ヴィパッサナーが効く理由    

効果が生じるメカニズムと実践のコツ

 

 

はじめの心構え          思考スタイルをバージョンアップするためには

心のメカニズム            

体の感覚に気づいているだけで自動反応回路が弱体化する理由

ただ気づいているだけ覚る理由

涅槃からの視点で三相を実感する    

 

参考文献

 

コラム

瞑想中に何度も心が激しく乱れる時には

頭痛や悩みなどの肉体的・メンタル的不快さが生じる理由と譬喩

 

心の奥底にある自動反応回路を消す方法   

sakhāra paccayā viññāa」のステップですべきこと

感覚(vedanā)のステップですべきこと

vedanā paccaya tanhāのステップですべきこと

  

「歪んだsaññā」の認識と修正

「歪んだsaññā」に対するブッダの回答

Aniccaの性質― 五蘊との繋がり

 

全身の感覚を観察するスウィーピングのテクニックとは

中立avyākata PSの特徴

中立PSから根本PSへ移行するメカニズム

依存症に対するアプローチ

 

 

 

はじめに 

ヴィパッサナーは全体性を実現する思考スタイルにバージョンアップするための技です。

そのための準備と心構えは

1 いちばん大切な基本は、心が安らかな状態から始めることです。

  もし少しでも乱れた状態ならば、自動反応回路の解体の作業は止めます。

  理由は逆効果になるからです。

 

2 自分の外側ではなく、自分の内側だけに関心を向けます。いわゆる内観です。

  することは自分の感覚や感情や思考を、ただ「見ている」だけです。

  他には何をしてもいけません。

  怒りや欲求などの感情や想いが、自分の内にあることを知り、ただ「見ています」

  どれもが自分の内で作った回路であることを確認し、外側のインプット信号は無視します。

 

なぜ「見ている」だけなのでしょうか?

これが納得できないと、ヴィパッサナーを実践しても効果はあまりありません。

なぜならば、すぐには効果が現れない時に、この実践を続けることをやめてしまうからです。

また、続けたとしても実践に100の力を投入しないで、カタチだけの実践になることがしばしばあるからです。

 

思考回路をバージョンアップするためには、自分の感覚と心境をただ「見るだけ」であることをこれから徐々に説明していきます。

 

 

 

メカニズム    感覚に気づいているだけで自動反応回路が弱体化するメカニズム

体の感覚を使って、反応という自動性を解除することで何が起きるのか?

自分自身の内にある「苦の真理」を観察すること、具体的には、自分がどんなふうにして心を乱し、苛立ち、不幸になるのかを客観的に観察するためには、自身の心の奥深くに至る必要があります。

たとえばいま、自分が腹を立てていて、その怒りを観察しようと想ったとします。

しかし、目を閉じてその怒りをなんとか理解しようとしても、その怒りの外的・表層的な原因や怒りの内容ばかりに関心が向いてしまい、それらが心に思い浮かび続けます。

それらの原因はいつも外界にあるものなので、そこに関心を向けるだけでは、自分の言動を正当化し、「他者が私にした酷いこと」を想い続けることになります。

しかし今、そこにある事実は、「自分の不幸」だけです。この件で苦しんでいるのは自分だけで、他者ではありません。

 

この状況を変えるときにすることは「ただ観察すること」です。

観察とは、怒りなどの感情から生じる思考の連鎖に心身を委ねるのではなく、自分自身の感覚や想いが生じていることに寄り添う(気づく)ことです。

何を観察するのでしょうか?

自分の思考の内容ではなく、感覚や想いが生じている、という心の状態です。

たとえば不幸を感じている時には、その不幸をここに不幸があることをただ観察します。

 

観察を始め、観察を続けると、不幸の原因が明瞭となってきます。

ある入力信号に「嫌悪といった否定的感情で反応してしまったことで、この体に不快な感覚を体験している」ということがわかります。

すなわち、「私がされた酷いこと」が入力信号で、「怒り」が反応したことに相応します。

 

この時点での実践のポイントは、フィジカルである体に感覚があり、それを感じていることができるようになる練習です。

そのまま、その感覚を観察し続けると、その感覚はやがて力を失い、消えていきます。そしてその感覚とともに、否定的感情も消えていく、ことに気づきます。

 

実践には、呼吸を使います。なぜならば、実践にはまず心は集中させる必要があり、集中するためにはその対象がなければ集中ができないからです。

対象がない場合は、怒りや欲求などの感情に囚われている「わたし(主体)」が活性化されて主体の思考の連鎖が継続し、冷静に自身の感覚や想いに寄り添うことはできません。

 

呼吸が出入りしているさまを鼻腔の入り口付近において観察します。

心が少し落ち着いてくると、鼻孔のあたりに皮膚に感覚を感じ始めるようになります。

 

ここで注意しなければならないのは「集中する対象」です。

感覚する鼻腔の入口そのものに集中するのではなく、その場所で感覚が増減する変化に集中します。

感覚の有無に集中すると、感覚が無い時に、心が他の対象物を探してさまよい易くなり、集中が途切れがちになります。

また感覚の種類に集中すると、その種類に関わるバイアスのかかった概念、付加される感覚信号のタグ、自動反応回路の特徴に囚われます。

 

次は、気づきの対象を全身へと広げ、体のすみずみまでの体の感覚を感じていきます。

体の感覚は、不幸の原因の根元へと本人を導き、そして、その原因を根絶するための手助けとなってくれます。

 

なぜでしょうか?

感覚は各自の「意識の層」と連動しています。

感覚には段階(層)があり、粗い感覚は表層意識、振動のある微細な感覚は潜在意識、より静かな感覚はより深層の意識が常に知覚しています。

たとえば寝ているときに暑さを察知して掛け布団を剥いだり、蚊に刺された所を察知して無意識に掻いたりしています。これらの感覚を察知して反応しているのは表層意識ではなく潜在意識です。

このように、普段の表層意識では感じていない感覚は潜在意識が処理しています。つまり日常生活で感じられない感覚は潜在意識とのリンクがあります。

 

鼻下の感覚の変化を気づき続ける訓練を続けます。

数時間の間でも静かにしていると、普段は知覚していない振動のある感覚があることが認識できるようになります。

普段の表層意識ではこの微細な感覚を知覚していませんが、潜在意識では常にこの感覚を知覚しており、その信号に応じて、回路が発動して反応が自動的に生じています。

表層意識が知覚していなくても感覚と体が反応する日常的な例では、梅干しをみたら唾液が出たり、ある香りを感じたら楽しくなったり、ある音を聞いたら毛穴が閉じたりします。とくにトラウマをもつ人は自覚があると想います。

こうして「感覚の層」と「意識の層」にはリンク(つながり)があることを再認識します。

 

鼻下の微細な感覚の変化に気づくことができるとは、表層意識で潜在意識の領域の変化を気づくことができる段階になったということです。

しかし、その潜在意識の内容までは理解できません。

その内容には触れず、そのまま感覚の変化、特に生じては去っていく感覚に注意を向ける練習を続けます。

これがvipassana瞑想の基本です。

 

ヴィパッサナー瞑想の範囲外ですが、

安穏した心理状態を維持していると、反応した(発動した)回路のメカニズムを推測して、それを弱体化することが自然にできるようなっていきます。

感覚の変化があった時に表層意識が認識している感情から、その感情の原因となる信号、それに付加しているタグ、その基盤となっている概念、そしてそれらをパーツにして作成された自動反応回路が推定できるからです。

したがって、過去に作成した回路のTPOを想いだし、それ以外のTPOにも過剰一般化してその回路を使用していることに気がつけば、その回路はもう自動では反応しない、ただの回路になります。

怒りの制御(アンガー・マネージメント)では、これらの回路を理解することで、怒りを除去する訓練をします。

 

この回路の弱体化には3つの段階があります。

怒り、憎しみ、悲しみなどの回路をよく分析すると、そこに、

自分が勝手に付加させた感覚のタグ(vedanāの機能)と

自分が勝手に断定した定義(バイアスがかかった歪な概念saññā)と

これらをパーツにして作り上げた「因果関係の回路」(sankhāra)であることがわかります。

アルファベットで書かれた語句は仏典の言語であるパーリ語です。

これらの自動反応回路に気づくことができれば、こららはもう自動では反応しないただの回路になります。

 

次に、自分が勝手に断定した定義(歪な概念saññā)を修正することができます。概念とは各自のバイアスのかかった定義のことを意味するので、その定義の仕方の特殊性が理解できると、その概念を基準にする縛りから解放されます。

特殊性とはある時とある場所とある状況のときに生じた出来事であり、一般化するには無理があることを意味しています。

ただ一般化することで機械化することができて利便性が高まるので、生命体はこの因果関係を使って生活しています。

しかし、この一般化によって生じる誤謬や不都合が多くなれば、法則とも呼ばれるこれらの因果関係を基準にする回数を減らしたり、やめることが良いときもあります。

解放の順番は、独りよがりの概念(観念)、社会的通念の概念、そしてこれらの限界を理解して、これらを基準にすることから解放された智慧、パーリ語のpaññāです。

 

最後に、感覚機能を分析してその特性を理解します。

感覚は多種ありますが、共通点はどの感覚にもタグが自動的に付加されることです。

全部で9種類のタグがありますが、日常生活で付加されるタグは肉体的感覚に3種、メンタル的感覚に3種です。

この3種のタグが付加されることで、同様の感覚を再体験するときに、その感覚に対して近・遠・中立の瞬間的反応をするようになります。

近とは、その感覚に近づこうとするタグのことで、感覚では快い、感情では好き、概念では渇望に繋がります。

遠とは、その感覚から遠ざかろうとするタグのことで、感覚では不快、感情では嫌い、概念では嫌悪に繋がります。

中立とは、その感覚に中立であるタグのことで、その感覚に対して無関心で、「妄想」を構成するときの要素になります。

 

感覚とは、生じては消え去るものなので、把えて維持することが不可能であることを理解し、強い近・遠・中立のタグを付加することは意味がないことを実感し、その感覚を感じている時に心が穏やかであれば、感覚に囚われない心軽やかな別の3種のタグに付け替わります。

 

ポイントは感覚の変化を感じるときには、同時に心の奥にある自動反応回路が発動していることを理解することです。そして、その回路を弱体化したい場合にはその回路のメカニズムを解明することで、それは自然と消滅に向かいます。

 

具体的には、突然の抑えきれない怒りが生じた理由がわかれば、それは増幅されていく怒りではなく、残念な悲しみとなり、怒りという自動反応回路の自動性は機能しなくなります。そして怒りの理由を知ることで、その回路が作成されてしまった特殊なTPOの状況を理解することで、その時空から離れたTPOであればその過剰一般化された回路の使用は適格ではないかもしれない、ということに気づけば、その回路が作り出すネガティブな感情は徐々になくなっていきます。

 

ここにまた別の法則があります。

自動反応回路は発動するごとに回路は強化されますが、その自動機能を解除することで、その効力が弱体化し消滅する、という心のメカニズムの法則です。

したがって、怒りが雪ダルマ式に増加して、自動的に怒りが爆発する強力な自動反応回路が発動する前に、そのプロセスに気づいて途中で止めることが回路を強化させないコツになります。

ですから、心の動きと連動している体の感覚に大きな変化があることを気づけていれば、大きな回路が発動してしまう前に止めることが可能になります。

 

 

 

「心に起こる現象」よりも「体に起こる現象」の観察を優先し、「体の感覚を土台として体を観察すること」を重視するのはなぜなのか?

