学校の勉強(学問)が地球を滅ぼす?
科学(学問)が「いのち」を弱める理由
はじめに
学問と「いのち」 形あるもの カタチなきもの リング 「まとめる」無意識
学問の限界 学問の根源にあるもの 数値化 根源 0理想 前提条件 結果
思考パターンの偏りと限界 思考とは因果関係のパターンである
習ったことを利用すると陥る罠 過剰一般化 人工衛星の視点
学問を勧める人の潜在意識 思考が生まれるのはそこに潜在意識があるから
学問は遊び
はじめに
勉強(学問)が悪いのでも罪があるのでもない。
それをヒトが使うから問題が起きる。
たとえば「相対性理論」や「エネルギーと質量の法則」や「核分裂の法則」に問題があるのではありません。
しかし、それによってできた核爆弾はこれまでに多くの人を殺戮し、未来においても・・・。
学問は悪ではありませんが、その学問が持つ特徴が、ヒトの暴走を助長している、とは言えるかもしれません。
それは学問とは全体性の一部にスポットライトを当てて、そこを法則化していることに起因しています。
その法則が、宇宙のどこにでも通用するとしても、その因果関係が顕著になるのは、
全体の中の一部の時空(TPO)に限定されるということです。
たとえば万有引力の法則が宇宙のどこにでも通用しても、地上では重さが6トンあるゾウでも、
月では1/6の1トン、もし宇宙遊泳したらは重力が殆ど感じられなくなるように。
この他にも法則(学問)がTPOによって変化し、それが思考や体や地域にも深く影響を与えている可能性があることをこのエッセイでは考えてみたいと思います。
学校で習った勉強が20年ほどしたら間違い、もしくは変わってしまった、ということはよくあります。
たとえば、聖徳太子像、ダイオキシン、アメリカ大陸発見、漢字、送り仮名。
将来では温暖化、脱炭素化、電気自動車、SDGsなどの環境問題の考え方などです。
本当に持続可能を基準にするならば、電気自動車の製作も規制すべき対象になるでしょう。
どれも自分の立場を優位に導くための方便として成り立つ学問です。
たとえば、法則(学問)と地域の関係性では、
ウイルスに感染されることで免疫システムが維持されているのに、
感染症を完全に排除して無菌状態を目指す方向性が都市文明圏にはあります。
使うことで発達し、使わないとで退化するのが「いのち」を持つ体の法則であるのにです。
そして、文明圏内では科学(学問、法則)によって効率化されて集中化されたエネルギー(原子力、エンジン、高層ビル、高電圧、情報)によって間違いを起こすことができなくなり、ただ法則に従うことを習性とします。
間違えては修正することを繰り返すことが「いのち」を活性化する体の法則であるのにです。
また、法則(学問)と思考法と身体の関係性では、
毒物でもないものを異物として過剰反応するアレルギーの問題があります。
栄養が多すぎて体に問題がおきていることや、ストレスが多い生活や、体を動かすことが少ない暮らしをしているのに、基本の睡眠、食事、運動、心の持ち方を改善せずに、まずは薬や手術からはじめようとする医療機関や傾向があります。
はじめに再確認してほしいのは、「この世は常に変化している」ということです。
法則もこの世の一部なので、法則(学問)の現れ方も常に環境によって変化します。
つまり「TPOによって法則の効果も変化する」というこです。
勉強(学問)と「いのち」 形あるもの カタチなきもの
勉強したことを判断や行動の基準にして生きると「いのち」が弱まっていきます。
というのはどういうことで、
なぜそんなことが言えて、
どのようなメカニズムなのでしょうか?
勉強(学問)とは大脳皮質を使って思考を関連づけることでできるものなので、
気を失ったり、寝ている時には勉強することはありません。
しかし、そんな状態でも「いのち」は働き続けているので、私たちはこうして生きていられます。
つまり、勉強しなくても生きていけますが、生きていなくては勉強することができない、という関係性です。
勉強は「いのち」のほんの一部でしかなく、「いのち」は勉強をも含んでいます。
科学と「いのち」のパラドックス エネルギーを集中させたら起きること
この世の区分の仕方
この世界を2つのタイプに分けるにはいろいろな基準がありますが、
そのなかの1つに「学問の世界」と「いのちの世界」という分け方もあります。
学問の世界とは、「そのように決まっているから、それを真実として認めることにしよう」というものです。
そこに徹底的な真実・真理・論理的根拠はないけれども、
みんなで決めたルールなので、その中でやっていこうとします。
つまり、みんなで決めたからできたものであって、公共性としてひとまずはそれを基準にしましょう、
という約束事のことです。
この世は変化し続ける存在なので、カタチを基準にした不変の真実などはあるはずがなく、
カタチになった科学や言葉など世の中の全ては「学問の世界」に属します。
最新の科学が導き出した答えや因果関係の結果が数年もしくは10年後には、
もう真実でなくなっていることが繰り返されているように。
大きく時代で見れば、古典物理学がニュートン力学、相対性理論、量子力学、新たな宇宙論と次々に書き換えられているように。
法律が毎年のように、改訂されているように。
対して、「いのちの世界」は学問の世界よりも扱っている範疇が広く、
学問の世界よりも微細なレベルでの関係性を扱っているので、
私たちは二重構造の現実の中で生きていることになります。
「いのち」の世界は、シンボル(言葉、数値、イメージ)という学問の世界の表現を使ってでしか説明できないので、「いのちの世界」の内容を他者に伝える時には、学問の世界の枠組を使用することになります。
「いのちの世界」をわかるためには、結局は個々が実践を重ねて体感するしか方法はありません。
言葉では「いのちの世界」について完全に伝えることができませんが、月を指す示す人差し指のように、
方向性を示すことはできます。
そして、後は佗(わ)びるばかりです。
学問(勉強)と「いのち」の領域の違い
物質とエネルギーの領域を対象にするのが物理学です。
物理学では、その領域の中で通用する法則を数式化しますが、それ以外の領域のものは対象にしません。
たとえば、心(意識)や魂の領域はエネルギーとしては捉えていません。
対して、「いのちの世界」は物質エネルギーだけではなく、心や魂や霊の領域も扱い、
その中にある相互の因果関係を説明します。
このような全体性の世界観では、思考やそれらを生み出す心や魂もエネルギーとして捉えて法則化しています。
素粒子よりも微細なので測定することができない「意識の領域」を含めた因果関係と、素粒子(物質エネルギーと物質)の領域の因果関係の違いがあります。
この範疇の捉え方の違いが学問と「いのち」との違いです。
この意識という測定できないものを領域は主観でしか捉えられず、測定できるものを領域とする客観の違いでもあります。
主観の問題点は、測れないことをいいことに、勝手な都合によって直接に結びついていない2つのものに因果関係があるかのように結びつけてしまうケースがあることです。
これらが迷信や疑似科学と呼ばれるものです。
主観でしか捉えられない領域を客観のルールで因果関係を結んだために起こる誤謬です。
