誤訳のある原典は信用ができる理由  

聖典が必ず誤解されるわけ

正しいものほど誤解される  http://pacha21.com/buddha/authenticError.htm

 

 

はじめに

誤訳とオリジナル   多層の世界

誤訳がない世界    変化のない世界

誤訳が起こる理由

誤訳が必要な理由

 

誤訳の海とオリジナルの消滅   同じ場でもアプローチで言語の解釈が変わる   

導師と学者は何をするのか?

学者の分析と統合は「人工衛星の視点」

相反する立ち位置とそれらの解釈

学者のアプローチのメリットと誤訳し続ける理由

サングラスをした男の喩え

 

saññā

柔らかく生きたい

 

 

 

コラム

上座部仏教に伝わったもの      

大乗仏教に伝わったもの 

五蘊とはなにか?    

三相とはなにか?

三相についての誤訳 2018

 

正しさの迷路   考えるのではない、感じろ

伝統的誤謬の理由   段階的「わたし」の混同    対象範囲の混同

誤謬の原因    リンク集 

 

因果関係の範囲の詳細   仏教の基準 世界観の前提   

AIの捜索範囲の限界  ヒトの気まぐれを予測する    

主体(わたし)とは何か? 宇宙の構成要素と内的心理器官に関する創造原理 修行の順序   Sotāpannaへの道

 

パーリ語の必要性

パーリ語とマガダ語

 

ありのままの現実をみることができない「無明」の力

無明を消すには無明があるという事実を見守っているだけ

 

 

 

 

 

 

 

はじめに

不思議な出来事

anicca, dukkha, anattaをどの言語に翻訳しても、無常、苦、無我となる。

英語でも、漢字でも、サンスクリット語でも、シンハラ語でも、タイ語でも、ミャンマー語でも、各種のヨーロッパ語でもある。

ならばそれらが正しいのだろう、というのが常識である。

だからそうしてこれまでやってきた人は多い。

ところが、その訳語で三蔵を読み直すと、意味が通じなくなってしまうところが多発するのである。

これは事件である。

釈尊の風 三相篇  伝統的誤訳原典

 

犯人を18世紀のインド学研究者、玄奘法師、漢字(言語)、国家権力、仏教組織、国教、アーナンダ長老etc.いろいろと探すのだけど、見つからない。

そこで以下の翻訳と仏教のメカニズムについてエッセイ(試論)を書くことで、犯人を見つけることができた。

それは自分たちの中にいた。

 

 

誤訳とオリジナル   

オリジナルは誤訳されるために存在している?  わかりやすさ(分かり易さ)の弊害    

暗闇に光を当てて、そこを分析してシンプルな因果関係を見つけ出して「わかりやすくする」ことが大義だった20世紀。

ヨーロッパ近世からはその正義の旗を掲げて、他者を征服する者も現れた。

この「わかりやすい」というパンドラの匣を開けて恩恵を得るのは大衆よりも一部のエリートの特権だった。

当時のエリートは「全体性」の中にいた(瞬間もあったという意味)ので、その役割、すなわち「noblesse(高貴さ)oblige(義務)」ゆえの犠牲、そして誇りを持って社会の中で(少数の者も)暮らしていた。

しかしそのようなエリートである学者、医者、官僚、利権者たちが全体性と乖離して自意識が過剰になり、他者に認められたくて大声を出し、この世を荒らし始めて久しい。

 

昔はエネルギーの集中する事柄についての内容はわからなくてもよかった。

内容がわかると悪用される恐れもあるからだ。

解釈から逃れるために表面的なカタチだけをあえて訳すこともあった。

だれもが正しい作り方や使い方を知る必要はなかった。

原子力爆弾のように、ヒトの集中力のように。

これが誤訳を必要とした理由の一つである。

 

だがパンドラの匣が開けられてから久しい。

モバイルがあればだれでも原子力爆弾や水素爆弾の作り方を検索できる時代である。

そしてその影響は一部のエリートだけではなく一般の我々にも広まった。

 

パンドラの匣が開けられたのならば、その奥底にあるもの、そして「わかりやすさ」の限界とデメリット。

そして、TPOに応じて蓋を閉じる方法をも学ぶのも今世紀の仕事ではなかろうか。

 

科学するのは物質だけではない。カタチのないマインドも科学の対象である。

そしてこのマインドこそが原子力爆弾を作り出したように、厄介なものであり、尊いものであり、実際にはエネルギーの塊であるので、扱い方については慎重でなければならない。

たとえば仏教では「全てが繋がっていること」をある段階では説いているのだが、その先の「自立」の事実を教えないと、いろいろと悪用できてしまうのだ。

 

このような状態の時にどのように振る舞えばよいのか?

いくつかの可能性がある。

 

1間違ったマニュアルを権威として維持するアプローチ。

 一時は安定する体制だが、反発も起こる。

2間違ったマニュアルをそのまま各自が試すアプローチ。

権威に依存することも、危ないエネルギーの集中を扱う必要もないが、そのうちに正誤は明らかにされる。

3間違いを訂正し、だれでも事実にアクセスできてしまうので、扱い方に慎重なメソッドを添えるアプローチ。

 各自の自由ではあるが、危険なエネルギーを管理するには不十分。

4間違いを訂正し、師によって許可を得た一部の資格者だけが実践するアプローチ。

それぞれにメリットとデメリットが有る。

この21世紀ではどちらの立場にも立つことができる。

 

他にもアプローチはいろいろとあるだろうが、私は4番目が良いかと今のところは思う。

例えば自転車から自動車へと乗り物が変わると、エネルギーの量が急激に増えたので、便利になる分だけ事故を起こした時には被害が大きくなるようになった。そこで扱う能力がある者だけに免許を配布するという制度である。

確かに現状の制度では無免許でも運転は可能で、免許を持たない者が運転をしている例もあるが、パーセンテージで全体を見ると多分99%以上の人が免許を得て運転をしている実情がある。

 

この4番目でいいと賛同いただけるのならば、これまでの誤訳を指摘し、訂正し、実践するという大きな仕事が眼の前にある。

 

 

後に詳細を述べるが、「道」の世界に学者が関わることで誤訳が増え続ける。それはどんな徳のある仏教研究者であってもこのようなことが起こっている。

たとえば鈴木大拙氏や中村元氏のような方々もこれまでの仏教用語を使って、仏教を解釈してきた。

たとえば、如来と「タターガタ」(tathāgata)を同一視する間違いでは、私自身の救済には大きな影響はないが、

「貪瞋痴」を除去する方法が違っていたり、「三相」を誤解して解釈しているのならば、これは大きな問題である。

なぜならば、仏教では貪瞋痴を滅し、三相を体感して理解できると、涅槃nibbānaに至り、阿羅漢になると説かれ、それを目指して教えの実践を毎日しているからである。

このような誤謬が1500年前に伝来してきた始めの時点からあるとすれば、救済という真剣な問題にとっては一大事である。

 

しかしである、阿羅漢になった者だけがこの「三相」を本当に理解できるのだと言われている。出典?

ということは誤訳があって当たり前、というか誤訳されているのが標準ではないか。

奥の深い真理に導くものはまずは表層から入ることが必要であり、それは誤訳と呼ばれるものならば、誤訳があることがそのテキストの正当性の証になる。

このような意味では誤訳は勲章である。

 

 

見方を変えると、誤訳とは正訳の表層にあるもので、全体の一部である、と言える。

そこで、誤訳に青筋を立てないで、誤訳も同時に楽しむのはどうだろう。

阿羅漢にならなければ翻訳の作業はしてはいけないというのも難しい話なので「道」についての誤訳は必然だし、もしかすれば数多い経のなかには釈尊の教えを上手に伝えていないものが始めからあるかも知れない。

誤訳があっても偽経があっても大丈夫なように、こちら側の体験を深くして、この自分の体験を軸にしていれば、教典であっても盲信することも、言語に振り回されることも少なくなるだろう。

 

 

誤訳のある世界

生まれたての赤ちゃんから老人になる過程で、同じリンゴを見ても、意味も解釈も変わり続けていく。

同じものに同じ名前でも、それぞれのステージでTPOに合わせた体験があり、結果があり、解釈があり、意味や役割は変わっていく。

各自の体験、そして修行などの訓練により、同じもので同じ名前であっても、その人によって使い方も価値も変わっている。

 

誤訳を糺す前にすることがある。

それは、そこのTPOにちゃんと適した誤訳がある、ということを常に認識していることだ。

訳の間違いを指摘するのではなく、それが生まれてきた特有のTPOや意味や理由や背景や時代や地域や宿命をみつける。

だから誤訳は楽しい。

解釈の層の違いも発見できる。

 

強いオリジナルは誤訳を生み続ける。オリジナルが真髄であればあるほど、奥の深いものであればあるほど、誤訳の量は増えていくので、オリジナルの評価は誤訳の量と比例する。

そして気がつくと、誤訳しかない世界に埋まってしまって、オリジナルさえも消えてしまっている。

こんな現実を知っている者はオリジナルを自らの手で残そうとしたものは誰ひとりいない。

釈尊しかり、ソクラテスしかり、イエスしかり。

オリジナルと出会えるのは、「各自」の深い体験の中だけで、それも一瞬の風のような接点でしかないことをはじめから知っているからだ。

 

誤訳のない世界

誤訳がない世界を想像してみよう。

AIによって間違いは常に修正され、普遍的な訳語が用意された世界を。

TPOは無視され、変化し続けるリアリティは無視され、全てを均一で表すことができると信じ込んでしまっている閉じられた世界を。

全ての意識体は考えることができないようにロボトミー手術を施されるか、宇宙の法則の事実を無視して多層を認めない仮想空間の中でしか存在しないのが、「誤訳がない世界」である。

宇宙の法則と体と物質と生命をないものにして、大脳皮質とAIだけが満足している幻の苦しみの世界だ。

私たちの生きているこの現実のように。 

 

誤訳が起こる理由

常に変化し続けるのでまとめることができない世界の話を、まとめてわかりやすい世界の話にしようとするから誤訳が常に起きるのである。

できないことをしようとして無理をするのだから、当然の結果である。

このような言語化できない深層の世界を言語化している時点で、すなわち、全てがスタートする前に最大の誤訳はすでに終えている。

常に流動し変化している内容(いのち、宇宙、量子、)がカタチ(形式)を持つ「時空の点」こそが誤訳の根源である。

それにヒトの意識(意図、一般化、パターン、思考、分類、統合、編集、認識)が加わると累乗的に誤訳は増え続ける。

 

 

変化し続けることを認める世界は、変化するがままに対応するしか手段がない。

それに対して「分かりやすい」世界は、変化するものに対応するのを面倒がって、過去に確立したパターンや未来に製作するパターンで認識して対応する。

合理的で利便性が高いとも言えるが、手抜きで愛がなく、ありのままではないとも言える。

 

この2つはどんな視点の特徴と違いがあるのであろうか?