「心の観察」とは、「心をただ客観的に感じ取ること」のではなく「心の内容について考えてしまうこと」をここでは指しています。しかし、心の内容についてじっと考えると、心の中に浸りこんで心に翻弄され、自動反応回路に反応し続ける、つまり思考の連鎖に陥ってしまいます。

心の乱れの内容に深入りして探ろうとしたり、心の乱れを無理やり鎮めようとしたりすると、逆効果になることがあります。

そのような場合は、肉体に生じている感覚だけの観察を始めます。

そして、心に激しい乱れが生じているという事実を受け入れることです。

それだけです。

心の内容や原因について考えたり推測したりすることは逆効果です。

 

感覚を観察していると、自分の心が自動的に落ち着いていくことに気がつくはずです。

否定的感情を内側に抑圧するのでもなく、身体や言葉を使って外側に表現するのでもありません。

これだけのことで、湧き上がっていた否定的感情がただただ根絶されていきます。

感覚に対して反応することなく、平静に観察をしている時、本人は自覚せずに、心の最深部を浄化しています。

しかし、理解するだけで、上記のような練習を実践しないかぎりは、心の表層部分を浄化するだけで回路自体は弱体化されません。

 

体の感覚に気づいている練習をすると、触覚によって知覚できる、直接的でたしかな感覚体験ができます。

視覚、聴覚、味覚、嗅覚をツールに使ってもいいのですが、体の触覚だけは常に刺激があるので、感覚の対象には最適です。

感覚は肉体に生じますが、それを感じ取っているのは心の意識です。

したがって体の感覚の観察とは、メンタルと肉体の両方を観察していることになります。

 

 

思考と感覚の関係性

心地よくなるような思考が生じるときに渇望が始まり、不快な思考が生じるときに嫌悪が始まると考える科学者がいますが、これは事実に即してはいません。

心ある(知覚機能をもつ)生命体は、思考そのものに反応しているのではありません。

すなわち、渇望は心地よい思考から始まるのではなく、嫌悪は不快な思考から始まるのではありません。

 

私たちが「心地よい思考」と呼んでいるものは、肉体における心地よい感覚のことです。

「不機嫌になる思考」とは、肉体における不快な感覚のことです。

 

日常生活では顕在意識は体の粗雑な感覚しか知覚せず、潜在意識は体のより微細な感覚に絶えず反応しています。

すなわち、顕在意識は潜在意識を把握できていませんが、ヴィパッサナーで体の微細な感覚に気づくことで、顕在意識で潜在意識の領域を垣間見ることができるようになります。体のあちこちに生じている微細な感覚を感じ取れるようになることで、潜在意識にある回路が発動しているかどうかを察知できるようになります。 

 

潜在意識は外界に対して渇望や嫌悪をもって24時間休むことなく反応し続け、それが顕在意識にも影響を及ぼしています。

つまり表層から深層に至る意識の全構造が、各層にある自動反応回路の影響を受けています。

そこでこの自動反応回路のアウトプットがそのまま発動しないようにすることで回路を弱体化させるのがヴィパッサナーの目的です。

 

 

メンタルの感覚化とその気づき

心に生じたものはすべて、感覚となって肉体に現れ、この感覚こそが潜在意識を察知する「鍵」ですが、これはまだ、多くの人が気づいていない事実です。

強い感情は、強い感覚として肉体に現れます。この粗大で凝固した体の感覚を、ただただ観察し続けていると、やがてはその感覚もまた消え去り、ふたたび、「より微細な流れ」が感じられるようになります。

 

瞑想法の目的は、心に現れ出ているものが何であれ、それを平静に受け入れることです。

心に現れたものに反応すると、回路は強化されます、しかし、平静に受け入れると、回路は弱体化します、

そのようにして心の条件づけである(心が勝手に因果関係を結んでしまった)自動反応回路を一層また一層と取り除くということは、みずからの苦悩が取り除かれる、ということです。

 

 

 

 

感覚に気づいているだけで自動反応回路が弱体するメカニズム

そんなことはありえない、根拠は?と聞かれる。

 

まずここでいう感覚とは日常的な感覚だけではなく、より微細な「気」の感覚まで含まれます。気といっても特別のものでもなく、たとえば肘を打った時に感じる電気の痺れのような感覚や、四股を踏む時に感じる膝の上の感覚や、両腕の力を抜いて1分ほど素早く回転させた時に感じる電気の流れのようなものです。

 

たとえば寝ているときに蚊にさされても意識せずに掻くように、睡眠なので表層意識が働いていないときでもヒトの感覚は潜在意識とつながっています。これは逆から見ると、潜在意識でなにか反応があると感覚として現れるということです。

したがって、自分の感覚の変化に気づいているということは、自分の潜在意識の変化を見ている、と同じ意味を持ちます。

 

次に、この潜在意識には自動反応回路が多数あって、インプットに対して決まったアフトプットで反応します。これは心を持つ生命体がサバイバルの確率を高めるために表層意識の意思決定がなくても、瞬間的に反応できるようにプログラミングされたものです。

この回路はこれまでに心身が緊張した時に潜在意識が自動的に作成したもので、同じような状況の時に心身が緩和しているときにはその回路は弱体するようにプログラムされています。 たとえば熱いものを触った時に瞬間的に手を引っ込めたり、梅干しを見たら唾液が出たり、トラウマによって体が震えたりするような条件反射です。特に生命に関わるほどの緊張時には、より強くて太い回路が作成されます。

これらの条件反射回路の特徴は、表層意識の注意が向いていない時でも発動し、逆に表層意識の注意が向いているときにはこの回路が発動しなくなったり、弱体化したりする特徴があります。したがって癖になっていることでも、その癖の回路に注意を向けていると、その癖が出る回数が徐々に減っていき、最期には消えるようになります。

減少していくプロセスの真偽は各自が日常生活の中で確かめることができます。

 

これらのことから微細な感覚に気づき続けているということは、自分の認識していない自動反応回路の発動を減らしたり、弱体化していることになります。

このように感覚を道具として使って、渇望や嫌悪を生み出す必要のない回路を減少させます。

この時に、これまで通りにインプットに対して反応してしまうと、回路は維持、もしくは強化されてしまうので、心穏やかな状態の時に試行しないと逆効果になってしまいます。

 

ここで言う「気づき」を実践しているときには、それ以外の努力をしなくとも、思いやり、他への共感といった「感情的成果」が、自分の内で解き放たれます。

気づきの時には、思考の連鎖から離脱しているので、自分の想いに浸ることができなくなり、今あるものに対して執着したり、あるいは取り除こうとしたりすることがなくなります。

 

表層意識と強い欲求が静まっているときには、私たちが何もしていなくても、潜在意識にアクセスしやすい状態になっています。それなのに、潜在意識に意図的にアクセスしようとする努力は、その扉を固く閉ざしてしまいます。

対象物と出会うと、6つの感覚器官(5つの身体的感覚器官とマインド)を介して、感覚が必ず生じます。そして、その感覚を基にして対象に対する関心(ta 付着)が生じます。感覚が心地よいものであれば、それを長引かせたいと望みます。感覚が不快なものであれば、それを取り除きたいと望みます。

ところが対象が生じては消え去るものだと確信していれば、対象に対する付着(ta)は起こりません。

 

ブッダと同時代を生きた人びとの多くは、「渇愛が苦悩を引き起こす。だから、苦悩を取り除くためには渇愛の対象物との接触を控えねばならない」という見解を抱いていました。しかし、自身の心の奥底を調べる術を身につけたブッダは、「外界の対象物と、心の反応であるそれに対する付着taする段階との間には、感覚機能vedanāという段階がある」ことを明瞭に理解しました。

 

心と物質は微細レベルでは常に変化しているので、いくらこちらが欲しがっても長期にわたっては自分のものにできないことがよく自覚できるようになると、対象に対して強く欲しがりも嫌がりもしないようになります。

時間が経てば対象は変化して、消えていってしまうものだからです。

 

 

 

 

ただ気づいているだけ覚る理由

いかなる回路であっても必ず消滅(崩壊)するのが「この世」、すなわち、この世の構成要素であるsankhāraの特徴です。

 

釈尊はこう説きました。

Sabbe sakhārā aniccā   Dhammapada 20 Maggavaggo 277 法句経 英訳 the Path

すべてのsankhāraは無常である。

 

わからないことを妄想し続けるのではなく、

sankhāraの特徴を知り、ただ静かに優しく見守るだけで、各自の心の中にあるsankhāra(機械的自動反応)という回路は弱体化し、ついには消滅する、これが覚りへの道だと仏教が説くことに不思議さを感じると思います。

Mahāsatipaṭṭhāna sutta Dīgha Nikāya 22 大念処経 

英訳The Long Discourse about the Ways of Attending to Mindfulness

 

見守るとは、潜在意識で勝手に機能している機械的反応に表層意識が気づき、その生滅するプロセスを見る、ということです。

すると、ただこれだけのことで、日常生活の基準になっている表層意識の限界を知ることができます。

こうして、自分の心の変化に気づき続けることで、これまでの解決策とは別の選択肢がある可能性も理解できるようになります。

これまでの多くの解決策は、潜在意識に作成された回路によって導き出されたものを表層意識で因果関係があるように説明したものを解決策としています。しかし、この解決策では根本の回路そのものが弱体化していないことが経験によってわかるようになると、これまでの解決策が一時的なものであることを自覚します。

そして回路そのものを消滅させることで、渇望が生じないことを覚ります。

Dhammapada 154  創造主よ、私のために家を再び建てることはもうない、ついに渇望の終わりに達した。

 

 

自動反応回路のメリットとデメリット

対象に近づいたり、遠ざかったりする感覚の必然性(vedanāによる近・遠・中立のタグ)の理由がわかれば、それらにタグをつける必要性や自動性についてもわかるので、無闇に回路を作って、そのプログラムに任せっきりにすることが減少し、最終的には回路を使うことがなくなっていくこともあります。

 

このような状態が続くと、新たな自動反応回路を無闇に生成することにも慎重になります。

その時に穏やかな心境でこれを見守る、ということは、過去につくった自動反応回路に快・不快の濃度が濃くて強いタグを薄くて弱いタグに、もしくは「どちらでもないというタグ」に上書きされます。

 

生命はサバイバルのために、入力信号にすぐに反応する回路を作り続けることで、進化し続けてきました。

微生物からヒトに至るまで、神経管が脳に発達した原動力の1つです。

生命にかかわるTPOでサバイバルの確率を上げるためには、素早く近寄ったり、遠ざかったりすることが必要なため、血圧を上げたり、呼吸数を増加させたりして、状況に反応しやすいように自律神経を変化させます。

生命体はこのような時に素早く行動するために条件反射の回路が作成されるようにプログラミングされており、それは膝蓋腱反射のような体レベルの条件反射だけではなく、表層意識の感覚のパターン、そして潜在意識の感情や深層意識の評価のパターンにも及びます。

 

しかし、それらの回路がTPOによっては生命に逆にダメージを与えるものがあれば、その回路は弱体化したものに上書きする必要が出てきます。

そしてこの回路の上書きや削除が、回路に操作される苦しみからの離脱方法であることを先達は発見し、実践してそれを証明しました。

 

 

 

 

 

涅槃からの視点で三相を実感する    

自動反応回路は自分自身のものではなく、執着には意味がなく無力であることを知る

 

対象に執着しなくなる鍵は、涅槃から見た「この世」の3つの特徴です。

それは

「生命体が望むような状況は長期に渡っては継続することはなく」、

「この世の無常の現象は生命体に苦しみを感じさせ」、

「そこから離脱しようとしても、普遍エネルギーによって生かされているこの世の生命体自身の力ではどうすることもできず無力である」

という三相です。 

パーリ語でaniccā,dukkha,anattaと呼ばれるものです。

 

この「無常」という当たり前でありながら深淵な摂理をもって、目の前の色蘊(イメージと呼ばれるrūpaエネルギー)に接すると、心は穏やかな状態なままなので、自動反応回路は作成されなくなり、過去に作った自動反応回路を使う頻度も減り、また回路を使ったとしても自他の現象に対する執着心が減少もしくは弱体化したものに上書きされることになります。

 

そうしてこのような体験が何度も繰り返されることによって、自動的に反応していたものが反応しなくなる、という体験をすることで、自動反応回路がもう自動ではなくなり、ただの回路になってしまいます。すなわち自動的に反応する回路から必要なときだけに使う回路に変えることができます。

また、「生命体の法則」では、使われないモノは徐々に退化するので、最終的には、回路自体が消滅していきます。

 

執着心は、潜在意識の内に自動的に湧き上がってくる渇愛・嫌悪・妄想によって生成されます。

これは感覚機能(受蘊)によって感覚の瞬間に付加される快・不快のタグによってできた信号と概念機能(想蘊)をパーツとして構成される自動反応回路(sankhāra)が生成されるからです。

そこでこの自動反応回路が作動していることに気づき続けていると、「わたし」という主体の基準と自動反応回路が同化している現状から離脱している状態になっています。換言すると、自動反応回路の生滅に気づいていないときには、この自動反応回路を「わたし」と見なしていることになります。

 

自動反応回路を対象として観る、ということは、「わたし」と自動反応回路をすでに分別しているということなので、この2つはもうすでに同化しておらずに距離をもって付き合うことになり、このような関係になることで、自動反応回路はもう自動ではなく単なる回路になります。

 

自動反応回路の作用に気づき続けていると、潜在意識で自動的に行われていた反応を表層意識で認知していることになるので、回路に操られているのではなく、主体が回路の仕組みをただ見守るということになります。

つまり回路の使用は選択肢の1つであり、もう自動反応回路ではなくなっているということです。

 

回路に機械的に操られて支配されるのではなく、回路から自由でいられるためには、自動反応回路の存在に気づくことだけで、自動反応回路の支配から離脱していることになります。それは、潜在意識は顕在意識に見られる、すなわち気づかれているだけで、その過剰一般化のプログラムは通用しないため、虚構であることが認識できます。

