反応をおこし続けています。抗原は外部からやってくる病原菌やウィルスなどです、いわゆる非自己です。高分子のタンパク質や多糖類であることが多く、生命体はこれらに抵抗する、もしくは共存するためのしくみの担い手として抗体をつくります。これは自己ともよばれるものです。しかし、非自己がなければ、自己もつくれません。

 

しかも抗体は胸腺のT細胞と骨髄のB細胞の2種類がなければ動かない。B細胞が抗体をつくるためには、T細胞がなければなりません。ということはT細胞とB細胞には関係性があるはずです。関係性を結ぶものを情報と呼ぶことにします。すると、この情報は免疫言語とでもいうべきもので、かつてはインターロイキン(ロイキンは白血球のこと)と、いまはサイトカイン(サイトは細胞、カインははたらくもの)と呼ばれています。

そのT細胞にもいろいろあって、免疫反応を上げるはたらきのあるヘルパーT細胞も、それを抑制するサプレッサーT細胞も、癌細胞などに直接に結合してその力を消去しようとするキラーT細胞もあります。こうした免疫系の原型はメクラウナギなどの円口類からじょじょに形成されてきて、私たちの一部としてリンクしているのです。

 

 

上座部仏教による認識プロセスの解釈

五蘊の認識プロセスに立ち戻って、例を出しながら具体的に詳細を確認したいと思います。

なぜならば、他の認識論は仕組みをいろいろな観点から分析して、認識の誤謬のメカニズムを説明していますが、

私たちが感じる苦しみからどのように離脱するかについては語っていないからです。

 

対して五蘊は具体的にどうすればよいのかを釈尊が探求した時に発見したものなので、

それを活用するためには、具体例を出しながらそのメカニズムを確認し、その後は活用法を明記したいと思います。

 

 

5感覚器官は睡眠中であっても無意識のレベルで働いており、過去に作ったイメージをそのまま借用して夢をみたり、寝ていても蚊に刺されたところを掻いたりします。

 

具体的には、寝ている時に蚊に刺されたときなど、その皮膚から異物の信号が脳に届き、

その刺激に反応して「掻く」という行動を起こします。

起きている時に、もし刺されたところが青黒く紫色になっていれば、

これはただの蚊が刺したものとは違うので新しい現象を新しいイメージを作成して、無用心にすぐ掻いたりしないで病院に行くかもしれません。

 

五蘊の中で受蘊と想蘊と行蘊と識蘊の4つのは寝ているときにでも「夢」で認識プロセスは働いていますが、

目を覚ましている時にしか発動しないのは「色蘊」です。

夢では過去に作ったイメージが再現されますが、睡眠中は外側にあるものを新しいイメージとして変換することはありません。

 

寝ている時の内外の刺激(たとえば蚊刺され、腹痛)は5感覚器官を介して、神経管を電気信号(活動電位)として、

シナプスを化学信号(神経伝達物質)の物理的信号、そして第6感覚器官である脳の電磁波の刺激(たとえば夢)は、

メンタル界にある五蘊に転送されます。

そこで微細なエネルギー(電磁波)に変換された信号はイメージとして、受蘊や想蘊や行蘊に保持されているデータと照合され、

行蘊にある回路ならば、行sankhāraの自動反応回路が働いて、眠っているのに刺された箇所を掻いたり、寝返りをうったり、

蒲団の中に潜り込むなどの各自が以前に学習した条件反射運動をおこす可能性があります。

 

こうして寝ていてもヒトは無意識のレベルでは刺激に気づき、それに反応して生活しています。

つまり表層意識が働いていない状態でも、「深層にある意識」は入ってきた信号にスポットライトを当てることで、

認識プロセスが進み(想蘊にあるデータとの照合)され、それに対する反応(行蘊にある自動反応回路の発動)が起こります。

その時に、夢を見ていれば識蘊は入力された信号を夢の出来事として認識する可能性があります。

viññānaが発動するには入力された信号が入ってくるのが条件となります。

 

たとえば、憤怒の発動は識viññānaに信号が入力される以前であり、行sankhāraによる自動反応回路の反応です。

「我を忘れる」と言うように、識viññānaが機能する以前に感情が発動しています。

怒りや憎しみの反応をした後に、その様子を感覚器官を経由する信号を識viññānaが感知して、自分がいま憤怒の状態であることを少し遅れて把握します。

このように識viññānaには、sankhāra経由と経由しない信号の入力があります。

 