学問では霊の世界を扱いませんし、もし扱ったとしても、
物質エネルギー的「根源」を想定してから霊の世界を構築してしまいます。
それに比べて、「いのち」の全体性では、心(多層の意識)もエネルギーとして捉え、魂はエネルギーのあるデータとしてとらえ、霊は普遍エネルギーのことで、エネルギーがゼロなのが涅槃nibbānaで、この世とは別次元であるものとして因果関係を説明します。
エネルギー |
0 |
普遍エネルギー |
偏りエネルギー |
微細エネルギー |
物質エネルギー |
物質 |
日本の伝統 |
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霊 |
魂 |
心 |
気 |
体 |
欧米の伝統 |
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spirit |
soul |
mind |
subtle body |
body |
心の特性 |
|
霊性 |
智性 |
理性 |
気性 |
物性 |
学問 |
|
|
量子力学 宇宙論 |
心理学 |
相対性理論 |
古典物理学 ニュートン力学 |
「いのち」 |
あの世 |
|
記録データ |
メンタル体 |
エネルギー体 |
物質体 |
パーリ語 |
nibbāna |
dhammā |
gati4大元素 |
bhūta |
細かいdhātu |
粗いdhātu |
宇宙量子学 |
絶対零度 |
ダークエネルギー |
|
ダークマター |
素粒子 |
分子結合 |
伝統的な日本の分け方でいうと、霊と魂と心と物(体)です。
この4つはお互いに影響を与え、相互作用していますが、
このように4つに分けて個別にして表現することも可能です。
霊とは、この世にあまねくエネルギーのことです。
魂とは、霊の一部が膜に入ることによって生じたエネルギーです。「知ること」と「光」と「記録」です。
心とは、魂と物とを繋ぐ架け橋のようなもので、マインドを玉座にするメンタル界のエネルギーのことです。
物とは、霊と魂と心によって作られた「気エネルギー」が凝縮されて物質と呼ばれているモノたちのことです。
このような区分や領域の違いは日本だけではなく、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教にもあり、
神学者と修行者のアプローチには違いが見られます。
善いことをしても「いのち」は弱まる
「枠組」を作ることによって善と悪が生じます。
ですから、各自がその場所とその時間に適応させて作る「枠組」によって善と悪も変化します。
「枠組」とは上の例でいうと、心からみた世界と物質からみた世界では善悪が違う可能性があるということです。
たとえば、仕事場で強度のストレスがある時に、賃金や仕事や効率の枠組から見ると、
働くことは善で、さぼることは悪ですが、気持ちや精神や気分の枠組から見ると、
そのまま働くことは悪で、休暇をとることは善となる、可能性があります。
また、ダイナマイトを使ってトンネルを掘ることで通行の利便性と効率化が高まるのでダイナマイトの使用は善とされますが、そのダイナマイトが街に投下されたのならば、それは悪となります。
このダイナマイトの乱用によって利益を得た者がノーベル賞を創設しました。
また、「核分裂の法則」を利用して、原子力発電所は善?、核兵器は悪とされることもあります。
このように善悪はTPOによって決まることなので、このTPOを固定させて、
それを基準にすることは、枠組のない「いのち」の活性化を妨げることになります。
したがって、固定された枠組によって生じた善であれば、それがどんな善であったとしても、
その枠組によって「いのち」は弱まってしまいます。
また、もしかすれば、その善は片方の側にとって都合の良いものであっても、
反対側の枠組から見れば善ではなく悪かもしれません。
たとえば、平和、自由、公平などの理念も立ち位置(枠組)によって解釈が変わりますし、
理想を実現する過程で「善ではない」言動が含まれることが歴史では多々ありました。
そして、理想の状態が「枠組」におさまると、次にはその中から、理想に反発する動きが起こり、
また闘いが始まります。
アインシュタインの遺した言葉
科学は戦争の間は人びとに毒を盛りました。
平和な時には私たちの生活を忙しくしました。
人間を機械の奴隷にしたのです。
あなたが図形と方程式を解いているとき
このことを決して忘れないでください
出典は?
知識は苦の原因、智慧は安穏の原因
Knowledge promotes
suffering, wisdom promotes happiness.
智性の世界の扉を開けるには 二元論からの脱出術 マニラのジプニー
枠組のない善悪
善悪という心の概念の基準から思考し、判断し、言動するだけではなく、
魂や霊の視点も時には取り入れてみることによって「いのち」は活性化します。
分別する(枠組をつくる)ことから始まった学問の世界だけに善悪があるのではなく、
固定された枠組のない「いのち」の世界観にも善悪はあります。
より微細なエネルギーの方向に向かい、魂を体感し、究極的にはエネルギーがゼロの霊の世界に向かうのは善で、
逆に粗大なエネルギーだけに囚われて、固定された枠組の中に留まり続けようとするのが悪となります。
「いのちの世界」の善とは、枠組を取り外し、寂静の中で生きることなので、
善悪にとらわれずにいるのに、善の模範として行動する生き方になります。
メトロポリス以降 閉じると見えなくなる外側 良いことが子供を苦しめる
学問の特徴と限界
学問の根源にあるもの 一般化 数値化 根源 0 理想 前提条件 因果
お勉強(学問)の限界を露わにするのは、学問を否定するためではありません。
学問も全体性(「いのち」)の一部であるので、学問は「いのち」の特徴の一部でもあります。
ただ「いのち」のアプローチを使わず、学問のアプローチだけになってしまうと、
「善い」ことをすることで自然や地球や自分自身を破壊し続けていくという不思議?な矛盾が生じるので、
学問の欠点を自覚するために、学問の限界にスポットライトを当てます。
学問は便利なものであり、みんなで決めたルールなので、排除したりするものではありません。
ただ学問のアプローチだけに依存(基準)すると「いのち」が弱まってしまうので、学問とはお遊びである、
という事実に則して接することも、たまには必要なことだ、という再確認のためです。
学問の特徴は、
対象を一般化してシンボル(言葉、数、イメージ)とし、
測ることができるものにして、
根源を決めることで枠組(定義)をつくり、
比較することで差異(具象化)を求め、
対象を潜在意識によって分析して、
シンボル化できないものを無意識で切り捨て、
表層意識によって統合し、
ゼロという理想状態を仮設し、
前提条件を考慮しないことで、安易な因果関係を構築する、
というクセがあることです。
学問に限界なんかあるのだろうか?
学問と「いのち」と並べると、学問は「いのち」に含まれるといっているが、
学問でも「いのち」を扱っているではないか?
たとえば、生物学や医学のように。
だから学問の中に「いのち」が含まれるのではないのか?