 

変化に忠実なアプローチとは眼の前の事実に則することなので、この事実とは物理の、自然の、宇宙のルールに従っているので、必然的に宇宙の法則に寄り添うものになる。

それに対して、「わかりやすくまとめる」アプローチとは事実を「分析して統合」することなので、必然的に大脳のルールに寄り添うことになっていく。

このあたりのことを次章から検証してみる。

 

 

導師と学者は何が違うのか?

人のタイプで言うと、導師と学者との違いと言えばいいかもしれない。この二人は持っている方向性が違うので、これを混同しないで特徴や特有の機能を見ることで、誤訳のメカニズムそして、ヒトの脳機能のメカニズムを具体化してみる。

 

「導師」という機能  事実に則する      社会(大脳皮質)の法則と宇宙の法則という二重層の事実に対応する

「学者」という機能  わかりやすくまとめる  分析して統合して一般性(法則)を提示する

 

導師のシンボルである釈尊の教えは「事実に則する」アプローチなので、「分析して統合する」という学者のアプローチとはちょうど対照的なものになる。

この2つのアプローチは相反するからといって別に敵対関係にあるのではない。

両者では出来る事と出来ない事とが違うので、TPOによって活躍する場が異なるだけである。

図にすれば学者の扱う領域の外側に導師が伝える「道」の世界があるのだから、本来はこの2つはぶつかり合わないはずだった。

例えば、人体において神経管系器官は神経管の役割を果たし、循環器系器官はその役割を果たすものでしかないように。

いきなり生物の器官を比喩に使われて戸惑うかもしれないが、この世には脳や心臓がない生命体が数多くいて、どれもが元気に生きているのだが、この器官の働きによって、その生命体の思考や志向や試行や嗜好や指向や至高や施行が決まるようなので、後述する。

 

学者の機能は学校や会社でよく学んでいることなので、理解はしやすいが、導師から何かを学ぶ経験を持つ人は少ないと思うので、いくつかの導師が指導する「道」の特徴を見てみる。

 

「道」に至る世界には師弟関係が必要である。これは「分かりやすい」世界ではテストを行い、結果を数値化してパスすれば次の教えを伝えるという方法をとっている。ある段階までは効率よく安定したシステムのプログラムをAIは組めるが、しかしこのAIの方法には限界がある。

なぜならば、ある段階に来ると、求道者(弟子)は彼自身(脳、認識作用、意識、性向、習慣、文化、因縁、因果、トラウマ、族、環境)の事実を見つめ、その限界をちゃんと認識し、意識的行動をやめ、「待つ」ことでしか、進めない領域に突入するからである。

その領域では、「待つ」ことで想定外のことに関わり、そこで行動し、結果からフィードバックした修正を加え、また「待つ」ことを繰り返す。

推定で話をすると、「待つ」とは、自分の細胞(遺伝子ではなく)の変化を宇宙の法則に委ねている時空なのかもしれない。

 

道に至る世界は表層と深層がある。

どちらも言葉で表すことができないが、表層は言葉で表すことにチャレンジはできるが、深層は言葉とはかけ離れた世界のものなので、2つの間を媒介するものがない。

その深層を優先すると表層の状況を考慮しない勘違いが増えてしまい、表層を優先させるとカタチに固執して深層にたどり着けないこともあるので、各自の因縁に合わせたプログラムが必要となる。

大袈裟に言えば、各自が生まれた理由や意義や目的や宿命を数値化して、大脳をベースにした価値観から、循環器や消化器の内臓をベースにした価値観(分析・統合ではなく、波動に同調したり、溶解して主格不分離)に移行するプロセスを、各自の適性に合わせてプログラムを組み、なおかつプロセスの道程で、各自の個性やTPOにより現れる特有の問題点に対処する必要がある。

AIがこれをプログラムしようとすると、「混乱の修正」という新しい存在意義の目的がみつかるだろう。

 

釈尊のアプローチとは、神経管系器官を利用するとメリットもあるが、同時に弊害が起こるので、その機能を百分の一もしくは千分の一にさせることではじめて至る体感のプロセスを意識のある生命体に提案している。

それは大脳の機能ではわからない世界の話らしいので、本人がその気になるのであれば、まずは提案されたメソッドをそのままやってみて、自分で実感できるものなのかどうか確認するしかない。

そして実感できないのであれば止めればよいし、関心がないものは始めから近づく必要さえない。

何故ならば導師が関わる領域は、学者の領域を包むように外側にあるので、その領域まで行く必然性がない限りは、学者のアプローチで事足りるからである。

 

 

分析して統合する学者のメソッドが「人工衛星の視点」

釈尊のアプローチに対して、目の前の事実をこれまでに確立したパターンで解釈し、数値化するのがAIのアプローチである。

物質エネルギーと時空の固有性を前提としているニュートン物理学レベルで、対象を分析して、一般化と法則化で数値化する。

GPSなどのような大きな時空と光速度に関わることは、アインシュタイン物理学レベルを加味することで実用的な近似値をとっている。) 

そして21世紀には物質を確率性として捉える量子力学レベルやバイオ・チップを仮説した法則化にチャレンジしている。

これと同じアプローチをしているのが五感覚器官を介する信号を大脳処理するヒトの認識システムと思考である。

20世紀ではAIはまだイメージしにくく、ヒトの認識システムと言っても、自分の認識の仕方を冷静に客観化できないこともあるので、このアプローチを「人工衛星の視点」とこれまで私は呼んできた。

あまり使われない喩えの語句なので、他の例を見てみれば、

「道に迷った時には、今いる川を遡って水源を調べ、次に川を下って7つの海を知る」というメソッドも、この人工衛星の視点と同じルーツを持つ、大脳皮質特有の認識方法である。

「水源を調べる」とは定義を確定することのアナロジー(類推)であり、「7つの海を知る」とは定義を基盤として他と比較することのアナロジーである。

学問界では基準になるアプローチのため、その結果として高学歴の専門家が好むが、この方法は、「生きているもの」には実は通用しない。 

「生きているもの」とは、細胞、マインド、人、生物、生命体、社会、宇宙のことなので、簡潔に言えばこのメソッドはどこにも通用しないことになる。

しかし、「定義と比較」は一時的なものだが、見えやすいカタチを提供してくれるので、あるがままの事実とは異なっても、目安にするには便利なツールになる時もあるので、この社会で多用されているのである。

 

上座部仏教では、物事の基準になる一般化の元型である「想saññā」が狂っている(過剰一般化によるバイアスがかかっている概念)ので、苦しみが生まれてくる、と説いている。その複数のsaññāの塊が「定義」なのだから、定義すればするほど苦しみが増えてしまうので、これらを解体して減らしていくことで、最後にはパターン認識による「決めつけ」がなるなることで、苦しみがなくなり、阿羅漢に至ると考えている。

 

「比較」は仏教ではmāna()と呼ばれるマインドの要素(cetāsika心所)の一つで、特徴は、「私」という概念を規準に、他と比べたり計ったりする機能である。

mâna(慢)には、自分が他人より上だと考える、自分が他人と同等と考える、自分が他人より劣っていると考える、と三つのタイプがある。

あまり気が付かないのは「自分はダメだ」と卑下することも慢の一つのタイプであるということ。

これも結局は「私」という概念から発生するので、あらゆる苦しみはすべてmâna(慢)から出てくると言うこともできる。

 

この「バイアスのかかった概念化saññā」と「基準点を想定する比較mâna」によって欲が生まれると仏教は考えられている。

比較する時に主体となる「私」という概念がつくり出されるので、逆に言うと、「私」という思いが生じると同時に、すぐ他と比較し、対象を計測化することになる。

渇望であるローバ()と共に生じるので、論蔵では不善の貪のグループに分類されている。

自分が好きで、自分の立場を守りたい潜在意識の行為なので、他と比べなくても自分にできることをすればいいし、できなければやめればいい、というのが仏教の「比べる」ことについての考え方である。

 

 

相反する2つの立場と解釈

新しいことを回路化する時に2つのアプローチがある。

大脳皮質をメインに使うアプローチと、サブに使うアプローチである。

大脳皮質をメインに使うアプローチとは対象を分析してそこに一般性(法則性)を見つけて整理しては納得するのに対して、サブで使うアプローチは、初めて自転車に乗る時のことが例になる。

「頭で考えるよりも体で覚えろ」と言われるように、実際には大脳皮質よりも五感器官からの信号を小脳でパターン化して記憶し、それを試行錯誤することでいろいろなケースでの限界を探り、変化し続ける状況に合わせて適応し応用する回路を作成することで、自転車が乗れるようになる。

また植物のように大脳を持たない生物は、外部の変化を大脳以外の器官もしくは細胞で察知して反応しているが、この時も言語化したり法則化したりする回路がないので、そのままに物理的に、化学的に反応しているにすぎない。

 

植物や微生物は性能の良い神経管(二進法をエンジンとするコンピューター)がないので、全体を2つに分けてもそれで分析してアウトプットを計算する方法は使えないが立派にサバイバルしている。

例えば、視覚を持たないヒマワリが太陽に花を向けているように。

ヒトを含めて生物は五感器官では感知できない磁気、電波、重力などその他のエネルギーを循環器系器官の血液の流れや呼吸や、消化器系器官の消火や嘔吐や下痢や、細胞の波動や他の手段で受信して、それに対応することで生きている。

瞬間瞬間の変化に対して、休みなく忠実に反応しているだけである。

このような対応を体感と呼ぶとしたら、大脳皮質での処理機能をメインに使うアプローチのことは思考の連鎖と仮に呼ぶことにする。

感覚の回路と思考の回路   苦悩から一瞬で離れる方法    

心路citta vīthi      心が対象を認識するメカニズム

 

新しいことを経験する時は、その刺激(信号)に対して自分の体の枠組(肉体、感覚、概念、反応回路)はどのような対応しているのかを感じて観察してみる。すなわち、五感器官や他の器官や細胞からの信号がどのように変化して処理されるのかを把握する。

新しい概念は実際には肉体の感覚と共に腑に落ちるので、場合にとっては時間のかかる作業になる。

ところがこれらの信号の変化を大脳皮質だけを使うアプローチは、神経管(脳)による分析と統合による「理解」であって、過去の体験を素材にして、それらに微調整を加えて焼き直しをしたものでしかなく、それは一つも新しい体験ではなく、既知のハリボテでしかない。

 

このように大脳皮質をメインに使うアプローチと他の細胞で波動などを使うアプローチでは「思考と行動」、「理論と実践」、「学問と実用」、「一般化と非一般化」、「思考の連鎖と感覚」と方向性が互いに異なるアプローチとなる。

 

ここが仏教の経典を理解したり翻訳したりする時の肝であり核がある。

仏教の基準点は、「思考」ではなく「行動」である。仏教は大脳皮質をメインとするアプローチの限界を悟り、思考の連鎖による対象の把握によって「苦」が生まれることを悟り、「思考」の習慣から離脱することを目指して行動する。