例えば、何かの匂いがしていると感知するのは、表層意識が気が付かない内に色蘊が匂いの粒子をイメージに変換させており、

それを識viññānaの機能で気づくことができれば、次の段階で、その匂いの色蘊イメージを受蘊( vedanā khandha)と

想蘊(saññā khandha)にあるデータとの照合を行ない、既知のものに特定することができるかもしれません。 

もし、その匂いのイメージを過去に行sankhāraが回路化していれば、すぐに近・遠どちらかの自動反応しており、

その後に、匂いを識viññānaは気づき、それを分析することになります。

 

そしてこの識viññānaの「気づき」にも表層から深層に至るまでのいくつかの段階があり、鍛錬や練習することで、

粗大なものからより微細なものに気づくことができるようになります。

 

たとえば目を閉じて静かにすることで、外界からの信号を弱体化することになるので、

より微細な信号に気づくことができるようにもなります。

たとえば、忙しいときには気づかなかった、背中や胃腸などの内臓の痛みです。

また自分が作り上げた記憶の信号は微細なものですが、感知する頻度が増えます。

エネルギーを持っているカルマの種は動きが強いので、エネルギーのないnāma gottaは心の中で想起されることは難しいことです。

 

強い意志(意識エネルギー)を使って特定の記憶(対象記録)にスポットライトを当てないかぎり、カタチになる機会は多くありません。

換言すると、まずは静かにすることで、エネルギーの強い記録(カルマの種)が頭に浮かんでくる度に、

それにやすらかに気づいていることを繰り返すことで、カルマの種のエネルギーとそれを作り出した回路sankhāraを弱体化しないと、

体の微細な信号や昔に作成したnāma gottaにアクセスしづらいということになります。

 

認識システムと五蘊 そこからの離脱法

五蘊の罠

 

 

 

 

参考資料

学習  learning  平凡社百科事典より

学習とは,特定の経験によって行動のしかたに永続的な変化が生ずる過程である。同じ行動様式の変化でも,経験によらない成熟や老化に基づく変化や,病気,外傷,薬物などによる変化は学習とはいえない。また疲労や飽きは,回復可能な一時的変化にすぎないので,これも学習とは区別される。子どもの発達過程では,例えば言葉や歩行の習得のような学習が,長期にわたって行われている。しかしこの場合,行動様式の永続的変化といっても,多様な経験に基づいて,広い範囲の行動が変化するのであって,この過程はとくに〈発達〉と呼ばれる。

[学習の理論]  学習のメカニズムを説明する理論には二つの立場がある。第1は,刺激と反応との結合を学習の基礎とみなす〈連合説〉である。最初にこの立場を表明した E. L. ソーンダイクは,学習を試行錯誤の過程とみなし,刺激と反応との正しい結合が生ずる条件を示すいくつかの法則を作り上げた。例えば,正反応の結果には満足が与えられなければならないことを説く〈効果の法則〉,数多くの反復をしなければならないことを説く〈練習の法則〉,刺激と反応との結合の用意が整っていることの必要性を説く〈準備の法則〉などである。これらの学習法則には,その後若干の修正が加えられたものの,基本的にはそのまま現在に至るまで受け継がれ,とくに行動主義の学習理論の基礎にすえられている。

 第2の立場は,認知構造の獲得を学習の基礎とみなす〈認知説〉である。この立場はとくにゲシュタルト心理学者たちが採っている。学習は場面の構造が認知されることによるが,それは試行錯誤の結果ではなく,場面の中で解決への見通しが一挙に開けてきたためであるとみなす。だから学習すべきものは,刺激と反応との結合ではなく,場面の意味であり,とりわけ手段‐目標関係の理解なのである。しかし学習そのものの中に,二つの基本的に異なる過程があるという視点から,最近では両者の立場を総合させた〈二要因説〉も提起されている。

[学習の過程]  学習はさまざまな条件によって促進されたり停滞,阻害されたりする。それらの現象のおもなものをあげてみる。

(1)学習の構え 同種類の問題を何度も経験すると,その種の問題に対する学習のしかたを習得し,しだいに容易に解決できるようになっていく。これはいかに学ぶかという構えを学習するからである。