たしかに外から見れば、学問も「いのち」の領域を扱っているのですが、アプローチの仕方に違いがあります。
アプローチの違い
対象を大脳皮質を使って知識として知ることが学問のアプローチですが、
対象を体感として実感するのが「いのち」のアプローチです。
「いのち」のアプローチでは、自分の意識の段階(周波数)を変えることで対象の認識が変わります。
自分の意識を意図的に変えるためには、体を弛めたり、体を柔軟にさせたり、体を動かさなかったり、体の気を感じたり、体の波動を感じたりする訓練が必要となります。
対して、学問のアプローチにはこのような意識の段階(周波数)を変える必要はなく、記憶力と知識の多さとその応用が重視されます。
では学問のアプローチにはどのような特徴があって、どこに限界があるのか診ていきます。
一般化 枠組 数値化 根源 比較 統合 0 理想 前提条件 因果関係(法則)
一般化
学問はまずは一般化することからはじまります。
対象を概念に変換する作業です。
今この瞬間だけに通用するものではなく、とこでもいつでも適応できるようにするのが学問の特徴です。
たとえば言語化、数値化、イメージ化してこの世で1つしかないモノをシンボルに転変させることです。
英文法でいうと、宇宙で唯一しかない眼の前のモノ(the)を、「まとまり」として捉えられるあちらこちらにあるモノ(a)にすり替えることです。
具体的な例では、この一般化によって、紅玉と王林とジョナゴールドと彩香とピンクレディとはつ恋ぐりんと金星とスターキングデリシャスと1つ1つの特徴が違うものを「a」としての「リンゴ」にすることで、まとめて足すことができるようになるので、一般化すると合計で8つという足し算ができるようになります。
「いのち」のアプローチでは唯一無二の存在をパターンとして認識することはありません。
この一般化の作業は、あまりに突然で無理矢理で強引なので、
この一般化を「正しいもの」に見せるための作業が同時に行われます。
古代では、現代の正しいという意味とは異なり、漢字の「正」は、
邑(町)に向かってすすむというのが字源でした。
正の「一」は町との境界線であり、「止」は足跡なので、相手の境界線を突破することを意味します。
つまり、攻めて、征服するいうのが「正」という字ができた由来でした。
次の学問の特徴は、枠組をつくって根源を決めたり他と比較することです。
枠組とは暗闇に一条のスポットライトを当てる行為のことです。
これまで1つの暗闇だった世界が闇と光の2つの世界になります。
光があたった所は明るくなって認識が可能になり、「知る」ことができるようになります。
プロレスのリングのように、スポットライトが当たる囲まれた世界では、善悪をはじめとする対立するもの(左右、上下、内外、大小)が繰り広げられるエンターテイメントがはじまります。
こうして二分法を持ち込む手段が整います。
時代が求めた二元論 脳が忙しいと体は弱る 人間(脳)も自然の一部
根源や比較とは
パターンとして認識するには、対象の共通点と差異にスポットライトを当てることが同時に行われます。
これをイギリスでは「水源と7つの海」という譬えで説明されることがあります。
根源を定義づけ、他と差別化することで、「概念」を作り出します。
しかし、河に特定の水源というものがあるかにように思われているのは錯覚の1つで、
これは一般化をするためのトリックです。
このように、学問は「まずは根源ありき」という思考パターンをつくることから成り立ち、
こうして事実から離れることで、「いのち」という全体性を弱めてしまっています。
素粒子物理学 「神の数式」を求めて アナロジーで理解する物理史
科学の因果関係とは統計上の確率的な平均値でしかない ブッダの縁起との違い
哲学や神学における根源
『全てには「始まり」がある。それが神である』
紀元前5cのプラトンやアリストテレスも「始まり」を設定し、それを神と唱えています。
「この世界があるには、最初の何かが必要、それが神である」 13cトマス・アクィナス
では、その神(根源)の始まりは何なのか?と彼らに聞くと
それ(神という根源)だけは例外である、と哲学者や神学者は答えます。
「始まり」を神と定義する哲学や神学の矛盾がここにあります。
はじめに「根源」ありき、と自分で勝手にルールを設定し、そのメカニズムについては哲学しません。
表層の統合意識とは無意識での編集結果
「7つの海」とは分析の喩えで、「水源」とは分析されたものをまとめあげる統合意識の喩えのことで、
どちらも無意識での「編集」のことです。
「自然にまとめてしまう作業」は大学受験、知識、学問には有効ですが、
もし、それを基準にして生活をすれば「いのち」を弱体化させていることになります。
具体的には?
たとえば、手術や薬という手法に依存して、自己治癒力が活性化する環境づくりをしないような場合です。
たしかに「まとめる」ことも「いのち」の一部ですが、「いのち」はまとめずに、枠組に入れない時に、
本来の力を発揮します。
それは、宇宙空間につぎつぎと生まれては消えていく粒子のように、途切れることなく続く働きです。
現代物理学では、対生成(Pair production)と呼ばれ、
エネルギーから物質(粒子と反粒子)が生成した後に逆反応の対消滅を繰り返す自然現象のことです。
すべてのエネルギーは熱になって消えていく、と考える学者もいますが、エネルギー保存の法則の通り、
いかなるエネルギーもカタチが転変するだけで、エネルギーはそのまま保持されると考える人もいます。
これは、現代物理学の枠組の中では、主流ではない考え方ですが、熱がダークマターに転換する、
という仮説もあります。
この統合(まとめる)とは、過去の体験によって形成された思考のパターンによって実行されます。
本人が気づいていない潜在意識と概念意識が統合されたものが意識となって表層意識に現れます。
学問の手法である「わかりやすくすること」には2段階の意味があり、
1段階目の誤謬のデータを整理することには価値がありますが、
2段階目の分析と概念と統合という「編集」には、各自の潜在意識の影響によってなされることなので、
潜在意識の見直しが必要となります。
「わかりやすくまとめる」ことがよいことだと思っている「善人」は、
この作業で行われている無意識の編集作業には気がついていないケースがよく見受けられます。
つまり効率化と分り易さを優先させて、「いのち」の働きを押さえつけてしまっているケースもあります。
中層意識の領域にある「概念」と「まとめる」というプロセスの構成要素とそのメカニズム、
そしてその解体の必要性を理解することで、統合の偏りと危うさと習慣性と依存性を自覚し、
より多様性のある解釈を導入することで、「いのち」の弱体化を防止しすることが可能になります。
「まとめる」ことで、一括されて、わかりやすく、相互の違いと特徴もわかり、時間もかからず、
コスパがよくなるのでメリットは大いにあるのですが、
生活を柔軟性のあるものに上書きする必要がある人には、この「まとめる」作業がどのようなプロセスを経て、
自分の潜在意識が何を排除してしまっているのかに気づくことからはじまります。
つまり、「対象を分割して、シンボル化できないものを排除し、残ったものを統合化すると誤謬が生まれるというメカニズム」を理解することが、判断と行動に柔軟性をもたせることにつながります。
この「自然にまとめてしまう作業」の無謀さを知り、時には中止したりすることが、
これからの高度な都市文明社会で心の病を持つ人には必要なことになるのだと思います。
対象が変化し続けているという体験を何度も重ねると、
この世で体感できるのは、根源はないということ、
そして体感している「わたし」も対象とセットとなって変化し続けていること、
「わたし」が変化し続けいていることに気付くと、
次第に根源を求めようとする潜在意識から離脱しはじめて、
そこだけを基準にすることがなくなり、
根源に関心や興味がなくなるようになっていきます。
0の設定
法則を作るためには特異点の設定が必要となります。
この特異点とは
科学的(数学、物理学、宇宙論、医学、生物学)表現では0、
文学的表現では「理想」のことです。
事実を詳細に観察する視点からでは、「この世にはありえない時空」のことです。
学問の基準になっている0や理想は本当にこの世にはないのでしょうか?
この世には「何も無い」ということはありません。
どんな宇宙のはての真空地帯に行っても、水素やヘリウムが生まれてはすぐに消えていく動き(対生成と対消滅)を繰り返しています。
そして科学でも証明されたダークエネルギーとダークマターも。
はじめに0という頭の中でしか存在しない基準点、すなわち理想状態を設定して、
そこに結果を関係づけて、
それに対応する原因を想像(捏造)して、
因果関係を創出します。
理想状態とは何か?
理系では、何も無い虚無としての0、理想気体(エントロピー)、絶対温度−273.15 °Cなどの、
どれも観測できない、頭の中でしか存在できないものばかりです。
文系では、完全な理念(自由・平等・博愛)、平和、公平、天国など、
完全な状態をこの世で観た者がいないものが理想状態です。
どれもがこの世にはないものを前提にすることで、虚偽(架空)の世界を構築していきます。
この仮想時空を設定することで数値化することが可能になるので有力ですが、
これをこの世で現実化しようとすると、表層的にはそのような現実をほんの一時的に構築できますが、
深層では理念と対になっている反理念の活動が活性化するので、表層の仮想世界がすぐに崩壊します。
具体的には?