この行動とは、大脳皮質ができることの外側の世界へと導く実践である。

苦しみからの解放、自由への解放、閉じた輪からの離脱を実現するには、どのような行動をすればよいのかを段階ごとに説いているのが釈尊の教えである。

この実践のためには、大脳皮質による活動を極端に低下させることが前提となる。

思考、理論、学問という「一般化」して理解するアプローチから一度離れないと、釈尊の教えは具体的に現実化しない。

そこを目指し至るために実践をしているので、そのプロセスで使われる言語はすべて、一般化から離れる方向に使われていることを深く理解して、翻訳する必要がある。

 仏教の基準 世界観の前提

 

それが嫌ならば、釈尊に外側から文句を言うだけにしておいて、釈尊の教えの内容については語るのをやめれば良いだけである。

もし経典の中で「わかりやすくまとめる」ように感じられる箇所があれば、それは誤訳の可能があると一度は疑ってみて、もう一度、釈尊の本当に伝えたかった真意を思い量って読み直してみる慎重さが必要となる。

 

 

学者のアプローチが経典を誤訳する理由

釈尊の教え、その一つの表現としての経典は「人工衛星の視点」の外側に出るために記述されているものなので、この意図を理解せずに、日常では正しいとされている「一般化」をベースに理解したり翻訳したりしようとすると、釈尊の教えから遠く離れるばかりか、教えの障碍となる。

 

この点にいつでも何度でも注意を向けるクセをつけないと、従来の学校教育を受けてしまった人は、誤解をし、権威と慣習の力を無意識に行使して、誤謬を世間に広めていく役割を負ってしまうであろう。

 

従来の訳し方は、釈尊の教えを「わかりやすくまとめて」もしくは「分析して統合して」もしくは「客観的に観察して」伝えることを視点としているが、それでは全体性を理解できたかのような高みに立った爽快感を得たりはする。しかし、これらは訳された内容と自分のこれからのすべき行動との間を分断化してしまって、各自が実践するための大事なはじめの一歩を踏みづらくしているのに、気づいているだろうか?

 

分析して統合し、一般化することを生業にしてしまっている学者が経典を誤訳し続けてしまうのは、このような視点や方向性でしか釈尊の教えに接し続けていないと、これまでの自分の生き方を否定されてしまうように深層心理の奥底で感じているからではないかと推察される。

本人だけの解釈ならばそれも各自の選択の一つだが、そのような翻訳が正しいものと判断されて標準になり、世間に伝播されるのであれば、学者による誤訳のメカニズムについて、仏教の経典だけではなく全ての宗教書や聖典と呼ばれるものの前文にそのアプローチの特徴(メリット)と限界(デメリット)を添えるのはどうであろう?

 

経典は、知識や一般化のためではなく、大脳が作り上げた世界の可能性とそこから生まれる思考と感情の限界と恐ろしさを再認識するための灯台である。

 

 

経典は、すなわち釈尊の教えは、大脳が作り出した思考の回路や感情の回路の外側にある世界に導き、その宇宙の中で暮らすサバイバル術と各自の思考と感情と言動を浄化(自動反応プログラムの解除)するために記述された。

これまでの習慣で癖になってしまった各自の思考パターンや言動パターンを変革して、「現実をありのままに感じる」ためのツールである。

経典に対して一番の失礼な言動は内容の「一般化」、特に「過剰一般化」である。

常に変化し続ける状況を心安らかな状態で、ありのままに見守り、寄り添い続けることが。経典を理解する時に目指す方向である。

釈尊をはじめとする仏教徒たちが、なぜ自らのすべての時間と力を「教え」を伝えることに捧げてきたのか。その意義を、一般化して捉える傾向のある方々にも、わずかでも共有し、共感し、共鳴していただければと願います。

 

 

サングラスをした男の喩え

海岸の絶壁に沿って、サングラスをかけた年老いた男が歩いているとする。
足元には大小の窪みや転がる石が散らばり、歩みはぎこちない。

この男に、いま置かれている状態こそが「aniccā」であると伝えたとしよう。
この「aniccā」という不可解な語をどう解釈し、どう翻訳するかは、その人の立場やアプローチによって定まる。

 

人工衛星の視点は、周囲の環境を大局的にとらえ、全体をまとめて表現する。男の周囲を精度の高い望遠鏡で拡大してみれば、崖下から吹き上がる風と絶え間なく変化する波の様子を観察できる。
男はふと空を仰ぎ、サングラスを一瞬だけ外して雲の移ろいに「無常」を感じ、この深遠なる宇宙の移ろいに感動して再びサングラスをかける。
足元の状態を確かめることもなく。
この男は波しぶきと風の乱流を翼に感じて飛ぶ鷹のように、この自然の無常を「aniccā」と理解しているのであろうか?

 

これに対して、導師の視点は異なる。
老いた生命には時間も力も限度があるのだから、まずはサングラスを外し、足元を見よ、と促して、男が自ら直ちに行動を起こせるよう導くことが導師の視点である。
なぜなら、いつ崖から落ちるかわからないサングラスの男を救うには、まず状況を本人自身が気づき、行動を始める以外に方法はないからである。
導師の象徴たる釈尊ですら、直接男を救うことはできない。
できるのは「道」を示すことまでであり、その後は本人が自らの足でその道を歩むしかない。

 

サングラスをかけることで見たくないものを排し、滑らかなアスファルトのVR(バーチャルリアリティ)の道を男は歩いていると信じて満足している。
しかし、一方で、実際には石や窪みでつまずき続け、サングラスを外し方がわからず、前にも後ろにも進めなくなる。

 

この逃れられぬ「現実」と「想い」とのギャップからくる恐ろしさが「aniccā」のより深層の意味であることを受け止めることができるだろうか。

 

大局を分かりやすく語っているのか、それとも本人の行動を直ちに促すものなのか。
同じ状況であっても、視点によって「aniccā」の解釈は異なる。

それは翻訳者の立ち位置、現実の切迫感の理解、サングラスの男との親密度、そして自身の身につまされる心境と慈愛の深さにかかっている。

 

 

 

参考エッセイ  「五蘊の「想」サンニャ」 からの引用

saññâ(サンニャー):想     ⇒六処(眼耳鼻舌身意)で触れた情報を区別する働き

対象を認識する場合、その対象を他のものと区別するために、心の中にはたらきが生じます。それがサンニャー(想)です。たとえば色や形が目に触れると、目がそれを感じた瞬間に、言葉であれこれと考える以前に、心はサッと区別しています。

 

区別するはたらきがないと認識はできません。認識するということは区別をするということです。生きているということは認識する(知ること)ことなので、生命体にとってサンニャーはとても大事なはたらきです。

 

とてもよく似たもの、たとえば同じ種類の鉛筆を二本見せられると、私たちはなかなか区別することができません。それでも「後で区別できるように、よく覚えておいてください」と言われたならば、どこかに違いはないか、なんとか区別できるところを探そうとします。それはサンニャーをはたらかせている、といいます。

 

私たちは、興味のある対象にサンニャーをつくります。たとえば誰かと話をしている時でも、耳には相手の話し声以外のたくさんの音も入ってきていますが、関係ない音は無視しています。つまりサンニャーが生まれていません。サンニャーが生まれない音は認識することができません。

 

サンニャーは訓練によって鋭く強くすることもできます。勉強ができる人は、色々工夫してサンニャーのはたらきを力強くしています。学校で授業を受けるだけでなく、自分でもそれについて考えて疑問や反論をつくったりすると、サンニャーがたくさん生まれてしっかり理解できます

 

私たちの心はいつでも新しいサンニャーをつくり続けています。誰かを見るときでも、見るたびに新しい人を見ているはずなのです。感覚器官には、全く同一のものが触れることは決してありません。

対象も感覚器官もどんどん変化して流れ続けています。同じ人を二度見るということはないし、同じ音を二回聞くことも正確に言うとありません。すべて一回きりです。たとえば昨日誰かに言われたことを、百回以上も繰り返して思い出しているとしても、思い出す度に心に触れることは違っています。けれども似ているものを二度、三度と認識すると、「同じものだ」と錯覚します。「妄想概念」といわれる認識概念がはたらいて、勝手に概念をつくってしまうので、それが同じものと感じるようになります。

 

概念、知識、記憶などはすべてサンニャーの塊です。私たちが「私がいる」「魂がある」などと錯覚する原因となっているいちばんの元凶はヴェーダナー(受)という感受作用ですが、このサンニャーも錯覚の原因になっています。私たちは概念や知識、記憶などによって「私がいる」と思うのです。

たとえば『名前』という知識があります。自分が生まれてから今までずっと同じ名前だから、同じ人間だと思ってしまうのです。それも完全な妄想で、ただのサンニャーの塊に「自分」だとアイデンティティーをつくっているだけです。サンニャーによって、無常が見えなくなってしまいます。赤ちゃんの時の自分と現在の自分を冷静に見ると、同じなのは名前だけで、身体も、考え方も、好き嫌いも、全く違います。漠然と「変わらない何か」があるように錯覚しているだけです。

瞬間瞬間、色々なサンニャーが生まれては消え生まれては消え、流れ続けていきます。そこには「何か変わらぬもの」「私」「魂」などはありません。

ただ止まることなく生滅をくり返し、流れていくサンニャーという心のはたらきがあるだけです。

 

 

 

柔らかく生きたい

 

日本の、世界の仏教界に「釈尊の風」を

地球の生命体に安らぎの「風」を

 

嘘や偽の言葉に縛られたくない

事実を知りたい

リアルに生きていきたい

こうやってこれまで生きてきたし、こうやってこれから消えていく。

いつも自分で自身を縛り、自分で目隠しを勝手にしては迷っているけれども。

 

何が事実なんだろう?

そしてそれを知って、それに寄り添っていけば、もっと柔らかく伸びやかに生きていけるのではないかと思っている。

これも幻想なのだろうか。

 

そんな事実が集積されているのが、各宗派の宗教。

しかしそれは偏見と勘違いの集積とも言えるし、

だからこそTPOに適した本当の姿とも言える。

 

仏教も他の宗教のキリスト教やイスラム教と同じく、これほど誤解されてきた教えもない。

釈尊は「まず信じるところから始めるのではなく、事実はどういうことなのかを実際に自分で観察してみるように」と、ありのままの姿を観察することによって、何がどのように成り立っているのか、というこの世の仕組みがわかる、と説かれた

これを信仰する宗教だと呼ぶには無理があるだろう。

 

自分の苦しみを消すにはどうすればいいのか?

それを自らが試行錯誤を重ねて達成し、これを弟子に伝え続けたのが釈尊の一生である。

29歳で出家し、35歳で解脱し、80歳でこの世から離れた。 

宗教を広めたかったわけではない、苦しみから解放されるシステムの伝達が釈尊の真意であろう。

しかし、その後の伝播や国教化のプロセスで「信仰」「祈願」「儀礼」も重要視されるようになった事実がある。

宗教と呼ばれるのも致しかない地域や時代やグループもあったし、これからもあるだろう。

奥の深いものであるかどうかの物差しは、どれほど誤解されているのかが指標である。

 

そして今回の本題、釈尊は何を伝えたのか?といういちばん大事なこと。

 

それは日本語で言えば「仏道」なのだけど、

そのためには2つのことをしなければ道に至らないと説かれた。

どこに至るのか?