(2)高原現象 学習の過程で行動の進歩が一時的に停滞することがある。学習曲線がこの場合あたかも高原のような形を描くので,これを高原現象という。これは学習の疲労,飽和や動機づけの低下などによるほかに,より高次の段階の学習を続けるために,そのときまでの学習行動を質的に変化させる際に現れる現象でもある。

(3)分散学習と集中学習 学習時間の配分のしかたに応じて,適当な休憩をはさんだ〈分散学習〉と,休みなしに連続して取り組む〈集中学習〉とに分けることができる。分散学習の長所は,休憩中に疲労の回復や学習意欲の更新や復習などが行われるうえ,誤反応を忘却できる点にある。ただしあまりにも長い休憩が入ると,正反応でも忘却してしまうおそれもある。一方,集中学習は,長時間続けざまにその学習活動にあてることができるため,学習活動の準備にあらかじめ一定時間を必要とする場合には有利である。そのうえ,集中学習では,分散学習のように反応を固定化させることもないので,反応の変化がしばしば生ずる学習にも有利である。一般に技能学習には分散学習が,問題解決学習には集中学習が適切だといわれている。

(4)全習法と分習法 学習材料の扱い方に応じて,全体をひとまとめにしてなんども繰り返しながら学習する〈全習法〉と,全体をいくつかの部分にあらかじめくぎり,それらを順々に学習していく〈分習法〉とに分けることができる。もちろんいずれの方法が有効であるかは,その学習材料の性質に基づく。長い学習材料やむずかしい学習材料の場合には分習法に,逆に短い学習材料ややさしい学習材料の場合には全習法によらなければならないだろう。また統一性に乏しい学習材料は分習法が,意味連関のある学習材料は全習法が適切だろう。しかし全習法は効果をあげるのに多くの時間と労力を必要とするのに対し,分習法は速く容易に学習の成果をあげられる。したがって年齢や能力の低い者には,分習法が有利だといわれている。

(5)学習の転移 以前の学習が別の内容についての学習に影響を及ぼすことを〈学習の転移〉という。転移には,前の学習が後の学習を促進させる正の転移と,逆に妨害する負の転移とがある。転移が生ずる条件として,両学習間の類似性,時間間隔および前の学習の練習度などがあげられる。そして,前の学習経験に含まれる構造を正しく把握するとき正の転移が生じ,これを誤ってとらえたり,不十分にしかとらえなかったりすると負の転移が生ずることとなる。⇒発達     滝沢 武久

[学校における学習指導]  上記のような学習のメカニズムを考慮して進められるが,文化,科学,芸術の基本的内容を精選し,系統的に配列し,これを学習者の生活,既得の経験や知識と適切に結合することがとくに求められる。実際の学習指導においては,学習者の多様な反応が現れるから,それらに適切に対応することによって指導の効果をあげることが期待される。例えば学習内容によっては一つの解答,一つの解法だけがあるのではなく,いくつかのものが許容されうる場合がある。このようなときは学習者たちが自発的に多様な解答,解法を示すことも少なくない。教師の発問によってこれを促進することもできる。また集団での学習では,学習者の中に誤りの反応をする者がいるが,誤りの種類や性質によってはこれを積極的に取り上げて解明することを通じて,学習者全員の理解をいっそう十分なものにすることもできる。これらは集団での学習=一斉指導の場面で,教師が直接に学習者たちに働きかけ,その自発性を高め,理解度を深める配慮であるが,これらとあわせて,班あるいはグループを学級の中に作り,学習者相互の働きかけ合いをねらうことによって,さらに指導の効果をあげることもなされうる。

 また学習指導によって,学習者の中に定着したものを確実に把握することも必要不可欠である。とくにそれぞれの学習内容の系列において,必須の概念や操作が習得されていない場合には,後の学習に多大なマイナスとなり,いわゆる学業不振の原因となる。なお,学習させるべき内容の精選・配列,実際の指導,学習者における定着は,学習指導としてひとつながりのものである。そこで,例えば学習指導の効果が上がらない場合など,学習内容の選び方,配列のしかたに問題はないか,指導の方法に問題はないかなどというように,教師にはつねにみずからを反省する態度が要求されると同時に,こうしたことについて教師が自由に研究,研修できるような条件を整えることもたいせつである。             茂木 俊彦