無の空間では「粒子」と「反粒子」のペアが対生成し、誕生した粒子のペアは即座に衝突して対消滅します。
この沸き立つ素粒子の寿命は10−22秒(1兆×100億分の1秒)はあまりにも短いため直接に観測することができず、物質はある、ないという存在自体も定まらないないので、仮想粒子と呼ばれています。
しかしカシミール効果の実験によって存在は間接的には証明されてます。
「無の空間」というと対生成・対消滅と粒子と波の2重の性質が想像されにくいので、
「無」の代わりに「場」という表現を量子力学では使っています。
文系の表現では、
この世に平和な天国を作り上げようとしたら、それに賛同しないグループを排除するか、
賛同しない思考を持つ者の脳に手術をすることになります。
すると一時的に平和な天国がこの世に存在しているように見えますが、
次の瞬間には、その天国の中に、より平和でより公平な状況を求める一派が現れ、
また新たな排除と闘いがはじまり、平和な天国は崩壊して過去の一時的なものになります。
原始共産制やエデンの園や預定説や神の手のように一瞬、もしくは他次元でしか成り立たないものを、
この宇宙でも実在すると思い込み、それらを目指す言動です。
この時に、何を削除するかどうかは、物理学では統計、文化系の学問では前例と空間(外国)と時間(若者)の比較する最新データを基準にして決定します。
このように、特異点を仮設して、多くの要因や条件を自分の都合(都市の合理性)で削除して因果関係を作り上げる手法には限界があります。
しかし、この合理化というメリットをヒトは求めるので、社会にはみんなで決めるルールが必要になり、
特異点というタテマエとこの社会で起きる事実というホンネが生まれてきます。
これも特異点を設定したことで生まれてくる必然的な関係性です。
たとえば三角形の角度の和は180度でいうとのがユークリッド幾何学の基礎ですが、この世の3点を結ぶと270度になることもあります。
たとえば、アラスカのプルドベイ(北極海)とタヒチ島とバリ島の3点を結んだときなど。
「内角の和は180度」「樹木は酸素を地球に供給している」「エントロピーの法則」のような特異のTPOだけでしか成り立たない「理想状態」を基礎として、それを実際にある他のTPOにも適用します。
このように学問の法則を過剰一般化して適用して判断してしまう傾向がヒトにはあります。
数学のルール 0でかけたり割ることは禁止されている
数学のルールはどんな計算をしてもいいわけではありません。
0で掛けたり、割ることは禁止されています。
1÷0=a → 1=a×0
1=a×0=0 → 1=0
たとえばブラックホールの中心を相対性理論で計算した重力は無限になり、理論が破綻します。
ブラックホールが計算不能なのは、最小単位を0に設定したことに起因します。
サイズがない点を数学では0とするので、ブラックホールの中心を0で割っているからです。
このように気づかないうちにいろいろルールを知らないままにこの世で暮らしていたり、
当然だと思って暮らしていることが私たちにはよくあります。
学問のアプローチでは「0ゼロ」の解釈を、「何も無い」という頭の中だけで存在する理想状態にしていますが、
この物理エネルギーを基準にした宇宙にはエネルギーが0のものは存在しません。
そこで、弦理論string theoryでは、粒子を0次元の点ではなく1次元の弦として扱う理論としてチャレンジしましたが、成功しませんでした。
この「何も無い」という頭の中でしか存在しない事象を信仰しているのが、現代の高学歴者が陥っている病ですが、本人が気がつかず、自覚症状がない理由は推測できます。
それは、理想を設定することで他者よりも優位な場所に立つことができ、その利益によって権威と金銭を得て暮らしているので、無意識のうちにそこから目をそらせてしまうのも一因ではないかと推察します。
監獄のパリcafé du
Bastille 電圧線の内側の限界と希望
プロテスタントの免罪符 教義(予定説)を使って自分の都合の良いふう世界を理解する
捏造されたロゴス 弱者と囲いと言語と理想と知識人と保身が「いのち」を蔑ろにする
数値化は測定から始まります 理性とは割合のこと
分析(分割)することで、様々なものを数値化して、計算することができるようになります。
「理性」の語源のrationalityは分析した結果の「割合」であるratioに由来しています。
数値化するために測定できないものは無視して扱わないのが学問のルール
測定できないものは「ない」ことにする 測定できないものは扱わない
量子力学では観測できないものは、「ないことにする」というのがルールです。
「1プランク長、時間、質量以下のものは『ない』ものにする」と定義しています。
「事象の地平線event horizon」を越えたところでは一切のものを数値化することができなくなるので、
地平線の向こう側の情報を認識することは物理学において原理的に不可能になります。
ですからブラックホールそのものは測定ができないので、数値化することはできません。。
空間とは伸縮自在(相対性理論)で変形可能な量子が「ゆらいでQuantum fluctuation」います。
こうして量子重力が発生するが、まだ数式化、理論化されておらず、超弦理論などが構築されている途上です。
宇宙のレベルではあるとことが証明されたダークマターとダークエネルギーはこの宇宙の95%も占めるにも関わらず、物理学の法則では無視されて、私たちはたった5%しかない素粒子と電子を構成要素にした世界で法則を作って、それに判断を委ねている、のが現状です。
宇宙の構成要素ダークエネルギーとダークマター なぜあると言えるのか
時間の流れ(過去・現在・未来)を否定するブロック宇宙論は理性の勘違いなのか多元宇宙論なのか?
パレレル・ワールド もう一つの宇宙 Parallel
Universes 1989 Fred Alan Wolf
宇宙に始まりはなく、過去が無限に続いている? 時空の最小単位 因果集合理論
思考パターンの偏りと限界 思考とは因果関係のパターン
因果関係の種類には、
1原因と結果を「経験」から結びつけて編集したもの 伝統、言い伝え、知恵と迷信、経典
2「学問」によってわかった法則、 科学、確率、統計、論理性
3仏教の縁起説などの微細エネルギー因果論、 素粒子よりも微細なエネルギー
があります。
1を基準にする思考パターン
2を学んでおらず、経験により判断する思考パターン
2を基準にする思考パターン
1の関係性に再現性がなかったため、1を迷信だと否定して2を基準とする思考パターン
1が通用した村文化のTPOが都市文明のTPOでは通用しないため、2を基準とする思考パターン
3を基準にする思考パターン
修行者や特殊環境のより微細なエネルギーまでをも範疇の対象とする思考パターン
デメリットとメリット
|
デメリット |
メリット |
学問 論理 科学 |
過剰一般化 一部のTPOを全体に適応する 一部分でしか通用しない因果パターン 「我」を育てる 真実を知っていると勘違いする 根源と比較と統合の設定 |
未来予測 数値化 |
聖典 |
他人の智慧 刷り込み、条件付け、盲目的信仰、 リーダーや組織からの同調圧力 地獄の恐怖と天国の甘美による支配 |
歴史的言い伝えや経典 神話 伝統的講話 シンボリズムによる示唆 |
体験 |
表層の体験だけで法則を作る可能性 表層と深層の体験を混同する可能性 過剰一般化 表層で深層を判断する 類似体験ではない可能性 |
自分自身の体験 自分の智慧 解脱への道 瞑想をつかって無から有が誕生する直接体験 |
因果関係と「場」
「場」 |
因果関係の範疇 |
|
関係性 |
論理性 |
時代 |
産業 |
都市 |
物質エネルギー |
学問 |
相対性原理 |
量子力学 |
21c文明 |
情報 |
街 |
物質 |
学問 |
ニュートン力学 |
理性・理想 |
17c文明 |
工業 |
村 |
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|
共通の問題点 概念と概念を結びつけて因果関係を作成してしまう可能性があること
学問の正しさとその限界
A物理学では
たとえば、手にあるボールを放すと、ボールは地面に向けて落下する。
1この現象を学問(ニュートン力学)を知らない者は、古典物理学のようにボールがエネルギーを持つと考える。
2ニュートン力学を学んだ者は、重力によって生じる現象だと理解し、
古典科学を迷信だと否定し、ニュートン力学を基準にして物事を考える。
相対性理論を学んだ者は、スピードと重力と時空の関連性も考慮に入れ、
古典科学を迷信だと否定し、ニュートン力学を近似値とし、相対性理論を基準にして物事を考える。
3素粒子よりも微細なエネルギーまでをも範疇に入れる場合は、意識がエネルギーを生み、
熱が微細な質量(ダークマター)を生むことを考慮して、ボールやその環境の持つエネルギーを計算する。
(宇宙論・多次元論・超弦理論)
以上のことから、
1から2に移行する場合には、一面の正しさがあるので、学問の正当性が一見するとあるように見えますが、
2すなわち既知の学問の世界だけを基準にしてしまうと、
他にも多くの法則やまだ未知の法則を含めないものになってしまいます。
現象を記述するために法則を使う限りでは学問は効果的ですが、
まずは法則ありきとして、現象の原因と結果をを予測するような潜在意識になると、
本人は気がつかなくても因果関係という色眼鏡をかけて世界を理解するようになります。
たとえば、なんでも根源があるという思考パターンに陥ってしまいます。
学問の限界は学問の前提であるシンボル化(言葉、数値、イメージ)によって始まってしまっています。
言葉は「囲む」ことによってはじめて成り立ちます。
たとえば、小腸とは十二指腸の下からはじまり大腸の上まで続く器官ですが、
範囲を決めてその中のモノに名をつけることによって語句はできあがります。
胃から肛門までつながっている管を区切ったり、囲ったりしないと、「消化」器官として認識されます。
そして次は、消化器官があるのであれば、消化ではない他の機能を持つ器官があることも推察できます。
このように次々にシンボル化(概念化)が進み、常に変化し続ける唯一無二の瞬間で成り立つ時空を、
概念だけで成り立つ世界に置き換えて、無意識のうちに暮らすことになります。
「認知する」とは、二つ以上のモノの共通点を見つけ、それを土俵として並べ、
次に二つの違いを明確にして、それぞれに記号(名前、単語、語句)をつけることです。
これのどこに問題があるのでしょうか?