頭の理念にも体の欲求にも、囚われていない、安らかで清らかなで涼しく望みのない境地である、という。

ニッバーナともニルヴァーナとも極楽浄土とも言われ、多くの呼び名がある。

そこに至るには、釈尊の「教え」とその「実践」が両翼になってはじめて体感できる境地であると。

 

そのためには2本の柱が必要である。

それらは、釈尊が何を教え、何を実践したかということである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コラム

 

誤謬について

上座部仏教に伝わったもの      

大乗仏教に伝わったもの 

五蘊とはなにか?    

三相とはなにか?

三相についての誤訳 2018

 

正しさの迷路   考えるのではない、感じろ

 

伝統的誤謬の理由   段階的「わたし」の混同

誤謬の原因    リンク集 

 

因果関係の範囲の詳細   仏教の準 世界観の前提   修行の順序   Sotāpannaへの道

AIの捜索範囲の限界  ヒトの気まぐれを予測する    

主体(わたし)とは何か? 宇宙の構成要素と内的心理器官に関する創造原理

 

パーリ語の必要性

パーリ語とマガダ語

 

ありのままの現実をみることができない「無明」の力

無明を消すには無明があるという事実を見守っているだけ

 

 

 

 

 

 

 

 

上座部仏教   伝わったもの 五蘊  瞑想   

五蘊や縁起などの釈尊の教えや瞑想法を上座部仏教はしっかりと受け継いできた。

しかし現在、上座部仏教のほとんどの比丘は三蔵そしてその中にある3つのオリジナルの注釈・解説を読まない。

代わりに5世紀頃にブッダゴーサによる清浄道論Visuddhimaggaを重要な論評として受け入れ、彼のヒンドゥー教のヴェーダ瞑想を取り入れた呼吸瞑想とカシーナ瞑想が上座部の混乱の根本原因だという説もある。

また数多くある縁起説の1つの側面(akusala-mūla PS)のみを理解し、上座部仏教派がVisuddhimaggaDhammaの基礎として採用して以来、その先にある縁起説の素晴らしい知識は隠されてきた。

釈尊の風 縁起篇  この世とあの世を繋ぐ宇宙の法則 

これらが過去数百年にわたってNibbānaに至ろうとする人々にとって最も大きな障害となっている、とまで言い切る論者もいる。

 

大乗仏教に伝わったもの  漢字の誘導

中国語経由の仏教には何が伝わり、何が伝わらなかったのか?

経典を漢字に翻訳した鳩摩羅什や玄奘は上座部仏教を学んでいたが、大乗仏教の中観派や瑜伽唯識派の仏教を信奉しており、それが翻訳にどのように影響したのか、しなかったのかは調査する価値がある。

仏典はどう漢訳されたのか 船山徹

ただ後に中国や日本で伝播された仏教は、釈尊の教えの中心である五蘊への対処の仕方や三相を常に体感する暮らし方や瞑想のテクニックに対しては上座部仏教ほどにはスポットライトを当てず、後世になると伝わらなかったものもある。

特に、五蘊への渇望のプロセスとそのメカニズムを理解することで、それらを応用したテクニックが瞑想法につながっているのだが、「漢字の仏教」では五蘊やその内容である「色・受・想・行・識」をベースにした瞑想法は伝わっていない。すなわち、その内容、その特徴、その機能、その原因と結果、その渇望の理由、その解除の方法、その順序、その到達点、それらの関係性、というマインドの浄化のために必要な情報や実践が受け継いでいたという文献や話を私はまだ知らないのである。

 

五蘊と縁起と三相が上座部仏教の「苦しみからの解放」のステップになるので、これらを使わないで涅槃nibbānaに至る方法を「漢字の仏教」がどのように実践していたのかどうかを調べてみたい。

もし私の仮説どおりに五蘊の限界とそれに関わる瞑想法が伝わっていなかったのであれば、各自が「苦しみからの解放」を実践する方法を模索しなければならない。また当時の社会状況が飢饉や災害や天災や戦争などのように厳しければ厳しいほど人々は救済を求めただろう。このような状況の中で「苦しみからの解放」の手段を確立していった者が、各宗派の創始者になったこともあろう。

大切なことが伝わらないことで新たなモノが創造されて、歴史は動く。

 

そして伝わないことの一つの要因が漢字である。

アルファベットのような音を基準にした文字に対して、漢字は意味を基準にした文字である。

つまり、漢字は象形文字であることから始まっているので、一つの漢字ごとに意味や由来のストーリーがある。

だからどのような言語を漢字に翻訳する場合は、使われた漢字の本来の意味に引っ張られるのだ。

つまり新しい概念があったとしてもそれを漢字に置き換えることで、その漢字ができた由来である字源にスポットライト当てる力が象形文字にはある。

そしてその各文字のイメージとストーリーが強いために、新しい考え方を漢字に翻訳した時点で、体感を通して新しい考え方を把握するのではなく、既存のイメージを編集して大脳皮質で学習してしまう傾向がある。

 

五蘊とはなにか?

釈尊が伝えた最初の談話が、転法輪経SN56.11 Dhammacakkappavattana Suttaで、「基礎的視点」すなわち仏法の本質をレイアウトしている。

「比丘よ、聖なる真理である苦諦とは何であるのか?」

「誕生は苦しみ、老化は苦しみ、病気は苦しみ、死は苦しみです。好きではないものと関係するのは苦しみであり、好きなものから離れなければならないことは苦しみです。自分の好きなものが得られない場合も苦しみです。つまり、苦しみの原因は、五蘊(rūpa, vedanā, saññā, sankhāra, viññāna)に対する渇望です。

 

この世で私たち人類が切望するものはすべて、pancupādānakkhandhaupādāna掴む)すなわち五蘊への渇望であることが説かれている。

他の五蘊についてのエッセイを参照にしてほしいが、五蘊とは、釈尊がヒトの苦しみの原因を解放するメカニズムを表したものなので、ヒトがこの世をどのようにイメージして捉えているかというプロセスを5つに分析することで、その解決策を論理的に説明している。

認識システムと五蘊 そこからの離脱法

上座部仏教の見解  ヒトはどのようにして認識しているのか  

色rūpaと色蘊rūpakkhandha

受vedanāと受蘊vedanākkhandha

想saññāと想蘊saññākkhandha

行sankhāraと行蘊sankhārakkhandha

識viññānaと識蘊viññānakkhandha

 

般若心経が解釈する「色と空」や五蘊とは、釈尊の真意とは違うのではないか、という問いがある。

般若心経の数学的解釈

五蘊の「色(rūpakhandha)」というのは素粒子の集まりの物質(rūpa)ではなく、各自がその物質をどのように感じているかというイメージであるので、個々によって「色(rūpakhandha)」は異なるというのが釈尊の見解である。

つまり、メンタル体のスクリーンに映るイメージはエネルギーを持つのでrūpaと呼ばれるが、それは各自の潜在意識の編集後(受vedanā、想saññā、行sankhāraにある自動反応回路)に投影(識viññāna)されたものなので、他者とは異なるものになっている。

出典?

Dīgha Nikāya 11 Kevaṭṭasutta  英訳

2.2.3. Rūpavibhatti

SN 22.56

SN 22.57

Chachakka Sutta (MN 148)

Mahāhatthipadopama Sutta (MN 28)

Khandha sutta (SN 22.48)

 

 

三相とはなにか?  

この世の隠された智慧なのか? それとも、この世の恐ろしい特徴なのか?

釈尊はこの世には問題があると感じ、この世は何度も同じことを繰り返す「閉じた輪(再生の輪廻)」の中にあると説き、自身がニッバーナNibbāna(涅槃)に至ることで、この世から離脱する方法と教えを人々に伝えた。

この問題があると感じた「この世の3つの特徴」が三相である。

したがって、この3つの特徴をよく体感し、理解することで、ニッバーナに至れることを説いた。

ということは、ニッバーナに至ることが難しいのは、この世の特徴である三相がちゃんと体感できていないからである。

つまり三相が体感しにくいのは、この世の常識とはかけ離れているもので、日常の手段では理解が難しいものであるからである。

 

それに対してニバーナはniccasukhaattaの世界であり、この世の3つの性質である三相のとは反対の状態であるという。

ということで、三相を知るには、niccasukhaattaを知って、その反義語の意味を理解するような体感方法を実践すればいい。

 

Nicca ヒトが望むどおりの状態を維持できる、好きなことが続く

Sukha 不変の楽(この世における楽sukhaは真のものではなく、dukkhaからの転々とした逃避である)

Atta  エネルギーのない究極の真理、実体、

であるので反義語は、

Anicca   ヒトが望むどおりの状態を維持できるものは何もない

Dukkha   苦しみである

Anatta   真理ではない、意味がない、大事なものではない、無力でなにもない。

と、どれもヒトにとって理解などはしたくない、空恐ろしいものがこの世の性質だと釈尊は説いているのである。

 

釈尊はこの世を悪くは言っているのではない。

が、ヒトの勘違いは恐ろしく、とんでもないものなので、直ちにマインドの中で作り上げてしまった自動反応プログラムを除去したり、書き換えたり、解除したりして、浄化する行動を取る方法を生涯にわたり伝えた。

それが三相を体感することが、貪瞋痴を除去する日々の実践を重ねることであり、ある時は瞑想によって、「繰り返される閉じた輪」から解放される手段であると。

三相であるanicca, dukkha, anatta の性質をちゃんと理解して体感するまで、ヒトは苦しみに満ちた再生プロセスに閉じ込められている、と釈尊は説く。出典?

この体感によって解脱できるかどうかに関わるという、そんな大事な三相とはどんなものなのか?

三相はこの世の特徴と言われているが、これまでのことを考えてみると、人工衛星の視点でみたこの世の特徴のことではなく、導師からの視点、つまりヒトがどのように勘違いをし続けてこの世を捉えているかという特徴のことを指すことがわかる。

 

「この世」の良し悪しや、宇宙の法則や、自然の一般性などの生易しいものではなく、すぐにでも対応しなければ将来もしくは現在の生死に関わる見解の誤りについてである。

悠長に構えている暇はなく、一瞬の猶予もない切羽詰まった状態を示している。

だからこの三相を理解して心底から体感することで解脱できるというのである。

しかしだからこそ、ヒトはそう簡単にはこの三相を理解できず、勘違いはそのまま続き、解脱できないのである。

三相とは深層の領域まではそう簡単には理解できず、したがってアラハンにいたるまでは日々の精進が必要となる。

そのためにはマインドを浄化するにしたがって、この世の本質はますます明らかになるという。

それは知識ではなく、日常の生活のなかで浄化を実行しているかにかかっている。

マインドが清められ、清められたマインドから生じる「涼しい冷静さ」を体験するまでは三相をつかみ、自分の一部とすることはできない、という。

この三相とはヒトが勘違いしていることに対する叱咤激励ではないだろうか?