こうして、回路によって決まったアウトプットが生じますが、潜在意識の回路の働きを表層意識で認識しているので、もう自動性はなくなっています。 

 

Sabbe sakhārā aniccā    Dhammapada 20 Maggavaggo 277 法句経 英訳 the Path

すべてのsankhāraは崩壊する (生じては消え去る)

 

この一文は、時間と空間を産み出している回路もいつかは、消え去っていき、時空のないところに回帰し、そこからまた新たな展開がある、ことを暗示しています。

つまり、これまで知らぬ間に回路に操作されている状態から、回路によって言動している自分を認識できるようになります。

これがヴィパッサナーの目的であり、涅槃に至る道になります。

 

 

 

 

 

参考文献

The Art of Living 日本語訳 この世で生きる技     The Art of Living 英語 PDF  

The Art of Dying 日本語訳 この世から去る技    The Art of Dying 英語 PDF    

The manuals of Dhamma 論蔵 Ledi Sayadaw 日本語版      英語テキスト版 PDF

The Way to Ultimate Calm英語テキスト版   PDF

Manual of Vipassana Meditation U Ko Lay著 日本語訳

 

Sayagyi U Ba Khin Journal

The Clock of Vipassana has Struck

Pure Dhamma

 

アーナパーナ・サティAnāpānasatiの実践の仕方

アーナパーナ・サテanapanassatisutta MN118    出入息念118中部 日本語訳

呼吸瞑想  アーナパーナ瞑想法 Ānāpāna bhāvanā      

サマタ瞑想  性格で選ぶ上座部仏教のパーリ経典にある40種類の実践方法  

 

 

 

 

 

 

 

コラム  ヴィパッサナー瞑想のコツと段階別の目標

 

瞑想中に何度も心が激しく乱れる時には

肉体に生じている感覚の観察を始めます。そしてまた、心に激しい乱れが生じているという事実を受け入れます。

それだけです。

 

心の乱れの内容に深入りして探ろうとしてはいけません。

また、心の乱れを無理やり鎮めようとしてもいけません。

そうしてしまうと、自分の思考を客観的に観察するどころか、自分の思考に翻弄される羽目になります。

感覚を観察していると、自分の心が自動的に落ち着いていくことに気がつくはずです。

否定的感情を内側に抑圧するのでもなく、身体や言葉を使って外側に表現するのでもありません。

このように感覚の変化に気づき続ける訓練をすると、否定的感情が徐々に弱体化されます。

つまり、感覚に対して反応することなく、平静に観察をしている時、実践者は心を、その最深部において浄化しています。

このようにして深層にある回路を解体しない限り、心の表層部分ばかりを一時的に浄化するのみで、また心の乱れは再発します。

 

ブッダによるこれらの心のメカニズムの説明は、現代の心身論者の洞察を先取りしています。

たとえば、ドイツの心理学者ヴィルヘルム・ライヒは、「過去の条件づけは肉体に蓄積されている。そしてこの条件づけは、身体領域における活動によって解除されうる」と考えていました。また、スイスの心理学者カール・ユングは、「潜在意識は肉体の内に存在している」と考えていました。

ブッダとの共通点は、自動反応回路と肉体は連動している、という見解です。

相違点は、これらの心身論者たちは、「肉体に潜在意識(自動反応回路)がある」という見解ですが、ブッダは肉体と自動反応回路はリンクしているが、その自動反応回路は肉体にあるのではなく、メンタル界(viññāna dhātu)にあるという見解で、ここには違いがあります。

 

いわゆる「潜在意識」は、常に体の微細な感覚に対して反応しているのですが、顕在意識は、微細な感覚に何が起こっているのかを把握していません。この2つの間に大きな「壁」があるからです。

この(感覚に気づいているという)瞑想法は、顕在意識と潜在意識との間にある障壁を弱めたり、除去したりします。そうなると、自分自身に生じている体の微細な感覚と心の変化に気づいていられるようになれます。

具体的には、これまでの顕在意識が感じ取ることのなかった、体のあちこちに生じているかすかな感覚、すなわち潜在意識の変化を、感じ取れるようになります。

 

次に、関心の対象を感覚から心に換えて観察を続けて、心が勝手に反応をしないように訓練します。

これまで潜在意識は常に、体の感覚に対して渇望や嫌悪をもって反応し続けてきました。そしてそれが顕在意識に影響を与え続けています。つまり、心の表層から深層に至るまでの全構造が、深層にある自動反応回路の影響を受けるからです。

この回路を修正、弱体、除去することで、心の全体性が機能するように徐々になっていきます。

潜在意識の中にひそむ自動反応回路を根絶する技の発見と教えは人類史におけるブッダの大きな貢献です。

この技を使って回路をコントロールしない限り、体の感覚に対して潜在意識は常に反応し、その回路によって本人は操られる状態が続きます。

 

 

 

頭痛や悩みなどの肉体的・メンタル的不快さのメカニズム

プラスとマイナスの接触で生じる爆発

自分自身の内に蓄えてきた渇望、嫌悪、妄想という炭火(自動反応回路)は、いつもくすぶり続けています。その炭火の上には、自分でかぶせた分厚い灰の層があります。

「それ(自動反応回路)はまるで、灰に覆われた炭火のようなものである」と、ブッダは説いています。出典?

灰の層の下に、火は無いように思えます。しかし、不純物は層の下で燃え上がっている状態を維持しています。

換言すると、負の自動反応回路の発動はいつでもスタンバイ状態です。

 

この「内なる炎」と、熱を消滅させる清浄なるクールダウン」の接触によって爆発が生じます。

灼熱の中に水の塊を投げ込んだときに音を立てて水蒸気が生じ、内なる火山が噴火したかのようです。

深く根を張った不純物のいくらかの部分が、表面へと浮かび上がってきて、それがさまざまな肉体的・メンタル的不快さ(たとえば頭や背中や脚の痛み、あるいは恐怖や苛立ちや動揺など)として現れ出ます。

これらのトラブルだと思われるものの多くは、これらの2つの接触であるので、この瞑想法による修行がうまくいっている証となります。

心の手術(自動反応の解体)が始まると、奥底にひそむ膿が傷口からあふれ始めます。このプロセスは不快なものですが、これが、膿を取り出し、不純物を除去する唯一の方法です。

 

この方法を正しく修行し続けるならば、あらゆる困難は次第に減少していくでしょう。

サウナの熱した石に、コップの水をかけると、ジュッという音がして、水蒸気になります。ふたたび冷たい水をかけると、またジュッという音がします。温度が十分に下がればもう音を立てることはありません。同じように、「心の純粋な清浄さ」が、「自動反応回路」という炭火の上に注がれるとき、爆発が生まれます。その爆発が原因で、瞑想者は落ち着きを失います。

キリスト教ではこれらは「矢」というシンボルで表現されています。

これが「この瞑想法は、瞑想センターで経験を積んだ先生の指導のもとに習得するのがよい」とアドバイスされる理由の1つです。

私の場合は、体全体の感覚が1つになる経験をした後に、背中に寝返りが打てないほどの痛みを感じていました。

 

 

深層にある自動反応回路を消す方法   

sakhāra paccayā viññāa」のステップですべきこと

この世には常なるものがあり、楽しく、自分の力で望みを叶えることができる時空だと一般的には思われています。

しかし涅槃から見ると「この世」は非常性の性質であるaniccadikkhhaanattaが実際のリアリティです。

 

上記の3つの特性は、人間の領域だけに当てはまるのではありません。

たとえば、人間界以上の領域(欲界のdeva、色界と無色界のbrahma)では苦しみは比較的少なくなりますが、生命体のどの31領域でも心の永続的な安穏を得ることはできません。

この31領域とは輪廻全体を31に区分したもので、地獄がある欲界から無色界まで各領域に生命体がいます。

すべての生命体はこの非常性(anicca)に苦しみ、私たちは本当に無力(anatta)であることを実感します。

31領域の幻想的な幸福を求めるために、人為的なこと(特に、殺す、盗む)を行うと、次の転生では苦しみに満ちたより低い領域に閉じ込められることになります。

 

苦しみから離れるためには「この世の真の性質」を体感して、理解する必要があります。

avijjā(無明)の覆いは「本の知識」で追い払うことはできません。

真の性質を言語で知らされても、それを把握することはできません。

なぜならば、輪廻の中にあるマインドは、追跡不可能な原初(はじまり)から蓄積されてきた汚れ(自動反応回路)に覆われているので、その回路を通してでしか対象を認知できないからです。

 

修行者ができること、そして、する必要があることは、

sakhāra paccayā viññāa」のステップを止めるために

まずは強力なvacikāya abhisakhāraを停止することです。

これらのabhisakhāraが新しい強力なkamma viññaを生み出すからです。

 

常に、最初にmanō viññāaが発生し、その後にsankhāraを介してKamma viññāaは作成されるので、

この最初の段階で「気づく」ことで、次のkamma viññāaのステップにつながらないようにすることができます。

具体的には感覚に気づき続けることで、思考の連鎖から離れることができるので、心(javana citta)による物質エネルギーを生成することがなくなります。

もし思考の心路citta vithiに入ったときには、すぐに感覚に気づくことで、感覚の心路citta vithiに戻ることができ、sankhāraやそのアウトプットであるKamma viññāaを生じさせません。

 

その後に、そのmanō viññāaを習慣的に作成している「カルマの種 kamma bīja」を創出しないようにします。

また習慣性を持つabhisankhāraがあればまずはそれを弱体化させて、それから回路が解体する方向に上書きを繰り返します。 

 

具体的には、17ステップの心路citta vithiは処理が高速で止めることはできないので、低速処理の大脳新皮質を使用することで、これらのakusala-mūla PSサイクルの始動を停止させることは可能で、貪瞋痴に関わる意思・言語活動と身体活動を中止することができるようになります。

 

 

神経回路が低速であることを如何に利用するのか?

心路citta vithiには5感覚器官を介するものと、マインドを介するものがあります。

マインドの心路citta vithiだけを連続してさせていると、思考の連鎖の中から抜けることができなくなります。

つまり、マインドの心路citta vithiの連続を、思考の連鎖と呼びます。

 

 

心・身

器官

伝達媒体

スピード

回路

内容

 

メンタル

マインド

メンタル界

10億分の1秒  10−9 

マインドの心路

感覚の心路

体の神経回路を使用しないで連続できる

体の神経回路を使用する

 

フィジカル

神経回路

電気、生化学

100万分の1秒 106

神経回路

自律神経を介して感覚することができる

 

 

スピードの計算式や詳細は 心路citta vīthi  心の単位

 

たとえば、怒りが増幅するプロセスは「マインド門心路citta vithi」を繰り返し、そのjavanaエネルギーを使用し、それが思考だけではなく言動に表現されるようになります。

しかし、思考の連鎖の最中であっても、感覚を介する心路を割り込ませることで、その情報処理に神経回路(脳、脊髄、末梢神経)を使用せざるを得なくなります。

そのスピードは心路citta vithiよりも1000倍遅いので、その間は心路citta vithiは作業を待つことになり、連続性は途絶えることになります。

 

このように、怒りの増幅プロセスの最中に一度でも「感覚門心路citta vithi」を差し込むことができれば、そこでマインド門心路citta vithiの繰り返しは停止できます。

そしてその後に、「反応する意味の無さ」「怒りの原因の不確かさ」「怒りの回路を作った過剰一般化」を想い出すことができれば、怒りの回路は一挙に冷めてしまい、しばらくは怒ることが馬鹿らしく感じるようになります。

とは言っても、深層の回路を完全に弱体化するまでは、同様のインプットで回路が作動する可能性は継続します。

 

 

実践する理由   感覚門心路を意図的できるようになるため

メンタル門心路の連続性から抜け出すためには感覚門心路を使用することが必要となり、

これがSatipaṭṭhāna/Ānapāna/vipassana瞑想によって育成できることであり、瞑想を実践する理由です。

呼吸を整え、心を落ち着かせ、5感覚は自分自身ではないことを確認し、心に浮かんでくる想いにゆったりと寄り添い、それらを肯定するも否定することもなく、ただ自分は「そのように感じているのだな」ということを改めて知り、また瞑想対象に集中し、また想いが現れてきても、同様に静かに穏やかにしています。

このような実践を繰り返し続けていると、自分の感覚する対象が5感覚で把握できる粗雑な物質(dhātu)から、心で感覚する微細な物質エネルギー(bhūta)に移行していきます。

すると、これまで気づかなかった、dhātuの生まれては消えていく変化にもだんだんと気づくことができるようになっていきます。

 

そして、また瞑想に集中し、潜在意識から浮かび上がる過去の想いや未来の計画などが浮かんできては、同様に「そのようなことを想っているのだな」静かに穏やかにその事実を見守り、すぐにまた瞑想対象に関心を戻します。