【動物における学習行動】

 動物の行動研究が進むと学習に関する考え方も変わってきた。まず,それまで鳥や哺乳類のみで学習能力が考えられていたのに対し,広範囲の動物で学習する能力の存在が実験的に証明された。例えば扁形動物のプラナリアに光刺激と電気ショックの組合せで条件反射を成立させ,この程度の動物にも学習する能力のあることがわかった。タコの捕食行動では各種の図形と罰・報酬の組合せで図形を学習させられること,ミツバチに色を覚えさせることなど,今日では各種の動物で学習に関する実験が行われている。また,従来は動物の行動を本能と学習に二分する考え方が支配的であったが,近年の研究によって,純粋な学習とみられるものもしばしば何を,いつ,どこで学習するかといった面で遺伝的に決定されていることが明らかにされ,現在ではこのような二分法は有効性を失いつつある。

[慣れ habituation  もっとも単純な形の学習は慣れで,これは,とくに刺激の強化が加えられなくても無害な環境には反応を示さなくなるようなものである。キジなど地上営巣する鳥の雛は,孵化(ふか)後,最初は頭上をかすめるすべての影に対して警戒のうずくまり姿勢を示すが,やがて木の葉や無害な小鳥が横切った程度では警戒姿勢を示さなくなる。このような慣れは,明らかに生後の経験によって獲得した反応であるが,猛禽類の影には決して慣れを示さず,このような能力が遺伝的にプログラムされたものであることを示している。

[刷込み imprinting  刷込み(インプリンティング)は特殊な形の学習である。これは生後のある時期の経験が,その動物のある行動を規制してしまうもので,とくに生後の初期に生じやすい。孵化後23日目くらいのニワトリの雛は品に対して強く刷り込まれ,このときに経験した品箱の色や形にこだわる。アヒルの雛が母親が近くにいても,品入れをもって歩く人の後をついていくのも刷込みの例である。これは生後の脳の発達とも関連し,成体になってからは生じない。また,同種の仲間とある程度以上いっしょに生活すると刷込みも生じにくくなる。

[各種の学習行動]  さまざまな動物には種に応じてプログラムされた学習能力があり,例えば,カリウドバチの多くは巣穴を出て獲物を狩りにいく際,周囲のおおまかな地形を認知し,巣穴に戻る手がかりとする。肉食性の哺乳類の幼獣が成長の過程で仲間とじゃれ合いながら口や四肢の扱い方が巧みになったり,鳥類の幼鳥がしだいに熟達した飛翔(ひしよう)を行うようになるのも経験による学習の効果であろう。試行錯誤的に経験を積み重ね,ある行動を獲得するのも学習といえる。サルのいも洗い行動などはその一つで,たまたま海水につかった品を食した個体から,ある集団の中で,すべての個体が海水で洗ってから食すようになったのは偶然の効果から出発している。

 自然な状態における学習の役割は,子が親と同じ行動パターンを受け継ぎ,与えられた環境でうまく生きていけるようにすることである。したがって一般には学習によって行動が進化することはないといえる。                奥井 一満

【認知科学における学習】

認知科学は学際的な学問領域であり,学習の研究を理論的にリードしてきたのは心理学である。心理学において学習とは主体の経験による行動や心的状態(認知)の比較的長期に持続する変化を示す語として使われてきた。認知のモデル化を目指す認知科学においては,学習は記憶とほとんど同じものとして扱われ,特に個体の知識の獲得に対応するものと考えられてきた。しかし,最近になって,知識観の変化と実践活動に対する理解の深まりを反映し,学習を実践のコミュニティの社会的活動とみなす新しい学習観が生まれ,日常のさまざまな活動(ワーク)の研究が盛んに行われている。