 

このような三相を学者が解釈する時に、三相を何か「ありがたいもの」、釈尊の教えや仏法(ダンマ)のようにして理解してきた歴史が人類にある。

仏さまは怒っているのか呆れているのか知らないが、この現状を悲しんでおられるかもしれない。

「わかりやすくまとめる」アプローチでは、常識では理解しづらいものを、抽象度を一つ上げて、何かありがたいものに変換することで、「わかないけれどもなにかわかった気になれる」と誤魔化すことで、大脳皮質は自分の存在意義(プライド)を維持している。大脳皮質は感覚器官を介した入力データを編集して「わかりやすくまとめる」ことを機能とし、それができないことはダメであると自らにレッテルを貼ってしまうか弱き癖と習性で生きているからである。

生命体らしく「わからない(分けない)のが一番いいのよ」とカッコよく胸を張れないのである。

 

このように我の塊で「おまんまを食べている(存在意義を見出している)」ので「無我」という言葉に弱い。

なんでも無我にしたがるのだ。特に翻訳となれば、門外漢にはわからないので、なんでも「無我」にしてしまう。

涅槃には4つの段階があるのだが、初めの1つ目は、預流(Sōtapanna)と呼ばれる段階で、10の「メンタルのつなぎ綱」の内の3つから解放される。全部解放されると阿羅漢と呼ばれて解脱するステージに至る。

この解放される3つの中の一つがsakkāya ditthi といって「有身見」と訳されているのだが、ウィキペディアあたりのレベルの情報だと、これにもわざわざ「 無我」であると注釈している。

私が「ある」と思ってしまう理由

「有身見」とは、自分自身と結びついている「魂」が不変で永続的なものであるという間違った見解もある。

また「わたし」とは自分の体のことだとも思っているので、体を美しく保つことが浄化つながるとする見解もある。

こういった内容と「無我」とはまったく意味が違う。

 

閑話休題、三相とは一般常識では理解しづらく、綺麗事では収まらないものである。理解しづらいのは当然で、唯一と思っている6感覚器官と大脳の働きによる認識アプローチでは到達できないもので、この領域を体感するには、大脳の認識システムの管轄外のアプローチから始まっているからである。

「わかりやすくまとめる」アプローチを真っ向から否定しているのではない。

「餅は餅屋」と、扱うもの(領域)によってメソッド(視点)が違うだけのことであるので、人工衛星のアプローチを否定しているわけではないので反発は必要なく、自分ができることを自分でやり、自分ができないことには口を挟まないことが混乱を避ける、と導師は提案しているのである。 

ところが、「わかりやすくまとめる」アプローチはこの提案を受け入れず、できないことまでやろうとすることで自己否定をすることになり、自己矛盾に陥るので、自我を守るために無意識のうちに誤訳せざる負えなくなり、三相を綺麗ごとにするのである。

大脳皮質の善意が自己保存(保身、サバイバル、存在)の「無明 ignorane」と結びついて、カタチになったのが歴代の誤訳である。

大脳皮質を過剰に利用することで特権を得ているトップ数%の人にとっては良い訳となるわけだが、自然の法則を大事にしないと生きていけない人たちにとっては迷惑千万であり、そのような訳をしたりそれに異を唱えずに同意してきた関係者には仏法を説明する能力に欠けるのではないか。

いや実際には私よりも本当に立派に生きておられる方が多いので、私にそんなことを言われる筋合いは全くない、ただ、できないことをしているのはそんなにカッコよくないんだぞ、ということぐらいは自覚してほしい。

ここのところをよろしくお願いいたします。

 

またもや閑話休題、そうです、三相がテーマです。すみません。

三相とは、つまずきの石と窪みのある崖に沿って歩くサングラスの男が、どこにも行くことができなくなった状態のことである。

サングラスの外し方は知らないし、周囲にはサングラスの暗さで見えはしないが、大きな石や窪みがあるため、すぐに転んでしまい、足元が確かでないことは感じているので、前にも後ろにも進めない、ましてや足元の崖下は岩と波しぶきである。

男の望むような転ばない幸運な状況は長続きしないので、転ぶ苦しみに襲われ続け、男は力なきみすぼらしい状態である。

三相とは、このままではどのような努力や苦労をしてもすべてが水の泡になって、何をやってもうまく行かないよ、という「愛ある?脅し」である。

 

 

釈尊の教えは、順調な人生を歩んでいる人(幸運)、自然の力の影響力が少ない時空で暮らす人(現代文明都市)、神経管で理解することを基準として生きている人(科学論理信仰)、脳を鍛える訓練を長期に受けてきた人(高学歴)、「部分」に特化した仕事をしている人(専門)、交換可能な世界を基準にしている人(紙幣への依存)、

自我の強い人(自己愛、自意識)、リベラルな思考を優先する人(表層意識)、 周囲の恩恵に気づかない人(無知)、分析できる物質や数字を仕事にしている人(理性)を基盤に暮らしている人には理解しづらい。

以上の共通点はどれもが「大脳皮質」によって編集されて作り出され世界である。

短期的視点で暮らす領域では、変化する感覚を常に求めてヒトは喜び、それによって現実のありのままの世界を見ることを避け、眼の前にある苦しみから逃げ続けて暮らしている。

上記の考え方が実在する時空では、脳がデザインした幸せの中で暮らしていける現実があるので、宇宙の法則を体感することが少なくても暮らしていけるばかりではなく、脳のルール(法則)を学習することで、社会的評価や収入や利便性などのメリットが数多くついてくる。

 

しかし、釈尊は断言する。

それらの考え方や生活は宇宙の法則に反しているので、大脳が作り出した幸せや満足を保ち続けることができず、

逆にそれによって不満足は苦しみに至り、この世で宇宙の法則に反して暮らせば、ヒトは無力でしかない、ことを。

そして、宇宙の法則が体感できる機会を何度でも与え、大脳の法則が支配する世界から離脱する方法を具体的に伝授する、と。

 

 

 

2018年のMatsuoの三相についての訳である。

諸行無常  

すべてのカタチになったもの、すなわち「自動的に反応して形を作り出す回路と作り出された形」は顕れては消えていく

一切皆苦  

すべてのカタチになったもの、すなわち「自動反応回路とその生成物」は常に変化するので完全なものではない

諸法無我  

すべてのありのままのモノ(流動するモノや現象や意識や法則や宇宙秩序)は「わたし」と調和を保ちながらも、自我がそれらのモノを勝手に自由にコントロールできるものではなく、ありのままの姿のモノはそれ自体の特性で成り立っている。

 

「行」の原語はパーリ語ではsakhārāで、行いという意味よりも、勝手に形を作り上げてしまうもの、または条件反射や思考パターンのようなヒトの自動反射行動のことも指します。

「苦」の原語は、ドゥッカ (dukkha) であり、パーリ語の場合には単に、日本語の「苦しい」という意味だけではなく、「不完全」といったニュアンスも持ちます。

「無我」の原語は、anattāで、無我というよりも非我であり、「わたし」と対象物との調和や融解というニュアンスがあり、自我は対象物をコントロールできないという意味があります。、 

「法」の原語はdhammāで、法律の法という意味ではなく、自我の色メガネによって曇っていない「ありのままの現象」、本当の教え、自然の法則、宇宙の秩序という意味です。

 

行 サンカーラ

サンカーラは広義の「万象」という意味と、狭義では、行動につながる「心の作用」のアウトプット、の意味がある。

広義の万象とは、潜在的な思いcetanaであり、停止することのない流れのことであり、これがサンカーラの本質である。

サンカーラを入力(インプット)と伝統的に捉えてしまうことが、五蘊を文字だけで理解して内容を理解していない原因である。

サンカーラとは狭義では認識システムの一部。

広義では宇宙の法則の一部である。

また、サンカーラとは「空」からカタチ(時空)が生じる際に、二つの境界にある自動変換回路のことである。

この回路も諸行無常、諸法無我、一切皆苦という宇宙の法則の一部なので、生起しては消滅するので永遠不滅のものではない。

そしてこのサンカーラ(回路)によって予めから決まっているカタチが産み続けられるので、この回路が産み出す「分別、カタチ、分離」に囚われることから抜け落ちることができると、あるカタチになってしまうという必然性から開放される。

 

従来の解釈を踏襲したひどいものである。

ヒト、具体的には「わたし」はこのようにインチキを積み重ねて、したり顔をして文章をこのように書き連ねるのである。

 

 

 

 

 

正しさという迷路    考えるのではない、感じろ

オリジナルを参考にする度に起こるのが、表層で起こる「歴史の歩み」である。

「道」の世界では、「元来」に照らし合わせることを知的に求められているのではない。

オリジナルを実際に実践するかどうかである。

思考ではない、行動である。

 

思索とはオリジナルから離れることの象徴である。大脳皮質のメカニズムからくる限界は、循環器系器官と消化器系器官によって代行される、いや代行ではなく、それらが「生命体」の本道である、オリジナルを再体験するためには。

地球上の99.9%の生命体は大脳や五感器官を持たない。バクテリアのように。

 

AIは、二進法は、記号は、大脳皮質は、カタチは、この世は、私は、心のプログラムは」

間違いを訂正する度に、正しくなれると勘違いしてしまう時空の中にある。 

間違いを発見し修正しても、その改善された箇所だけが他(の次元)に移行されただけで、これは新たな間違いを呼び込む行為でしかなく、求めていた「正しさ」はこの時空にはないということに気づくことはできない。

逆に改善されてベターな自分や環境になり、少しは正しくなったと思う分だけ、迷路に足を踏み入れたということでしかないのに。

「正しさ」の語源は、他者の村(邑)を踏みにじることであるのに。

 

日本仏教は、漢字を通して伝わってきたので、漢字で書かれた仏教と実際の釈尊の教えや修行の間には信じられないほどの違いが数多い。

それでも世界は動いている、正しいかどうかに関わらず。オリジナルからかけ離れていても。

これはこれで日本独自の日本教であり、TPOに相応しい大切な教えである。

日本教によって日本が救われ、日本は日本教によって成り立ってきた。

オリジナルが正しいのではない。

ただオリジナルには実践する意味がある。

 

 

 

 

伝統的誤謬の理由

「わたし」という自己は多層であり、下位であるほどバイアス(自動反応回路)を経由して実際のあるがままとのギャップが生じ、それらを混同することによって誤謬が生じた。

この文脈での「自己」の多層性は、心の9段階に相応する。心の9段階 自動反応回路化にいたる9段階

 

修行は自己の探求なので、無我や非我を「自己はない」と解釈するのは仏教の本義と矛盾する。

 

変化するものはatta(実質・実体・本質)ではない 

Anattā Lakkhana Sutta (SN 22.59)  非我相経 英訳The Characteristic of Nonself

 

ダンマに反することadhammoは閉じた輪の中でanattā無力に導く 

Pahamaadhammasutta AN 10.113  第一の非法経  英訳Bad Principles (1st)

 

五蘊は無力anattāであるAnatta Sutta SN22.14  非我経    英訳Nonself

 

