宇宙飛行士のオリエンテーション
ひとまず5つのグループに分けてみた、気になるところからクリックしてみてください
一つにつながっている世界
至る道への水先案内
実践
量子力学
論理性
一つにつながっている世界
「ここ」には表層と深層で別の世界があるって本当? この世界は11次元あるらしい?
表層だけを基準にしてしまうと、決まりきった法則や言葉の杓子定規に縛られてしまうことがある。
ところが深層を体感すると、この瞬間のカタチは融通無碍、自由自在、臨機応変に変化し続けていることがわかり、表層での応用力が身につく。
だから別の世界があるのではなく、深層を体感し、その実感を持って表層でも生きていこう、という提案です。
脳の「わたし」だけでは「一つにつながっている世界」を見ることができない?
常に変化している自然の中で暮らしていると、「わたし」を基準にして、これに頼っていても生きてはいけない現実が眼の前に当たり前にある。
そこで、先住民や山や森の中で暮らす人たちは「わたし」に頼らない時空をも生きている。
「わたし」(自己)も対象(世界)も「一つにつながっている世界」だと実感できれば自己意識は「わたし」だけを基準にはしない。
関係性こそがカタチを創り出すので、言語とはあるモノへの関係の仕方やそのモノをどう使うのかを表している指標となる。
脳の「わたし」は怖がり屋さんだ。
悠久な時間の流れを無視して、ほんの一瞬だけに固定化させて、他者を勝手に都合よく枠の中に閉じ込める。
鏡とは「一つにつながっている世界」と「分別された世界」の喩え?
鏡は一切のものを差別なく映す。
鏡には汚れや傷や凸凹がある、これらは私たちの心(マインド)の偏り。
偏りとは、脳の自動修正による錯覚、原因・結果を結びつける安易な法則、好き嫌いのオートマティック回路、学習した条件反射でモノを見ており、その歪なデータを基にして判断し、評価している。
ちゃんと磨かれていれば外の像(景色)をそのままに映し、凸凹していればそれなりに映る。
古鏡の大きさ、純度、磨きによって、見える世界が変わるのである。
古鏡とは「生命そのもの」である鏡本体と
長年のクセによって表面に少し凸凹や汚れや瑕や曇のできた「その生命活動の様相」の少し歪んだ映像である。
「川」と「波」の関係のように、、「鏡」は、「生命そのもの(空、川)」であり、「鏡に映じている事実」が「生命活動の現象(波)」である。
至る道への水先案内
知恵と智慧では意味が180度違う? 知恵は地球で通用する法則、智慧は宇宙で通用する法則
この世に「不変の実体は存在しない」。
それが「空」があるがゆえに、この分別された世界でも固定化されたモノは存在せず、あらゆる存在は生まれるのでも滅するのでもなく、ただ変化をしている。
増える減るといった事柄も、その真実は変化をしているという一点に尽きる。
知恵は限定された枠内で有効だ、そして智慧は「空」との繋がりで成立しているのでいつでもどこにでも「ある」
生死はない?! 電子は消滅してから出現する?
生死をあるがままに見ることができれば、生きている間はまだ死んでいないし、死んでしまえば生きていないので考えることもないので、生死そのものが消滅してしまいます。
生死があると思って、生死を克服しようと思わなければ、迷わなくてすみます。
仏性を識るには悟るしかない。
何十年かかったとしても、合理という回路を一つずつ取りさっていくしか方法がないという。
道元の言う「心」は一般的なココロではない。
仏道の教えでは、山を心臓で感じると、そこには風もないただ山だけがそこに「ある」ことになる。
マインドでも意識でも理性でも知性でもない道元の「心」とは何なのか?
分別されているものを「一つにつながっている世界」としては、どのようにして把握しているのか?
「恁麼」とは概念化される手前の状態のことで、「このように」という意味です。
分断されることで認識できる脳を使って、「一つにつながっている世界」を語句で表現するのならば、「このように」というのが適切であろう。
鈴も風も鳴らないが心が鳴る事態を「恁麼」というカタチになる前の状態で解釈すれば、「倶寂静」(何も鳴らない)という鳴り方になる。
これは、「わたし」の記憶やイメージが鈴に反応していたとしても、それは「わたし」の脳内の自動回路によって生じた反応なので、「一つにつながっている世界」から見ると、反応した理由などは求めはせずに、実際には鈴はなっていないので「何も鳴らない」と同時に、「わたし」は反応するという鳴り方をした、と受け止めるのがありのままの状態です。
事実としてあるのは「チリリーン」という音のみである。
これを鈴の音だと反応してしまうのでは「恁麼」の世界ではない。
音源の根拠は問われない。問うてはいけないのだ。
ただ鳴るものが鳴っただけである。
「鳴っている鈴は鳴らない、鳴っている心は鳴らない、鳴っているものはさらに何も鳴らない。」
真理や悟りを言葉にすることができるのか?道元は肯定し、ウィトゲンシュタインは否定する。
中世の日本は言わざるを得ない変動期であり、20世紀の欧州は嘘を信じたい無意識の嵐が吹き荒れていた。
「言葉にできない真理」なるものがあったとしても、それは「言い得る」という瞬間のために、言い切り・言い直し・言い続ける不断の意志と努力をすれば、それに対する抵抗力として「一つにつながっている世界」は現前する。
言語化することで言語化不可能な領域を現前させる。
繰り返され続けるジャンプこそが、「一つにつながっている世界」が現前していることである。
そこに向かい続けることで、修行の仕方に応じて、自己と対象が新たに構成され直されていく。
まさに脱落がなされたときには、そこには必ず、自覚として、新たな「道得」がある。
修行者の沈黙はいつか時が来れば、「道得」として爆発する。
まずは相手をそっくりそのままに肯定する言葉から始める。
人に接する時には、まずは慈愛の心を起こし、それから、いたわりの言葉をかけることから始めてみるのは、どうだろう?