[個体内の出来事としての学習]  心理学において中心的な学習観は学習を一個体のシステムの機能や行動の変化としてとらえる立場である。行動主義の学習理論では,刺激と反応の間を結ぶ有機体の内的な機構をブラックボックスとし,研究対象とはしなかった。これに対して,情報処理的アプローチをとる認知心理学では,情報の入力から出力までの過程全体のモデル化をコンピューターメタファーを積極的に利用することによって進めていった。認知主義の立場では,学習とは個体の知識獲得と知識獲得による個体の内的システムの変化,そしてそれによる個体のパフォーマンスの改善として取り扱われる。これは広くは知識の構成主義にくみする立場であり,内的な記号処理,すなわち表象の計算過程のモデル化である。最近では,言語学習や知覚,運動学習といった意識化されにくい認知過程に対して,脳の神経系メタファーを利用したコネクショニズムを人間の学習に応用した並列分散処理(PDP)モデルも提起され,記号処理モデルとの統合の試みが始まっている。行動主義的な学習論と認知主義的な学習論では変化の焦点をそれぞれ行動と認知とする点では大きな違いがあるが,どちらも一個体の変化に焦点をあて,そのメカニズムを明らかにすることを研究課題としている点では共通性がある。

[社会的な出来事としての学習]  熟練者になることは,外側からは行動の変化として,また,当事者にとっては知識の変化として観察可能な部分があることは事実であろう。しかし,熟練者になるためには,その主体を熟練者として位置づける人間関係,すなわちコミュニティが必要である。伝統芸能におけるわざの習得は個人的な出来事ではない。師匠と弟子という徒弟制があり,さらに,それはその芸能の専門家集団,その芸の鑑賞集団などのコミュニティの中に含み込まれている。そうした実践のコミュニティは価値を創造し,更新していく。〈新人〉として扱われていた人も,新しい新参者が参加することによって,古参者への仲間入りをする。周りの人たちの扱いも変わり,その人の自己のアイデンティティも変わっていく。このように考えるとある人が熟練者になるということは個人的な変化ではなく,その人を含むコミュニティ全体の変化と見なすことができる。その意味で,学習は実践のコミュニティ内で起こる社会的な活動なのであり,その参加者の行動の変化や認知的な変化はその一部を取り上げたものにすぎない。また,学習が学習者によるリソース(資源)の再編ととらえられることによって,学習は教育から独立した活動として位置づけられることにもなる。この新しい学習観の中で,学習を個体内の出来事として扱う立場の研究も再配置されていくことが期待される。

[状況論と学習研究の課題]  学習を社会的活動としてとらえる立場を理論的に支えているのが,状況論と総称される立場である。状況論はビゴツキー L. S. Vygotsky(1896-1934)に始まる社会歴史的アプローチ,活動理論をベースにして,コール M. Cole(1938- )らのアメリカ・カリフォルニア大学の比較人間認知研究所を中心として展開されている学際的な理論的志向を指す。特に,リテラシーなどの文化的道具と認知との関係に関する研究,工場や家庭における日常的認知の研究は,状況論的な学習の理論化において重要な役割を果たした。エスノメソドロジーの知識観,行為観も強い影響を与えている。その中心的な主張は,知識や行為はそれが使用される活動から切り離すことができないという知識や行為の状況性の強調である。このことは言語理解が常にその使用文脈に参照されることによってしかなされないことを考えてみればよい。状況論に基づく学習研究では,学習自体が状況に埋め込まれているとみなし,人やコンピューターなど,一個体の内的システムの変化ではなく,ある状況を構成している活動システム全体をとらえようとする。このような立場に立つと,学習は一個体の知識の獲得ではなく,ある状況内における複数の人々や人工物(技術的道具,文字や記号などの心理学的道具)の間の相互行為あるいはコラボレーションの過程であると理解することができる。認知は個人の中に閉じられたものではなく,社会的に分散しており,身体運動の学習も単なる個体の行動の習得としてではなく,社会的実践としての身体技法として取り扱われる。このような様々なリソースのコラボレーションの過程をそれぞれの活動に即して歴史的に明らかにしていくことが現在の認知科学における学習研究の主要な課題である。   石黒 広昭

 

 

 

スーパーシステム

多田さんには、スーパーシステム論という大胆な仮説がある。

 われわれは遺伝情報とともに免疫情報や内分泌情報をもっているのだが、その両方を組み合わせていくと、どこかに要素を創発しているとしか思えないしくみがあることに気がついた。それがスーパーシステムの特色である。けれども、どうもその創発は女性(メス)が思いついたようなものなのだ。

 

「私家版免疫文法」というスライドまでつくったんです。免疫にも文法の時制のようなものがあるんです。

 そうしたら井上ひさしが、こう言った。教室で一回さされると、当分さされることはない。これは免疫みたいなものですね。われわれは日々、自己と非自己をくりかえしてるんですね。それがどのようにスーパーシステムになるかというと、ひょっとするとそれは戯曲や小説を書くときのしくみと似ているかもしれませんね。