 実質がないこと(anāthā を避けて暮らすPaṭha­ma­nātha Sutta (AN 10.17)  第一の救護経  英訳 Protector

 

self自己とno-self非自己anattaは極端である  Channa Sutta (SN 22.90)  チャンナ経  英訳

 

自己に帰依する   kataṃ me saraa attano  『われは自己への帰依をなした』

Mahāparinibbānasutta DN16 20. Ānandayācanakathā 大般涅槃経   英訳 

 

他ではなく自己を避難所にせよ Mahāparinibbānasutta Dīgha Nikāya 16 大般涅槃経  英訳

「自己を中洲とし、自己を避難所とし、他を避難所とせず、ダンマを中洲とし、ダンマを避難所とし、他を避難所とせずに住せよ」

Tasmātihānanda, attadīpā viharatha attasaraā anaññasaraā, dhammadīpā dhammasaraā anaññasaraā

saraa[nt] protection help refuge a shelter.避難所、帰依

 

この文脈での自己や「わたし」は上述や下記のコラムの通り多層である。しかしこの多層性を固定したり、混同したり、集約したり、取り違えることで誤謬が発生する。

 

 

誤謬の原因  

生命体には生来から対象をありのままに認識できないようにプログラミングされているので、誤謬を積み重ねる。

効率化、即効性、生存率、自意識化、部分化、特殊化、専門家などのバイアスがかかって対象を捉えるので、そのメリットも大きい。


ありのままに認識できない科学的理由と対処法

ヒトの認識が間違え続ける理由 

学門の可能性と限界

上座部仏教の見解  ヒトはどのようにして認識しているのか  

正しいものほど間違いだらけ 誤訳のある原典は信用ができる理由  

 

 

因果関係の範囲の詳細    あの世とこの世の詳細な段階

仏教の基準 世界観の前提   

修行の順序   Sotāpannaへの道

 

範囲と単位

エネルギー

重力

 

 

 

 

 

分子

あり

あり

一般科学

 

 

 

 

素粒子

あり

あり

量子力学

dhātu

 

 

 

 

ダークマター

あり

あり

bhūta

 

 

 

 

ダークエネルギー

あり

なし

dhammā

 

 

 

 

メンタル

なし

dhamma

 

 

 

 

0

なし

涅槃nibbāna

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コトバ

表現

意識

器官

表層

書き言葉

写実

小説

自己意識

大脳皮質

表層

話し言葉

アナロジー

童話・民話

意識・無意識

大脳辺縁系・脳幹

中層

記号・シンボル

直喩

伝説・昔話

潜在意識

心臓(循環器系器官)

深層

ボディランゲージ

隠喩

神話・教典

深層意識

小腸(消化器官)

層外・全層

なし

言葉ではなし

なし

非意識

体内微生物

 

コンピューター言語は1つの語句が1つのプログラムとしか関係性がないのとは対照的に、

あらゆる文化言語は1つの語句に多層の意味(プログラム)がある。

ただ学問や記録や文献は混同しないように、多層の理解を避ける使用法をルールにする傾向がある。

そして各個人は無意識の内に言語や方言や言い回しを使い分けて、「重層性」を表現している。

私個人で言うと、表層は日本語の標準語と英語、中層は日本語の方言とスペイン語、深層はやまと言葉と教典のパーリ語というように無意識の内に使い分けて多層性を確認して思考している。

 

 

 

人生

人生の目的

美学

リズム

主体の視点

優劣

善悪

判断行動

青年期

理念

美・術

物理

五感と脳

優を選択

善の追求

合理性予測

幼児期

経済・貨幣

豊穣

神経

自動反応回路

分割1→2

善悪に分化

条件反射

成熟期

地域・交換 

智慧

周期

振動

劣の再評価

悪の再評価

周期

老年期

家族・生命

静寂

自然

全体性

未分割

善悪なし

反射

生前死後

脱輪廻

無為

宇宙

他者

 

 

 

 

 

地理

機能

アーシュラマ

大義名分

主要ツール

哲学

観点

都市

理性

家住期

正義

(合)理性

二元論

客観重視

感性

学生期

成長

感情・悟性

カオス

主観

智性

林棲期

智性(智慧)

相反一致

主観=客観

森・山

脱言語

遊行期

往生

老人力

一元論

主観の禅定

地球内外

法性

生前・死去

再生・離脱

 

空論

大いなるもの

 

 

 ヒトの4つの認識力

表層意識 理性 意図した意識    

 大脳皮質   思考の連鎖                 

 二つに分けて評価・判断

正の選択 

 推定・理念・理想               

中層意識 智性  意図した意識の限界

心肺      振動、波動

負の意義  分ける無意味さと負の再利用

非意識を全体性との関係の中で気づく

 同化・同感   直観

 感覚意識 感性             

 大脳皮質                   

 分けて察知                      

 感覚器官で察知する 本能 直感感覚

深層意識と非意識 空性(脱言語) 

小腸・微生物

分けない  潜在意識の理解

魂魄・悟り・全てとの繋がりと自立  瞑想観

 

 

ヒトの4つの認識力

  

表層意識 理性 意図した意識    中層意識 智性  意図した意識の限界

 大脳皮質                   心肺      振動、波動

  二つに分けて正の選択             負の意義  分ける無意味さと負の再利用

  推定・理念・理想               無意識と非意識を全体性との関係の中で気づく

 同化・同感   直観

 


無意識 感性             深層意識と非意識 空性(脱言語) 意識を使わない工夫

 大脳辺縁系                   小腸・微生物

 分ける                      分けない

 五官 情感 本能 直感感覚            魂魄・悟り・全てとの繋がりと自立 瞑想観

 

気まぐれという雑念    AIのデータ入力の範囲の限界

同じ状況のデータを入力しても、AIの視点と気まぐれな人の視点では、評価と判断と行動が違う。

たとえばA点からB点まで来るまで向かう時、

AIは現在の渋滞の状況を処理して、近道の経路を紹介する。

人の気まぐれには、その渋滞情報を取得した後に、近くの銭湯やファミレスで渋滞時をやり過ごし、交通量が減ってから進む、ことや現在地から戻って家で過ごす選択肢もある。

  

そのようなことも想定してプログラムすればいいというプログラマーは簡単に言うが、

うまい定食屋で検索していると、「こんばんのおすすめダイエット」とか、「ここにしかない限定の美味しいイタリアンの店」のデータは検索に引っかかってこない。

つまり、AIは「目的地」や「レストラン」で検索している時に、行かないことやダイエットの提案などの気まぐれには即座には応対できない。

こちらの深層心理、トラウマ、現在のTPO、学習してきた感性、無意識の回路をデータに入れて、いろいろな提案をするようにプログラミングするのは可能だが、この瞬間の気ままなマインドを察する探知法がないので、気が利かないだけではなく、こちらの怒りと嫌悪感を生んでしまって、プログラムを否定する可能性がある。

 

前世からのkamma、現世の体験による全部の回路、変化し続けている現状のTPO、これらのデータ全てを入力できていないので、各自の心にどんな雑念が浮かぶのかは、AIにも完全に想定できない。

これはテーマが違うエッセイになるので、またの機会にしよう。

 

 

主体とは何か?  段階的わたし

釈尊は「アートマン(真我)も変化するものなので実体は持たない」「主体が対象を感覚しているのではない」、と説いたのであって、行為の主体を否定したことはない。

インド思想では、31領域のある期間の主体であるbhavaをアートマンとして変わらぬ実体としたが、

釈尊は、31領域のbhavaも変化し続けるものなので、この一時的主体であるbhavaは、絶対的主体であるアートマンではないことを説いた。

 

 

インド思想の大宇宙の構成要素と内的心理器官に関する創造原理

 

 

宇宙マクロ

宇宙原理

宇宙具象化

宇宙我執

個ミクロ

内容

絶対者ブラフマン

Brahman

 

 

 

purua

ātman

 

根本自性

prakriti

 

 

 

prakriti

 

mahā ākāsh

時間

空間

方向

 

 

 

 

 

大なる実在原理

 

3徳性gua

mahat

 

mahat sattwa

mahat jajas

mahat tamas

実在

 

大善性

大動性

大暗性

 

 

sattwa

jajas

tamas

 

 

心素

chitta

大善性

 

宇宙心素samashti

 

心素

chitta

 

理智

buddhi

大動性

 

宇宙理智

samashti

 

理智

buddhi

 

我執

ahamkāra

大暗性

 

宇宙我執

samashti

 

我執

ahamkāra

 

 

 

 

 

 

 

 

微細知覚器官

jñānendriya

 

善性我執

 

5宇宙知覚器官samashti

5微細知覚器官

眼耳鼻舌身

意思

manas

 

善・動性

我執

宇宙意思

samashti

意思

manas

 

微細運動器官

karmendriya

 

動性我執

5宇宙運動

器官samashti

5微細運動器官

口語、手、足、排出、生殖

微細元素

tanmātrā

 

暗性我執

5微細元素

微細世界の万物

 

粗雑元素

bhūta

 

 

 

5粗雑元素

粗雑世界の万物

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

上座部仏教の9段階のcittaと宇宙創世

 

 サーンキヤ

 サンスクリット

 内容

 上座部仏教

 説明

 

 

 

 

 

プルシャ

purua

霊我 観照だけ

citta

変化のない実体 涅槃 出世間界

プラクリティ

prakti mahat

自性 

エネルギー

manō

purua観ることで平衡が崩れて「空」なる根本物質が「有」として展開する

ブッディ

buddhi

「知る」根源状態

mānasam

阿羅漢はここまで

全体性機能 paññā

アハンカーラ

ahakāra

自我、 認識

hadaya

様々な階層の認識に分離していく

saññāの生成と、それへの執着

 

jñānendriya

 

paṇḍara

執着に多くのエネルギーを割当てる

 

manas

 

manōmanāyatanam

対象に受容的or憎悪的になる心

 

karmendriya

 

 mānaindriyam

レベルの範囲内で力を強化させる

 

tanmātrā

 

viññāna

智慧は除去され世俗的な欲求・渇望

 

bhūta

 

viññākkhandō

愛着を強め、現在の状況を評価し、将来への新しい希望と計画

 

 

次に地球における個体の生命体では

真我purushaātmanによって

根本自性prakritiは内部の3徳性gunaのバランスが崩れることで、

善性sattwaからは心素chitta

動性jajasからは理智buddhi

暗性tamasからは我執ahamkāraが生じ、

我執ahamkāraにも3徳性があるので

善性我執からは微細知覚器官jñānendriya

善・動性我執からは意思manas

動性我執からは微細運動器官karmendriya

暗性我執からは微細元素tanmātrā

微細元素tanmātrāからは粗雑元素bhūta

に具体化して、生命体になった。

 

 

これを発生した意識の順序に並べ、現代用語での表現を試みると

 

 

 

 

 

真我puruaātman)              

 

真我意識

観照するだけだが、唯一の実体

 

根本prakrit

prakriti

sattwajajastamas

根本意識

真空意識

定まったカタチはなくdhammāエネルギーの塊

3つの徳性のバランスが崩れるとカタチが創出する

 