反応せずに穏やかに見守る瞬間があれば、自動反応回路は弱体化します。

早く瞑想対象に戻る分だけ、次の妄想が浮かび上がり、そこでも反応せずに穏やかに見守ることができれば、その妄想の回路が弱体化します。

このような実践を続けていると、潜在意識から浮かび上がってくるものの強度と量が徐々に減少していきます。

それにしたがって、自分の感覚や想いの対象が過去や未来のことではなく、もっと微細なモノ、すなわち自分の性向を生み出している回路の集合体(gati)に移行していきます。

すると、これまで気づかなかった、bhūtaの生まれては消えていく変化にもだんだんと気づくことができるようになっていきます。

この段階ではもう呼吸はしているのかどうかわからないほどに小さく弱いものとなり、心は寂静の中にいます。

こうしてそれからは、gatiの生滅、そしてdhammāの気付きの段階へとだんだんと進みます。

 

どの段階でも必要なのが、静けさであり、クールさであり、安らかさであり、心の柔らかさと軽さです。

 

日常生活の中でも、穏やかな心境で自分の体、感覚、心で起きているプロセスにスポットライトを当てる練習を続けていると、それらの変化を非常に早い段階でつかまえる、すなわち気づくことができるようになります。

まずは自分の行動、次に言語・意思作用、そして自分の想いや潜在意識の変化や内容に素早く気付けるようになります。 

「衝動的な間違った行動」、たとえば怒りや憎悪がカタチになって手に負えなくなってしまう前に停止させるには、初期段階でこのプロセスが発動していくことに気づくことです。

具体的には、このプロセスをただ察知しただけで、プロセスは停止します。

なぜならば、このプロセスは気づかれないことによってエネルギー転換が続いていくので、マインドのエネルギーが対象に照射していることを察知していると、エネルギーが自動転換する機能が働かなくなるからです。

これが、Satipaṭṭhāna/Ānapānaはまず瞑想しやすい場所で練習して、それに慣れるようになれば、次は日常生活でも運用するのが、瞑想実践の目的になります。

 

 

 

感覚(vedanā)のステップですべきこと  縁起Paticca Samuppādaの因果関係  エネルギーのないタグ付け

根本悪縁起akusala-mūlaPSを中断するには、対象に対してのエネルギー照射を中止する必要があり、そのためには、「気づき」の力を育成して強化し、受vedanāのステップで近・遠ではなく中立(捨upekkhā)のタグをつける練習をします。

といっても、この中立のタグへの付け替えはプロセスであり、最終的なゴールではありません。

 

そしてそれができずに近・遠(渇望・嫌悪)のタグが付いた場合でも、エネルギーを照射しないためには、

 

呼吸を静かにする、

血圧を下げる、

心を穏やかにする、

関心を外側から内側へ向ける、

対象にスポットライトを当てる頻度を減らす、

関心の「温度」を下げる、

対象への関心を粗大な箇所から微細な箇所にする、

自分の思考回路を分析し、そのように断じた根拠のあやふやさや過剰一般化されたものであることを知る、

 

こうした内観を通じて自分の誤謬を知ることができます。

 

また、この次の段階を目指すところは、感覚する対象をこれまで使っていたsaññāと結びつけるのではなく、aniccaの感覚と結びつけることです。

具体的にはその感覚が生じては消え去るプロセスを実感することで、感覚に自動的に付加するタグが日常の近・遠・中立ではなく、nirāmisaと呼ばれるanicca saññā後の近・遠・中立のタグに変化させることができます。これらのタグにはエネルギーが付加していないので、渇愛taとつながることがなくなります。

感覚と渇愛taが結びつかなくなると、輪廻の輪の回転を止めることができます。

 

中立のタグは真の中立ではなく、対象に対しての無関心や、自分で作り上げた妄想によって中立にしているだけなので、将来的にはエネルギーを生じさせるタグなので、中立といえども最終的に目指すものではありません。

 

熟睡している時間以外、すなわち意識のある時間では、感覚の変化に気づいている習慣を身につけると、その後は時間とともに実践者のgati(性向・方向性・自動反応アプリケーション・習慣)はより全体性と関わるように変化し、結果として「自他に損害を与える愚かなこと」をやめるようになります。

その後、私たちのマインドは清くなる(自動反応回路が解体する)にしたがって、buddha Dhamma(覚醒者の宇宙法則、すなわち仏法)をより深く理解できるようになります。

 

 

 

vedanā paccaya tanhāのステップですべきこと  

ここが縁起paticcasamuppādaの順向Anulomaを逆向patilomaにさせる箇所です。

 

vedana-nirodha tnaha-nirodho;

対象への付着tanhāを止めるためには、vedanāでこれまでの習慣であるタグを付加することを止めなければなりません。

taとは渇望と翻訳されていますが、パーリ語の字源は、ta場所、は付着なので、「対象に付着する」ことを意味します。

 

移り変わっていくものを常にあると妄想し、それに付着し続けようとするのがtaです。そのta自体が苦しみの原因なので、伝統的解決法はそのような対象と出会わないように回避することでした。

しかし、それでは、原因を除去していないので根源的解決法ではありません。

ポイントは心地よさを感じる時、それがtaになっていく過程を体験して、その危険性を自覚することです。

そして、taはエネルギーが堆積したbhavaとなり、その後は実現化する(誕生)、ことを理解することです。

 

常にvedanāに気づいていることで、tanhāを生じさせる自動反応回路を作成しないようになります。

vedanā を観察して、taによって、苦が生じることを知り、どの瞬間に苦になるのなのか実感し、分析します。

感覚にエネルギーが付加されていることを気づき続ける(sampajāno)者は、感覚の変化に関心を保持することができ、感覚が生じては消え去るのを気づき続けます。

Sampajāna,(adj.) [saエネルギー + pajāna知る      エネルギーがあるものを明快に知る

pajānāti[pa完全に +ñā知る + nā] knows clearly        明快に知る

 

感覚に反応するのではなく、ただ静穏に感覚の変化を観察し、理解することを学んでいきます。 

「この感覚もまた変化、すなわち生じては消え去る」ことを実感します。

これまでは、感覚vedanāに近・遠・中立というエネルギーをもつタグを自動的に付加させてきましたが、「感覚は生じては消え去るものとその度に察知」できるようになると、nirāmisaというエネルギーのないタグに代わります。

このタグに付け直すことができると、次回からは潜在意識のレベルで、あらゆる感覚は生じては消えさるものなので、感覚できるものは努力して得るほどの渇望や嫌悪の対象ではないことがわかり、対象に付着することがなくなります。

つまり、エネルギーが付着taすることがなくなるので、苦しみの輪の回転は止まり、逆方向の解脱へとに回り始めます。

 

古いsankhāraの浮上

新しいsakhāraを生み出さない瞬間があれば、古いsakhāraのひとつがマインドの表面に浮かび上がり、それに伴って身体の中で新たな感覚が始まります。そこで静穏を保てば、その感覚も過ぎ去り、代わりにまた別の古いsankhāraがマインドに現れます。

身体感覚に対して静穏を保ち続けることで、古いsakhāraは次々と生じては消えていきます。

感覚に自動的に反応することをし続けているとsakhāraを増やし、未来における不幸を増やすことになります。しかし、智慧を発達させ、感覚に反応しなければ、最終的には、sakhāraを根絶、すなわち不幸を根絶することができる、というのがブッダの発見です。出典?

 

 

 

「歪んだsaññā」の認識と修正

クラシック音楽を好む人もいれば、そのような音楽は退屈すぎてヘビーメタルを好む人もいます。こうした好みは音楽自体に根ざしているのではなく、各自の心に根ざしているものです。

心あるものは生まれ持ったgatiに基づいて、外界の光景、音、味などに、渇望や嫌悪のタグを自動的に付着させて、心は「幻影」を作り出します。

gatiとは各自の性向を示す自動反応回路の集合体のことで、これによって癖や性格や習慣が生じます。

 

この幻影をブッダは「蜃気楼」と呼びました。

Pheapiṇḍūpama Sutta (SN 22.95)  SN22.95. 泡沫の団塊の経

 

ここでは「歪んだsaññā」と呼びますが、これこそが外的刺激を魅力的、反発的、あるいは中立(妄想)的というカテゴリーで経験viññāaする原因となります。

実際には、外的感覚入力には内在する(組み込まれた)魅力的または反発的な性質はありません。

繰り返しになりますが、この単純な事実のメカニズムを理解し、心に深く刻み込めば、感覚に自動反応することが大きく減少します。

各自の観念や社会の概念はTPOによって一時的に定義されたものであるので、それを絶対のものとして反応する必然性がないことを理解するからです。

 

同様に、存在しない快い光景、音、味、匂いを喚起する「トリック」を完全に理解できれば、私たちはもはやその外的原因を渇望しなくなります。

そこには体の触感に関連するsukha(好き)とdukha(嫌い)という「部分的実体」しかありません。その他はどれも一時的なものでしかありません。

そして、これらも長期的には苦しみの感覚dukha vedanāであることが理解する過程で、克服することになります。

また、「密度の高い肉体」を持つ世界への輪廻を避けることによっても、同様の「苦しみの触感」から解放されます。人間界よりも微細な領域(第631領域)では、これらの「sukhadukha vedanā」は存在しないからです。

 

 

「歪んだsaññā」に対するブッダの回答

Kalahavivāda Sutta (Snp 4.11)、ブッダは紛争や論争などの争いの起源は「歪んだsaññā」であることを説いています。

 

最初の質問

「なぜ紛争や論争があるのでしょうか?それらは嘆き、悲しみ、吝嗇(macchariya)、利己主義(māna)、傲慢/自尊心(ati(過度)māna)、中傷 (pesuā vāca) それらはどのようにして生じるのでしょうか?

争いや論争は、何が好きか(piya)と何が嫌いか(appiya)に基づいて起こります。人が特定のものをpiyaと、特定のものをappiyaと認識すると、より多くのpiyaを得てappiyaを排除しようとして争います。その結果、嘆き(parideva)、悲しみ(soka)、吝嗇(macchariya)、利己主義(māna)、傲慢・自尊心(atimāna)、誹謗・中傷(pesuā vāca)が生じ、最終的には国家間の争いや戦争までつながります。」

 

注:“appiyehi sampayogo dukkho, piyehi vippayogo dukkho”」はDhammacakkappavattana Sutta (SN 56.11)に記されています。

注:「paigha」(怒り/嫌悪)はkāma guaの反発に基づいて生じます。ある人が好む/渇望するものを、別の人は憎むことがあります。好き/嫌いは外的な対象にあるのではなく、心の中にあるからです。

 

2の質問

「では、好むもの(piya)と嫌うもの(appiya)は(心の中の)どこから生じるのでしょうか?貪欲(lobha)、渇愛(Āsā)、そしてnicca(常在)の性質(niṭṭ基礎)の認識の原因は何でしょうか?どうすれば人(narassa)はそれら(samparāyāya)から解放されるのでしょうか?」

 

“Chandānidānāni piyāni loke, Ye cāpi lobhā vicaranti loke; Āsā ca niṭṭhā ca itonidānā, Ye samparāyāya narassa honti”

「(心の中に)好むもの(piya)も嫌いなもの(appiya)も、その根源(nidāna)は欲望(Chanda)にあり、貪欲、渇愛(Āsā)、そしてnicca の性質 (niṭṭhā)の認識も、同じ原因(nidāna)です。欲望(Chanda)が取り除かれるとき、人は自由になれます。」

注:ここでの「Chanda」は特に「kāmaccandha」を指します。

 

3の質問

「欲望の原因(Chanda)とは何でしょうか?、人はどのようにして欲や善についての結論(Vinicchaya)に至るのでしょうか? なぜ激しい怒り(Kodha)を抱き、嘘や噂話(mosavajjañca kathakathā)をするのでしょうか? 原因を説明してください。」

 

「この世で快いもの(Sāta)と望ましくないもの(asāta)は、欲望(Chanda)に基づいて心の中だけで生じます。

(心によって定義されたpiyaappiyaで)作り出されたrupa(イメージ)によって、この世の物事についての誤った結論に至ります。」

 

「快いもの(Sāta)と望ましくないもの(asāta)が心に生じるため」好むもの(piya rupa)も嫌いなもの(appiya rupa)、極度の怒り (Kodho)、間違った言動 (mosa)、そして噂話 (Kathakathī) が結果として生じます。ブッダは原因と結果を完全に理解した上で、これらの根源を説いています。(Ñatvā pavuttā samaena dhammā)。

 

4の質問

「心にはどのようにして快(Sāta)と不快(asāta)が生じるのでしょうか(Sāta asātañca kutonidānā?どのようにしてそれを止めることができるのでしょうか(Kismi asante na bhavanti hete)。なぜ人は存在(bhava)と非存在(vibhava)について異なる考え(yametamattha)を持つのでしょうか?それらの根本原因(nidāna)を教えてください。

 

「快(Sāta)と不快(asāta)は、samphasaに基づく心に生じます。samphasaがなければ、sātaasātaは心に生じません。また、samphasaがなければ、何かが存在するかどうか(つまり、物事が存在するかどうか)について疑問を持つことはありません。

(物事は適切な原因と条件が存在する場合にのみ存在するという意味で、「これは(常に)存在する」または「これは存在しない」と断言することはできません。)

だからこそ、samphassa(「sa」+「phassa」、つまり「心の汚れとの接触」)は、物事が存在する根本原因(nidāna)です。

ここでいう心の汚れとは、エネルギーを生じさせるもの、sankhāra、歪んだsaññāvedanāの通常のタグ機能、これらによって生じる経験viññānaの誤謬、を意味します

 

5 番目の質問

「心にsamphassaが生じる原因 は何ですか? 何が把握されるのでしょうか? 心の中に何(kutopahūtā)が存在すると、samphassa が生じるのでしょうか? 快楽(sāta)を切望し、好ましくないもの(asāta)に対して怒りを生み出す「私」(mamattamatthi)という観念は、どうすれば消えるのでしょうか? phassa(単なる感覚接触)はどのようにして samphasa(汚れや「sa」が混じった接触、つまり sa phassa)になるのでしょうか?また、どうすればそれを止めることができるのでしょうか(Kismi vibhūte)?