全ての言語はこの過程を通してしか理解されません。
確かに、これでしか言葉にする方法はありません。
囲ったり、線を引いたり、して区別することでしか言葉になりません。
そして、これが言葉の限界になります。
区別、すなわち分けることをしない限り、言葉にはならないのだからしょうがありません。
ところが区別すると意味が変わったり、その物自体が変化してしまうことがあります。
たとえば生命体。
体の一部や内臓を除去すると、生命体は自動的に修復をはじめます、もしくは死にます。
cf. 全能性幹細胞を持っているプラナリアの再生(記憶も含む)
一部を取り去ったりすると、内なるバランスが壊れてしまうか、もしくはお互いを補うために自律的に変化します。
ですから一部取り去ったものを元に戻しても、元の状態と同じものにはならないのが有機体の特徴です。
有機体は流動的、循環的、可逆的、自律的、自己組織的、全体的、統合的、なおかつ必然的です。
各パーツはお互いに関係し合って、共依存しているので、一つだけを取り出して、その機能を説明しているだけでは、他のパーツとの関係から他にも複数の機能があることが全体性の中ではまだ見つけられていない場合があります。
「分けてから統合する」とこのような問題が出てきます。
分けるとバランスが崩れ、以前の機能がなくなったり、新たな機能が生じることもあります。
「いのち」のような変化し続けるものを扱うのではなく、エンジンのような機械はピストン、シャフト、シリンダーなどのパーツごとに分解してから組み立てるとまた元に戻ります。
cf.正確には金属も錆や核分裂などで変化しますがスピードが遅いので認識しづらく常体として捉えられます。
工学、数字などの学問は分けることが前提になっていますが、なかには分割と全体では答えが変わることもあります。
シンプソンのパラドックス 分割して統合すると答えが変わる統計学
言葉の次に問題になるのは、法則の作られ方と運用法です。
法則の作り方と運用 善意の恐怖
学問は、ただ分けたり集めたりするだけではなく、それらの相互の関係を調べて、
そこにいつでもどこでも関係性が成り立つルールを見つけてそれを明らかにしようとします。
しかしその法則の特徴の1つはTPOによりその法則の効果が変わる、ということです。
つまり、それぞれの法則の影響が強くなるTPOがあるので、意図的にそのような環境を作ることが可能です。
問題点は意図的に環境が操作された空間(実験室)での因果法則を基準にするという行為です。
それは過去の学習によって作成した自動反応回路のアプリケーションが働いた結果の言動なので、
本人は自分の潜在意識に気づいていないことが問題なのです。
したがって本人は、悪気はなく、正義感があって、誠実と善意でいられるわけです。
悪意は相手への憎悪などの関心がなくなれば終わりますが、
善意は本人にとっての快楽であり、絶対的なものである場合は、それが条件反射になって、
善意のメカニズムに気づくまで、その言動は相手の心身の状況に関わらず継続されます。
弱い法則が通用する世界を拡大させる都市文明
弱い法則が成立する時空が近代文明都市圏です。
つまり理念が作った法則(弱い法則)を成立させるために、文明圏内の「いのち」がサバイバルできるように、
食料、水、空気、エネルギーを圏外から永遠に搬入し続けます。
弱い法則が基準になる世界は、その外側の世界(地球)からエネルギーを収奪することから成り立っています。
言語(学問)の矛盾
理想を基準にして体系化した学問があります。
理系の基準点である0が、文系では理想状態と呼ばれるものになります。
たとえば経済学の「神の手」や、社会学のnormや、政治学のデモクラシー(塀の中の正義)などです。
奴隷を解放したと言われる米国大統領リンカーンの名言の「人民の、人民による、人民のための政府」も
同じ「人民」という語句を使っているので聞き手に誤解を与えていますが、詳細を見てみると、
はじめの人民にはアメリカ先住民たちは実際には入れられてはなく、次の人民は選挙権のある人々のことであり、
最後の人民は特権階級の人々のことを指しています。
学問を利用すると陥ってしまう罠
物事の表層を基準にすると陥る問題があります。
それはある一面から全体像を捉えることで起きる過剰一般化です。
本人にとっては、自分が経験をしていることなので自分の「正しさ」が自信となり、
自分自身では気付くことが難しい盲点となります。
過剰一般化 ゾウと盲人 経験した範囲を他のTPOにも拡げて解釈する
次元の混同 三角形の角度の和 ある次元の法則を他の次元にも適用させて解釈する
人工衛星の視点 コペルニクス的転回 複数の基準点 分析と統合の誤謬
正しさへの固執 一里塚の心地よさ
仏教の視点
過剰一般化 一面性の罠
数人の盲人が象の一部だけを触って感想を語り合う「群盲象評」というインド発祥の寓話があります。
ジャイナ教、仏教、イスラム教、ヒンドゥー教など世界に広がる譬え話です。
ジャイナ教の伝承では、
6人の盲人が、ゾウに触れることで、それが何だと思うか問われる形になっています。
足を触った盲人は「柱のようです」と答えた。
尾を触った盲人は「綱のようです」と答えた。
鼻を触った盲人は「木の枝のようです」と答えた。
耳を触った盲人は「扇のようです」と答えた。
腹を触った盲人は「壁のようです」と答えた。
牙を触った盲人は「パイプのようです」と答えた。
それを聞いた王は答えた。
「あなた方は皆、正しい。あなた方の話が食い違っているのは、あなた方がゾウの異なる部分を触っているからです。ゾウは、あなた方の言う特徴を、全て備えているのです」
群盲象を評す Blind
men and the elephant
この寓話は誰もが一部を科学的手法で分析・再現・認識してしまい、
それを一般化してしまう可能性を示しています。
いくらちゃんとした手法を経た科学的事実の積み重ねであっても、
周囲との関係性や全体との関わりに常に配慮したものでなければ、誤解を生んでしまうという楽しい喩えです。
また、多くの手法を統合したものであったとしても象の内臓や条件反射や無条件反射がわかるとは言えません。
ましてや象の気持ちや想いや祈りや宿命はわかりません。
またこの話は、他の部分のことが一切わからない一部であってとしても、
それによって「全体性とつながることができる」という寓話だとも解釈することはできます。
次元の混同
2次元で暮らす地球の表面の人々
私たちは3次元の地球で生きていても、地球の表面では緯度と経度という2個の数値があれば位置が決まるので、地球の表面は2次元で表示できないこともない。
(cf.しかし同じ緯度と経度でも都市部の高層ビルではこのような基準は通用しません。人工衛星の限界)
次元の問題 並行した直線が交わるわけ
地球の赤道にいる観察者が赤道と垂直に交わる線を北に向けて指してみます。
次に赤道の東西のどちらかに100キロほどでも移動して、また同じように赤道と垂直に交わる線を北に向けて引いてみます。
中学校で習った平行線はどこまでいっても交わらないはずなのに、この2つの平行線は、ジャスト10000キロ先でなんと交差します。
cf.約ではなく正確に1万キロなのは赤道から北極までの距離の1000万分の1を1mと定義したためです。
なぜ「平行線は交わらない」という小学校の教えとは違うのでしょうか?