 多田富雄が、こう言った。ふつうのシステムはいろいろな要素を組み立ててできるんです。スーパーシステムは、要素そのものまで創り出しながら自己組織化していくシステムのことです。まさにすぐれた文学と同じです。井上ひさしが、膝を打ってこう言った。形容詞ひとつで芝居は変わってしまいますからね。その形容詞ひとつが男と女の成り立ちにまで関係しているので驚きました。『生命の意味論』(新潮社)を読んでいたら、「人間は女がモトで、男は女があとから加工されてできあがった」と書いてあったでしょう。同性愛すら生命意味論なんですね。多田富雄が、微笑して言った。男はむりやり男になっているんですから、型通りにならない男はいくらでも出てくるんです。

 

 

 

 

脳機能学からみた死の恐怖を学習するには       体験できないものを学習する仕組み

 

理由付けをする大脳皮質

情動を生み判断する大脳辺縁系

本能行動を司る脳幹

 

未体験の事柄を認識として自分のものにするためには、何らかの「擬似体験」によって判断を下す以外に手段はありません。認識は大脳辺縁系にはできませんが、大脳皮質には考えるという機能があるので、これが可能です。

ですが、今度は逆に、大脳皮質には情動を発生させる機能がありません。では、「死の恐怖」という情動はいったい何処から生み出されるのでしょうか。

 

恐怖という情動は危険と学習されたものに対して発生するので、大脳皮質に死の概念が獲得されていなければそれを学習することはできません。大脳辺縁系は危険と判断したものに対して不快情動を発生させ、回避行動だけではなく、心拍の上昇や発汗などといった生理反応など、様々な身体反応を引き起こします。

このような行動や反応を知覚し、自分は今、何に対してどのような情動を発生させたのか、といった、結果に対する「理由付け」を行なうのが大脳皮質の役割です。これにより、情動は初めて「恐怖」といった具体的な「感情」として認知・分類されます。

このとき、それが生死に関わるような重大な危機であれば、当然、大脳皮質内の「死の概念」の記憶や、それに関連する過去の体験が引っ張り出され、大脳辺縁系に結び付けられます。そして、大脳皮質が「自分は今死ぬかと思った」などと考えますと、大脳辺縁系は、今度はそれに対して不快情動を発生させます。

つまり「死の恐怖」というのは、大脳皮質に記憶として保持されている「死の概念」が意識の上に想起されたことに対して発生する大脳辺縁系の反応です。そして、このような学習が刳り返されることによって、やがて「死・Death.」などといった言葉に対しても不快情動が発生するようになります。

 

まず「死の概念」は大脳皮質に獲得されなければなりません。そして何よりも、「死の概念」は他の様々な概念とは異なり、擬似体験以外で獲得されることは不可能です。

次の問題は、他の動物の大脳皮質には、擬似体験によって「死の概念」を獲得することができるかどうか、ということです。

 

「擬似体験」とは、別に仮死状態になったり臨死体験をしたりすることではありません。擬似体験とは、例えば、

「既に導き出されている結果を知識として学ぶ」

「既存の体験に基づいて未来の結果を予測する」

のことです。

知識として死の体験を学ぶためには、人間には高度な言語というものがありますが、動物にはありません。もちろん、言語を理解する動物というのは世界中の研究所やサーカス団にたくさんいます。ですが、それが「概念」を理解しているかどうかについては、まだ多くの学者たちは首をかしげているようです。

しかし、言語による擬似体験がたいへん大きなウェイトをしめるが、死の概念というものを獲得する上で、言語を持たないというのが決定的なハンディキャップでは決してありません。

 

私たちは子供のころ、そんなことをすれば死んでしまうなどと良く脅かされます。また、死が忌まわしいものとして本などに書かれているならば、我々はそれに対して恐怖を感じることもできます。

ですが、他人はそう言いますが、死というのはどうして恐ろしいものなのでしょうか。これが分からなければ死の概念を理解したことにはなりません。このためには、既存の体験を元に自分の未来を予測し、そこに「死」というものを置いてみる必要があります。

 