 

samphassaは、心がicchā/taによってnāmarupaを結びつけたときに生じます(すなわち、心はnāmarupaを結びつけ、渇愛とともに心にnāmarupaを生み出します)」 Icchāが根源(Icchānidānāni)であり、執着(pariggahāni)を引き起こします。もしicchā/taが心になければ、その心は「私」という誤った観念を失っています。 もし心が「心によって作られたrupa」を生成しなければ、samphassaは存在しませんRūpe vibhūte na phusanti phassā)。

vibhūtif[vi-bhavati] 存在させない   phusi[aorof phusati] touched reached attained

 

第六の質問

「心はどのようにすれば「心が作り出したrupa」(Katha sametassa vibhoti rūpa)を生じさせないのでしょうか?  sukhadukkhasamphasaと「心が作り出したrupa」につながるのであれば、sukha/dukkha(これには「samphassa-jā-vedanā」も含まれます)が心に生じるのをどのようにして止めることができるのでしょうか(Sukha dukhañcāpi katha vibhoti)?  どのようにそれが起こり得るのかを教えてください。それが重要な点だと思います。」

 

「歪んだsaññā」がkāma rāgaの根本原因(nidāna)であるように、それはまた「paigha」(怒り/嫌悪)の根本原因(nidāna)でもあり、したがって、あらゆる争い、戦争、論争の根本原因でもあります。

 

 

7番目の質問

「あなたは私のすべての質問に答えてくれましたが、もう1つ質問があります。賢明な人々 (paṇḍitā) は、この教えが最高の純粋さにつながると言っています。他に何か知る必要はありますか?

 

「これこそがまさに到達すべき最高の清浄であり、すなわち「歪んだ saññā」がどのように生じるのかを理解することです。しかし、この「この生において到達すべき最高の清浄」について、もう一つ付け加えるべきことがあります。それはAnupādisesa Nibbāna Anupādisese kusalā vadānā)です。

 

Anupādisesa Nibbānaに達する人々がいます。彼らは肉体が死ぬ前でさえ、完全な涅槃(Anupādisesa Nibbāna)を体験することができます。彼らは涅槃を理解し、輪廻から解放されており、また争いに巻き込まれません。彼らは存在と非存在について疑いを抱きません。つまり、存在は実在すること(そして、存在は転生プロセスで多くの苦しみに満たされること)、そしてその発生を止めることが可能であることを覚っています。」

 

 

追加コメント

1) ブッダは、Paññāvimutti(涅槃)とUbhatovimutti(不滅)という2種類の阿羅漢の心境を説きました。

Paññāvimuttiの阿羅漢の心境は、(例えば、Bahiya尊者、Santati大臣、Suddhodana王のように)jhānaを1つも経ることなく、すなわち非聖(世俗)もしくは聖なるjhānaから始めることなく到達することができます。

 

一方、Ubhatovimutti の阿羅漢は「双方向に解放されている」、すなわち、彼らはPaññāvimuttiであり、またCetovimuttiでもあります。つまり、すべてのAriya jhānāssamāpattiを経て道を進んだことを意味します。したがって、Ubhatovimutti 阿羅漢は、この世でさえ「完全な涅槃」を体験できる「nirodha samāpatti」に入ることができます。一度に最大7日間の体験ができます。

両方の道を経て涅槃に達した阿羅漢(Ubhatovimutti 阿羅漢)だけが、生きながらにして「完全な涅槃体験」(Anupādisesa Nibbāna)を体験することができます。

 

2)一般的に信じられているのは、阿羅漢の肉体が死ぬことによってのみ、阿羅漢の涅槃が実現可能であるということです。しかし、上記の節句は、Ubhatovimutti阿羅漢は生きている間でもAnupādisesa Nibbāna(完全なNibbāna)を体験できることを示しています。

そのことはNibbānadhātu Sutta (Iti 44)でも確認できます。

 

3)経典の要約:

Kalahavivāda suttaは、「歪んだsaññā」の概念を理解することが不可欠であると指摘しています。「歪んだsaññā」は「kāma rāga」と「paigha」(怒り/嫌悪)に繋がります。

例えば、「砂糖の甘さ」や「女性の美しさや男性のハンサムさ」などは、私たちの生物学的身体に組み込まれた「歪んだsaññā」が人間の心に作り出した「幻影」です。それらはvedanāではなく、「作り出されたsaññā」です。

人間界と動物界の生物学的身体は、Paticca Samuppādaに基づいて生じます。「Pati+icca」は「Sama+uppāda」につながり、つまり「根本原因に意図的に執着すること」がそれに対応する結果である「誕生」につながります

 

 

 

Aniccaの性質― 五蘊との繋がり

嫌な感覚体験や憂鬱な状況を克服する唯一の選択肢は、より多くの感覚的快楽を求めることではないか、と凡人は考える傾向があります。

 

しかし、ブッダはこれまで知られていなかった選択肢を説いています。

私たちの汚れた心の底には、「苦しみのない清らかな心」があります。私たちが世俗的な快楽や感覚的な快楽を求めると、その行為によって「清らかな心」はさらに覆い隠されてしまいます。

したがって、感覚的な快楽を求めることは砂の城を作るように非生産的であるとブッダは結論付けています。

ブッダはSatta Sutta (SN 23.2)の中でこのような比喩で説明しています。

子供たちは砂の城作りを楽しんでいても、成長するにつれてそれが非生産的であることに気づきます。そして、自発的にそれを諦め、勉強や特定の職業の習得といった生産的な活動に集中するようにします。砂の城作りは「aniccaの性質」、つまり非生産的です。

感覚的な快楽を追い求めることは非生産的だけではなく、清らかな心」から遠ざかってしまう危険性をブッダは説きました。

 

ブッダは感覚体験を五蘊(pañcakkhandha)で説明しました。

感覚体験への執着はpañcakkhandhaへの渇望(upādāna)と同じであり、感覚的な快楽への渇望は pañcupādānakkhandhaと同じであると説きました。

 

釈尊の風 五蘊篇    心のメカニズム  人類史の発見

認識システムと五蘊 そこからの離脱法

色rūpaと色蘊rūpakkhandha

受vedanāと受蘊vedanākkhandha

想saññāと想蘊saññākkhandha

行sankhāraと行蘊sankhārakkhandha

識viññānaと識蘊viññānakkhandha

五蘊の罠

 

 

 

ヴィパッサナーの全身の感覚を観察するテクニックが「スウィーピング(掃くように感じ取っていくこと)」

一定の段階に到達して、体の凝固性がすべて溶けている状態です。物質的肉体の、1つの真実は凝固性で、固体のように感じられます。しかし、体を客観的に観察し続けるにつれて、この凝固性が溶け始め、体構造の全体が、生起と消滅を繰り返す微粒子の集まりにすぎない、というもう1つの真実を体験します。

つまり肉体のどこにも完全に阻害物が一切存在していない時です。

ブッダはこう説いています。

「この瞑想法によって、生徒は一息のうちに全身を感じとる方法を身につける。息を吸い込みながら、全身を感じとる。息を吐きながら、全身を感じ取るのである」  

Mahā-Satipaṭṭhāna Suttanta

 

こういったことが起こるのは、肉体が溶けて、凝固性がすべて消え去ったと感じる時だけです。そういう時には、息を吐きながら、頭から足先までが泡に包まれるような感覚がします。息を吸いながら、頭から足先までが一体感のある感覚がします。

肉体が溶解し、「心の中身」も溶解した段階です。心の中に強烈な感情がある時には、スウィーピングは不可能です。なぜなら強い感情は、肉体では凝固した感覚として現れるからです。ですから感覚が自由に流れるように感じるスウィーピングはフリーフローとも呼ばれます。

心の領域で感情が溶け去り、物質の領域で肉体の凝固性が溶け去った時、そこには振動の集まりだけが残ります。体の内を動くエネルギーの集まりだけが存在しています。

 

肉体は、単なる振動の集まりにすぎません。しかし、実践を初めたばかりのときは感覚に凝固性を感じるので、全身に振動の流れが感じられることはありません。なぜなら、痛み、圧力、重さといた阻害物が、体のあちこちにあるからです。

そのような場合にはスウィーピングをするのではなく、一部分ずつ肉体の感覚を観察します。すると、少しずつ凝固性が柔和していき、完全な「溶解」の段階、全身が単なる振動に感じられる段階に至ります。その状態になると、頭から足先まで、そして足先から頭まで、容易に感覚の流れを感じます。

 

頭から足先、足先から頭へと注意を動かしてスウィーピングをしていると、心の汚濁(sankhāraと呼ばれる過去に作った心の自動反応回路)が揺さぶられて、表層部へと浮き上がってきます。特定のsankhāraは、肉体の粗大な感覚として現れます。この粗大な体の感覚に対して、ただただ観察することを続けていると、やがてはその感覚もまた溶け去り、ふたたび「「自由な流れ」(free flow)」が感じられるようになります。

微細な感覚と潜在意識はリンクしているので、自由な流れを感じている時は潜在意識を感じていることと同義です。

潜在意識にあった感情の回路などのsankhāraが消え去ることにより、自由な流れを感じることができるようになります。しかしこの自由な流れを感じるのは一時的なもので表層のsankhāraが削除されると、次のsankhāraが浮かび上がってくるので、自由な流れは止まり、また凝固性を感じるようになります。

私の場合は背中に寝返りが打てないほど激しい痛みを感じました。多いときには同時に7箇所の痛みがあり、座っているのも辛さを感じました。

 

心の活動エネルギー、しいては輪廻をさまようエネルギーの源は、自動反応回路によって得ることができるエネルギーです。受vedanāと想saññāと行sankhāraにその回路があります。

それぞれの自動反応回路を解除する方法がありますが、この中で一番強い影響力があるのはsankhāraなので、まずはsankhāraの弱体化から始めます。この方法が何度も繰り返して説明している、「心を安穏とさせた、ただの観察」です。

これで表層にあるsankhāraは弱体化、時には解体しますが、すると、深層にあったこれまでにあまり使われていなかったsankhāraが表層に浮かび上がってきます。

回路が使われることがエネルギー源となり、心の維持、しいては輪廻の維持になります。

 

この瞑想法の目的は、振動の「自由な流れ」を獲得することではありません。「自由な流れ」といっても、それは波動の流れ、すなわちエネルギーの流れなので、段階的体験のワンステップにすぎません。

この瞑想法の目的は、現れ出ているものが何であれ、それを平静に受け入れることです。そのようにして心の条件づけを一層また一層と取り除いていき、それとともにみずからの苦悩を取り除いていきます。

 

 

 

中立avyākata PSの特徴

感覚器官を介するあらゆる出来事は、因果関係kammā vipākaがもたらす中立avyākata PSが発動することから始まります。

このPS(縁起Paticca Samuppāda)は、私たちがただ見て、聞いて、嗅いで、味わい、そこから得られるデータで、プロセスが進行します。 

しかし、私たちが経験するこのような感覚(vēdana)とそれに対する反応は、人によって異なり同じではありません。

たとえば、同じ梅干しをみても、食べたことがある人は唾液が出る可能性がありますが、まだ食べたことのない人は何も反応しないように、同じ感覚入力であったとしても、各自に生成されているvēdanasankhāraの回路は人によって異なります。

 