それは私たちは3次元の世界で生きているのに、2次元の経験を基準にして物事を判断したからです。
特異のTPOだけでしか成り立たない「理想状態」を基礎とし、それを実際にある他のTPOにも過剰一般化して適応させて判断してしまう傾向があります。
ここでエッセイの文頭の一節を振り返ります。
「学問に問題があるのではなく、それを使う人に問題がある。」
人は自分で作った潜在意識によって操られているからです。
第二章 実は無意識が司令塔? 脳(無意識)の使い方マニュアル
人工衛星の視点 分析と統合 コペルニクス
変化し続ける点と固定された点
かつてカトリック教会がいっていた「地球を中心にして星々が回っている」というのには間違いも含まれています。
そして、コペルニクスたちが「太陽を中心にして太陽系の惑星が回っている」というのは事実に則しています。
だからといって太陽を中心に星々が回っているというわけではありません。
コペルニクスが唱えた「太陽を中心に星が動いている」という理論は、太陽の重力が強く影響を与える範囲(太陽系惑星と太陽系外縁天体)にだけに通用するものなので、宇宙から見ればこの理論が通用するのは極めて狭い範囲に限定されます。
その外側では天の川銀河の中心を基点にして、星々は回っています。
またその天の川銀河をはじめ数々の銀河が集まった銀河団では、そのの中心を基点にして銀河が回っています。
そして、また・・・。
このように範囲を拡げ続けると、回転の中心が次々と現れて、
そこを基点にすると地球の動いているスピードもまちまちです。
地球は自転しているので、赤道では西から東へ時速1670キロで移動しています。
地球は時速108000キロ(秒速30キロ)で太陽の周囲を公転しています。
天の川銀河(1000億個の恒星が集まり、直径10万年光の円盤状の構造)の回転速度は太陽系では時計回りで時速約792000キロ(秒速約220キロ)で回転しています。
またこの天の川銀河も宇宙の膨張の中にあるので、隣の銀河団から高速で遠ざかっています。
たとえば、かみのけ座銀河団は6700km/s、おおぐま座T銀河団は15400km/s、ペルセウス座銀河団は5400km/s。
正確に言うと、宇宙には衛星や惑星や星や銀河や大銀河とそれぞれの回転中心軸は違うので、
この宇宙には複数の基点があります。
地球を中心にしてすべての星星が回っているのではないが、太陽系を除外すれば、
一定スピードで自転し続ける地球を中心の定点として他の星々を観察することができます。
この物質的宇宙には静止しているものは何一つなく、すべてが相対的なので、
アンドロメダ星雲から見れば、地球は自転しているようにも、地球は太陽の周りを回っているようにも、天の川銀河の端を駆け巡っているようにも、宇宙の膨張とともに遠ざかっているようにも、
視点の枠組みを決めることで違って見えてきます。
そして相対的ということは、たとえばアンドロメダ星雲から地球を見れば地球は自転しているように観測できるので、これは地球から天を見れば、星々は地球を中心に動いていることになります。
地球を中心にして星々が動いているのではないが、地球は一定のスピードで自転し続けているので、
地球の自転という視点にたてば、太陽系惑星と太陽系外縁天体を除けば、地球を中心に星々が回っているというのは論理的で天動説は間違えではありません。
地球が自転する事実と天動説とは同じ内容のことであるので、
視点を変えることによって記述の表現が違うだけで同一の現象を表しています。
このように考えてみると、天動説が間違えで地動説が正しいという考え方も誤謬であることがわかります。
速度は見る立場によってかわる。 この世には静止している場所などはない、ただそう仮設しただけ
絶対的な基準点がないので、物体の絶対的な速度はこの世にはない
結局、物の速度は見る立場によって相対的なものである。
光の速度=空間での距離/時間
静止している場所はこの世には存在しない。
ただ静止していると仮定しているだけ。
光速に近づくほど、距離が短く時間が遅くなる
空間と時間の組み合わせによって、伸び縮みする時間
光速が常に秒速30万キロに見えるように時空は伸び縮みする。
コペルニクス的転回の限界
天動説を否定したからといって、地動説が正しいわけではありません。
たとえば、地球を回転中心軸にして太陽系は廻ってはいませんが、
地球の自転を基準にすれば、地球上にいる私の周りを太陽が廻っている、とは言うことはできます。
しかし天動説を否定し、地動説を主張する人々の中には、
偽のカミ(人工衛星)の視点に身も心も依存してしまって、
地動説という1つの正しさを他者に強要することで、
その他者を踏みにじっていることに気が付かない人もいます。
間違いに固執してしまう理由 一里塚での休息
自分のこれまでの間違えを発見して修正すると、今の自分が正しく、過去の自分が間違えであることを体験します。
この体験から今の自分の考え方に自信を持つクセが強い人がいます。
たとえば、私たちは1000キロの旅に出ていると仮定して、1キロ進むごとに1つの新たな発見をし、
過去の間違えを修正したとします。
しかし、1キロの地点から前に進まないと、これから後に999の新しい発見と間違えの修正があることを忘れてしまうと、0キロ地点の自分と1キロ地点の自分を比べて「現在の自分が正しい」と自信を持って、自分の中にまだ多くある、勘違いして作ってしまった自動反応回路を修正しようとしないばかりか、
他者に「正しさ」を説き、時に「正しさ」で他者を攻撃することがあります。
視点を変えることを、抽象度の上下に対応させて、抽象度を上げることがより価値があると思いたがるインテリが増えることで、対象に寄り添う体感ではなく、
理性による概念の判断を基準とする時空が近代以降の都市文明で増大しました。
理由は、都市文明という枠組の中では、脳による加工物や脳のシステムをカタチにした社会が成立するので、
この枠組の中で起こる事象がより抽象度の高いものに近づいたためです。
近代以前は「城の中に住むプリンセス」の特権が、都市文明では一般人の思考パターンになっていきました。
残念なことは、城の中の住人には覚悟と決意と実践が社会から問われていたのに対して、
そのような覚悟が必要であることが文明都会人には自覚されなかったことです。
「人工衛星の視点」 学者の分析して統合する視点
目の前の事実をこれまでに確立したパターンで解釈し、数値化するのがこれまでのAIのアプローチです。
目の前の対象の変化の確率性を量子力学のレベルで問わずとも、
物質と時間の固有性を仮定することで成立しているニュートン物理学のレベルで情報をインプットして、
「一般化・分析・法則化」して目的に達することができます。
(GPSなどのような大きな時空と光速度に関わることは、アインシュタイン物理学レベルの法則を加味することで実用的な近似値をとります。)
ヒトの中ではこれと同じアプローチをしているのが五感器官と脳を基準にして認識システムと思考です。
AIはまだイメージしにくいし、ヒトの認識システムと言っても、自分の認識の仕方を冷静に客観化できないこともあるので、このアプローチを「人工衛星の視点」とこれまで勝手に呼んできました。
あまり使われない語句なので、他の例を見てみれば、
「道に迷った時には、今いる川を遡って水源を調べ、次に川を下って7つの海を知る」というメソッドも、
この人工衛星の視点と同じルーツを持つ、大脳皮質特有の認識方法です。
「水源を調べる」とは定義を確定することのアナロジー(類推)であり、
「7つの海を知る」とは定義を基盤として他との差異を明らかにして分別することのアナロジーです。