「一つにつながっている世界」を体感していると、他が利することは自分を利することだと実感する時がある。
他者が自分と違うのは、他者が自分とは別のTPOにいたためからもしれない。
自分が他人と違うのは、たまたま自分が他人の立場にいないからなのかもしれない。
自分とも違いのない、相手とも違いのない、時空が「一つにつながっている世界」にはある。
困った時や分からない時に、試しみる価値のある極意があります
それは「なりきり」
思い切って、全力で、なりきっちゃえばいい。
そうしたら、そこでは言語が不要となり、相対するものもなくなります。
病気の時は病気になりきればいい。
暑い時には暑さそのものになりきればいい。
苦しい時には苦しみになりきればいい。
逃れようとはせずに、苦しみを苦しみとして楽しむ。
この「なりきる」とは、実践であり、行為であり、試行錯誤であり、「一つにつながっている世界」に溶け込んでしまうことです。
この他の次元とつながらる「窓」を見つけて、他者そして全部と繋がっちゃうのが極意です。
実践
歩むことでしか、道はあらわれない。
道を歩むには「心で学ぶ」と「身で学ぶ」という2つの柱がある。
言い換えるとすると、「思う」と「行う」である。
コンドルの両翼のように、リヤカーの両輪のように、片方が欠ければ進むことも戻ることもできない。
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身心学道 第四
具体的に実践する指針とは
仏教の考え方はなんとなくわかったような気になったし、もう果てしなく読むのもめんどくさい。
では具体的には何をどうすればいいの?
まずは坐ってみる、すると自分自身が近くになる。
足を組んで、手を組んで、背骨を伸ばして坐っていれば、一番身近に感じられるものは自分自身。
「足が痛いなあ」とか「いろんな考えが浮かんでくるなあ」とか「退屈だなあ」とか「早く終わればいいなあ」などを考えることも大事なこと。
それがありのままであるならば。
「自分自身と「法」(ダンマ 宇宙法則)を頼りにせよ、そしてそれ以外のものは頼りにするな」と釈尊は言われた。
「自灯明・法灯明」 長部経典16「大般涅槃経(Mahāparinibbānasuttaṃ)」第2章より
自分自身とは自己意識だけのことではない。
その奥にある内臓の意識や魂の意識をも含んでいる。
武道の名人は、戦わずに勝つ
自他に違いがないことを感じさせる氣を共有することで。
合氣道はまさしく、自他が不二になる力を使う修練だ。
菩薩(求道者)が他人を救うためにする四つの実践項目がある。
第一は、布施、第二は愛語、第三は利行、第四は同時である。
共通点は自他がないこと。
意識によってカタチが決まるのならば、それを静止させれば存在は無くなるのか?
行為の在りようが存在のありかたを決める。
ならば、その行為をぎりぎりに絞り込んだら、存在は解体するのだろうか?
日常生活を強力に拘束しているのは、視覚などの五感活動、感覚のタグ、固定化されたイメージ、合理性、思考、条件反射などの自動回路である。
インプットがあると意識もせずに勝手にアウトプットが行われる。
この対極にある行為が「坐禅」である。
目的がなく、掴むものがなく、息が一定である。
坐禅は快・不快の感覚と条件反射と言語と思考を限りなく静止へと導くテクニックである。
そうすれば、そこに浮かび上がってくるのは・・・
なぜ坐禅なんかするの?ゴールはあるの?
坐禅とは「仏になる」ことを「目指す(意圖する)」行為である。
しかし、仏になるのが「目的」になると、坐禅とはもう無関係である。
「いま・ここ」でを生きていないと「目的」が必要とされる。
そんな生きたものを固定化して概念化してしまう「目的」を捨てるのが、坐禅。
目的は無理に固定化された概念だが、目指すのは動きある「いのち」で切実である。
坐禅はゼロへの行為なので、これまで作り上げてきた自動回路を初期化することになる。
すると乗っかていた回路がなくなり、土台が出現する。
この出現自体が「この上に何を建てるのか」という問いかけになる。
坐禅をして「一つにつながっている世界」とつながったとしても、それが「悟り」でもう成仏したのだと錯覚してはいけない。
「一つにつながっている世界」を自覚しつつ、仏法に則して主体を再構成していく全過程こそが「さとり」続けるものなのであり、そこに刻々と対応し続ける主体が仏である。
坐っている仏とは、それがゴールではなく、やっとスタートを切ることができるということだ。
洗い清めるとはどのようなことなのか?