以前に経験していないことも、まずはじめは中立の縁起ではじまることが一般的です。

なぜならば新しいデータを過去のデータ(saññā)と照合しても、その情報に対応するものがないからです。

ただ未知のことと恐怖を結びつけた回路を強く太く作成している人は嫌悪の根本悪PSからはじまります。

 

AvyākataPSは一度開始すると、停止させることはできず、阿羅漢でさえこの因果関係(kammāvipāka)を避けることはできません。

 

kamma的中立のAvyākataPSabhisakhāraを生成しません。生成するのはシンプルなmanō sakhāraだけなので、kammaエネルギーは生成されませんが、因果関係kammā vipākaによる見たものや聞いたものなどに応じて、そこに関心が付着(ta)すると、「根本原因型のkammā生成PSサ​​イクル」が新しく開始されます。

このPSjavana cittakammaエネルギーを生成します。

心路citta vīthi  心の単位

 

最初のavyākata citta vīthi1億分の1秒以内に消えさるもの(1つのcitta10億分の1秒以下)なので誰も止めることはできませんが、

微細な感覚の変化に気づければ、その後に発動を繰り返すakusala-mūlaPSプロセスを停止することは可能です。

 

たとえば、魅力的な対象を見ると、lōbha(貪欲)思考(apunn ābhi sankhāra)が生成される場合があります。

また嫌な対象を見ると、憎しみに満ちた考え(apunn ābhi sankhāra)を生み出すかもしれません。

道に迷っている人見ると、道案内をするなどの価値のある行為につながる可能性のあるalōbha思考(punn ābhi sankhāra)を生成することもあります。

このようなすべての言動はavyākata PSサイクルによって開始されます。

しかし、すべてのavyākata PSサイクルが、新しいkammāを生成する「kammā生成」PSサイクルにつながるわけではありません。

 

たとえば、デパートで展示されている品物を見ていることを想定してみます。

多くの人はただひと目それを見ただけで、それ以上のことは考えません。

しかし、ある品物に関心がある人は、それをもう一度見ることになるでしょう。

また、その品物をどうしても欲しいが、その時にお金を持っていない場合には、盗むことさえ考える可能性もあります。

このように同じ場所、同じ対象物であっても、各自の性向・方向性・くせ・こだわり・回路(gati)によって、各自の対象に対する執着心は違い、発動するPSサイクルも違ってきます。

 

これらを理解し、自分の体感に気づいている機会を増やすことで、自分の関心は対象の物質だけではなく、自分の内側の物質エネルギーによる感覚の変化、そして自分の自動反応回路(癖、こだわり、性向)と深く拡がり、そこにある結び目を解くことが実践の目的です。

その結果、苦しみ(回路に操られてエネルギーを蓄積すること)から徐々に離脱することになります。

 

 

 

中立PSから根本PSへ移行するメカニズム

知る機能があるもの(心あるもの、有情、衆生、satta)が認識するプロセスは、3つのステップがあります。

1 見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触感の接触したときの振動エネルギー、そして「意識したもの」すなわち心に浮かんでいる振動エネルギーがあります。

これらは「ただ起こる」のではなく、ある理由(原因)があったために起こったものです。

具体的には、林の中を散歩しているときに出会う風景、繁華街に行った時に出会う店々、図書館に行った時に出会う本の内容や連想、ふとした時に浮かぶイメージの数々、夢の中で出会うさまざま出来事などです。

それらの原因はkamma vipākaであり、そこにはまだ(非貪・非瞋・非痴、貪・瞋・痴が原因となる)思考が関わることもないので、kammaエネルギーはなく「結果としての意思」vipāka cittaすなわち「善と悪のどちらでもない中立の意思」avyākata cittaと呼ばれます。 

これらは心路citta vithiの後半部にあるjavana cittaが関わっていないことを意味しています。 

 

2 次に、各自が持っているāsava渇望、anusaya煩悩、gati性向に基づいて、各自のマインドがステップ1の結果となる信号に自動的にスポットライトを当て、次のPSプロセスが作動します。

この感覚の対象を三蔵ではarammanaと呼んでいます。

 

このPSサイクルは心路citta vithiと呼ばれる認識回路の中で発生します。10億分の1秒の単位のcitta(知る機能)連なりなので、その初期発生を意志によって制御することはできません。

認識回路でmanō sakhāraは自動的に発生しますが、javana cittaは発生しないので、まだ中立PSサイクルの範囲内です。このmanō sakhāra自体にも一時的エネルギーはありますが、kammaエネルギーを生成しませんし、その一時的エネルギーは瞬時に消失します。ただ、manō sakhāraは潜在意識で発生しているので通常の表層意識では認識ができません。

 

3 もしその対象(arammana)に愛着や嫌悪を抱くと、その感覚入力について意識的に考えること(vacī sakhāraの生成)によって、これまでに体験した色蘊のイメージ、タグの付いている受蘊、そして一般化された想蘊の概念を素材として、自動反応回路を組み立てて、次回からはパターン認識と反応ができるようになります。

認識システムと五蘊 そこからの離脱法

 

具体的には言語化、意思化、思考化、法則化、思想化、感情化、感覚化します。これらの共通点は自分が作成したパターンに対象を当てはめて認識することです。

このようなパターン回路による認識は、アウトプットは1つに特定されているので、認識のたびにそこにエネルギーが一点集中して、新しいkammaエネルギーの生成を開始します。

その新しいkammaエネルギーは、言語活動(vacī sakhāra表層意識化)と身体的行動(kāya sakhāra条件反射化)を生成し始めることで、より強化されます。

 

これらの新しいkammaの蓄積する3つのステップはすべて、私たちが表層意識で認識する前に開始されています。心路citta vithiが非常に高速であり、すべてがたった1つの心路cittavīthi内で発生するために察知できません。

しかし、気を付ければ、数秒以内にそのような「マインドの中で動き回っているもの」を「察知」して、apuñña(非福の) abhi (強い)sakhāraだけを止めることは可能です。

止めるのは不道徳な自動反応アプリケーションだけであって、puñña(福なる)abhi sakhāraすなわち道徳的な思考は止める必要はありません。

 

そのためには、そのような感覚入力に対して反射的に行っている「自動反応」を注意深く監視する必要があります。

これがいわゆる「マインドフルネス」です。フルネスとは、メンタル入力と感覚入力に対するマインドの変化を分析する表層意識だけではなく、感覚入力に対して自動反応する様子を把握し、さらにはこの潜在意識で行われている自動反応回路の将来的除去する機能も含まれます。これがマインド全体の機能を理解して、それら全部に対応しているのがフルネスの本来の意味です。

練習をすれば、すぐにマインドの変化を「察知」して、悪い考えの芽生え/言語活動/行動を止めることができるようになります。

この練習を続ければ、時間の経過とともに、自動反応回路であるsakhāraが弱体化し、本人のgati(自動反応回路の束)はより良く変化し、「悪いこと」への愛着は自然の法則(dhammaダンマ)に従って消え去っていきます。

この世の自然法則は、使うものは発達し、使わないものは退化するからです。

 

まず「悪い習慣」(喫煙、薬物、過食など)でマインドフルネスの効果を各自がまず試し、その効果を確認してから、他のdasa akusala10の悪習)に適用してみることで、このようなメカニズムが各自のメンタル界にあることが確認できます。

 

 

 

 

依存症に対するアプローチ

ヴィパッサナーとは心を浄化する技法です。自己観察と内省によって、心を条件づけている汚濁を取り除いてゆく技法です。これは、渇望や嫌悪をもって常に盲目的に反応し続けている「心」の習性を変えるための取り組みです。これは努力を要する作業です。この努力は、体験的レベルにおけるものです

 

他者を傷つけたり、自分の心の汚濁を増やしたりする言動を続けながら、自分の心を汚濁から解放する修行をおこなうことは不可能です。だからこそ、第1ステップの道徳律は必要不可欠なのです。

 

2ステップは、聞き分けのない心をいくらかなりとも統御できるようになることです。そのための方法として、通常の自然な呼吸に注意を集中させます(プラーナーヤーマをする時のような他の呼吸法のように、呼吸をコントロールしたり調節したりはしません)。この修行によって、心は落ち着き、集中が増します。

この第2ステップでは、「非分析的なあり方で、注意(つまりは気づき)を集中させる、意識的な試み」や、「とりとめのない物思いや深い思索の内容に囚われることなくあり続ける、意識的な試み」によって、非特異性の生理的弛緩反応による短期的な改善をもたらし、依存からの脱却をはかります。

 

次に、第3ステップに進むことが可能となります。

3ステップは、心の汚濁を取り去って心を浄化するために、自分自身の内において常に変化し続けている「感覚」を、システマティックかつ冷静に観察して、自分自身の現実を体感することです。これが、自己観察と呼ばれる、自分自身の本質に対する洞察と内省による自己浄化プロセスとなっています。

心のもっとも根元の部分において「渇望」とその裏返し(すなわち「嫌悪」)という心の汚濁に働きかけます。

 

心は反応することが常態化しています。つまり、心は、自分自身への気づきをともなわない「刺激に対する自動反応」の原理に絶えず従い続けています。そのような心が、「自分自身への気づきに満ち、前向きな感情をともなう創造的な心」へと置き換えられるのを体験します。その結果、人生のあらゆる場面において、心の平静さ(心のバランス)が増します。

心のバランスとは何でしょうか?

心が安穏としている状態を維持するのを第一とし、sankhāraを徐々に解体していく、この2つの間のバランスです。

 

メンタル分析学者、行動心理学者、認知心理学者のすべてが、「感情」の心理的な構成要素を認めています。しかし「感覚」という物理的な構成要素は研究対象の範疇にまだなっていません。

 

あらゆる感情は感覚をともないます。そして、感覚のひとつひとつは、生化学反応に起因した産物の瞬間的な実体です。したがって、感情は、体の感覚という非抽象的な媒体を通じて観察することが可能です。

すなわち、心を観察するにあたっては、物理的感覚という道具が用いられます。

 

心の浄化の土台にあるのは、「物理的な体の感覚のレベルで心の汚濁に対応する」ことです。肉体に生じる感覚への気づきが、潜在意識の持つ基本的な機能であることは「フリーフロー」や日常生活で怒りや憎しみがある時に感覚に変化があることに気づけるようになると、この感情と感覚の関連性を体験することで認識されます。

 

 

ヴィパッサナーでは、何ものへの依存もありません。いかなる道具、薬物、個人(セラピスト、教師、グル)、集団に対しても依存しません。

「あなた自身があなたの主人であり、あなたの未来を作るのはあなた自身」だからです。

「体の感覚を感じ取る」という体験的レベルにおける、体験的洞察がヴィパッサナーです。 

真理を自分自身で感得すると、心の習性が自動的に変化します。

真理とは、メンタルと物質に関する自然法則です。

 

「物理学のすべての法則は、自分の外界においても内側においても同じである」ことを観察します。

酒やドラッグにかかわらず、あらゆる依存症の大本は対象への付着(渇愛taṇhā)であることに気づいていきます。そして対象とは各自の感覚です。

対象に付着しようとし続ける心の癖です。

「無いものねだり(できないこと)を飽くことのなく続けてしまう」渇望のことです。このことはまた、同じくらいに強い不満足を抱えているということを暗に示しています。今あるもの/現状に対する不満足です。この満たされぬ思いとは嫌悪のことです。

これららの根元にはvedanāの機能があります。生命体が取る行動のすべては、内なる体の感覚に対する反応の結果です。その反応が心によるものであれ、言葉によるものであれ、身体によるものであれ、体の感覚に対する反応であり、評価であり、区分であることには変わりありません。

そして、あらゆる反応は、渇望(「欲しい」「好きだ」)か、嫌悪(「欲しくない」「好きではない」)か妄想のいずれかのグループに属します。渇望と嫌悪は、同じコインの表と裏です。このタグのついた渇望と嫌悪は、執着をもたらし、執着は不幸だけをもたらします。

「いかなる苦悩であれ、それが生じる原因は『反応』である。すべての反応が存在しなくなれば、もはや苦悩は生まれない」

 

渇望には、「感覚的快楽を追い求めてしまう習性」への著しい執着があります。依存者がドラッグを摂取するのは、ドラッグが当人の内に生み出す気持ち良い感覚を体験したいからです。その快感には「現状の苦しみを忘れることができる」という逃避も含まれています。

ドラッグを摂取すれば依存症を強めてしまうことを分かってはいても、一時的な「忘却」を求めてしまうのです。

さらに根本をたどれば、依存者は「渇望している状態」そのものをずっと維持することを求めています。なぜなら、渇望している時には肉体に気持ち良い感覚が生み出されるからです。彼らはその快感を長続きさせたいのです。したがって、あらゆる依存症の根本には、当人の「内なる体の感覚」への依存があるわけです。

心地よい感覚に対する渇望と不快な感覚に対する嫌悪の忘却を求め、打ち砕くことのできない習性となっていきます。依存症が常習すると次第に耐性が強まっていくので、望んだ効果を得るためにはさらに多くの依存が必要となります。

渇望と嫌悪が激しくなればなるほど、もたらす不幸は大きくなります。なぜなら、その渇望と嫌悪のために、本人は一瞬間ごとの現実を見ることができなくなってしまっているからです。彼らが見るのはありのままの現実ではなく、まるでサングラスを通したかのように歪んだ真実のみです。

 

体の感覚を感じることは、あらゆる依存症の根元(つまりは渇望と嫌悪の回路)に働きかけることになります。

「根が地中にしっかりと張ったまま触れられることがないならば、倒木はなおも新芽を出すものです。奥底にひそんだ渇望と嫌悪の習性が根絶されないならば、苦悩は何度でも新たに生じます」

 

 

 

重度の薬物中毒やアルコール中毒などの好ましくない習慣はどのように止めるのか?