高学歴の専門家が好む方法論ですが、実はこの方法は、「生きているもの」には正確にいうと通用しません。
「生きているもの」とは、細胞、マインド、人、生物、社会、宇宙のことなので、
簡潔に言えばこのメソッドはどこの領域についても正確に描写していないことになります。
しかし、「定義と比較」は見えやすいカタチを一時的なものとはいえ、数値や言語として提供してくれるので、
事実とは異なるが、目安にするには便利なツールである時もあるので、
この社会で多用され、多くの仕組みはこれを基盤として作成されています。
分析と統合の罠
わかりやすく「まとめる」ことで、「一括した方がわかりやすく、相互の違いと特徴もわかり、時間もかからない」ことになるのでメリットは大いにあります。
しかし、過去の学習でつくってしまった自動反応回路のアプリケーションを柔軟性のあるものに上書きする必要がある人には、この「まとめる」作業がどのようなプロセスを経て、
何を排除してしまっているのかに気づくことが必要です。
「分割」「排除」「統合」とは、各自が過去の学習によって作ってしまった思考パターン回路であるからです。
つまり、あるTPOでは通用したパターンが、他のTPOにおいては通用しないパターンである可能性があることを理解して、どの思考法も「過剰一般化の罠」に捕まっている現実を自覚して、
眼の前の「いま・ここ」に生きること、ただそれに寄り添うこと、がはじめの一歩になります。
まずはこの世はつねに変化し続けることを体験し、あらゆる法則は限られた時空でのみ強い影響があるということ、つまり隣の時空では弱い影響になること、を理解することです。
対して、「いま・ここ」は「分割」「排除」「統合」ことができない時空です。
次に、このことを常に気づき続ける日常生活を過ごせることができるようにします。
そして、それができるようになったならば、その後には統計や確率を持ち込んで法則化する選択肢もあります。
それは眼の前の変化し続ける現象とは異なることですが、学問を利用する時空は合理的で便利で効率のよい暮らし方を一時的にですがもたらすもので、それもこの宇宙の一部です。
都市文明社会とは、要因と条件を潜在意識によって都合よく編集した「仮設の」因果関係を基準として生活することが増える時空です。
このような粗い(仮の)因果関係(学問)を学び、そのメリットとデメリットの両方を自覚してから、
TPOに合わせて使い分けるのが、安らかな暮らし方です。
日常生活で人の言動に共通しているのは、自分というものに対するこだわりです。
つまり、善悪ではなく、自分のこだわりに基づいた考え方や判断や行動をします。
ですから、理性の発達、人格の成熟、自己実現では、人の苦しみである根本問題は解決しません。
なぜならば、私たちの心の奥底にある「実体としての自分というものがある」という思い(我見、我慢、我愛)は、「我」を中心にして世界の現象を「統合」してしまっているので、
これらは世界の本来の姿、つまり「ありのままの事実」とは異なっているからです。
仏教の視点
仏教の視点に一度立ってみることで、コペルニクス的転回や理性の限界が明らかになるので、
次に仏教はこの世をどのようにみているのかをみてます。
「人工衛星の視点」の外側に出る方法を記述しているのが経典です。
仏教の基準点
仏教の基準点は、「思考」ではなく「行動」です。
仏教は大脳皮質のアプローチの限界を悟り、思考を基準にすることによって「苦」が生まれることを悟り、
「思考」の習慣から離脱することを目指して行動します。
この行動とは、大脳皮質のできることの外側にある世界へ導く実践のことです。
苦しみからの解放、自由への解放、「閉じた輪」からの離脱を実現するには、
どのような行動をすればよいのかを各自の状況に合わせて、ステップごとに説いているのが釈尊の教えです。
この実践のためには、大脳皮質による活動を低下させる実践の仕方もあります。
思考、理論、学問という「一般化」して理解するアプローチから一度離れないと、
釈尊の教えは具体的に現実化することはできません。
その「道」を歩むプロセスで使われる言語はすべて、一般化から離れる方向に使われていることを深く理解して、経典を理解したり翻訳したりする必要があります。
それが納得できないのであれば、外側から釈尊の文句を言うだけにしておいて、
釈尊の教えの内容については語るのをやめれば良いだけです。
もし経典の中で「わかりやすくまとめる」ように感じられる箇所があれば、
それは誤訳の可能があると一度は疑ってみて、
もう一度、釈尊の本当に伝えたかった真意を思い量って読み直して、
次には、実際に実践してみて、その成果を自分自身で体感する慎重さが必要です。
仏教には、日常生活や哲学や他の宗教とは違う「基準」があります。
基準点によって表現が変わるのに注意しなければ仏教の意味がわからないことがあります。
例えば、この世からあの世に行くことを、この世から見れば「往生」と表現しますが、
しかし、もし、あの世を基準にすれば「回帰」する、
そして、この世に生まれることを「輪廻転生する」というように。
仏教の基準点が必ずしもこの世とは限らず、あの世のニッバーナ(涅槃)の時もあります。
仏教とは何なのでしょうか?
すべてのことは「意(識)」すなわち「心」から始まっていることを説く教えである、と言うこともできます。
仏教の基準には以下の特徴があります。
1 五感器官と脳(マインド)に依存しない、過去と未来の時間軸の枠から離れた認識の把握法と生き方を段階的にマスターする。
2 一般社会の物質ネルギーを基準にした因果関係ではなく、より微細なbhūtaやgatiと呼ばれる微細エネルギーdhammāの複合体や、エネルギーのない涅槃nibbānaを基準にした因果関係を基盤にする。
そのため、
意識がエネルギーであることや、
思考パターンによって「カルマの種」と呼ばれる微細物質が生じることや、
肉体とは別にメンタル体があり、そこには肉体とは異なる微細視覚や微細聴覚が存在することや、
gatiと呼ばれる宇宙にあまねくdhammāエネルギーの塊(偏り)の存在や、
gatiやカルマの種のエネルギーが残存している限りは、輪廻転生が起きるメカニズムや、
エネルギーが0ではあるが変化はあるnāma gottaの存在や、
そして、変化もエネルギーも0の霊(真我)の存在
などといった新たな体験をすることになります。
したがって仏教の因果関係を知ると、学問のアプローチには限界があることが理解できます。
もしくは仏教の因果関係は「ぶっ飛んでいる」(学問の因果関係の外側にある)ことがわかります。
体験するか、しないかの問題なので、体験していない場合は外側から小説のように楽しむ方法や、ひとまず信じてみて試してみるなど、各自のアプローチがあります。
あの世とこの世の接点
仏教はあの世とこの世の接点を基準にするので、言葉によるすべての説明は論理的には矛盾します。
たとえば、
「この世のすべてのものは底流でつながっていて、だからこそ、表層では互いに独立している」
という見解も一見すると矛盾している内容に聞こえます。
なぜならば、仏教では物質は物質エネルギーによって、その物質エネルギーは意識エネルギーによって、意識エネルギーは宇宙エネルギーによって、宇宙エネルギーはエネルギーが0の霊によって成り立つという考えを持つからです。
この考えを理解するためにはその地点に共に立つことしかなく、そこではじめて腑に落ちる心境になるので、そうなるためには各自が練習や訓練をする必要があります。
これが釈尊の教えであり、仏教の基準なので、一般社会では仏教の考え方ががそう簡単に通じないのは当然のことです。
ではあの世とこの世の両方の接点では、どのようにこの世を理解したり、感覚したりしているのでしょうか?