心素chitta                   

全体性意識

善性 より微細なモノに抽象度を上げる機能をもつ

 

理智buddhi                    

 

分別意識

動性  知を使って1を2にする機能

 

我執ahamkāra                  

 

枠組意識

暗性   具象化することで抽象度を下げる

dhammāの塊がgatiが構成される

 

微細知覚器官

jñānendriya                   

直観意識

微細エネルギーのレベルで差異を知覚する   

視覚と聴覚のみで、嗅覚、味覚、触覚はない

 

意思manas                                 

共通意識

2つをつなげるために共通点にスポットライトを当てる

 

微細運動器官

karmendriya                   

運動意識

微細エネルギーと身体の連動を体感

 

個我jīva                     

統合意識

アイデンティ

分類をまとめて統合する

 

微細元素tanmātrā                          

仏教でいうbhūtaのレベル 

型式意識

パターン認識するアプリを作成する

 

粗雑元素                           

rūpaの中の細かいdhātu 

概念意識

一般化、概念化、シンボル化する

 

物質rūpaの中の粗いdhātu 

五感覚器官の信号が基盤                   

自我意識

差異にスポットライトを当てる5感覚器官と心による認識手段

 

他者の意識をも信号に含有

自己意識

他者を含めた「自分」を主体として、感覚器官を通じて外界からの信号を認識する子供の意識

 

 

これをヒトの誕生から具体化する流れでの表現を試みると、

 

まずはヒト以前にある意識では、

ゼロ意識  エネルギーを少しも持たない意識の外側にあるモノ

宇宙意識  受精以前からあるエネルギーをもつ宇宙の意識

霊魂意識  メンタル体がもつ「いのち」の意識

 

次のヒトの意識では、

真我意識  受精の瞬間に生じる個がはじめて持つ純粋意識  

真空意識  受精の瞬間の意識  定まるカタチはないが「いのち」そのものとなる意識

全体性意識 受精直後の意識   カタチはあるが境界線がまだ確定されていない意識

分別意識  細胞分裂後の意識  外部(母体や自分の身体)の信号を体感する胎児

枠組意識  外界と自分の意識との間に違いがあることを内胚葉の蠕動で認識しはじめる胎児の意識 

直観意識  眼耳鼻舌身の感覚器官からではなく、微細な波動を直截に認識する胎児の意識

共通意識  中胚葉(循環器系器官の波動)で外部の波長と同調することで対象と共通性を感知する胎児の意識 

行動意識  自分の微細体と肉体がつながっていることがわかり、肉体を意識的に動かす胎児の意識

統合意識  内胚葉/中胚葉/外胚葉が器官となり、信号の差異を把握して、それらをまとめて統合する新生児の意識

型式意識  パターン認識  インプット信号に対応する自動反応回路で世界を認識する乳児の意識

概念意識  シンボリズム認識  外界の信号をシンボルとして認識する幼児の意識

自我意識  「自分」という主体を基準にして、感覚器官を通じて外界からの信号を認識する幼児の意識  

自己意識  他者を含めた「自分」を主体として、感覚器官を通じて外界からの信号を認識する子供の意識

 

こうして自意識が発生し、概念(言語による一般化)学習もはじまる。

成長期は道具を使うことで概念が実在するものと思い概念的生物に育つ。

しかしこの自意識(理性)にはいろいろな限界があることを知り、次の段階では智性のステップへ進む。

 

 

サーンキヤ

インド哲学

意識

ヒトの誕生

 唯識派

パラアートマンparamātman

ブラフマン

 宇宙意識

 

涅槃  絶対者

プルシャpurua

自己

atman 

真我意識 

エネルギーを持たない意識 

受精の瞬間

変化のない実体  

観照するだけ 

プラクリティ

prakti

原質、自性

真空意識   

根源意識

エネルギーをもつ意識の原形

超感性的な根本物質自性エネルギー

chitta

心素

 

全体感意識

カタチはあるが、境界線がまだ確定されていない意識

 

buddhi

理智

分別意識  

外部(母体や自分の身体)の信号を体感する胎児

 

様々な階層の認識に分離する

思惟機能 識viññāna

阿頼耶識    知る根源状態

アハンカーラ

Ahakāra

我執

枠組意識  

複数の波動で立体的に認識

内胚葉の蠕動で認識する受精数週間後の胎児

感覚器官と心による認識

自我意識

末那識

Jñānendriya

ジュニャーネンドリヤ

五感覚器官

 

直観意識

微細な波動を直截に認識する胎児

意識

マナス

manas

共通意識  

中胚葉の波動で認識する

新生児

 意識

カルメンドリヤKarmendriya

五行為器官

行動意識

自分の意識と体がつながっていることを認識する

手足性泄発声

ジーバjīva

 

個我

統合意識

信号をまとめて認識する

 

 

 

 

 

 

タマントーラ

Tanmātra

五唯(五境)

五大

潜在意識  

パターン認識

外界の信号がインプットされるとアウトプットが対応する自動反応回路で世界を認識する乳児

前意識

粗雑元素bhūta             潜在意識         

                       

概念意識  

シンボリズム  

一般化、言語化

 

外界の信号をシンボルとして認識する乳児から幼児

 

物質rūpa

 

こうして自意識が目ざめ、言語学習もはじまる。

「自分」という主体を使って感覚器官を通して外界からの信号を認識する幼児

 

 

 

 

 

 

 

この表層意識を基準にしたままで死亡していくケースも多いが、変化し続けている環境の中で暮らしていることに気づいた者の中には、生まれてきた意識を遡っていく賢人も現れてくる。

 

こうして、一般的な生活者と賢人と呼ばれる修行者の生き方によって、死生観に違いが出る。

 

自我意識  感覚器官を通して外界からの信号を「自分」という主体を使って認識する日常生活の意識

概念意識  概念による過剰一般化によって世界を認識していることに気づき、それを弱体化する。

型式意識  インプット信号に対応する自動反応回路で世界を認識していることに気づき、これを弱体化する

統合意識  分析して統合するアイデンティティーによって世界を認識していることに気づき、それを弱体化する。

行動意識  自分の意識が物質化することを認識し、物質エネルギー化してしまう意識を弱体化する。

共通意識  他の生命体との共通項にスポットライト当てることで区別することを弱体化する。 

直観意識  元素の基になる微細エネルギーを体感して、粗大エネルギーによる影響を弱体化する。

枠組意識  イメージは定義する(枠組み)によって世界を認識していることに気づき、それを弱体化する。

分別意識  知は分別によって世界を認識していることに気づき、それを弱体化する。

全体意識  「ありのまま」は分けずに直観よって世界を認識していることに気づき、それを弱体化する。

真空意識  なにもない空間から時空の点が湧き上がる刹那を感じるのを待つ意識を育み、エネルギーと関わる意識を弱体化する。       これがアートマン(我)だと仮定する。

真我意識  時空とエネルギーを持たない元来の自分の意識に出遭う エネルギーが0のパラアートマン(梵)  

 

霊魂意識  メンタル体がもつ意識

宇宙意識  受精以前からあるエネルギーをもつ宇宙の意識

ゼロ意識  エネルギーを少しも持たない意識

 

 

 

 

 

 

なぜパーリ語なのか?  固定観念のない把握方法は新しい言語

基本をなす語句  誤謬の数々  上座部仏教  苦  無常 無我   ダンマ 五蘊 

 

釈尊はマガダ語(マガディー語 Magadhi )を話していた、と推定されている。

マガダ語をmagga(道)の言の葉と解釈する人もいる。

それがインド・ヨーロッパ語の一つであるパーリ語に翻訳された。

しかしパーリ語には文字がなかったので、シンハラ語を始めとした各地の音声文字(アルファベット)で書き留められた。

したがって、もし翻訳された仏典に誤訳があるのならば、釈尊の教えを理解するためにはパーリ語を理解する必要がある。

次に実践について。釈尊が弟子に教えていた実践が瞑想である。

いくつかの種類の瞑想があることが三蔵に残っているので、今日でもそれらを私たちは知ることができる。

例えば、アーナ・パーナーやサティ・パッターナやヴィパッサナーといった瞑想法などである。

このように、パーリ語の意味を学び、瞑想の実践を両翼にしてはじめて釈尊の説かれた「道」を体感することができる。

 

このエッセイでは、パーリ語が中国の漢字を経て日本語になる過程で言葉の意味が限定され、変化してきた事実を気にしながら、これまでに気づかなかったパーリ語の深層にある意味にスポットライトを当ててみたい。

 

私はこのことに気づくことが遅れてしまったので、もうそれほど先は長くないが、現代の私たちの誤解を記しておくことで、次の時代は釈尊の教えと実践がもっと体感しやすい環境になることを祈って今日も作業に当たる。 

 

仏典の全ての語句は私たちの日常生活ではなく、この世の閉じた輪から解放されることを前提とした、あの世とこの世がつながっている時空を基準にしている。

この基準点については後述の「仏教の基準点」という、仏教の常識、社会の非常識を参照してください。

だから日常生活の語句ではどうしても捉えることができないのが仏典の言葉である。

語句をちゃんと理解する唯一の方法は、あの世とこの世がつながっている地点に自らが立つ以外になく、そのために実践をして個人の体験を深めていなければ、経suttaを読んでも誤解に誤解を重ねることになってしまう。

 

また日本人にとっては、どのような分野に限らず、「事実」を学ぶにあたっても大きな弊害がある。

それは言語の問題だ。

大きなところで、漢字の限界、やまと言葉の無理解、そして翻訳の誤謬。

漢字という象形文字を使うことで、その意味に引っ張られる。

やまと言葉のバイブレーションを理解しないで使われている。

19世紀に当時の支配者階層の欧米の概念は漢字を使って翻訳されたことで語句と事実とのギャップがある。

 

そして今回はプラスαで、仏教という言語が通じない領域を言葉で表現するというチャレンジをしなければならない。

仏教とは「苦しみから解放」されるために、同じようことが何度も繰り返される閉じた輪の世界から離脱するための教えと実践を、自らの実際の体験を通して現実化した釈尊自身の体験からの提案である。

この実践は言語活動の時にはフルに使っている大脳皮質の機能と働きを逆に制御して抑えることで、体内の他の機能を活性化させる手段を用いる。

するとそのような状況で体験することは必然的に大脳皮質の機能では理解できるものではないし、大脳皮質によって機能している言語では表現できるものでもない。

言語を使って表現するならば、これらの実践の体験の後に、このようなものだったと過去形の比喩を使って伝えるしか方法がないのである。

 

固定観念のない把握方法は新しい言語

新しい概念を学ぶには「未知の言語」が適している。そしてそれが現代では使われていないものならばなお良い。というのは、ただ新しいモノにただ名前がついているだけで、それが何であるのかは、あらゆる推察を許さないので、その新しいモノが使われているできるだけ多くのTPOを直接に体験し、そこからその名前のついたモノがどんな内容なのかを察するしかないからだ。