さまざまな中毒があります。ヴィパッサナーを実践すれば、自分の中毒が実際にはその特定の物質に対するものではないことを理解するでしょう。一見、煙草、酒、薬物、パーナ(pāna 噛みタバコ)に中毒になっているように見えますが、本当は、体に生じる特定の感覚に中毒になるのです。煙草を吸えば体に感覚が生じます。

薬物を摂れば体に感覚が生じます。同様に、怒りや情欲に中毒になっているのならば、これらもまた体の感覚と関係します。中毒とは体外の対象ではなく、体内の感覚に対するものです。

ヴィパッサナーによって、あらゆる外部の物に対する中毒から抜け出すことができます。とても自然で、科学的なことです。まずはやってみれば、どのように効果が表れるか分かるでしょう。

 

中毒とは、酒や薬物に対してだけではなく、情欲、怒り、恐れ、エゴイズムの中毒も含まれます。これらすべてが中毒のカテゴリーに入ります。これらすべてが不純物による感覚の中毒です。

 

「怒りは自分にとってよくないものだ。危険なものだ。ひどく傷つけるものだ」と頭ではよく理解していても、怒りに中毒になっていると、怒りを生み続けます。そして、怒りが過ぎ去った後に、「あぁ、あのようにすべきではなかった。怒るべきではなかった。」と、後悔します。しかし、次に刺激がきたら、また怒ることになるので、反省は意味がありません。その怒りの回路から抜け出ていないためです。なぜならば、反省などの理性などの評価は心の行動パターンの深いところでは機能しないからです。

怒りは、体に流れる特定の化学物質によって始まります。そして、心と物質の相互作用、つまり互いにもう一方に影響を与えることで、怒りは増大し続けます。

 

この修行法は、特定の化学物質の流れによって生じる感覚を観察することから始めます。そしてその感覚に対して渇望や嫌悪の反応しないようにします。ただ、その感覚に対して快い、もしくは不快に感じているということをただ認識するだけで、次のステップとなる言動の反応には繋がらないようにします。

それは、その瞬間にあなたが怒りを生じさせなかったことを意味します。この一瞬が数回の瞬間になり、更にそれが数秒になり、更に数分になり、そして、以前に比べてこの感覚の流れに簡単には影響を受けなくなっている自分に気づくでしょう。あなたは自分の怒りからゆっくりと抜け出し始めた証です。

 

日々の生活でこの修行法を実践します。様々な状況で自分がどのように反応しているのか、あるいはどのように平静さを維持しているのかを観察し続けます。

まず初めにすることは感覚を観察することです。特定の状況では、もしかしたら心の一部が反応し始めるかもしれませんが、感覚を観察することで、思考の連鎖から離れることができ、心は平静になります。そうすれば、どのような行動をとったとしてもそれは自分の意図的な行動であり、自動的反応ではありません。この文脈では行動は常に肯定的です。否定を生み出し、みじめになるのは、私たちが意図せずに自動的に反応している時だけです。ほんの少しの間、感覚を観察することで心は平静になり、行動することができます。そうすれば、反応ではなく、いつも行動する人生になっていきます。

毎日の生活においてこの二つの技法(感覚を観察すること、反応しないこと)を活用することで、行動パターンが変化し始めます。

長年の間、怒りに飲み込まれてきた人は、自分の怒りが減っていくことに気付くでしょう。怒りが生じても、それほど強烈ではないので、長くは続きません。同様に、情欲の中毒になっている人は、この情欲がどんどん弱くなることに気付くでしょう。恐れの中毒になっている人は、恐れがどんどん弱くなることに気付くでしょう。不純物の種類によって、そこから抜け出すのにかかる時間は異なります。抜け出すのに長時間かかろうが、短時間であろうが、正確に実践すればこの修行法の効果が現れるでしょう。

渇望であろうと、嫌悪、憎しみ、情欲、恐れであろうと、中毒は生化学的な流れ(asava)によって生起された特定の感覚に対するものです。この種の物質は、心のレベルで反応し、心のレベルでの反応は再び生化学的反応に変わります。繰り返しになりますが、中毒があるとは、実際には感覚、その原因である、ある生化学的な流れに中毒になっているのです。

無知のasava、すなわちこの世の特性を理解できないことが最強のasavaです。もちろん怒りや情欲や恐れで反応している時はこの世の特性を理解できない無知の状態です。

そして、アルコールや薬物を摂取している時は、酩酊していることで無知を増大させます。酒や薬物の中毒になっている時は、酩酊により体という枠組みの内で起きている現実を知ることはできません。すなわち、感覚を知覚するのが難しくなり、問題の根源である回路を気づくのに時間がかかります。

このような状態の本人の心には暗闇があります。内側で何が起こっているのか、内側で何が増大し続けているのか理解できないからです。

一般にアルコール中毒者は、薬物中毒者よりも早く離脱できることが分かっています。しかし、どれだけ中毒になっていようと、どれだけ無知であろうと、すべての人が不幸から抜け出す道がここにあります。

忍耐強く、粘り強く働き続けることで、遅かれ早かれ、だれもが体中に感覚を感じ始め、客観的に感覚を観察できる段階に必ずや到達します。

時間はかかるかもしれません。

10日間では心の習慣的なパターンにほんのわずかな変化を生じさせるだけかもしれません。しかし、問題ありません。既に治癒の道を歩き始めたからです。続けていれば、心の一番深いレベルで習慣的なパターンは変化し、徐々に無知から抜け出し、反応から抜け出すことになります。

 

喫煙に中毒のある人には、もし心に喫煙の衝動が起こっても、煙草を手に取って吸い始めないようにいつも助言しています。「少し待ちなさい」と助言しています。吸いたい衝動が心に生じたという事実をただ受け入れます。この衝動が生じる時、それと同時に体に感覚があります。それがどのような感覚であっても、この感覚を観察し始めます。特定の感覚を探してはいけません。その時の体の感覚はどんなものでも、吸うことへの衝動と関係があります。

そしてanicca、すなわち常に変わるものとして感覚を観察することにより、それは生じては過ぎ去り、過ぎ去っては生じます。10分後、15分後には、この衝動は過ぎ去っているでしょう。これは思考実験ではありません、だれでも実際に体験できる真実です。

同様に、アルコールや薬物中毒の人にも、衝動が生じた時、すぐに誘惑に降参せずに、10分から15分待ち、衝動が生じたという事実を受け入れ、その時にある存在する感覚が何であれ、それを観察するようにします。

この指示を生活の中で取り入れることで、中毒から徐々に抜け出し始めたことに気付くでしょう。

毎回うまくいくとは限りませんが、10回のうち1度でもうまくいけば、とても素晴らしいスタートです。なぜなら根っこの部分が変化し始めたからです。習慣的なパターンは心の根っこの部分から始まっています。そして、心の根っこの部分は体の表面の感覚と強力に結びついています。心と物質は相互に強く関係し、お互いに影響を与え続けています。

もし、この自然法則を、単に頭で理解、あるいは信仰心から受け入れるだけならば、恩恵は最小限のものとなるでしょう。それでも実践するきっかけになるかもしれません。しかし本当の恩恵は実際の実践によって生まれます。

長い道のりです、一生の仕事です。

一万マイルの道のりですら最初の一歩から始まります。最初の一歩を踏み出した者は、二歩目、三歩目を踏み出す可能性があります。

このような一歩一歩と進むことが、完全な解脱という最終ゴールの到達につながっています。

 

 

 

 

依存症から自由となる

『依存症からの脱却と、健康の向上――そのための手段としてのヴィパッサナーを知るセミナー』からの抜粋

 

「完全なる悟り」とは何でしょう?

それは、「直接的体験によって、究極的レベルにおいて真理を理解すること」です。完全なる悟りに至った人は、なんらかの宗派や宗教を確立したりなどしません。自分自身が感得した真理を、ただ説明するのみです。誰にでも感得できる真理、あらゆる苦しみからの解放をもたらしてくれる真理です。

 

ブッダははっきりと明言しています。「因果の法則(縁起)を理解する者は、ダンマを理解する。また、ダンマを理解する者は、因果の法則を理解する」と。 Mahāhatthipadopama-sutta MN28 象跡喩大経 英訳

 

因果の法則は、決して宗派的なものではありません。心の中に否定的感情を生み出した瞬間、心は物質(肉体)に影響を及ぼします。そして、その人の物質的構造の内で生じ始めた反応は、当人をひどく落ち着かない気持ちにさせ、不幸な気持ちにさせ、惨めな気持ちにさせます。これは自然の摂理です。

 

私たちは、心の中に否定的感情を生み出した瞬間、それは必ず苦しみになるのが、自然の摂理です。誰もあなたを苦しみから救うことはできません。けれども、もし心の内に否定的感情を生み出すことがないならば、自分が惨めな気分にはならないことに気がつくはずです。汚濁のない清らかな心は、また自然の摂理として、mettā(慈愛)に満ちあふれ、karuā(憐み)に満ちあふれ、muditā(共感的喜び)に満ちあふれ、upekkhā(平静さ)に満ちあふれています。 

 

もし、心の習性を変えることのできる修行法、瞑想法、道があるならば、否定的感情(心の汚濁)を洗い落とすことによって、心を清らかにすることができるはずです。そして、その道を歩む人は、苦しみから自然と抜け出していきます。その人が自分のことを何と名乗ろうが、自然法則は自然法則で、普遍的なものです。

 

これがブッダが覚り、説いたことです。彼は哲学などには関心を持っていませんでした。哲学を作り上げる人は、空想という戯れや合理的分析というゲームを楽しむタイプの人です。あるいはこの道をほんの数歩だけ前に進んで、そこから得た体験をもとに、なんらかの哲学を作り上げる人もいます。そして、そうした哲学は、その人を信奉する人びとにとっては盲目的信仰となります。このようにして宗派は生まれます。

空想や、合理的思考ゲームや、真理の部分的体験をもとに作り出された思い込みが土台となって、宗派は形成されます。

 

「真理は自分自身で実感せねばなりません。そして、真理を直接的に実感するための方法は自分自身で歩いてみて、自分自身で感得したものを受け入れます。開かれた心をもってこの道を進むなら、一歩また一歩と、より深遠な真理を体験していくことになります」とブッダは説きます。出典?