「わたし」と呼ばれる内なる感覚と、現象(世界)と呼ばれる外にある対象物は、別々のものではなく実は同じ一つのもので、内なる主体と外なる客体とは、同じ一つのモノを違った方向から名付けたの二つの名前に過ぎない、と仏教では捉えます。
すなわち、感覚するもの(「わたし」・主体)と感覚されるもの(現象・対象・世界)はセットになってでしか存在できない、ということから話が始まります。
具体的な例では、
「窓をつついている鳥を「わたし」が感じるのではなく、「わたし」はその鳥の感覚そのものである。」
「雷の音を「わたし」が聞くのではなく、「わたし」は雷の音そのものである。」
という感覚です。
「わたし」の視覚と、視覚に映った光景である鳥は微細エネルギーの次元では分別できずに、つながっており、「わたし」の微細レベルの聴覚と、聴覚が感じた雷の音は、同じ構成要素のエネルギーの共鳴の結果である、ということを仏教は基準点にします。
仏教は、ここからモノを感じたり、思考したりするするというのだが、こんな実感と境地を持っている人は私の周りにはいなかったので、何を言っているのかはさっぱりと分かりませんでした。
「坐禅をして無我を感じなさい」という人にあったこともあるが、実際に坐禅してみてもそのような感覚をすることはありませんでした。
ところが旅をしているうちに、
「自分と自分の体験の間には境界がないことを体感する」と、「自分と体験される世界の間にも境界がないことが明らか」になり、「わたし」と現象の間に境界がなくなる、という人がこの地球にはいることを知りました。
唯識派の説く「円成実性」もこの境地ではなかろうかと推察します。
しかし、そうは言っても、自分はそうは感じないのだし、そんなとんでもないところを基準点にして話を始められても困ってしまいます。
日常生活ではそんなことはないので、仏教が不思議がられたり、敬遠されたりするのも当然のことです。
何かにマインドを集中させて、大脳の分別する機能を低下させて、日常の意識から変性意識の状態にしないかぎり、感じることができない境地を勝手に基準にされても、日常生活を基準にして暮らしている人にとっては特権者の趣味のように聞こえます。
ですから、仏教ではこの立ち位置を強要はしないが、もし苦しみから解放されたいのならば、この立ち位置に立つ方法を伝え導くのが、釈尊の教えであり、仏教の存在意義である。と「いま」の私は思っています。
「明日のわたし」は、どのように感じているのは、知りませんが。
私は自分の体験を語ることはできるが、具体的な方法を他者の状況に合わせて指導する技術はありません。
しかし、方向性を指し示すことはできるかもしれません。
「苦しむのは部分であり、全体ではない。
苦しむべき分離した自己など「はじめ」にはない。
本来の「わたし」は常に全体であり、自由と解放と輝きしかしらない。
全体を悟るということは、部分にすぎない苦しみと痛みと死の運命から離脱することだ」
自分の「身体」「感覚」「マインド」「マインドの内容」に寄り添い、見守っていることが深まると、
生まれては消え去る現象だけが観察され、「自分」 という実体は存在しないという理解が生まれ、
阿羅漢に至るという解釈を歴代の仏教徒はしていました。
Mahàsatipaññhàna
Sutta 英語翻訳by U Jotika and U Dhamminda
これは換言すると、
この世では「わたし」が感じたいようにこの世を感じ続けることはできず、
「わたし」が望むように保ち続けるのは苦しみでしかなく、
この「わたし」はこの世では何かをコントールすることなどできない無力の存在でしか無い、
というとんでもない状況の中にいる事実に気づき始める、ことです。
このことを実感しはじめてしまうと、この世界の何ものにも執着することができなくなってしまい、
すると一切の束縛が徐々に消えざるを得ず、したがって苦からも解放されてしまう、ということになります。
釈尊の風 三相篇 苦しみから離脱する指標
仏教の因果関係
因果関係というと、「ある原因があると、そのためにある結果が生じる」と理解する人もいますが、
これは数学の世界ではあり得ることですが、この世では因果関係をこのように理解することはできない、
と三蔵では説いています。
科学の因果関係とは統計上の確率的な平均値でしかない ブッダの縁起との違い
「ある原因と、それが成就するいろいろな条件が整ってはじめて、ある結果が生じる可能性がある」
というのが仏教の因果関係の捉え方です。
いくら原因が強くあっても、諸々の条件が整わなければ因果関係は成り立たないということです。
たとえば、パパイヤの種がここにあっても、そこに水と土壌と光と重力と風と二酸化炭素と熱(温度)と私がまだ知らない多くの要素が同時になければ、種から芽が生じないように。
また仏教では一言で因果関係といっても、
そこにはkamma niyama、citta niyama、utu niyama、bija niyama、dhamma niyamaという5種類の範疇があり、
物理的なもの、意(識)によるもの、地球規模のもの、前世と現世と来世をつなぐもの、宇宙法則であるダンマによるもので、それぞれが影響することによって結果が生じる、と説きます。
したがって「AだからBになった」という表現は自己納得することで落ち着くことができる大脳のクセでしかなく、
実際には因果関係を単純な式で表現することはできません。
しかし、学問による法則を使うことで、影響の強い因果関係にスポットライトを当てることで、
状況が「説明しやすく」はなるので、確率論として理解するには便利で仮設であっても、説得力にはなります。
このように「AだからBになる」という表現が便宜上のものであったとしても、
間違いなくそれぞれ5つの因果関係が働いていることに変わりはありません。
どのような行為(原因)にあったとしても、その結果がいつどのように現れるか現れないかはわかりませんが、
因果関係の力は必ず作用し続けています。
ただ、条件が全部整って、カタチになるのは来世のことになるかもしれないので、
因果関係が直近で顕れるとは限らないのが、仏教の因果関係です。
私たちにできることは、悪い実を結ぶ因果関係には条件が整わないように行動し、
良き実のなる因果関係には条件が整う環境を作るように行動することです。
後はこの宇宙法則のダンマに任せるしかない、というの仏教の因果です。
表層と全体性 学問と「いのち」
私たちが見ている世界を表層の波に、
その根底にある世界を全体性の海に喩えている道元の経典「正法眼蔵」があります。
私たちは学問の世界がやっているように、「波と波」を繋げて因果関係を作ってしまっていますが、
波をしっかりと丁寧に見ると、その波を構成している海があり、
実際には波は海の一部なので、波は砕けて全体性の海に戻り、
次の瞬間にはその全体性から波のカタチが生じています。
つまり学問の世界の法則は「見かけ」でしかなく、実際の因果が成立するのは「波と海との関係性」です。
リンク学問を勧める人の潜在意識 思考が生まれるのは作られた潜在意識がすでにあるから
リンク学問は遊び
あとがき 学校の勉強が嫌い子へ
幸あり。
理念に騙されないから。
この幸運に生まれた子には、使命がある。
作ってしまった回路を自分の心から取り外すことです。
そして、学校の勉強が好きな子を赦すことです。
彼らが将来において評価されるのも赦すこと。
彼らが嘘の多い仕事につかなければならないからである。
大学教授、先生、弁護士、省庁、公務員。
本人は無邪気に喜んでいるが、
どれも矛盾に満ちた苦しみの仕事である。
だから赦してあげてほしい。
そして、私たちは自分の内側の心にスポットライトを当てて
魂を澄ましてあげてください。