仏祖の伝えてきた修行に、水で身を清めるという仏法がある。
これは日常の浄だけではなく概念の不浄をも脱却する。
水とは何なのか?
水とはダンマ、大自然の法則の具体的なカタチである。
ダンマ(正法)によって洗われれば浄であり、そうでなければ不浄である。
だからこそ、必ず洗面すべきだ。
あらかじめ仏教者がいて、朝起きたら教えに従って洗面したのではない。
教えに従って洗面する者がそのときに仏教者になるのである。
量子力学
道元を読んだからアインシュタインは相対性理論を思いついた?
雲は流れ、月が止まっているように見えるのは、夜空では月の横を雲が流れ、月は自転と公転のスピードの関係で月の裏側を見ることができないのでまるで自転していないかのように見える。
しかし、これは地上に静止している人の認識感覚を基準にしていることを根拠にして成り立っている。
前提条件である観察者の視点を解除すれば、すべてのものは同時に各方向に動いている。
とすれば別の条件下では月は自転し、雲は静止しているいう見方も成り立つ。
言葉にするとは、動いているものを固定化させることでそのダイナミズムを除去し、それに名前をつけているに過ぎない。
ヒトの運動は静止した地面を基準としているので、これも宇宙から見れば、一つの仮の表現でしかない。
時は幾重にもかさなってる。
太陽と月の昼夜の時間もあるし、
時計が刻む時間もあるし、
潮汐の波動が繰り返す時間もあるし、
時間と空間が一体になっている相対的時間もある。
そして光速を超えた時間もある
量子力学はここから始まっている。
人には計り知れない、宇宙の真理。
仏教が教える真理はあるが、それはちゃんと道を歩かないと、うかがい知ることができない。
そして、ちゃんと歩いたとしても、全貌を知る由もない。
本当に何もかもを知っているのは宇宙の真理自身。これが唯仏与仏。
ヒトの存在の意味には不可解なことが多い。
その謎を解くのが以下の仮説。
この「かまってちゃんの仮説」をベースにするといろいろなことにも筋が通り理解しやすくなる。
ヒトの進化、知性は何処を目指しているのか?なぜヒトは存在するのか?なぜ自己意識を持っているのか?
ミクロの世界の事実がなぜマクロの世界では再現されないのか?
宇宙意識も誰かに認識されないと、存在しないことになってしまうということ。
それには、第三者に宇宙の真理が理解できるようになってもらう必要がある。
それには自己意識と深層意識を兼ねもつ存在が必要である。
論理性
同一性や因果関係はない。
そんなものは脳の「わたし」が勝手に決めたことでしかない、という。
だから「同じだ」とか「そりゃあ理由はね」とか「あれでこうなったんだよ」と言うことをたやすく信じちゃいけない。
どうして?
それは、日常の因果関係とはある条件の時にしか通用しないものなので、あらゆる条件の下でも通用するかどうかは、自分を使って繰り返すことで確かめる必要がある。
仏教の因果は、この世の因果とは違う
因果を信じるな(大修行の巻)と言ったけれど、
ここでは因果を信じろ、と言う。
この矛盾のメカニズムとは?
仏教の因果とはこの現世だけではなく、前世や來世や来来世世まで及ぶという。
修行者が最も大切にすることは、彼の行く末の問題ではなく、因果の道理が確かに機能しているかどうかである。
一生悪行の人が臨終のときに「悪行ばかりしていたので地獄へ行くのかと思ったらどういうわけか天上への途上である」と思った。
これは間違った邪な考えなので、命が完全に尽きた時にこの人は地獄で生まれ変わることになった。
悪行の人は現状をみて思ったことを言葉にしただけのつもりであろうが、これは因果という宇宙の法則を蔑ろにしている証とされたのである。
悪行の人が地獄に堕ちたのは、前世や現世の悪行のためではなく、仏教の因果の道理を無視して善悪の区別を性急に否定したからである。
自己意識は一度休ませて、「一つにつながっている世界」から再構築させて、自を器とし、修行する当事者となることで、未来と過去を切り開く。
二元論は間違っていて、一元論が正しいの? 真実性を担保する「本質」とは何なのか?
物事が「このように(如是)」存在する、というとき、この「このように」の在り方を何が規定すると道元は言うのか?
道元の解釈は、私たちの「究尽」にかかっているという。
究尽とは、残るところなく徹底的にきわめること。
究め尽くすには、一途一心(いちずいっしん)、あらん限りの手数をひたむきに尽くす。
ちょっとの知ったかぶりでは、核心に失礼にあたる。
知らないことではなく、知っていると思い込むことが人を迷わせる。
どんなに学んでも、これで学び尽くしたなんてことはあるはずもない。
一だろうが二だろうが「元」論は無効なのである。