 

守らねばならないルールはあります。いかなる類の空想にも没頭してはならない。色眼鏡をとおして現実を見ようとする瞑想法や、自分の持っている伝統的信仰・思想をとおして現実を見ようとする瞑想法に没頭してはならない。

 

一瞬また一瞬と、現実をあるがままにただ観察し続けます。現実が有する性質や特徴を理解しながら、ただ観察し続けます。自分の外側にある全宇宙は、自身の肉体にそなわる感覚器官と接触して初めて体験可能なものです。

なぜならば、肉体の枠組みの内における現実だけしか、直接的に体験することはできないからです。

 

ブッダは科学者のように真理の探究に励みました。現実を分割し、解剖し、分解し、溶解し、分析しました。単なる知的レベルでおこなったのでなく、体験的レベル、すなわち実際的レベルでおこなったのです。

心がどのようなものであるのか、物質(肉体)がどのようなものであるのか、を理解するために、小さな一歩を踏み出しました。この道をさらに先へ進んでいくにつれて、極小の微粒子の一粒一粒がダンスのように踊っているのを体験することができる段階に至ります。この微粒子のダンスが、外的な宇宙の物質構造のみならず、自分自身の肉体の枠組み内の物質構造をも形作っています。

極小の微粒子が生成と消滅とを繰り返しているさまを、いずれ体験することになるでしょう。物質だけでなく、心についても同様です。瞑想者は、分割・解剖・分解を続けていきます。心についての現実がどんどん明瞭になっていきます。そしてついには、心に関する究極的真理を感得できる段階が訪れます。物質と同様に、心もまた生成と消滅とを繰り返していることを実感することになります。そして、心の中に浮かんでくる内容、すなわち心の生起とともに生じてくる付随物に関する究極的真理をも実感できる時が訪れます。心の中身もまた、生成と消滅とを繰り返す性質のものであることを知ることになります。

 

物質についての真理、心についての真理、心の付随物(心の中身、心所cetāsika)についての真理を探究していく目的は、単に好奇心を満たすためではありません。心の最深部において、みずからの心の癖/習性を変えていくためです。

この道を前進していくにつれて、心がどのようにして物質に影響を与え、物質がどのようにして心に影響を与えているのかを実感することになります。

 

一瞬また一瞬と、肉体の枠組みの中で、kalāpaの集まりが生じては滅び、また生じては滅びています。

kalāpaはどうして生じてくるのか?その原因は、現実をあるがままに観察していくにつれて明らかとなっていきます。

過去に作り出した哲学的な思想あるいは思い込みの影響を一切受けることなく、現実をあるがままに観察することによって、kalāpa生成の原因が明らかになります。たとえば、自分が食べた物質的な摂取が、kalāpa生成の原因となります。また、自分の周囲の気候・大気も、kalāpaの生成と消滅の原因となります。あるいは「メンタルと物質」の組み合わさった構成体が形成される様子を目撃し始めます。

物質が生じては溶解していくのを物質が後押しする様子を観察して理解したのと同じように、物質が生じては溶解していくのを心が後押しする様子をも観察し、理解します。時には、kamma(過去に作られて蓄積されたsankhāra、すなわち、心に蓄えられた古い条件づけ)に起因して物質が生じることもあります。ヴィパッサナーを修行することによって、これらすべてのことが明白となり始めます。

 

今この瞬間に、どんなタイプの心が生じており、その心の中にはどんな内容があるでしょうか?

心の質は、心の中身によります。たとえば、怒りでいっぱいの心、あるいは情欲でいっぱいの心、恐怖でいっぱいの心が生じてきたとき、そうした心は生起すると同時に物質的kalāpaの生成を後押しします。

 

心が情欲で満ちているとき、それに応じた種類のkalāpaが肉体的構造の内に生じます。そして、生化学物質(腺からの分泌物、あるいは腺以外からの分泌物)が血液やその他の流れに乗って、体中をめぐり始めます。このように、情欲で満ちた心が生じたことが原因となって始まる「生化学物質の流れ」のことをkāmāsavaと呼びます

 

こうして現実をあるがままにただ非常に実直に科学的に観察します。自然法則がどのように働いているのかを、ただ観察します。肉体でこのkāmāsavaの分泌物は、情欲によって生み出された生化学物質であるがゆえに、次の瞬間の心に対して、さらなる情欲を生じさせる影響を与えます。このようにして、肉体の中にあるkāmāsavaは、心のkāma taṇhā(情欲という渇望)へと変わります。そしてkāma taは、ふたたびkāmāsava(肉体の中の情欲の流れ)を刺激します。互いが互いに影響を及ぼし合って、数分間、あるいは、時には数時間も続けて、情欲が増幅し続けます。情欲の生成が繰り返されるために、「情欲を生成する」心の習性はさらに強化されていきます。

そして、情欲だけでなく、恐怖、怒り、憎悪、渇望など、心に浮かんでくるあらゆる類の不純性は、同時に、肉体の中のāsava(流れ)を生み出します。

 

この悪循環を打ち破るのに、単なる知的理解は役に立ちませんし、むしろ困難をも生み出しかねません。

また、信条や信仰は、障害を作り出してしまう可能性があります。

知性には限界があります。知性の領域だけでは、究極の真理を本当の意味で理解することはできません。究極の真理には限界がなく、無限です。一方、知性は有限です。限界がなく無限である真理をはっきりと理解する方法は、それを実際に体験する以外にありません。自然の摂理を頭で理解して受け入れたとしても、みずからの心の習性を変えることはできません。そのような人にとって、究極の真理を真に理解することは夢のまた夢です。

 

この習性は、心の奥底に存在しています。いわゆる「無意識」と呼ばれているものは、実のところ、意識が無いのではなく、心の深層部はいつでも肉体と接触し続けています。そして、肉体との接触にともなって、感覚が生じ続けています。なぜならば、肉体の内を流れる化学物質はどれも、それぞれ特定のタイプの感覚を生み出すからです。感覚が心地よいものであれ、不快なものであれ、そのどちらでもないものであれ、心はその感覚を感じ取ると、その感覚を感じながら、同時に反応し続けます。心の奥底において、渇望や嫌悪という反応が、ひたすら繰り返されています。その結果、さまざまなタイプのsankhāraが生み出され続け、sankhāraの増幅プロセスが続いています。それを止めることはできません。なぜならば、顕在意識と潜在意識とのあいだには、非常に大きな壁が立ちはだかっているからです。ヴィパッサナーを訓練することで、この障壁を破ることができます。

 

このようなダンマの道理、真理の道理、摂理の道理、自然の道理を、顕在意識のレベルで、知的レベルとして、受け入れているかもしれません。しかし、それでもなお、苦しみの中でい続けることになります。心の深層部において起こり続けていることをはっきりと自覚していないからです。これを自覚する方法は「直接的に体験する」ことです。

 

では、どのようにヴィパッサナー助けてくれるのでしょうか?

数日間にわたって自分の呼吸を観察していくうちに、心は非常に鋭敏になっていきます。そして、正しい方法で、根気よく、粘り強く修行を続けるならば、大半の人は、初めての10日間コースのうちに、全身に感覚を感じられるようになります。それ以外の人も、2度目の10日間コース中にはそうなります。一瞬また一瞬と、いついかなる時にも感覚は存在しています。

 

phassa paccayā vedanā、すなわちエネルギーが付加された接触は条件が整うと、エネルギーの付加された感覚をもたらします。

これは思想や哲学ではなく、誰もが実際に確かめることのできる、科学的事実です。

接触が起こった瞬間、感覚は必ず生まれます。そして、物質(肉体)構造全体のありとあらゆる場所で、一瞬ごとに、心は物質と接触しています。心の深層部分は、その接触から生まれる感覚を常に感じ取っており、そしてその感覚に対して反応し続けています。

しかしながら、心の表層部分は、外界の対象物へと注意をいつも向け、忙しく働き続けています。あるいは、合理的分析や空想を楽しみ、感情に翻弄されることを楽しむゲームに興じ続けています。その役割は「paritta citta 小さな心、心の表層部分」です。

そのため、心の奥底で起こっていることを感じ取れず、また、奥底で起こっていることに対して自分がどのように反応しているかも感じ取れないでいます。 

ヴィパッサナーによって障壁が破られると、全身に感覚を感じ始めます。肉体の表面だけでなく、内側の奥深くまで、感覚を感じることになります。なぜならば肉体構造全体において、命のある部分ならどこであろうと、感覚は存在しているからです。そして、それらの感覚を観察することによって、「生成しては消滅し、また生成しては消滅していく」という性質をはっきりと実感し始めます。この理解によって、心の習性は変わり始めます。

 

たとえば、今なんらかの感覚を感じており、それが先ほど食べたものに由来して生じた感覚だとします。あるいは、自分を取り囲む大気によって生じている感覚かもしれません。あるいは、今この瞬間の心の行為によって生じている感覚かもしれません。あるいは、過去に心がおこなった反応の蓄えが、今になって実りとして生じている感覚かもしれません。原因は何でもかまいません。

 

原因が何であろうと、感覚はそこにあります。そしてその時に平静さをもってそれを観察する訓練、すなわち感覚に対して反応しない訓練を実践します。しかし、昔ながらの心の癖のために、反応し続けてしまうかもしれません。

1時間の瞑想をするとして、初心者が反応しないでいられる時間は、ほんの数瞬間かもしれません。だとしても、その数瞬間は、すばらしい数瞬間です。それは心の習性を変え始めた証だからです。感覚を観察し、感覚がもつ無常性を理解することによって、感覚に反応し、苦しみの悪循環を増幅させてしまう盲目的習性が止まります。

 

初めのうちは、1時間のうちのほんの数秒間あるいは数分間しか、反応せずにいられる時間はないかもしれません。しかし訓練を継続していくことによって、やがては1時間をとおしてずっと、一切反応しないでいられる段階へと至ります。

心の最深部において、一切の反応をしないのです。古くからの心の習性に、深い変化がおとずれてきます。悪循環は断たれます。感覚として現れるこの化学的プロセスに対して、以前ならば、何時間も続けて、心が汚濁(不純性)をもって反応してしまっていました。それが今では数瞬間の中断、あるいは数秒間、数分間の中断を挟むようになりました。昔からの盲目的反応の習性が弱まるにつれて、本人の行動パターンは変化していきます。こうして苦しみから抜け出していきます。

 

再度言いますが、ブッダや自分の知性がそう言うからという理由で、信じてはいけません。自分自身でこれを「体験」しなければなりません。ヴィパッサナー・コースに参加した人たちは、みずからのふるまい方に、よい変化が起こったことを、自分自身の体験をもって知ることになります。

 

ヴィパッサナー・コースに参加した人たちは、家に帰ってからも日々の生活の中で、この瞑想法を実践していきます。自分自身を観察しながら一日を過ごします。日常のさまざまな場面において、自分がどう反応し、あるいはどう平静さを保つのかを観察し続けます。

どんな時にも、まず真っ先に感覚を観察しようと努めます。ある場面では、心の一部分がおそらく反応を始めてしまうでしょう。

しかし、感覚を観察することによって、心は平静になります。そうすれば、その人が取る「行動(action)」は、「反応(reaction)」ではなく「行動(action)」となります。actionは前向きなもので、反応をしてしまった時のみに、否定的感情を生み出し、惨めになります。感覚を数瞬間でも観察することで、心は平静になります。そして、平静となった心はactionを取ることができます。そうすれば、人生はreactionに満ちたものではなく、actionに満ちたものとなります。

 

「無知」のāsavaが、もっとも強力なāsavaです。怒りや情欲や恐怖をもって反応しているときはそこに無知があります。そして、アルコールや麻薬を摂取すると、この酩酊状態が無知を増幅させます。そのため、感覚を感じ取るという問題の根元に至るまでに余分に時間がかかってしまいます。酒や麻薬の中毒状態におちいると、肉体の枠組みの内で、今この瞬間に起こっている出来事、すなわち「現実」を知ることができなくなります。心の中が暗闇になり、内側で何が起こっていて、何が増殖し続けているのかが、分からなくなります。これまでの指導経験から判明しているのは、アルコール中毒者のほうが麻薬中毒者よりもすみやかにヴィパッサナーの恩恵を受け始める、ということです。

 

この解放への道は、あらゆる人びとが苦しみから脱け出すためのものです。どんなに中毒症状が重篤であろうとも、どんなに無知が深かろうが、関係ありません。忍耐強く、根気よく瞑想に取り組み続けるならば、遅かれ早かれ、全身に感覚を感じられる段階へと必ず至ることができ、その感覚を客観的に観察できるようになります。時間はかかるかもしれません。10日間だけでは、心の習性にほんの少しの変化がもたらされるのみかもしれません。それでかまいません。初めの一歩は踏み出したわけであり、そこから続け、ヴィパッサナー・コースをあと23回ほど重ねれば、心の習性は最深部において変化し始め、無知・反応から抜け出し始めることでしょう。

 

あなた方すべてが、あらゆる依存症から抜け出しますように。

単にドラッグやアルコールに対する依存だけではありません。こうした麻薬物よりも、心の不純性に対する中毒のほうが強力です。この中毒は、幾多もの生にわたって伴にありました。それは非常に根強い習性です。この習性を打ち破って、苦しみから抜け出さねばなりません。これは大仕事です。大変な務めです。そしてこの仕事は、自分以外の誰かを喜ばせるためにおこなうのではありません。万能の神やあなたの先生を喜ばせるためにおこなうのではありません。自分自身を喜ばせるためにおこなうことです。

自分自身の恩恵のため、自分自身の利益のため、自分自身の解放のためにおこなうものです。

そしてまた、この浄化プロセスの性質上、この道(実践法)から恩恵を受け始めた人は、他者をどうしても助けずにはいられなくなります。そうすると、この自己浄化という仕事は、単に自分自身の恩恵、利益、解放のためだけでなく、他の多くの人びとの恩恵、利益、解放のためのものになります。

この世界の至るところで、実に多くの人びとが苦しんでいます。みな、純粋なるダンマに出会い、自身の苦しみから抜け出しますように。安らぎと調和を味わい始めますように。心があらゆる汚濁から解き放たれ、その解放された心がもたらす安らぎと調和とを味わいますように。