死というのは実際に体験することができないので、自分の身の回りにある死というのは全てが他人にとっての不利益でしかありません。ですが、それが自分の未来にも発生し得ることであり、自分にとっても間違いなく不利益であるということを知っています。これは、我々人間には「自己と他者」というものの区別を理解することができるからです。つまり、人間には他人の苦しみを自分の苦しみとして受け取ることができるわけです。

哺乳類のような高等動物には、人間と同じように「自己・他者」の区別を付けることができるのでしょうか。これについては、世界中の学者たちが研究をしているのですが、未だに決着が付いていません。現状では、動物にもそれができると主張する側には、どうしてもそうとしか考えられないといった結果が山ほど見付かってはいるのですが、これを論理的に説明して証明する方法が、まだありません。

 

頭の回転の速さ

脳の中には、神経細胞(ニューロン)と、数の上でその50倍(重量で10倍)の神経膠細胞(グリア細胞)が存在し、突起を伸ばして複雑な回路網をつくりあげている。グリア細胞は神経細胞を固定し、栄養面で神経細胞を支える働きをするが、それ自身も回路網の一部を形成できる。 そして、五感をはじめ、脳から発せられるいろいろな情報は、コラムという それぞれに関連する領域を伝わっていく。一つのコラムには、同じような性質を持つ約1万の神経細胞が集まっていて、脳における情報処理の最小単位を構成している。コラムのどの部分で、分析、処理、統合などが行なわれているかはまだほとんど解明されていない。 コラムの数が多いので、それを限られた頭蓋骨の中に収めるため、新皮質は深いシワを作って折り畳まれている。

 

では、”頭が良い”、”頭の回転が速い”とは、どういうメカニズムによるのだろうか?

神経細胞と神経細胞との間には、20万〜30万分の1mm(3〜5nm)程度の隙間があり、この間をつなぐのがシナプスである。このシナプス間を、各種の神経伝達物質(アセチルコリン、ドーパミン、など数十種)が物質移動する。 神経伝達物質は、神経細胞で生産され、シナプスまで運ばれ そこで一時貯蔵され、次の神経細胞の受容体(レセプター)があり、この伝達物質とレセプターが カギとカギ穴のように適合すると、次の神経細胞に信号が伝わり電気が走る仕組みになっている。 これが、各種の知覚や運動、麻酔や覚せい剤・麻薬などの作用する神経系が限定される理由である。

 

一般に、明晰な頭脳の持ち主ほど、

1) 神経細胞のネットワークが複雑かつ効率的に張り巡らされ、

2) 信号の伝達速度も速い。

伝達速度は、軸索の太さが太いほど、また、髄鞘(ずいしょう、リン脂質の絶縁体)の形成ができているほど、大きくなる。(50cm/秒〜120m/秒;各種神経系によって大きく異なる *)

 

また、脳波が α(アルファ)波のときを経ると、人は最も能力を発揮しやすい状態になるといわれる。(脳波には、δ、θ、α、β、γ などがあり、 睡眠中の無意識の状態で α波(10サイクル/秒)、 浅い睡眠と深い睡眠を行き来している状態で θ波、 緊張しているときや数学の問題を解いているようなとき、悩んでいるときは γ波(最も速い)が出る。

何かに集中したり、リラックスしているとき、瞑想して落ち着いて思考している状態でも、脳波は α波になる。ほとんどの人はただ目を閉じただけで α波になるが、10秒も続かない。そこで、イメージトレーニングでストレスを解消し、精神をリラックスさせる訓練が推奨された。

すなわち、少しでも長い時間 α波にすることができれば、脳は深い休息に入り、抑制状態になり、リフレッシュされ、再び活発に活動するのである。

また、宗教的な”難行・苦行”は、大脳内にエンドルフィンを分泌させ”快楽”を得させたり、脳に極度のストレスを与え、洗脳やマインドコントロールや催眠術的行動を起こさせることも可能になる。

 

* 脳波の周波数: δ:1〜3Hz(ノンレム睡眠・熟睡時)、 θ:4〜7Hz、 α:8〜13Hz(レム睡眠、閉眼・安静の覚醒した状態)、 β:14〜30Hz(能動的で活発な思考や集中)、 γ:30〜64Hz(同期的で協奏的な認知活動、新しい洞察の認知)、 その他、 ω:64〜128Hz、 ρ:128〜512Hz、 σ:512〜1024Hz、 また、振幅は、正常人で2070μV