それを始めから翻訳したもので学んでしまうと、自分の既知なるモノを使って「編集」してしまうことになり、未知なるモノが特徴的なTPOの中で周囲とどのような関係性を持っているのかという基本(基準点)に立ち返る回数が減ってしまう傾向があるからだ。

そして、現代語でなければ、現代語のsaññā(一般化する時に必要な定義の元型、概念、五蘊の一要素)がないので、現代での意味やイメージや体験に引っ張られる(影響をうける)ことがなくなる。

 

難解と言われる理由  脳では把握できず修行しないとわからない世界

たとえば植物の認識システムには脳(神経管)や四感器官(目、耳、鼻、舌)(オジギソウは触感がある)はないが、外界の変化を察知して反応している。

また、多くの生命体は重力に反応するが、無脊椎動物は感知器官を持っていないが、未知の重力感知機能があると推測されている。

他にも、圧・化・水・磁・流・電気・温度・接触に対して反応する行動を生物学で走性taxisという。

たとえば、視覚を持たないミドリムシ(ユーグレナ)属は光を当てると光源に向かって移動したり、プランクトンの中には反対に光から遠ざかったりするものもいる。

また、ヒトの電磁波を感知する器官は特定されていないが、電磁波過敏症という症状は存在する。

これらのことから、神経管と感覚器官がなくても、外部の信号に反応する機能があることは明らかである。

 

そしてただ感知するだけではなく、外部の信号や物質を内部と融合するのが生命体の特徴である。

たとえば「消化」とはついさっきまでは他者であったものを食べることによって自分の一部にするという魔法の儀式である。

このように生命体は神経管(脳)以外でも外部と相互に交流していることは明らかである。

 

そして釈尊の教え。

この教えは、5感覚器官と大脳皮質を介した認識システムの外側にあるものを把握するアプローチである。

 

1 言動を調える

2 マインドをコントロールする

禅定、微細感覚器官で把握したものに集中することで、対象と自己が融解して一体化する訓練し、新たな認識経路を知ることができ、

大脳皮質での認識方法のギャップを体感し、これまでに信じていた「自分」や自分の認識の領域の内側と外側、

そしてシステムそのものの限界を自覚するようになる。

 

3 道を歩む   潜在意識にある回路の弱体化と削除

脳の限界に気づかない時に起こる、間違った見解(Micchā diṭṭhi  固定観念 決めつけ)に気づくことができるので、これを修正することで、苦しみから離脱する

認識システムの中のsakhārāsaññāvedanāのタグが苦しみの原因なのでこれを除去したり、上書きしたりすることによってこれまで学んだ固定観念を変えることができる。

 

そのためにはこの固定観念を作った時の積極的な主格「私」ではなく、感覚の変化を受動的に待つ「知る機能 knower」でその固定観念の回路を弱体化させる。

この「知る機能」は神経学や心理学で「観察者observer」と呼ばれているもので、釈尊のいう五蘊のviññāna(識)の上位バージョンである。

心の9段階  自動反応回路化にいたる9段階

 

文字では「観察」だが、これは目で見ようとしたり、ビジュアライゼーションしたりすることではない。

実際にはこの「知る機能」がしている「観察」とは、「感じること」、気づいていること、寄り添うこと、察知しているという意味である。

 

パーリ語は普通の言語であった

文字がなかったこと、現代では使われていないこと、多くの人にとっては学んだことのない言語であること、釈尊の教えがパーリ語で残されたこと、といろいろなことが重なることで、パーリ語が魔法の言語となった。

 

学習や現実や翻訳に縛られてしまった私たちは、無垢の状態からパーリ語と付き合い始めることで、これまでの学習した概念をつなぎ合わせたりして「編集」で理解していた方法を休んで、「いま・ここ」の状況で体験したことだけをベースにする方法に無意識の内に入ることができるようになり、言葉が本来もっている重層的意味にアクセスする入り口になった。

 

 

パーリ語とマガダ語

現在パーリ語は上座部仏教の経典と儀式に用いられる文語(典礼言語)として形を留めるのみであり、元来どの地方の方言であったかは不明確である。上座部仏教では自らの経典を仏の直接の教えとする観点から北東部のマガダ語と同一と見られてきた。

しかし現在ではアショーカ王碑文との比較からインド中西部のウッジャイン周辺で用いられたピシャーチャ語の一種とする説が有力である。ただし、マガダ語とパーリ語は、言語的にそれほど相違しておらず、語彙をほぼ共有し、文法上の差異もさほどないなど、むしろかなり近似的な関係にあったと推定されている。

 

最古の仏教文献は、釈尊の故郷であるマガダ地方の東部方言からパーリ語へ翻訳されたと推定されている。このために、パーリ語はアショーカ王碑文のうち西部のギルナールの言語に最も近いが、その中にマガダ語的な要素が指摘されている。

 

釈尊はマガダ国の釈尊族の王子(マガダ国の地方豪族の子)で、当時のマガダ国は現在のインドのビハール州に当たります。現在のインドで、ビハール州を中心に話されているビハリー語 Bihari のマガディー方言(またはビハリー諸語のマガディー語 Magadhi)(マガヒー語 Magahi ともいう)は、釈尊が話していたマガダ語の後裔言語(の一つ)です。

 

釈尊の時代の紀元前5世紀ごろのマガダ語は、当時のインド北部の話し言葉「プラークリット語(サンスクリットに対して俗語的なインド・アーリア諸語の総称)」の一方言でした。サンスクリット語は当時すでに神官が暗唱する雅語で、一般の人が普段話す言葉でありませんでした。

 

釈尊の時代のインドにはまだ文字がなく、初期の仏典は、弟子たちが師の言葉を話し言葉(マガダ語)で暗唱して口伝されました。釈尊の死後200年ほどたって、ブラフミー文字が(たぶんアラム文字から)作られ、アショーカ碑文が作られます。アショーカ碑文もプラークリット語ですが、多くにマガダ語の影響が見られます。同じころ、それまで口伝された仏典が、同じプラークリット語の一方言であるパーリ語で記されました。パーリ仏典の中には、マガダ語の痕跡が残っているものもあります。

 

口伝された経典は、何度か「仏典結集(ぶってんけつじゅう)」といわれる編集作業が行われ、そのときに、複数の弟子たちが暗唱している仏典を照らし合わせて、間違いを修正してまとめることが行われました。弟子たちはマガダ人だけでなかったので、他の方言もまざります。それをまとめる過程で、マガダ語よりパーリ語の比率が高くなり、数百年後に文字に書かれるときには、パーリ語が主体になったのです。マガダ語とパーリ語は方言関係にあり、マガダ語がプラークリット語の東部方言、パーリ語は西部方言とされています。もちろん互いに通じます。

 

サンスクリット語が文語として書き言葉に広く使われるようになったのは、アショーカ碑文より数百年後で、大乗仏典の多くは、サンスクリット語が文語として文字表記されるようになった紀元後1〜3世紀に書かれたものです。

 

マガダ語を含むプラークリット語は、その後、500年を経て、紀元5世紀ごろに、アパブランシャ語といわれる中世インド語(互いに通じない複数の方言からなる)になり、アパブランシャ語から10世紀ごろ、ヒンディー語やビハール語などの現代インド諸語が成立します。マガダ語の後裔の東部アパブランシャ語から、現代のビハール語やベンガル語やアッサム語が成立します。

 

釈尊の言語 釈尊の時代の正統バラモンの言語はサンスクリット語でした。西のギリシャ語に似たア−リア民族の言語で文法の整備された格式高い言語でした。インドエリ−トに相応しい言語でした。もとバラモン教徒から釈尊の弟子となった兄弟の仏弟子が居ました、釈尊の高尚なさとりの内容を卑俗な言語で説くことは仏教の冒涜になると考え、釈尊にサンスクリット語で説法するように願いました。釈尊はその要求を却け、だれでも理解できる一般民衆の言語で説くと宣言し、サンスクリット語の採用を禁止しました。この言語方針はのちに仏弟子の幹部に継承されて南伝の上座部系仏教となり、スリランカ・ミャンマ−及びタイ国ら東南アジア仏教となります。他方、釈尊後三百年以上経過した西北インドからアフガニスタン地方のギリシャ人に伝わった改革派仏教はギリシャ語に近いサンスクリット語で経典が作られ、ここに仏教に二大潮流が生じたのです。こちらを大乗仏教と呼びますが、後に詳述します。

 

 

ありのままの現実をみることができない「無明」の力

ヒトが生命体の本能に気づけないのは、自動反応回路によって、無意識のうちに行動を起こすことで問題もなく生きていけるため、ありのままの現実や本能に気づく必然性がない。

これを無明と呼び、仏教でいう存在欲の「貪瞋痴」の一つである「痴」のこと。

無明とは、自分の本能を知ることができなくなる病気のこと。

ありのままの現実を知る必然性がこの世にないことから、それを知ろうとしないのも無明の力。

無明がないことを智慧という。

 

 

無明を消すには無明があるという事実を見守っているだけ

「無明がある限り、三種類の渇愛が現れてくる」と釈尊は生命体の深層を分析した。  出典?

常に刺激を求める欲、刺激に依存することで生きようとする欲、肉体の依存を超越しようとする欲の3つ。

 

欲愛kāmataとは、感覚に対する渇望

有愛bhavataとは、より高いレベルに行きたい、そして永遠になりたい、という存在欲のことで、仙人はこれを否定しない。

非有愛vibhavataとは、もう存在したくないという欲で、「存在は嫌いだ、存在しない方がありがたい」と欲すると、それは怒りのような欲になる。

AN6.106 Tahāsutta

DN22 Mahāsatipaṭṭhānasutta

MN9 Sammādiṭṭhisutta

「物質的な欲愛kāmata、有愛bhavata、非有愛vibhavata3つがある限りは悟りではない。」

 

 

そこで「生命はなぜ無明を根本原因にして限りなく輪廻転生していくのか?」という事実をしっかりと観てみる。

すると、これだけで無明も、生きていたいという渇愛が弱まってしまい、最後には消えてしまい、そして輪廻転生が終わる、と上座部仏教の長老は言う。

なぜならば、無明という存在があることに気づき続けていれば、無明の最大の特徴である「自分(本人)が知らないうちに行動してしまう」という無明を存続させる武器(エネルギー)が使えなくしてしまうからである。

このように、無明は意識されないことが強みであるのに、無明にスポットライトを当て続けられると力はどんどん弱まってしまう。

Dhammapada Verses 153 and 154

 

 

 

 

 

予定コラム

悟っていない日本仏教  白隠禅師  白隠の悟りとは

乙女の瞑想の可能性と限界   都市文明化と自然破壊  自分に都合の良い悟り方と他者への強制

伝わらなかった五蘊をいかに日本仏教は補完したのか?

ヴィパッサナーなしの坐禅のメカニズムとは?  サンカーラとサンニャの消滅

大乗仏教の言い分   系譜 進化(方向性) 菩薩 一般の救済という正義  救済 一般化

西洋哲学 現象学の地点    ニーチェの超人間とは仏教のこと?

釈尊の教えの時代を迎えて  現代そして未来の教え